第26話 二度目の人生・印章
次の日から、ウィスティリアは書類を書き始めた。
「まずは使用人のみんなの紹介状などからね」
聞き取ったことを書いたノートを見ながら書いていく。
一枚一枚、一人一人のものを丁寧に。
二日かかって、全員の分を書き上げた。
だが、書いただけでは駄目だ。
「問題は、印章なのだけど……」
平民、貴族、王族の違いを問わず、税の申告書や手紙などには印章が必要なのだ。
商人などは、自分の名前が書けない者もいる。その場合は印章だけが署名の代わりになる。貴族の場合はきちんと自筆で名をサインした後、そのサインの横に印章を押すのが一般的。また、印章は手紙に封をするときにも使用する。
まず蝋を溶かしてサインの横に垂らす。そして、蝋が柔らかいうちに印章を捺する。印象の図案は家系のシンボルだ。差出人の証明、または、文書が偽造されたものではないという証明にもなる。
ウィスティリアの父親は、指輪型の印章を使っており、それは常に指にはめられている。使用するとき以外、寝ているときも外さない。
「まあ……、普通なら盗むのは難しいわよね……」
普通なら。
けれど、ウィスティリアにはガードルフがついている。
「面白ければ力を貸してくださる……」
頼んだものをすべて叶えてくれるとは限らないが。
ウィスティリアは少し考えたのち、両手を組んで、祈りを捧げた。
「ガードルフ様。お力をお借りしてもよろしいでしょうか……」
願った途端にガードルフが姿を現した。
「早速の呼び出しか。なにをすればいい?」
「お父様に対し、まず『いたずら』を仕掛けたいのです。あと『文書偽造』のお手伝いをいただけたらと」
「『いたずら』に『文書偽造』だと?」
ガードルフが期待を込めたような声を出した。どうやら興味を引かれたようだった。
「お父様の指の印章を盗みたいのですけど。ただ盗むだけではつまらないでしょう?」
「まあな」
「ですから、お父様には……」
ウィスティリアは、ガードルフに行って欲しい『いたずら』と『文書偽造』の内容を、事細かく説明した。
「ふふん、なるほど。ただ経過を見ているだけよりよほど面白いな」
「では、お力をお借りできますか?」
「ああ。早速やってやろう」
そのまま、ガードルフは姿を消した。ウィスティリアの父親がいる執務室に向かったのだろう。
姿は見えなくなったが、ウィスティリアは「よろしくお願いいたします」と、深々と頭を下げた。
ウィスティリアの父親は、モノの置き場などはきっちりと決めているほうだ。
インク壺やペン、捺印のための蝋などは机の右側に置かれ、未処理の書類は中央。ランプは右奥。引き出しの中も整っている。
ガードルフは、その配置をこっそりと動かす。
例えばランプは右奥から手前に移動する。
寝るときも指にはめたままの印章は、外してベッドの上に転がしておく。
あからさまにおかしい……と言うほどではなく。
首をかしげる程度。
この時点では、単なる『いたずら』だ。
それを少しずつ繰り返す。一日に、一度程度。
それから父親の意識を飛ばす。
最初は居眠りでもしたかのように、数分。次第に長く。
昼間に、執務室で、書類仕事を片付けていたはずなのに、ふっと気がつけばもう外は暗くなっている……というように。
それほどまでに集中していたのだろうか、おかしいな……と、首をかしげる程度の『いたずら』をいろいろと織り交ぜていく。
もちろん、姿の見えないガードルフが物の位置をずらしたり、ウィスティリアの父親の意識を飛ばしたりしているのだが。ウィスティリアの父親にはそんなことはわからない。
ガードルフは「意外と面白いな」などと言いながら、様々な『いたずら』を繰り返した。
そして、ウィスティリアがルーナンド伯爵家へ行く前日の夜。寝ているウィスティリアの父親から、指輪型の印章をそっと盗む。
次いで、ウィスティリアの父親の執務室に寄り、処理された書類を数枚、手にしてから、ウィスティリアの私室を訪れた。
「ありがとうございます、ガードルフ様」
ウィスティリアはガードルフに礼を言った。
「お前がこのところせっせと書いていた紙に、この印章を押していくのか?」
「ええ。契約書も紹介状も、婚約破棄の書類などにも、お父様の筆跡とこの印章が必要ですからね」
一枚一枚、丁寧に丁寧に書き上げたそれらに、蝋を垂らし、印章を押していく。
全ての書類に押し終えた後、ウィスティリアはガードルフを振り向いた。
「ではガードルフ様、こちらのすべての文書の『偽造』のほうもお願いします」
「ああ」
契約書や紹介状……婚約破棄届に婚姻届。
ウィスティリアが丁寧に書いたそれらの文字が、書面から浮かび上がり、その形を変えていく。
「ふむ……。こんなものかな?」
書類に書かれているウィスティリアの筆跡が、ウィスティリアの父親の筆跡に変化した。
「すごいです、ガードルフ様。偽造なのに、本当にお父様が書いた文字みたいっ!」
ガードルフが今偽装した書類と、本当にウィスティリアの父親が書いた書類を見比べる。差などなく、どちらも本人が書きあげたようにしか見えない。
ガードルフは「ふふん」と少々自慢げに笑った。
「本人が書いた文字を見ながら、この私が偽造したのだからな。人間ごときには見破られるはずもない」
ここまでは順調だ。
紹介状があれば、とりあえず使用人たちの未来をある程度は守れるはずだ。
それから……。
「ふふふ、婚約破棄書類に、新たな婚約届に婚姻届け。両家で話し合ったあとの契約書……。これでリリーシアをグレッグ様に押し付けられるわ」
計画が順調で、にんまりと笑ってしまう。だが、うまくいっているのはガードルフの助力があるからだ。
「明日のルーナンド伯爵とのお話し合いは……、ガードルフ様のお力に頼るわけにはいかない……。わたしひとりの話術で頑張らなくちゃ」
出来上がった書類と印章を、明日の話し合いの時に持って行くカバンに入れて。
ウィスティリアは両手の拳をぎゅっと握った。