前へ次へ
26/54

第26話 二度目の人生・印章

 次の日から、ウィスティリアは書類を書き始めた。


「まずは使用人のみんなの紹介状などからね」


 聞き取ったことを書いたノートを見ながら書いていく。

 一枚一枚、一人一人のものを丁寧に。

 二日かかって、全員の分を書き上げた。

 だが、書いただけでは駄目だ。


「問題は、印章なのだけど……」


 平民、貴族、王族の違いを問わず、税の申告書や手紙などには印章が必要なのだ。

 商人などは、自分の名前が書けない者もいる。その場合は印章だけが署名の代わりになる。貴族の場合はきちんと自筆で名をサインした後、そのサインの横に印章を押すのが一般的。また、印章は手紙に封をするときにも使用する。

 まず蝋を溶かしてサインの横に垂らす。そして、蝋が柔らかいうちに印章を捺する。印象の図案は家系のシンボルだ。差出人の証明、または、文書が偽造されたものではないという証明にもなる。

 ウィスティリアの父親は、指輪型の印章を使っており、それは常に指にはめられている。使用するとき以外、寝ているときも外さない。


「まあ……、普通なら盗むのは難しいわよね……」


 普通なら。

 けれど、ウィスティリアにはガードルフがついている。


「面白ければ力を貸してくださる……」


 頼んだものをすべて叶えてくれるとは限らないが。

 ウィスティリアは少し考えたのち、両手を組んで、祈りを捧げた。


「ガードルフ様。お力をお借りしてもよろしいでしょうか……」


 願った途端にガードルフが姿を現した。


「早速の呼び出しか。なにをすればいい?」

「お父様に対し、まず『いたずら』を仕掛けたいのです。あと『文書偽造』のお手伝いをいただけたらと」

「『いたずら』に『文書偽造』だと?」


 ガードルフが期待を込めたような声を出した。どうやら興味を引かれたようだった。


「お父様の指の印章を盗みたいのですけど。ただ盗むだけではつまらないでしょう?」

「まあな」

「ですから、お父様には……」


 ウィスティリアは、ガードルフに行って欲しい『いたずら』と『文書偽造』の内容を、事細かく説明した。


「ふふん、なるほど。ただ経過を見ているだけよりよほど面白いな」

「では、お力をお借りできますか?」

「ああ。早速やってやろう」


 そのまま、ガードルフは姿を消した。ウィスティリアの父親がいる執務室に向かったのだろう。


 姿は見えなくなったが、ウィスティリアは「よろしくお願いいたします」と、深々と頭を下げた。




 ウィスティリアの父親は、モノの置き場などはきっちりと決めているほうだ。

 インク壺やペン、捺印のための蝋などは机の右側に置かれ、未処理の書類は中央。ランプは右奥。引き出しの中も整っている。


 ガードルフは、その配置をこっそりと動かす。

 例えばランプは右奥から手前に移動する。

 寝るときも指にはめたままの印章は、外してベッドの上に転がしておく。


 あからさまにおかしい……と言うほどではなく。

 首をかしげる程度。

 この時点では、単なる『いたずら』だ。


 それを少しずつ繰り返す。一日に、一度程度。

 それから父親の意識を飛ばす。

 最初は居眠りでもしたかのように、数分。次第に長く。

 昼間に、執務室で、書類仕事を片付けていたはずなのに、ふっと気がつけばもう外は暗くなっている……というように。

 それほどまでに集中していたのだろうか、おかしいな……と、首をかしげる程度の『いたずら』をいろいろと織り交ぜていく。


 もちろん、姿の見えないガードルフが物の位置をずらしたり、ウィスティリアの父親の意識を飛ばしたりしているのだが。ウィスティリアの父親にはそんなことはわからない。


 ガードルフは「意外と面白いな」などと言いながら、様々な『いたずら』を繰り返した。

 そして、ウィスティリアがルーナンド伯爵家へ行く前日の夜。寝ているウィスティリアの父親から、指輪型の印章をそっと盗む。

 次いで、ウィスティリアの父親の執務室に寄り、処理された書類を数枚、手にしてから、ウィスティリアの私室を訪れた。


「ありがとうございます、ガードルフ様」


 ウィスティリアはガードルフに礼を言った。


「お前がこのところせっせと書いていた紙に、この印章を押していくのか?」

「ええ。契約書も紹介状も、婚約破棄の書類などにも、お父様の筆跡とこの印章が必要ですからね」


 一枚一枚、丁寧に丁寧に書き上げたそれらに、蝋を垂らし、印章を押していく。

 全ての書類に押し終えた後、ウィスティリアはガードルフを振り向いた。


「ではガードルフ様、こちらのすべての文書の『偽造』のほうもお願いします」

「ああ」


 契約書や紹介状……婚約破棄届に婚姻届。

 ウィスティリアが丁寧に書いたそれらの文字が、書面から浮かび上がり、その形を変えていく。


「ふむ……。こんなものかな?」


 書類に書かれているウィスティリアの筆跡が、ウィスティリアの父親の筆跡に変化した。


「すごいです、ガードルフ様。偽造なのに、本当にお父様が書いた文字みたいっ!」


 ガードルフが今偽装した書類と、本当にウィスティリアの父親が書いた書類を見比べる。差などなく、どちらも本人が書きあげたようにしか見えない。


 ガードルフは「ふふん」と少々自慢げに笑った。


「本人が書いた文字を見ながら、この私が偽造したのだからな。人間ごときには見破られるはずもない」


 ここまでは順調だ。

 紹介状があれば、とりあえず使用人たちの未来をある程度は守れるはずだ。

 それから……。


「ふふふ、婚約破棄書類に、新たな婚約届に婚姻届け。両家で話し合ったあとの契約書……。これでリリーシアをグレッグ様に押し付けられるわ」


 計画が順調で、にんまりと笑ってしまう。だが、うまくいっているのはガードルフの助力があるからだ。


「明日のルーナンド伯爵とのお話し合いは……、ガードルフ様のお力に頼るわけにはいかない……。わたしひとりの話術で頑張らなくちゃ」


 出来上がった書類と印章を、明日の話し合いの時に持って行くカバンに入れて。

 ウィスティリアは両手の拳をぎゅっと握った。


前へ次へ目次