第34話 二度目の人生・父親の混乱
呆然とするウィスティリアの父親に、二枚目、そして三枚目と書類が付きつけられる。
「こちらは、我が弟グレッグとリリーシア嬢の婚約届ですね。そして、婚姻届」
カイトの言葉に、信じられないと目を見開く。そして震える手を伸ばして、ウィスティリアの父親は書類に伸ばす。
「儂の筆跡に……捺印……。どういうことだ……」
「貴族院に申請も済み、既に承認もなされております。どうぞご確認ください」
書類の一番下には、貴族院に提出後の、その承認印もしっかりと押されてある。
「ああ、お母様も確認されます? 書かれている文字がきちんとお父様のものだと、お母様ならお分かりでしょう?」
数枚の書類を、ウィスティリアに言われた母親が、手にして、そしてじっと見る。
「確かに……、これはどこからどう見ても、あなたの字よね……。貴族院の承認印もすでに押されている……」
ぼそりと呟かれたウィスティリアの母親からの言葉。ウィスティリアの父親はますます混乱した。
書いた覚えのない書類。だが、そこに書かれているのは自身の筆跡だ。捺印もどう見たって本物だ。
貴族院への申請など、いつ行ったのだ? 承認されているということは、かなり前にそれをしたということで……。
父親の、そんな思考が手に取るようにわかる。ウィスティリアは思わず笑いそうになった頬を引き締めつつ、父親を見る。
「覚えていない……。いや、待て……」
ウィスティリアの父親の頭をよぎったのは……自身の執務室の様子。
……そう言えば、いつもきっちりと置いている身の回りのモノの位置がずれていた。常に指にはめたままの指輪が外れていたもした……。
そのことに思い至り、ウィスティリアの父親はぞっとした。
もしや、本当に、自分は記憶障害なのか……?
自分でしたことを、覚えていないだけなのか……?
判断がつかず、嫌な汗ばかりが流れてくる。
ウィスティリアの発言だけなら、なにを馬鹿なことを言っているのだと、怒鳴りつけたかもしれない。
だが、ルーナンド伯爵が「儂の目の前で、きちんとリード子爵がご自分で書いたものだぞ?」などと言い、あまつさえ「ふむ……。リード子爵の記憶障害は、自分が書いたものさえ忘れるほどに、進行してしまっているのか……」と嘆く。
更に、とどめとばかりに見せられた書いた覚えのない書類。
これではもう、ここで何を言っても無駄だ。
既に、ウィスティリアとグレッグの婚約解消も、リリーシアとグレッグの婚約と婚姻も、更にはリード子爵家は、ウィスティリアの父親からリリーシアに家督を移行することを貴族院に、つまり国に承認されているのだ。
「ば……馬鹿な……」
膝から崩れ落ちる。そこに、ウィスティリアが優し気に声をかける。
「これからますますお父様の記憶には障害が出てくることでしょう。ですが、ご安心ください。ルーナンド伯爵が素晴らしい療養先を見つけてくださったのです」
「りょう、よう、さき……」
女神のように微笑むウィスティリアが、自分の娘のように思えない。
……誰だ、これは。
恐ろしい託宣を、神から聞かされているような気分だった。
「お父様はそこで安心してお過ごしください。大丈夫、家督はリリーシアが立派に継ぎますわ」
暗闇に落ちていきそうな意識を必死になって留めるウィスティリアの父親。なにか突破口は……反論の糸口は……考え、そして気が付いた。
そもそもリリーシアが家督など継げるはずがない。ウィスティリアを跡継ぎとし、グレッグを婿としてたはずなのだ。
「ま、待て……。なぜウィスティリアではなくリリーシアなのだ……」
喘ぐようにして、告げた。
リリーシアに子爵家の経営など任せることなどできない。そのくらいだったら五歳の子どもに後見人でもつけて子爵家を継がせたほうがマシなのだ。
人のものを欲しがるばかりで、下級貴族向けのマナーなども覚えることができないリリーシア。当主になれるはずもない。
それは、ウィスティリアだってわかっているはずのことだ。
なのに、どうしてだ。
「儂は……ウィスティリア、お前を後継に指名していたはず……」
「ああ、確かにそうでしたわね。わたしが、以前は後継とされていましたけれど……」
それもお忘れなのですねお父様……と、ウィスティリアが哀れみに似た目線を父親に流した。
「お父様とは別の病気ですけれど。わたしの命もそう長いことはない……と、お父様に申し上げたはずなのですが……」
これが、リリーシアとグレッグ様の婚姻を急ぐ理由の二つ目ですわ……と、目を伏せるウィスティリア。
「病気……だと……?」
ウィスティリアの言葉の後をついで、沈痛な面持ちのルーナンド伯爵が、言った。
「優秀な後継のウィスティリア嬢。あなたにこのリード子爵家を継いでもらえれば、なにも問題がなかった。だが、あなたも病にかかり、リード子爵家を継ぐことが不可能となった……」
「ええ。それであとはもう、リリーシアしかこの家を継げる者はいない……と」
「それがショックで、リード子爵は記憶障害となったのかもしれんな……」
「そうかもしれません。父もわたしも支えることができずに、まだ貴族学園に入学すらしていないリリーシアに、家督を任せるしかないのですから」
そう、リリーシアは学園には通っていない。年齢的には次の春、入学年齢に達するのだが、無理だろう。通えるほどの学力と常識を有していないからだ。
けれど、リード子爵家にはウィスティリアとリリーシア、二人の娘しかいないのだ。
リード子爵家はウィスティリアが継げなければ、リリーシアが継がなければならない。親戚から誰かを跡継ぎにもらい受けることも可能だと言えば可能だが、それは当主が貴族院に申請をしなくてはならない。
既に今、書類上は、リリーシアが当主。
自分を排するような書類を申請するはずもないし、そもそもリリーシアにはそんなことを考えるだけの頭もない。
「正直な話、グレッグ様だけで、リリーシアを、このリード子爵家を支えるのは不可能……。カイト様、本当に申し訳ございません。が、優秀なあなた様の頭脳で、リリーシアを、そして将来のこのリード子爵家を、どうぞお守りくださいませ……」