スノードロップ
決意を固めたアイリスの部屋に突然ノックもせずやってきたのは、疫病神でしかないテッセンだった。
父親に似ているため背は抜きん出て高い。肩幅もあり小太りで体格が良い。顔は抜群に良いと言えないが、普通程度だ。外面と家柄が良いため令嬢から人気がある。
幼い頃からこのような兄に絡まれるアイリスは、人の顔色を見るだけでどんな感情を持っているか知ることができる。
(今日は機嫌が悪い。八つ当たりしに来たんだ。)
「どうせ役に立たないくせに、何そんなもん握ってるわけ?」
筆を持つアイリスの右腕を鷲掴みにし、手首に爪を突き立てられる。鋭く長い爪が皮膚を簡単に突き破りえぐる。
肘までゆっくりと血が滴り、思わず顔を顰める。
痛みで力が抜け、ポロリと落とした筆を拾い上げたテッセン。
それを真っ二つに片手で最も簡単にへし折られてしまう。
キツい力で掴まれ抵抗できないアイリス。
嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
満足したのか、気が晴れたのかはわからないが腕を解放された。部屋の窓から、折れた筆を外へ放り投げられるだけで済んだようだ。
「価値のないお前は穀潰しにしかならない。置いてやっているだけいいと思え。」
するとテッセンはアイリスのロングヘアを乱暴に掴み、イスから床に引き倒し押さえつけた。
そして耳元でこう言う。
「お前なんか死ね。消えろ。」
捨て台詞を吐き、掴んでいた髪を乱暴に離し部屋から出ていった。
昔から言われ慣れている言葉。もはや涙も出ることはない。
でも、心の奥に深く深く棘のように刺さる言葉。
存在価値を否定され続けた前世と全く同じ。
床からゆっくりと身体を起こし手首から流れる血を、圧迫して止血した。刻まれた傷は身体だけではなく、心も傷だらけになっている。
(感情が湧かない私は、ただの人形だ。)
事務的に傷の処置を行い、窓から外へ投げ捨てられた筆を回収するために庭園へと向かった。
日暮れが近く、春先とはいえ外は寒い。
「コートを着るべきだった。...寒い。」
橙色の光がさして、芝生や花々を優しく照らしている。
芝生の上にそれはあった。真っ二つにおられた使い古した筆。
「もう少しで卒業だったのに。筆、どうしよう。」
手に取り、思わず筆を眺めて立ち尽くしてしまう。
出てくるのはため息だけ。誰にも届かず、返事もない。
筆を握りしめて周囲を見渡すと、春を告げるスノードロップが咲いていた。
花を見た瞬間、アイリスは夢より鮮明な世界をみた。
「こんなにも綺麗で、毎年この場所で咲いてくれるのに誰も見向きもしてくれないね。」
10歳を過ぎているだろうか。幼女が今と同じ場所で膝を抱えスノードロップを覗いている。彼女の元へ近づいてくる影がひとつ。
「アイリス!...ここに居たのか。寒いだろう?」
「おじいさま!寒くないよ!」
飛びつくように立ち上がり、えへへと嬉しそうに笑う少女の髪を撫でるのは最愛の祖父フォンテーヌ・エーデルだ。
「そんな格好をしていたら風邪を引くだろう?俺のを着なさい暖かいぞー!」
自身が着ていた上着を脱ぎ、幼いアイリスにかけてくれた。
「おじいさまこそ風邪を引いたら大変!」
「俺はいいんだよ。アイリスの方が身体が弱いのだから、気をつけないといけないぞ?わかったか?」
「うん!!わかった!!」
そして泥だらけの小さな手が握りしめていたものに、フォンテーヌは目を向ける。
「スノードロップか。今年も綺麗に咲いたな。」
「うん!このお花はね、私と同じなの。花壇の狭いところに咲いていて、誰にも見てもらえないんだ。だからね、おじいさまにプレゼントする事にしたの!
プレゼントしたらずっとこのお花をみてくれるでしょ?」
フォンテーヌはアイリスに視線を合わせるように膝を折り、小さな泥んこになった手からスノードロップを受け取った。
「ありがとうアイリス。おじいさまのために詰んでくれたんだな。これから一生宝物にしよう。」
映像が止まると、瞬時に現実へ引き戻された。
この場所には私一人しかいない。
「あれは、アイリス自身の記憶?」
前世でこの花を知ったのは小学生の頃、学校の図書室にある図鑑で知った。
こんなに綺麗な花があるなんて知らなかった。
でも、先生から怖い花言葉があると教えてもらった。その意味のせいで怖がられてしまう事もあるらしい。
だから、あえてこの話を書く時にこの花を使った。
見向きもしてもらえないスノードロップと、重ねていた。
亡くなった大切な人にスノードロップを供えたら、体が雪の雫になったとか。死の象徴なんて言われているらしい。
死んでも弔ってさえくれず打ち捨てられる身体を、スノードロップが雪にしてくれるなんて。
今世に一片も未練のない私は、それを心底羨ましく思った。
完全に日が落ちるまで折れた筆を握りしめ、スノードロップを眺めていた。
やがて私を呼びにきた侍女を伴い、夕食のためダイニングへと向かった。
公爵家の決まりで、屋敷にいる時は必ず食事は一緒にとる事になっている。入室すると既に両親は揃っていた。
母のクレマチスと、父のコロンバインの仲は良くない。
クレマチスは、横暴で自己中心的な夫をよく思っていない。
2人は政略結婚で、隣国エーデル公爵家より母がナスタチウムへ妻としてやってきた。
2人の子宝に恵まれるが、彼女の悲劇は続いた。
長子のテッセンはコロンバインに似てしまったのだ。
テッセン自身は父親の事を「大嫌いだ」と形容する。
だが実際に兄テッセンは、父コロンバインそのものだと思う。
気に食わない事があれば、己の不機嫌を隠すこともしない。周囲の人間に対して、自分の機嫌をとらせることを悪いとすら思ってもいない。人を意識せず侮辱している事に自覚がない。
兄は父親よりも酷い。妹に手を挙げるクズだ。
目の前で7歳のテッセンに殴られて、痛いと泣き喚く3歳のアイリスに対して「アイリスがうるさいだろ。やめろ。」というような父親だ。勿論殴られたことで負った傷について、確認することも治療されることもなかった。
母も常に一緒に居られる訳ではないため、暴力行為はどんどんエスカレートしていった。
「アイリス!こちらへおいで。」
朗らかな雰囲気の母が手招きしてくれるので、いつも座席は母の隣だ。アイリスは母親によく似ている。
祖父のフォンテーヌは南国の血が混じっている。
母とアイリスにも遺伝している。目は大きく二重で、彫が深い。ホワイトパープルの髪色もエーデル公爵家から引き継いでいる。王国では目を引く存在だ。
その後すぐにテッセンが入室し、父の隣へ腰掛けた。
テッセンはナスタチウム家の血を色濃くついでいるため、コロンバインと同じく薄灰色の髪だ。背格好もほぼ変わらない。
テッセンはお喋りで、父と母に様々な話をする。
基本は騎士としての仕事を、両親に褒めてもらう事で生き甲斐を感じているらしい。
それを黙って今日も無反応で聞いていると、父のコロンバインが嘲笑するようにこう言う。
「お前は何も考えなくていいよなぁ。俺はずっと色んな事を考えているのによ。気が楽だよなぁ。お前は。」
すると追撃するようにテッセンが、
「ほんと、馬鹿でいいよな。俺はお前が羨ましいよ。」
心底軽蔑するような表情で、刺すような視線を向けられる。
唇を噛むしかない私に、助け舟を出してくれるのはいつも母だ。
「アイリスにはしっかり考えがあるのよ。あなた達よりもね。」
妻の言葉が気に入らなかったのか、語気を強めて間髪入れずコロンバインは、こう言った。
「考えてるわけねえだろ。いっつもぼーっとしてるだけで。
おら、水もってこい。少しは役に立て。」
コロンバインの真似をするようにテッセンも賛同している。
「俺のも持ってこい。」
「なによ!自分でしたらどう?アイリスは使用人じゃないわ!」
声を荒げ憤慨する母を宥めて、アイリスは立ち上がる。
「お母さま、いいの。今お注ぎします。」
従わなければ、従うより辛い事があると学習している。
これ以上機嫌を損ねるわけにはいかない。
母はかばってくれるが、無意識に父と兄の機嫌を損ねる言動をする事がある。アイリスがうまく立ち回っても、一言多い母の言葉に対して腹を立てたテッセンによって更に酷い目に合う事が多い。
使用人から水差しを受け取り、父と兄の分を注ぎに行く。
「お前さ、水の入れ方もわかんねぇのか!
こんなんで王族と結婚なんかできんのか?」
父に同調するようにテッセンも、
「こんなに入れたら持って飲めないだろうが。
本当馬鹿だな。お前は使えねえ。」
こんなふうに捨て台詞を吐かれ、しまいにはグラスに注いだ水を全て掛けられたうえに、空のグラスも体に投げつけられた。
酷い言葉も、暴力さえも日常の風景として溶け込んでいるので、特に思うことはない。
事務的にただこなすだけだ。
「テッセン!! あなた、なんて事を...!」
母が声をあげるのが見えたので、「何も言わなくていい」と行動を制するように視線を合わせる。
母も察しがいい人間だ。唇を噛んで耐えているように見える。
私がこれ以上を望まないのだから、母も黙るしかないだろう。
「申し訳ございません。」
水差しを持ち、足には割れたグラスが散乱している。ずぶぬれの状態で謝罪した。
「なんだ?その態度は。
誰が使えないお前に、飯を食わせてやってると思ってんだ?」
「お父様のおかげです。」
淡々と事務的に、感情を見せず聞かれた事にのみ答える。
隙を見せたら揚げ足を取られ、徹底的に全てを否定される。
そんな事は無駄な労力と言うことと、私情を挟むと否定された時かなり精神的に参ってしまう。一種の自己防衛策だ。
「ふん。分かればいい。お前は金も稼げないただの無能だ。自分の立場を、決して忘れるなよ。」
威圧的な父親の物言いに対してアイリスは、
「承知しました。」と無難に返した。
どうやら父親の機嫌は良くなったようだ。
テッセンは不服そうだが、父親に逆らう事などできない。
食事中は問題も起きず、自室へ無事に戻る事ができた。
侍女を呼んで濡れた服から着替えた後、ベッドへ横になった。
アイリスには、専属の侍女をつけてもらえない。
気を許す存在がある事を、是としない父親の方針のためだ。
「明日は学園にいく日だ。
ベルとミモザに放課後の予定を聞いてみないと。」
食事前に、テッセンによって負わされた腕を眺める。
包帯を巻いているため、傷口を直接みる事はない。
だが、きっと痛々しいに違いない。
「これが消えないうちに、2人に打ち明けよう。」
学園へ行くにあたり親友と会う事以外に、気が重くなる内容がある。婚約者で王太子のエリンジウム・ピオニーと、幼馴染のカルミア・クロームス伯爵令嬢にも会わなければならない事。
堂々とエリンジウムのエスコートで校内を闊歩している。
人々から好奇の眼差しを向けられる事は、誰しも得意ではないのは理解している。だが、非常に憂鬱だ。
「今更考えても仕方ないよね。どうせ会うんだから。」
明日のため、割り切って眠りにつく事にした。
前世ではベッドで眠る事が許されなかった。硬い床で、ダンボールをかぶり丸くなって寝ていた。寒さに震えながら。
ふかふかのベッドで暖かく、思わず涙がでてしまった。
(当たり前のことが、なぜだか今はとっても嬉しい。)
久々に朝までぐっすり眠る事ができた。