第11話 一度目の人生・本気で逃げるのならば
眠っている間に、悪夢を見た……ような気がした。
咳が止まらず、血を吐き……そして、そのまま血の海で果てる。
もしくは父親に言われたとおりにリリーシアのわがままを聞き続け、あらゆるモノを奪われ続け、気が付けば老婆になっていた。
そんな、悪夢。
「最悪な、気分、だわ……」
ベッドから起き上がる気力もなかった。
だから、そのまま目を開けて、ベッドの天蓋を眺めた。
部屋の中は暗かった。
どうやら真夜中を少し過ぎたころのようだった。
寝汗が、夜着をじっとりと湿らせていて、気持ちが悪い。
咳のしすぎで、胸も背中もひどく痛む。
湯あみをしたいと思ったが、使用人の誰かを夜中に起こしてまで、湯を用意させるのは申し訳ない。
ちょっと考えて、ウィスティリアはベッドサイドに置かれていた薄手の手ぬぐいを掴む。
せめて汗を拭くくらい……と思った瞬間に、噴出するような咳が出た。手に取った手ぬぐいをそのまま口元にあてる。
ゲホンゴホンという咳……というよりも、まるで嘔吐でもしているかのようだった。大量の痰かなにかが、狭い気道を通り、口外に吐き出されていく……。
しばらくそうした後、ようやく咳が収まった。口元から手ぬぐいを外す。
「ひ……っ!」
そこにべったりとこびり付いていたのは……赤い色。
「まさか、これ、血……? わたし、今、血を吐いたの……?」
呆然と、血の混じった痰を見る。
もちろんきれいなものではない。
「なに、これ……」
咳と発熱。風邪や肺炎で、こんなふうに痰混じりの血を吐くものなのだろうか?
「ちが……う。わたし、風邪、なんかじゃない……」
なにかもっとずっと悪い病気だ。
すっと、背筋を冷たい風が通り抜けていったような感覚。いや……、それともこれは、喉を締め付けられるような恐怖とでも表現するべきなのか。
「血を吐くって……、わたし、死ぬの……?」
がくがくと、体が震えた。
「ううん、違う。死ぬような病気とは……限らない。これだって、きっと、たまたま……。そうよ、朝になったらお医者様を呼んでもらって、血を吐いたことを言って。それで、新しい薬を貰って……休めば、きっと、治る……」
けれど、また咳き込み、そして、また血を吐いた。
死ぬことに対する恐怖を感じながら、ウィスティリアは自分が吐き出した、鮮やかな赤い色をじっと見続けた。
「きっと治る……、治ったら……、そうよ、治ったら、したいこと、楽しいことを、考えて……」
使用人のみんなとオイルを作った。喜んでもらった。
そういうことを考えよう。
治ったら、今度は別の何かをみんなで作ろう。
作ったものが、素晴らしいものだったら……。
「……それも、リリーシアに、奪われる……?」
モノは奪われても、体験や感情は奪われることはない。
そうは思ってはみた。
だけど。
「……グレッグ殿とお前が婚姻を結んだあと、この屋敷でリリーシアの面倒を見続ければ、それでいい話だ」
「たとえグレッグ殿とリリーシアが男女の関係になろうと問題はない」
「仕方あるまい。ウィスティリア、お前は姉なのだから。妹の面倒くらい見れるだろう」
父親に言われた言葉が、次々と浮かんできた。
「病気を治して、元気になって……。そして、また、リリーシアに奪われる……。夫となるグレッグ様は、そのリリーシアの愛人……? あ、あはは、あはははははは……」
笑いが、いや、嗤いが止まらなかった。
「元気になって、それで⁉ リリーシアに振り回されて、奪われ続ける人生を送るの……っ⁉ それってなんの意味があるの⁉」
姉だから、全てを投げ打って、妹の面倒を見なければならないのか。
それが姉の義務なのか。
「馬鹿々々しいっ!」
泣きながら、嗤う。
「何もいらない。リリーシアから、この家から……、無縁になって生きたいだけなのに……」
けれど、それは、父親が許さない。
姉だから、妹の面倒を見るのが当然。
「ホント、馬鹿々々しい……。わたし、生きている意味、あるの……?」
涙を袖で拭う。
また、咳き込む。
何度かそれを繰り返した後、ウィスティリアは項垂れながら、つぶやいた。
「わたしに許されているのは、何もかもすべて奪われても、リリーシアの面倒を見る人生。なんて、不幸。なんて、理不尽。この家を出て、全て捨てて、自由に生きることはできないのね。ふ、ふふふ……、あはははは……」
この家から逃げることを夢想してみた。
だけど、病気の、貴族学園を卒業もしていない、子爵家の小娘が、家出をして生きていけるとは思えなかった。
ならば、体を治してから、逃げるかとも考えた。が、血を吐くような病気が、本当に治るかどうかもわからない。
「家出して、修道院かどこかで暮らす。だけど、お父様に見つかって、この家に連れ戻される。リリーシアとグレッグのためにと、この家の家政でも任されて、そして、リリーシアが欲しがるものを買い与えるために、節約して、家を切り盛りする……」
そんな未来しか、見えない。
「お金の余っているご老人の後妻や愛人にでもなって、この家から逃げる……というのも無理、でしょうね……」
そんな相手と、どうやって知り合うのかすらわからない。
もし、万が一、知り合うことができたとしても、貴族の娘など、所詮その家の所有物だ。
「逃げた先のお相手に、迷惑がかかるだけよね。わたしという娘の所有者は、お父様なのだから……」
ならば。
「本気で逃げるのなら、死ぬしかないの……?」
誤字報告ありがとうございました!! 感謝です!!