第16話 狭間の時間・黒翼のガードルフ
苦しかったのは、きっと一瞬だった。
すうっと。ウィスティリアの体から、魂や精神、幽体などと称される種類のものが抜けていった。
ふわりと浮かびあがったウィスティリアの魂は、天井付近から誕生パーティの会場全体を俯瞰した。
空を飛ぶ鳥の視点とは、こんな感じなのかと、妙に冷静に考えながら、自分の体と、それを容赦なく蹴っている父親を見る。
「いきなり血を浴びせられたからって、娘を蹴るなんて……。父親のくせに酷いわね」
「まったくだ。酷い父親を持ったものだな」
突然背後から聞こえてきた、その低く甘く、酩酊するような声に、ウィスティリアは慌てて振り向いた。
そこにいたのは一人の男だった。
だが、ウィスティリアが注目したのはそのあまりにも整いすぎている顔でも、ルビーのように赤い瞳でもなかった。
足の膝裏まで達するほどに長く伸ばした黒髪。
何よりも、その背に広がる漆黒の大きな翼。
纏う色は黒いが、ウィスティリアが想像していた天使の姿、そのものだった。
「ああ、天使様……。やっぱりわたしを迎えに来てくださったのですね……」
敬虔な様子で両手を組んで、神に祈るように拝みだしたウィスティリアに、男は少々戸惑った。
「……この黒ずくめの服と髪、更に黒い翼を見て『悪魔』や『死神』と呼ぶ者はこれまでにもいたが。『天使』などと呼ばれたのは初めてだな……」
呟いてから、男は「くくく」と笑った。戸惑うこと自体、少しだけ面白いと思ったのだ。
「天使様ではないのですか……?」
「ちがう」
「で、でも……御使い様でいらっしゃるのでしょう?」
天使様ではなかったのか。もしかして、神の国には天使以外にも、人間を迎えに来る役目を持つ存在がいたのかと思った。
そうだ、天使であったら、羽根の色は白のはず。
この方の羽根は黒だ。
間違えてしまったのは申し訳ない……などと思いながらも、ウィスティリアはスカートをつまみ、国王に謁見でもするかのように丁寧にお辞儀をした。
「失礼いたしました。ですが、その翼の色からいたしますと、先日、わたしに黒い羽根をくださった方とお見受けいたします。それから、先程わたしが階段から落ちるところを助けてくださったのも……」
「ああ、両方とも私だな」
「改めまして御礼申し上げます。わたしはリード子爵家の娘、ウィスティリアと申します。……あの、差し支えなければ、あなた様のお名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」
天使様と呼べないのでは、何と呼べばいいのだろうか? 御使い様という名称も、もしかしたら違うのかもしれない。
だから、聞いてみた。
それ以外に他意はなかった。
なのに。
「名前……か」
だが、男は眉間に皺を寄せた。
ウィスティリアは慌てた。名を聞いてはいけなかったのだろうか……と。
「あ、あの、人間に名を明かすことを、してはいけないのでしょうか……?」
きっと、下賤の人間である自分が名を聞くのは、失礼どころか不敬なのだ。
思い至り、途端にウィスティリアは青ざめた。
「申し訳ございません。その、お助けいただいたあなた様に、きちんと御礼を申し上げようという意図から、あなた様のお名前をお聞きしただけなのでございます。失礼に当たるのならば、ご容赦ください」
「ああ、いや……。私の名はな……」
男の歯切れは悪い。何事か考え込んでいる。
「あの、もしも名乗ることができないということであれば、例えば『漆黒の天使様』や『黒い翼の御使い様』など、なにかお呼びするための名称をご指定いただければ……」
「待てっ!」
焦った挙句、おかしなことを言ってしまったようだった。
男は呆れたような視線をウィスティリアに向けた。
「『漆黒の天使様』に『黒い翼の御使い様』だと……? なんだその、思春期の不安定な精神状態を持つ者特有の『俺は他の愚鈍な愚民たちとは違って、万能の、特別の存在なのだぞ』などと主張するような、そこはかとなく恥ずかしい名称は……」
「そ、そうですか⁉ で、では『紅蓮の炎を身に纏う高貴なる魂の……』」
「やめろ」
更に焦ってしまったウィスティリアの発言は、男によって止められた。
どうにもこうにも耐えられなくなったらしい。
「名称が恥ずかしさを増しているっ! そのうち『闇の深淵より現れし爆炎の御使い』だの『理より外れし静謐なる魂』だの『混沌より産まれし闇の世界の構築者』などと言いだすのではないだろうな⁉ そのような名で、この私を呼ぶのはやめろっ!」
「もうしわけございませんっ! ですが、では、何とお呼びすれば……」
男が例として挙げた呼び名に、少々心が魅かれたウィスティリアであったが。それは口には出さないことにした。
「普通に名で呼べ! あー……、とりあえず……ガードルフでいい」
「かしこまりました、ガードルフ様」と、ウィスティリアは頭を下げた。