第30話 二度目の人生・無防備な寝顔
ルーナンド伯爵との話し合いは無事に終了した。
ウィスティリアが用意した書類に、ルーナンド伯爵は自分の名前をサインし、印章も押した。
「わたしとグレッグ様の婚約解消届。リリーシアとグレッグ様の婚約届に婚姻届。それから、記憶障害という病のため、現リード子爵であるお父様の引退届。リリーシアが後継になり、リード子爵になるための書類。それから、グレッグ様の兄上でいらっしゃるカイト様が、リード子爵の補佐となること……。ふふふ、書類は完璧ね。これをさっさと貴族院に提出し、承認を得てしまいましょう」
そうすれば、文句をつけられようと父親はリード子爵ではなくなる。
「文句を言っても、記憶障害が強調されるだけでしょうねぇ。だって、全ての書類の筆跡はお父様のものと相違ない上に、印章も本物なのだもの……」
ガードルフが細工をしてくれた書類だ。偽造などと見破られるはずもない。
それでもウィスティリアはルーナンド伯爵家から帰宅した後、自室で、もう一度書類を確認した。
これらの書類を自分で貴族院まで赴いて、提出するつもりもない。ガードルフに頼んで、即座に承認が得られるようにしてもらう予定だ。
処理待ちの書類の一番上にでも積んでおけば、明日にでもすべての書類の認可が下りるはずだ。もちろん、書類に印を押す文官たちに対しても、ガードルフに頼んで少々精神を操ってもらうのだが。
犯罪……にあたるのはわかっている。だけど、まっとうに順番待ちなどしていれば、ウィスティリアの命が尽きる。
確認した書類を整えて、カバンに入れる。そして、同じくカバンの中にある袋を見た。
「思っていたよりもルーナンド伯爵は親切なのよね。こんなにも大金を……。しかも貸すのではなくて、くれるって……。申し訳ない。でも、正直ありがたい……」
袋はずっしりと重い。中には銀貨がきっちり百枚入っていた。
銀貨一枚で、食事付きのほどほどの宿に一泊できるほどの価値がある。
それが百枚。
「本当はわたしが使うのではなくて、使用人のみんなの退職金とするつもりなんだけど。ありがたいわね……。ええと、十二人だから、一人に銀貨八枚ずつ。それでもちょっと余るわね……」
使用人たちの紹介状など。それを入れた封筒に銀貨を入れていく。余った銀貨はとりあえず、書き物机の引き出しに入れた。
「うん、これは、隙を見て、一人一人に手渡しましょう。リリーシアの誕生パーティより前のほうがいいかしらね。自分たちで保管しておいてもらって、なにかあったら持って行きなさい……って」
たったこれだけ。ウィスティリアが使用人の皆にできるのはこれだけだ。
「ごめんね、みんな。二度目の人生は、どうか幸せになってね……」
流れそうになる涙をぐっと抑える。
気持ちを切り替えて、後は『復讐』に邁進するのだ。
ウィスティリアは自分の頬を両手でパンっと叩いた。
「引退後のお父様に関しては、その辺りはルーナンド伯爵とグレッグ様のお兄様にお任せしましょう。この屋敷に住まわせておくも良し、病気ということで療養所なんかに放り込むのも良し。お母様も一緒に平民たちが暮らすような小さな家に放り込んで、細々とした暮らしを送らせるのも良し。まあ、ルーナンド伯爵家に乗っ取られた後のリード子爵家など、どうなっても良いのよ。辛い人生を、細々と生きていただければいいわね」
死んで無になるなど、そんな簡単な結末を送らせるものか。
苦しい人生を長く生きろ。
端的に言えば、それがウィスティリアの『復讐』だった。
「さ、まだまだがんばらなければ。リリーシアの誕生パーティで婚約破棄、そして、結婚式で……ふふふふふ」
楽しみで、今夜は眠れなくなりそうだ……などと、わざと言って、無理に自分を鼓舞をする。
とりあえず、今日できるのはここまでだ。そして体は疲れている。
ぽふん……と、ベッドに横たわった。ふう……吐息を吐き出して、それから深く吸った。咳は出ない。
「あら……? そういえば、わたし、どうしてこんなに元気なのかしら? 一度目の人生ではもう咳はひどくて、熱だって……」
自分の手で、自分の額を押さえてみる。
熱は、高くない。
「ウィスティリアの病はこの私が抑えている」
ウィスティリアの耳に、不意に声が聞こえてきた。
「ガードルフ様っ⁉」
「起き上がらなくていい。そのまま寝ていろ」
「はい……」
いつの間にか、ガードルフがウィスティリアの部屋に現れていた。というよりも、元々ここに居て、見えなかった姿を見えるようにしただけなのだろう。
「熱のある身で交渉事も辛かろうとな」
「あ、ありがとうございます……っ!」
「とはいえ、病がなくなったわけでも、死期が伸びたわけでもない。なるべく体は休ませるようにはしろ」
「はいっ!」
本当にありがたい。咳と熱で体力が削られた状態では、まともに動けない。
面白ければ力を貸してやる。そう言ってはもらってはいたが、ウィスティリアが自分からお願いをする以上にいろいろと助けられている。
ウィスティリアは改めて礼を言った。
「ありがとうございます、ガードルフ様」
「かまわん。後ほどきっちりと『対価』は支払ってもらうつもりだからな」
そっと手を伸ばして、ガードルフはウィスティリアの髪を撫でる。
手の感触が気持ちよくて、うとうとしそうになる。
「ガードルフ様。『対価』を何にするか、もうお決めになりましたか?」
撫でるガードルフの手がぴたりと止まった。
「あー……、いや。考え中かな……。まあいいから、とにかくお前は寝ておけ」
「はい……」
何でも構わない。いっそ全部持って行ってもらっても構わない。
過分に手を貸してもらった礼もしなければ。体や魂や自分の全部程度で、支払いは足りるのだろうか……。
ウィスティリアはそう思いつつ、目を閉じた。
言われたとおりに眠ってしまったウィスティリアの無防備な寝顔を、ガードルフはじっと見つめる。
「『対価』か……」
起こさないようにそっと、ガードルフは指でウィスティリアの唇をなぞる。
一度、この唇に、触れた。あの時は特に性的な意味はなく、なんとなく……であったのだが。
あの時以来、いや、ウィスティリアが「楽しませる……。あの、不躾ですが、女性が男性を楽しませるというのは、その、性的なご奉仕……ということでしょうか……?」などと聞いてきた時から、どうもガードルフの調子が少々おかしい。
これまでガードルフは、人間の女になど興味を持ったことがなかった。
土の上を這う蟻など、一匹一匹の見分けはつかない。人間などはガードルフにとって蟻とそれほど異なる存在ではない。
なのに、ウィスティリアだけは、なぜだか気になる。
姿を消しているので、ウィスティリアには気が付かれてはいないが、ウィスティリアの父親に『いたずら』をするとき以外は、ほとんどの時間、ガードルフはウィスティリアの側に居る。
するとつい目で追ってしまうのだ。
手助けをできる場面では、すぐに手を貸してしまうほどに。
「面白い女だから、興味がある……。暇つぶしにはちょうどいい……」
それだけではないような気がするが、どうもわからない。困惑する。
「『わたし自身を捧げます。体でも魂でも存在でも』とウィスティリアは言ったが……。本当にもらい受けてみる……か……?」
口をへの字にして、首を横に傾ける。
結論は、出ない。
……まあいい。ウィスティリアが『復讐』を終えるまで、まだ時間がある。それまでじっくりと、ウィスティリアからの『対価』を考えておけばいい。
そう考えながらも、ガードルフは、静かに深く眠っているウィスティリアの頬を柔らかく撫ぜた。
誤字報告ありがとうございますm(__)m 感謝です‼