第3話 一度目の人生・使用人との楽しい時間
潰されて、ひしゃげてしまった薔薇の花。
無事だったのはわずかに三輪ほど。
それを見てウィスティリアは溜息をついた。
どうせわずかな期間でダメになってしまう生花。
だけれど、受け取る前に潰されたことは、非常に不快だった。
ウィスティリアはひしゃげた花を一輪、ぶちりと引きちぎった。
更に花びらを、一枚一枚バラバラになるように毟る。
少し考えて、全ての花びらもどんどん毟っていった。
花びらだけを書き物机の上に無造作に広げ、茎や葉は屑入れに捨てる。
「……毟って捨てたとか言ったら、文句を言われそう。押し花にでもしてみようかしら」
だが、白薔薇を見るたびにむかむかとした怒りが湧いてきそうだ。
「形なんて残らないほうが良いわ。なら、オイルにでも漬けてみて、香りを移してみようかしら……。それとも乾燥させて匂い袋でも作る……?」
花びらをどう加工しようかと考えながら、ウィスティリアは自分の部屋を出ていった。
家族や客人用にと、絨毯が敷かれ、壁にも肖像画や風景画が飾られている大階段ではなく、使用人用の飾りけのない裏の階段のほうを、ウィスティリアは厨房へと向かい、降りていく。
「とりあえず、オイルなら厨房にあるわよね。匂い袋を作るにしても、花びらを広げて乾燥させるためのザルかなにかも、厨房で借りればいいかしら。料理人のエドかミゲルはまだ起きているかしら……?」
誕生会後の、もう深夜に近い時間だ。誰もいないなら、勝手に借りて、明日の朝にでも料理人たちに借りたことを告げればいい。
ウィスティリアはそう考えたが、予想外にも厨房には光があふれ、大勢の人の声もしていた。
「まだだれか起きているの?」
そっと厨房を覗けば、リード子爵家のほとんどの使用人たちが集まっていたようだ。
執事で初老のアンソニーまでが、珍しくリラックスした様子で、比較的アルコール度の低いレッド・エールを飲んでいた。
「こ、これはお嬢様っ! こんなところへどうして……」
アンソニーが立ち上がり、すっと背筋を伸ばしてから一礼をした。他の使用人たちも慌てて立ち上がる。
「えっと、いきなりごめんなさいね。あなたたちは休憩中……?」
恐縮するウィスティリアの問いに答えたのは、料理人のエドだった。
「いやあ、今日は疲れたから、寝る前に果物でもちょっとつまもうかって……、みんなで集まっていたところでして」
右手に包丁、左手にはリンゴを持っていた。これから剥くところだったようだ。
「そう……、そうね。みんな、今日はありがとう。お疲れ様」
笑顔のウィスティリアに、アンソニーも、他の使用人たちも、どこかほっとした顔になった。
夜中に勝手に使用人たちが何を食べているのだ……などと、叱られるかもしれないと思っていたのだ。
そのエドの手元を見て、ウィスティリアはふと思いついた。
「リンゴ……、そうね、リンゴもいいかもしれないわね……」
「あ、お嬢様もお食べになられます? ならオレンジとかベリーも追加しよう。ミゲル、手伝ってくれ」
ミゲルと呼ばれたエドとは別の料理人も、立ち上がってオレンジを剥きだした。
「お茶は……お嬢様にお出しするようなものではなく、薄いですけど。お飲みになられます? 味はともかくあたたかいですから」
雑役メイドのメアリーが、長テーブルの上に置かれていたカップを手にすると、年嵩のダフネが「メアリーっ! お嬢様にはちゃんとしたお茶をお出ししなさいっ!」と、メアリーを叱った。
「ううん、いいの。わたしもみなと同じものを飲みたいわ」
「……よろしいのですか、お嬢様」
「ええ。それから……エド、剥いた後のリンゴやオレンジの皮を、もらえるかしら?」
「へ? 皮も食べるんですか?」
何を言い出したのか、と、エドは目を剥いた。
「あ、あ、あ、違うの。使いたいだけなの」
「果物の皮なんて、どうするんですか。これゴミですよ?」
「ええとね、あのね。さっき……誕生会で、グレッグ様に白薔薇をいただいたのよ」
使用人の反応は、知っているものと知らない者できれいに分かれた。
接客などを務めた使用人たちは、誕生会で何が起こったのか、それなりにわかっている。だから、顔をしかめた。
だが厨房など、裏方の者は表で何が起こっても、知ることはない。うちのお嬢様は婚約者に薔薇を貰ったのか……と、その程度の感想を抱いた。
もしかしたら、この寝る前の使用人たちのおしゃべりの時間で、いろいろな情報が伝達されるのかもしれないが、今日に関しては、それはまだのようだった。
「まあ、その薔薇がね。リリーシアに潰されてしまったのよ」
ああ……と。事情を知らなかった裏方の使用人たちも、皆一様に顔をしかめた。
リリーシアが常に何かをしでかすのは、使用人たちにもとっくに知られていることだった。そして、それをウィスティリアの父も母も、半ば放置状態であることも。
とにかく、リリーシアが何かを欲しがれば、それを与えればいい。
それがこの子爵家の不文律のようなものだ。
「だからね。花びらを毟って、乾燥させて、ポプリかなにかに加工してみようと思ったのだけど。白薔薇だけじゃ香りが足りないかなって」
「そういうものなのですか?」
「果物の皮をね、小さくちぎって乾燥させて、それで、薔薇と一緒にしてみたら、良い香りのするポプリとか作れるかなって」
なるほど……と、料理人のエドは頷いた。
「乾燥させるんですね。じゃあ、剥いた皮はよけておいて、皿とかに広げておきますよ」
「ありがとう、エド。何かお礼でもしたほうがいいかしら」
「いいえ、たいした手間でもないですし」
「んー、じゃあ、エドだけではなくて、みんなが困っていることとか、ない?」
使用人の自分たちが困るというよりも、現状、欲しがりのリリーシアに困らされているのがウィスティリアだろうと、使用人たちは乾いた笑みを浮かべそうになった。
「んー、やっぱり、あたしみたいな水場で働くものは、冬になると手荒れが困るかなーって」
「ちょっとメアリーっ! お嬢様に向かって図々しいっ!」
「だって、冬場の洗濯は、手が荒れて痛いんですよー。料理人のみんなだって、あたしと同じで……」
年若いメアリーが遠慮なく答えたのを、他の使用人たちが口を押えて止めようとしたが、遅かった。
「手荒れ……」
考え込むウィスティリアに、「お、お嬢様がお気になさることではっ!」と、幾人もの使用人たちが慌てだした。
「……えと、エド。この厨房って、なにかさらっとしたオイルとか、はちみつとか、余っているものって、ある?」