第19話 狭間の時間・困ったのは父親ではなく
腹の中に、消化不良のもやもやはある。
だが、それを吐き出す場所がない。
しばらくの間ウィスティリアはなにも考えられずにいた。
ただ、ガードルフの言葉が意味もなくぐるぐると脳内を行ったり来たりするだけで。
暇つぶし。
たまたま、見つけただけ。
魂を抜いてくれたから、本当の死期まではこうやって、幽霊のように漂って、そして、時期が来れば、無に帰す。
(なんなの、それ……)
一瞬、そう思いはした。が、ガードルフに対する怒りには結びつかない。ガードルフがウィスティリアを苦しみから解放してくれたのは確かなのだ。
怒りをぶつける相手はガードルフではない。
寧ろ感謝をしなくてはならないはずで……。
だが、どうにもこうにも感情がぼんやりしてしまう。
神がいない。天の国はない。悪人も善人も等しく無になるだけ。
それはウィスティリアにとって本当に衝撃だったのだ。
なにも、考えられなくなるほどに。
けれど、恩人を前に呆けていてはいけないと、ウィスティリアはなんとか背筋を伸ばす。
「と、とにかく、わたしは苦しむこともなく、こうやって、いわゆる幽霊のように世界を漂い、そして本来の死期が来たら無に帰すのでございますね」
「ああ、そうだ。お前が無になるまでの間、楽しませてもらえれば特に礼はいらん」
楽しませてもらえればと言っても、面白みのあることなどウィスティリアには全く分からない。
大人しく、搾取されていただけの人生なのだ。
「ガードルフ様を、楽しませるようなことは、わたしにはなにも……」
「では、無に帰すまでの間、ずっと呆けているか? なにかやり残したことはないのか? せっかくこうして時間があるというのに」
「やり残したこと……ですか……」
呆けてしまいそうな頭を、無理やりたたき起こすようにして、考えてはみた。
生きているときは、奪われたくないという、その一心だけが強かった。
死んでしまえばもう奪われない。
奪われない平穏を満喫できればそれだけでいいような気がした。
こうなってほしいだとか、ああしたい……などという希望も要望も、なにも思い浮かんではこなかった。
「そうだな……。例えばお前の妹や親に復讐とか報復とか、そんなものを試みるのはどうだ? 暇つぶしにはちょうどいいかと思うのだが」
「ひ、暇つぶしの復讐……」
復讐とは暇つぶしで行うものなのか。
恨みや憎しみというものを、感情的に燃え上がらせて、それを相手にぶつけるようなものではなかったのか。
「え、ええっと……」
「まあ別に、復讐や報復でなくとも良いのだが。本当に無に帰すまで、もう少し時間があるのだから、呆けているだけではつまらんだろう? せっかくの期間、心残りがないように、なにかしたいことでもないのか?」
復讐などと言うものは、これまでは考えたこともなかった。
死んで、神様に召される。
きっと神のいらっしゃる天の国に召される。
そう、思い続けてきたから。
死んでから、復讐をと言われても。どうにもこうにもピンとこない。
それに先ほどすでに、どうせ死ぬのだし、神様の御目こぼしも得られるだろうからと、思う存分これまでの気持ちを吐き出してしまった。
婚約破棄も宣言した。
グレッグもリード家もいらないから捨てると言った。
姉に、妹の面倒を見させる前に、親であるお前が、きちんと娘の養育をせよと、父親に怒鳴った。
そこで、ある意味満足したのだ。
復讐など、報復など、それ以上思ったこともなかった。
「ええと……、復讐ですか。したほうが、よろしいのですか……?」
ガードルフが望むなら……と、ウィスティリアは復讐にあたるようなことをなにか行ったほうがいいのだろうか……と、真面目に考えだした。
「するもしないもお前の自由だが。あれだけ奪われておいて、奪い返そうなどとは思わないのか?」
今更だと、ウィスティリアは思った。
幼いころに奪われたぬいぐるみに絵本。アクセサリーに服。最近では誕生パーティのときのドレスに、招待客たちから贈られたプレゼント。
それから、婚約者のグレッグも。
「奪われるのが嫌だっただけで……。奪われたものを取り返したいとは……」
「思わない?」
「例えばグレッグ様なんて、返却されたところで気持ち悪いですし。無に帰すのなら、モノを取り返したところで無意味でしょう?」
「な、なるほど。そうか……」
スパッと婚約者を切り捨てたウィスティリア。
ガードルフは苦笑した。
「そう、ですね。やりたいこと……。敢えて言うのなら……。リリーシアのわがままに晒されるお父様の姿を見たら、胸がすくとは思います」
復讐というほどのものではない。
これまでウィスティリアが受けてきた苦痛を、少しばかり引き受けてみろという程度のことだ。
そう、少しくらい、困ればいいのだ。父親も母親も。
リリーシアに奪われる人生を、父親や母親も味わってみればいいのだ。
それがどんなにつらいのかを。
「そうか。では、しばらく子爵家に留まって、様子でも眺めているとよい。私も暇だからな。しばらくはこのあたりで漂っていよう」
言われたとおりに、そのままふわふわと、リード子爵家の中を漂った。
だが、のんきに様子を眺めていられたのは、ほんのわずかな時間。
すぐに、ウィスティリアは後悔した。
「自分だけ、勝手に死んで、自由になってごめんなさい……」
その謝罪は、父親でも母親でも、ましてやリリーシアに向けられたものではなく。使用人の皆に対してのものだった。
ウィスティリアが死んだことによって、父親も母親も少しでいいからリリーシアに困らせられればいい。
ウィスティリアのそんな思いは欠片も叶わなかった。
そう、父親はリリーシアを不快に思っても、決して困ったりはしなかった。
「お父様、それちょうだい」
リリーシアが父親のモノを欲しがったところで、そのモノを渡すような父親ではなかった。
「うるさい。リリーシアを自室に連れて閉じ込めておけ」と、使用人に命じるだけだった。
欲しいモノがもらえず、喚き、泣き叫ぶリリーシア。
使用人たちは命じられたとおりに、その暴れるリリーシアを、無理矢理に父親の側から引きはがす。当然、リリーシアに噛みつかれたり叩かれてりして抵抗される。なんとかリリーシアを部屋に閉じ込めて、やっとほっと一息つく。そんなことが毎日、いや、一日に何度も繰り返された。