第12話 一度目の人生・これはむしろ福音
吐き出した痰混じりの血。その血で汚れた手ぬぐい。吐血の量も多い。
それをあらためて見なおす。
「治らない、病気かしらね……」
もしも、そうなら。
今の今までは、風邪などではない、何か恐ろしい病気の証拠のように見えていた。
が、しかし。
「ふふ……っ! 治らないのなら……、むしろ、これは、ありがたいのかもね……」
死んだら、リリーシアから解放される。
「あはっ、あははっ! あははははははは……っ!」
死んだら、リリーシアから解放されるのだ。父親が、妹の面倒を見るのは姉の義務だと言ったとしても。
「そうよ、寧ろこれは福音よっ! かわいそうなわたしへの、神様からのプレゼントなのよ……っ! わたしが、この家から、リリーシアから逃げるための……っ!」
積極的に自殺などを試みなくとも。このまま時間が経てば、きっと病魔はウィスティリアの体を蝕み、そして。
「天の国に、行けるのかしら? それとも、病気を治さず、消極的な自殺を試みたということで、神様に罰せられるのかしら?」
そこにリリーシアがいなければ、もう、罰せられてもかまわない。
「そうよ、このまま……、このまま、でいいんだわ……。わたし、このままで、いつか、遠くない未来で……解放、されるのよ……」
気が狂ったように、泣きながら、咳き込みながら、ウィスティリアは嗤う。
その嗤い声は、ウィスティリア以外の誰の耳にも届かなかった。
いや……、違う。
どこか、遠くで。
鳥の羽ばたきのような音が、した。
同時に、艶気を含んだ低い声が「ふうん……」と呟いた。
「不遇な魂。美しい……、いや、どうかな……」
声を発したのは、長いの艶やかな黒髪を持つ、年齢不詳の男だった。少年のようにも見えるし、また、青年や壮年のようにも見える。
ルビーのように真っ赤な瞳は、好奇心に輝いているようでもあり、また、世界の深淵に思いを馳せているようでもあった。
「しばらく様子を見てみるか。暇つぶしにはちょうどいい」
笑う男の顔は、直視できないほどに美しかった。
崩れなく麗しい顔は、完璧な左右対称だ。
これほどの美貌を持つ者が、人間であるはずはない。
人外である証拠に、この男は、背に翼を有していた。しかもその色は白ではなく、黒の色だ。
「さて、あの娘は……どのようになるか……。絶望に塗れるか。それともそれを撥ね除けるか」
さあ、いったいどうなることかな……と、男は楽しそうに笑った。
泣きながら発するウィスティリアの狂ったような嗤いと、男の楽しそうな笑い声。
ウィスティリアの居る場所と、男が存在する空間。
その二つの場所は、かなり遠く隔たっていたのだが。
二人の声は、まるで奇妙な二重奏のように、夜の中に響いていくのだった。