猫を吸ったり撫でたりしているだけのつもりだったのに
目を覚ますと、猫がいた。
ベッドに仰向けに横たわる私の左脇腹近くで、金色の毛並みをした子が丸まっている。
起き抜けでぼんやりとしたまま、顔だけ動かしてそれを確認した私は、緩慢に口を開いた。
「……ミケ?」
あの毛並みには見覚えがある。
短大に通うかたわらアルバイト中の猫カフェにいるマンチカンのオス、ミケのそれだった。
キリッとした顔立ちと短い足でてちてち歩く姿のギャップがたまらないマンチカン。
穏やかで人懐っこい性格だと言われるが、ミケはツンデレ……いや、ツンツンツンツンツンデレで、普段は猫一倍つれない子だ。
「でも、お客さんの理不尽なクレームとか、店長にめっちゃ怒られたりで私が落ち込んでいたら、いつもそっと隣に寄り添ってくれる優しい子なんだよね」
そういう時のミケは、お腹に顔を埋めても肉球をクンクンしまくっても、嫌な顔一つせず好きにさせてくれた。
「今夜だって、そうだ……私が、先輩に閉店作業を押し付けられて凹んでいたから、掃除が終わるまで一緒にいてくれたんだった……」
そんな中、私は子猫の鳴き声に気づく。
扱いに困った猫を店の玄関に置いていかれることも少なくない。
ひとまず子猫の様子を窺おうと、玄関に近い窓から顔を出したその瞬間、後頭部に衝撃を受けた──までは覚えていた。
「上の階から何か落ちてきたのかな……それがぶつかって気を失った私を、誰かがベッドに運んでくれたってこと?」
いや、誰かって誰だろう。
猫カフェには、人間はもう私しか残っていなかったはずなのに。
そもそも人間用のベッドなんて、店にあっただろうか。
「頭に何かがぶつかったのに、左の脇腹の方が痛いのはなんでだろう……」
などと、釈然としないことはいくつもあったが──すぐにどうでもよくなった。
だって、愛しのミケがここにいるのだから。
「ミケ……ありがとうね……」
この日は、私こと珠子の、二十回目の誕生日だった。
けれども、極度の人見知りのため友達ができたこともなく、親にさえ顧みられない人生を送ってきた私には、祝ってくれる人間などいるはずもなかったのだ。
そんな中、ミケだけがこうして側にいてくれている。
「私のことをこんなに気にかけてくれるのは、ミケだけだよ……」
私は寝転がったまま左手を伸ばし、金色の毛並みをわしゃわしゃと撫でた。
ミケが一瞬ビクリと体を震わせたが、かまわず撫で続ける。
手触りや毛の長さが若干違うような気はしたものの、この時の私はさほど疑問を抱かなかった。
「うまくいかないことばかりだけど……私は、ずっとここにいたい。ミケの側で、ミケと一緒に幸せになれるよう頑張って生きるから……だから、これからも私の味方でいてねっ!」
そう、口にした時だ。
私の左手に撫で回されていた金色の毛並みが、ぐぐっと持ち上がる。
ここにきていくらか冷静になった私は、さすがにしつこく撫ですぎてしまったと青褪めた。
ミケは元来、人間に触れられるのをあまり好まないのだ。
「ご、ごめんね、ミケ! なでなで嫌だったよね? もうしない……」
猫のストレスになるようなことを自らしてしまうなんて、猫カフェスタッフ失格である。
それに──
(ミケに嫌われてしまったら──もう、生きていけない)
私は慌てて左手を引っ込めようとした。
ところが……
「──別に、嫌ではなかった」
ぐっと手首を掴まれるとともに、思いがけない返答があった。
猫の鳴き声ではなく人間の、それも低く艶やかな男性の声で。
それにぎょっとした私は、ミケだと思っていた相手に改めて目を向け──とんでもない事実に気づく。
「ひいっ……ど、どなたっ!?」
さっきから撫でまくっていたのは、金色の毛並みに覆われた猫の背……ではなく、金色の髪に覆われた男性の頭だったのだ。
私の左手を掴んだまま、マンチカンのミケのそれと同じ青い瞳でまじまじと見つめてくる彼は、それはもうとんでもなく整った顔面をしている。
服装も、まるでファンタジー世界の王子様みたいな豪華そうなもので、夢でも見ているのかと思った。
(ファンタジー、夢……そうか、これ! ファンタジーな夢なんだ!)
私はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込むと、おそるおそる口を開く。
「あの、あなたって、もしかして……ミケ、だったりする?」
「ミケ……まあ、お前がそう呼びたいのなら、呼べばいいが」
「あのもふもふキュートなミケくんが、こんな超絶イケメンさんにっ!? もしかしてこれ、擬人化とかいうやつなのでは……ミ、ミケはまさか……猫の、おおお、王子様だったり、とか……?」
「ネコ……というのはわからないが、王子だったりはするな。いけめん、とは何だ」
目を覚ますと、猫がいた。
ただの猫ではない。
超絶イケメン王子様にジョブチェンジした猫である。
もちろん、猫が人間になるはずもないので、これがファンタジーな夢にすぎないのはわかっている。
夢ならば多少好き勝手してもかまうまい、と私はベッドから飛び起きた。
「こうしちゃいられない! この奇跡を写真に収めないと! スマホ……私のスマホ、どこですか!?」
「あっ……こら! 不用意に動くな!」
「あいたぁーっ!?」
「動くなと言っただろう! 傷口が開いたらどうする!」
何かがぶつかった覚えのある後頭部ではなく、やはり左の脇腹が痛い。
夢なのに、めちゃくちゃ痛い。
気を失った拍子に、窓の桟にでもぶつけたのだろうか。
「それにしては……打身っていうより、引き攣る感じの痛みなんだけど……」
「大丈夫か? 頼むから、安静にしていてくれ」
左の脇腹を片手で押さえてブツブツ言っていると、人間の王子様姿になったミケがベッドに横たわらせてくれる。
その際、至近距離で改めて見た彼の顔は、やはり芸術的なまでに整っていたが……
「えっ……待って! よく見たら隈がすごい! どどど、どうしたの!? ミケ、眠れてないの!?」
「まあ、仕事は立て込んでいるし……なかなか目覚めないお前が気がかりで、ろくに寝ていないからな」
寝不足の原因の一端が自分だと聞かされて申し訳なさを覚えるとともに──私はそれ以上に、喜びを感じてしまった。
「やっぱり……私のことをこんなに心配してくれるのなんて、ミケだけだよ!」
左脇腹の痛みも忘れ、こちらに向かって上体を傾けていたミケの体に両腕を回す。
そして、強引に引き寄せられたミケが息を呑むのも構わず、私は思いの丈をぶちまけた。
「ミケかわいい! 尊い! 抱っこさせて! 吸わせてっ!!」
「吸う!? ……いや、傷の具合を見るのが先だ。すぐに医師を呼……」
ミケは何やら言おうとしたが、感極まった私が許可を待たずに頭を抱え込むと、とたんに大人しくなる。
それをいいことに、私は綺麗な金髪を心ゆくまで撫で回した。
鼻先を押し当てて息を吸い込めば、いつもみたいな甘い香りではなく、なにやら高級そうな香水っぽい匂いがする。
ベッドに寝転んだ私の胸元に突っ伏す形になったミケは、しばらくの間固まっていたが……
「はあ……」
やがて、大きな大きなため息をついた。
「鼓動が、聞こえる……お前が目覚めない間、ふいにこの心臓が止まってしまわないかと、不安でならなかった」
「心配させちゃってごめんね、ミケ。もう元気になったから、安心して!」
猫ちゃんを不安にさせるなんて、猫カフェスタッフ失格……いや、お猫様の下僕失格だ。
贖罪の気持ちを込めてなおも頭を撫でていると、ミケも私の胸元にスリスリと額を擦り付けてきた。
ツンツンツンツンツンデレなミケの貴重なデレに、私は感動を噛み締める。
まったくもっていい夢だ。
「ミケくん、かわいいねぇ……好き、大好き」
「……大好き?」
「うん! ミケは、かわいくて、かっこよくて、優しい……私のヒーローだよ!」
「ひーろー……」
ここで、ミケが私の胸元から顔を上げた。
そのままずり上がってきたかと思ったら、鼻先がくっ付くくらいの距離から私の顔をまじまじと見つめ始める。
「えっと……ミケ、くん……?」
ベッドの上で覆い被さられるような体勢になって、私もさすがに狼狽えてしまった。
これがファンタジーな夢の中の出来事で、相手がマンチカンのミケだったとしても……目の前の彼は、超絶イケメン王子様なのだから。
大きな手が、さっき私が彼にそうしたみたいに、ゆったりと髪を撫でてくる。
いつものクリームパンみたいなモフモフでもなく、ピンク色のプニプニの肉球もない、大人の男の人の手だ。
「あ、あのぅ、ミケくん? さすがにこれは、照れちゃうんだけど……」
ますますドギマギする私を、ミケはそれこそ穴が空くくらい、じっと見つめて口を開いた。
「さっき言っていたことは……本当か?」
「さ、さっき言っていたことって……?」
「ずっとここにいたい、と。私の側で、私と一緒に幸せになれるよう頑張って生きる、と言ったことだ」
「う、うん……うん! それはもちろん!」
自分がファンタジーな夢の中にいることも、ミケが超絶イケメン王子様にジョブチェンジしていることも知らずに告げた言葉だ。
本心には違いないため即座に頷いて見せる一方、私の戸惑いは増していた。
(ミケの一人称って……〝私〟なんだ……)
これではまるで、本当に王子様みたいではないか。
などと、考えていた時だった。
コンコンという控えめなノックの音に続いて──バンッ! といきなり部屋の扉が開いた。
「まあまあまあまあ、怪我人相手に盛るだなんて、とんだケダモノですわね、殿下」
「いや、返事を待たずに扉を開くのなら、ノックをする意味がないではないか」
現れたのは、眩いばかりの金髪の、これまたとんでもなく美しい女性だった。
そのド美人はミケの苦言など意に介さない様子で、冷ややかに彼を一瞥する。
そして、背後に顎をしゃくって続けた。
「わたくしの患者の寝込みを襲う、あの不届き者の首を刎ねておしまいなさい」
「うふふ、これは困りましたねぇ。主人の命とはいえ、さすがに王子殿下の首を刎ねるのは躊躇してしまいます」
ド美人の背後からは、真っ白い軍服をまとった男装の麗人が現れる。
これが、猫ちゃん擬人化ファンタジーな夢だとしたら、彼女達も猫カフェのキャストが人間になった姿なのだろうか。
(金髪のド美人さんはソマリっぽい……男装の人は黒髪だから、やっぱり黒猫かな……)
「安心なさいな。お前の腕では、どうせ殿下には敵いませんわ」
「……そんな風に煽られてしまっては、何が何でも殿下の首を刎ねたくなってしまいますね」
何やら物騒な会話を継続中の美人さん達と、それを気にも留めない様子のミケを見比べて、私はおそるおそる口を開いた。
「ミ、ミケって……本当に王子様、なの……?」
「さっき、そうだと言っただろう」
「ね、猫の王子様、だよね……?」
「ネコ、とはなんだ」
私は、ガーンと鈍器で頭を殴りつけられたように錯覚した。
ファンタジーな夢の中とはいえ、ミケは自分が猫であることも、それがどのような存在であるのかも忘れてしまったようなのだ。
「ね、猫っていうのはね。モフモフで、ふわふわで、かわいくって、尊くって……」
「ほう」
私が慌てて猫の何たるかを説く中、美人さん達が部屋に入ってくる。
しかし、改めて見ると、随分と広くて豪華な部屋だ。
ワンルーム住まいの私の、潜在的な願望が反映されてでもいるのだろうか。
そんな中、美人さん達を追い抜いて駆けてくるものに気づき、私はぱっと顔を輝かせる。
「いいところに! 猫っていうのは、ほら、ちょうどあの子みたいな……」
たったか走ってベッドに近づいてくるのは、美しく艶のある白色の長毛種で、足が短めで丸々とした体型の猫だった。
ブリティッシュロングヘアっぽい、私とミケがいる猫カフェにはいない子だ。
それなのにその猫は、ベッドに飛び乗って私の顔を覗き込んだとたん……
『やーっと起きたんかい! 心配させるな、珠子!』
「いたっ……しゃ、しゃべった!?」
眉間に猫パンチをお見舞いしつつ、すごい勢いで叱りつけてきた。
にゃーおっ! という猫の鳴き声に、人間の言葉が副音声みたいに重なった感じだ。
すでに二年の付き合いであるマンチカンのミケならばいざ知らず、初対面のはずの猫が私の名前を知っていたことも驚きだった。
さらに、ミケや美人さん達には理解できないらしい言葉でもって、思いも寄らない真実が語られる。
この摩訶不思議な猫こそが、私の後頭部に直撃した張本人だというのだ。
『異世界転移途中の我とぶつかったせいで、珠子は一緒にくっ付いてきてしまった』
そうして辿り着いたのが、三年余りに及ぶ隣国との戦争の最終局面にあった、ベルンハルト王国軍本陣──その中央に陣取っていたミケの膝の上。
ちょうどその時、単身突っ込んできた敵方の刺客のナイフは、ミケの甲冑の隙間ではなく、その膝の上に転移してきた私の左脇腹に突き刺さった。
『我らがこの世界に来て、今日で十日目。戦争に勝利したベルンハルト王国軍は、意識の戻らないお前を連れてひとまず城に戻った。なにせ珠子は、王子の盾となって負傷したんじゃからな』
ド美人は戦争にも同行していた軍医であり、私の左脇腹の傷を手当てしてくれた命の恩人。男装の麗人は、その護衛らしい。
ここまでの、ブリティッシュロングヘアっぽい猫の話を要約すると、こう。
『巻き込まれ異世界トリップした先で、王子様の代わりにナイフで刺された私が、保護してくれたベルンハルト王国の城で十日ぶりに意識を取り戻した──イマココ!』
つまり、これは猫ちゃん擬人化ファンタジーな夢などではなく……
「ミケは……本当に人間の王子様、ってこと……?」
『いかにも』
「そうだ」
猫と、ミケだと思っていた相手が同時に頷き──私は、頭を抱えた。
目を覚ますと猫がいた、と思ったのは大間違いだった。
異なる世界に来てしまった私に寄り添ってくれていたのは、ミケはミケでもマンチカンのミケではない。
人間のミケ──ベルンハルト王国なる異世界の国の王子様だったのだ。
そうとは知らない私に、いきなり頭を抱き締められ、執拗に髪を撫で回され、吸われ、かわいいかわいいされまくったミケランゼロ王子──ミケは言う。
「ずっとここにいればいい」
肉球なんてあるはずのない、大きな手。
それが慈しむように撫でる私の髪は、一緒に異世界転移をした影響で、ブリティッシュロングヘアっぽい猫と同じ色になっていた。
なおこの世界には、猫と呼ばれる動物は存在しない。
「私の側で、私と一緒に幸せになれるよう、頑張って生きてくれ」
マンチカンのミケのそれと同じ、人間のミケの青い瞳には、呆然とする私の顔が映っている。
その間抜け面に対し、超絶イケメン王子様は高らかにこう宣言した。
「私は──ずっとお前の味方であることを、約束しよう」