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第九十九話『誇りの刃』

 大陸暦六一六年、大魚の月初旬-

 ニックとミリアムは大会議室を出て、中空の柱にまで戻っていた。ミランダが消滅した事で上半身の制御は失われ、扉の一つも動かせなくなっていた。恐らく、柱を満たす『流れる銀』の水位も動かせない。そう踏んだアリシアは、自らが一時的なコアとなってゴーレムの内部を制御する事にしたのだ。エリスはアリシアの守りを任せた。元々が手負いな事に加えて、無防備な姉を一人で残せなかったからだ。


「この足場で一気に最下層まで降りるんだったな」

「えぇ、オリビア達がいるのは恐らく……」

「……エリスはどうして、そう思ったんだろう。ミリアムはどう思う?」

「公爵はオリビアの頭に、金の茨冠を載せていましたわ。あれが意味する事は、対象の完全な支配。思考を奪い、意思をも無くさせるほどの、強い束縛ですわ。そして、ミランダ妃のお言葉……」


 弟を、ルイスを守るというミランダの意思、それは庇護欲や過剰な愛情にも似ていた。いずれにせよ、行き過ぎて歪になってしまった感がある。もし、ルイスがその愛情の本質に触れていたとするならば、姉の庇護欲に応える形を取るならば――そこまで考えたところで、二人は思考を中断した。

 中空の柱に浮かぶ足場はゆっくりと下降し、底にまで辿り着いた。


「行くぞ、ミリアム。今度こそ終わらせる」

「えぇ、オリビアを迎えに行きますわ」


 ニックとミリアムは柱から回廊に出た。アリシアと合流した心臓部ほどではないものの、それなりの広さと長さがある。予想通り、人間でいうところの腰、厳密には股の位置だった。あまりにも予想は的中し過ぎて、ミリアムは半ばうんざりした表情で歩を進める。走るような事はしない。ルイスとオリビアの二人とは、間違いなく戦闘になる。余計な体力を使わないためだった。


「そろそろ半周、登り階段か何かがあるはずですわ」

「待て、ミリアム。誰かがいる」


 回廊を半周した辺りで、小さい広場のような開けた場所が見えた。その中央に、二人分の人影がある。体躯からして人間ではなかった。オーク、それも片方はイメージ通りの筋骨隆々で、もう片方は見ようによっては屈強な人間に見えなくもないほどの細身だった。


「あれは……」


 ニックはその二人のオークに見覚えがあった。どちらも、剣を交えた事がある。


「まさかとは思うが、反魂の術式で、か?」

「そのまさかだ、ニック。我らを覚えていたか」

「忘れようがない。ニバラク侯爵領の解放戦と、モーギナス灯台の奪還戦。しかし、兄弟という割には似てないな」

「抜かせ。弟は母に似たのだ」


 かつてキトリヤ伯爵領軍に率いられ、ニバラク侯爵領を攻略していたオーク隊の隊長ブブシャシャと、モーギナス灯台を占領してハーム軍に出血を強いたオークの指揮官だった。ニックはこの兄弟に二度も奇策を用いている。モーギナス灯台奪還の時は地下からの奇襲、ニバラク侯爵領の時は陣地を背後から夜襲したのだ。ニックからすれば、正攻法で向き合うのは初めてだった。


「卑怯な手とは言わぬ。貴様は勝つための手を打った。その代償は払っている」

「あぁ、分かっている。レッター将軍の兵二〇〇を死傷させ、ナーウィンの市民まで戦に巻き込んだ。私の勝利の影には、常に血の痕が引いている。だからこそ、貴方の目論見も分かる」


 そう言うと、ニックは剣をブブシャシャに向けた。屈強な肉体には、人間の造った防具はない。淡い暗緑色の皮膚には、オーク式の戦化粧が施されている。互いに本気という事だった。


「ツハー、手出しは無用だ。ここで我は奴との決着をつける」

「分かりました、兄上。そこの小娘、お前も余計な真似はするな。私も手は出さん」


 ツハーと呼ばれたブブシャシャの弟が、杖の先端に取り付けた刃をミリアムに向ける。兄を持つ者同士、目を合わせて少しの沈黙の後、同時に魔晶石を停止させた。再起動させるには詠唱が必要なため、了承したという意味になる。


「行くぞ、ニック。邪魔は無しだ!」

「来い、ブブシャシャ。誇りの為に!」


 両者は同時に床石を蹴った。鉈のような重厚な剣を振り上げたブブシャシャに、突きのように低く構えたニックが突っ込む形となる。振り下ろしを、ニックは横にステップを踏んで避ける。しかし、反撃には出ない。ブブシャシャはオークの中でも有数の切れ者で、力任せに刃を振るうような事はしない。すぐさま返す刃が振り上げられる。ニックが踏み込んでくると読んだのだ。

 一寸遅らせて、ニックの剣が伸びる。喉元を狙った突き。余りにもまっすぐ過ぎて簡単に弾かれた。無論、ニックもこれは牽制である。読み合いの剣と剣が軌跡を描いた。


「貴方は、兄上様への復讐心などはないのですか?」

「無いと言えば嘘になる。だが、私は私でやれるだけの事をやった。その上でお前の兄に敗れた。しかし、我が兄はキトリヤ家の者に一騎打ちを邪魔された挙げ句、奴らの面子の為に死んだ。ならば、兄の意思を汲み取るのが心情というもの」

「そうですの。ところで、私に手出しをさせないのであれば、貴方は私を相手に戦わなくてよいのですか?」

「流れ弾の一つでも飛べば、手出しになる。それに、お前は私と共に魔晶石を止めた。ならば、共に信じて見守るのが筋だろう」


 ブブシャシャが踏み込み、剣を振り上げるかのように担ぐ。ニックの注意がその刃に向いた瞬間、前蹴りが飛んできた。後ろ跳びが間に合わず、吹き飛ばされる。鎧と鎖かたびらの二重でやっと衝撃を和らげた。それに満たない防具では、骨か臓物を痛めていただろう。追撃の刃を、剣の腹から鍔、籠手に滑らせて弾く。先程のお返しとばかりに、ニックは左の拳をブブシャシャに叩き込んだ。


「貴方のような方が多ければ、人とオークも分かり合えたかもしれませんわね」

「残念だが、こんな考えだから我が一族は鼻つまみ者だった。私も兄も、人間の尖兵という古びた鏃にされたのはそういう事だ」


 各々の兄が織り成す決闘を見守るミリアムとツハーは、どこかで分かり合えたかもしれず、しかしすれ違う難しさに黙り込んだ。

 ニックの体捌きは、半日も戦い続けた人間のものとは思えなかった。傷も疲れも、今のニックを突き動かす衝動的な熱量を押し止めるには足りない。ただただ、若さによるものであった。先ほど戦った、キンティの剣のうねるような軌道が脳裏を過る。咬まれれば即死の毒蛇を相手にするような感覚、ブブシャシャの剣の軌道は確かに巧みだった。しかし、それはオークの基準に過ぎなかった。


「生きていた頃に、もっと早く、あんな事件が起きるより前に、お前達に出会っておきたかったな」


 ツハーがミリアムに向き直る。暗い琥珀色の目は、それでいて澄んだ輝きに満ちていた。まるで、別れを告げるような声色に、ミリアムはハッとして二人の決闘に視線を戻した。


「強くなったな、ニック」

「あの頃とは違う、本気の貴方と戦えた」


 右腕ごと剣を叩き落とされ、切っ先を突きつけられたブブシャシャが言う。振り下ろしの瞬間、ニックは一気に懐に滑り込み、剣を振り上げた。わずかな力の入れ具合で、返し刃がないと踏んだ事で、勝負に出たのだ。この鋭さは、あれからの多くの実戦で培われたものだった。ツハーが歩み寄る。


「いかがでしたかな、兄上」

「あぁ、やはりこいつは強い。我の気は済んだ」


 オークの兄弟が静かに語り合う中、人間の兄妹は騒がしかった。


「兄上様!よくご無事で!」

「結構やられたが、なんとか生きてるよ」


 ニックは傷と汚れで今にも折れそうな剣を納めると、ブブシャシャ達に向き直った。二人の向こうには登り階段が見える。ミリアムが予想した通りだった。


「通らせて貰うぞ」

「あぁ、行け。この先の道は、強者の為にある」


 誇りの刃を交えた二人が、目配せと共に別れを告げる。ニックとミリアムの背中を見守る目の輝きに、人もオークも関係は無かった。

オークとは

人間より二回りほど大きな体躯、淡い暗緑色の肌、暗い琥珀色の目と聞いて、その姿を想像出来ない者は少ない。

その種の起源は定かではなく、創世の時代より前に存在していたとも、神々が創り上げた失敗作とも言われている。

人間と食性や生活圏の構成が似通っている都合上、基本的に相容れない関係にあり、歴史上しばしば対立や衝突を繰り返してきた。

大陸暦五〇〇年を半ば過ぎた辺りで、人間の技術革新がオークの身体能力に勝り、その後は人間が優位に立つ時代が続いた。

大陸暦八〇〇年代と一二〇〇年代の文明大刷新によって両者の優位性は失われ、今日では大規模な種族間対立には至らなくなった。

   -大陸暦一三六〇年刊行『知的文明種族大全 第二版』より

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