7 九月 おにぎり
うちのクラスにおける席替えは大体二か月に一回。前回の席替えは九月の頭。次回のクラス替えはおそらく十一月だと思われる。
つまり、あたしは十一月までこの犬と隣同士なのか。
ため息が出てしまう四限目。耳に入ってくる三角関数の数式を読み上げる声。頬に当たるエアコンの冷気。窓から差し込む秋色の日差し。チャイムの音で起き上がる背中。光を浴びる寝起きのゴールデンレトリバー。
ちらっと横を見れば、前髪をかきあげながら小さくあくびをしている。視線に感づいて、目だけでこちらを見たかと思えば、ぽやっとした笑みを浮かべた。
「おはよ」
「もうお昼だけど」
あたしが小声でツッコむと、犬は声を出さずにへへっと笑う。
席替えして一月が過ぎようとしている九月の末。隣のわんこと目が合うことが増えた。
今日もお昼休みになった瞬間、わんころがきゅるきゅるあざとい上目遣いのキメ顔して、ぱちぱち高速まばたきをしながらあたしに話しかけてきた。
「ねね、俺、寝癖ついてなーい?」
「ついてないついてない」
「ほんとー? くるくるになってなーい?」
「なってないなってない」
からっと晴れた秋のお昼は、湿りの気配を一切感じない。
なれどわざわざ聞いてくる。だる絡み。懐かれているというか、からかわれているというか、遊ばれているというか。
まともに言い返すのも時間の無駄なので、雑にスルーを決め込む。余計な言い合いは、しない主義なのだ。
あたしはスマホをポケットに入れながら立った。
「お昼? いつものとこー? あそこ暑くなーい? まだ外は暑いっしょ。教室で食べたらー?」
「はいはい」
相も変わらずあたしの昼休みは純と一緒だ。しかし今日だけは呑気に犬と戯れる暇などなかった。
「なんか急いでどしたの」
「コンビニ行かなきゃだから」
「え、わざわざ昼休みに?」
「今朝は駅のコンビニでおにぎり買い忘れたの」
「わー、そりゃ大変だー。じゃ俺も行こーっと」
教室を出ても、あたしの後ろをぴょんぴょこついてくる。なにこの犬。時々へんてこりんな屁理屈をこねる。だる絡みの次は謎絡みかぁ。騒がしいやつめ。
お昼休みのコンビニと書いて激戦区と読む。食堂横のコンビニは、学食ついでに飲み物だけ買う人もいれば、あたしみたくしっかりとおにぎりを買う人もいるし、おやつのお菓子を買いに来る人やお弁当だけじゃ足りずカップラーメンを買う食いしん坊もいる。
狭い店内で数多の人間がごった返す戦地なのだ。
「俺カツサンド〜」
「おに、おにぎり……」
前も人、両隣も人、後ろも人。どこを見ても人。満員電車さながらの店内で、真横の太ましい人間に押されておにぎりに手が届かない。くっ、もう少し身長があれば。
「あっ、鮭……あたしの鮭が……」
「どれが欲しいの?」
「ツナ……」
「あーあ、ツナマヨもなくなったねー」
「じゃあおかかと……」
「残ってんのわかめだけだね」
「致し方なし……」
「りょうかーい」
犬が陳列棚に腕を伸ばして、ひょいひょいっとおにぎりを二つ取ってくれた。人よりやや高い標高の空気を吸えるでかわんこは、涼しい顔で「買ってくるねー。混んでるから先出てて」とかなんとか言っちゃって、一人レジに並ぶ。
背丈が平均値よりやや低いあたしには、レジに並ぶ人波をやっとこさ乗り越えるのも一苦労だった。店の外で一息つく。
純にしばし遅れると連絡しておこう。トークを開く。三限が始まる直前にメッセージが来ていた。
『今日はクラスの子と食べるね〜』
「えっ」
「どしたの?」
うぇっ。コンビニから出てきた犬がぴょこっと顔を覗かせる。びっくりした。こやつめ、急に出てきおって。こてんと首を傾げやがって、ムカつく。
「それ、北畑ちゃん? いつも一緒にご飯食べてるんだっけ」
「純、今日は他の子と食べるんだって」
「ふーん。じゃ、行こっかー」
どこに? 犬が一匹でトコトコ進み、くるっと振り返る。
「教室。俺らと食べるっしょ?」
「なんでそうなるの?」
「なんでって」
掲げられるコンビニの袋。見覚えのある黒い三角シルエット。したり顔の犬っころ。
「おかかとわかめ、俺が持ってるから」
「お、おにぎり質だと……」
こ、この犬、なんとまあ小賢しい。どうしてこんなどうでもいいところで頭が働くんだ。授業中寝てるくせに。
二年B組の昼休み、日当たりのいい後方の窓際はすでに占領されていた。
「お、むぎ帰ってきたぞ」
「あー、むぎどこ行ってたの」
「コンビニデート、良いっしょー」
「あ、ひよちゃんごめーん、席借りてるー」
桃香ちゃんは毎日あたしの席を使っているのだろう。占領し慣れていた。ならばあたしは……ふむ、どこに座ろう。
「俺んとこ使ったら?」
「いいの?」
「俺はここの椅子借りるから」
「じゃあ借りるね、ありがとう」
あたしは犬の席、犬はその一つ前の席に後ろ向きに座った。なぜあたしの正面に。いや、まぁ、いいか。今のあたしは席を借りている分際。おとなしくするが吉である。
ついでだ。忘れないうちにおにぎり代を払っておこう。あたしはスマホのキャッシュレス決済アプリを開いた。このアプリ、なんと便利なことに他のユーザーに送金できるのである。犬も同アプリを使っているのは知っている。この前大声でそう言っていた。
「ねえ、おにぎり何円だった? 送金する」
「何円だろー、見てなーい」
「レシートは?」
「もらってなーい」
なんだと。あたしはジロリと犬を見た。わんこはニコリとあたしに微笑んだ。
「今回は俺の奢りってことで。代わりに次なんか奢ってよ」
「次はないから今返す」
ご丁寧なことに、おにぎりのラベルに値段が書いていた。が、送金するには、送金先ユーザーのIDと電話番号が必要らしい。
「IDと電話番号教えて」
犬は静かな微笑からニタァッと悪い目になった。甲高い裏声であたしにヘラヘラ笑いかけてくる。
「えー? そんなに俺の電話番号知りたいのー? しょうがないなぁ〜」
「うわ。やっぱいい。現金で返すね」
「えー? ほんとにいいのー? 今なら特別に教えちゃうけどぉ〜?」
「教えなくていい。はい」
ちゃりん。財布から出した小銭を犬の前に置く。現金はなんとも万能な通貨だ。ウザ犬の電話番号を知らずとも精算ができる。キャッシュレス化が進行しても未来永劫なくならないでほしいものである。
それではいただいまーす。わかめおにぎりをぱくり。ふむふむ、混ざっているゴマが良い食感である。
「てかさてかさ、むぎとひよひよ、いつの間にそんな仲良くなってたわけ?」
誰かの一言で、犬とあたしに視線が集中した。いや、みなさん先程のやり取り見てました? ちっとも仲良くなってないですけど。
そう言いたいが、わかめが口の中で揺れている。あたしが飲み込む前に犬が答えた。
「コンビニくらい行くよー。俺らお隣さんだもーん」
「出た、むぎの謎理論」
「てかなんでコンビニ? むぎお弁当あるじゃん」
「それだけじゃ足りねーんだもん。俺、成長期だもーん」
犬が鞄から保冷バックを取り出し、オープン。なかなかのサイズのお弁当箱にぎっしり詰められた具材と白米がこんにちは。量に唖然とした。お弁当にカツサンドまで、そんなにも食べられるの?
顔を上げたら目が合った。片方の口角だけを上げて、お手本のようなドヤ顔。
「ま、俺は身長でかいんでー、その分たくさん食べるわけよー」
はあ。そうですか。咀嚼しつつ適当に頷き返す。ふむふむ、お米にほんのり出汁の味付け、良きかな良きかな。
「ぷっ。むぎってば、ひよひよに無視られてんじゃん」
「はあ? 頷いてんじゃん」
「ひよひよー、むぎがだる絡みしてごめんね?」
「おい、お前が俺を無視ってんじゃん」
「あ、てかカツサンド美味しそう」
「一個食うー? ちょい多かったかも」
「もう、なにそれ。仕方ないなぁ」
あたしが咀嚼する間に会話が通り過ぎていく。カツサンド、みんなにあげて、結局犬自身は一切れしか食べていない。それなら、コンビニに行かなくても良かったのでは。
「ん、意外と肉厚」
「カツといえば商店街のお肉屋さんのメンチカツ美味いよね」
「あの店はコロッケだろ!」
「えー、どこの店?」
「できたて熱すぎてやけどするやつな」
「そういや小籠包もやけど注意なんだって」
「マジか。修学旅行んとき気を付けなきゃなー」
黙々とわかめおにぎりを食べ終え、さり気なくおかかおにぎりを開封していく。
商店街といえば、お魚屋さんが売っている干物が美味しそうな匂いをさせているから、一度食べてみたい。お肉屋さんはどこにあるんだろう。
「自由日どこ行くー?」
「あー、そろそろ行くとこ決めないとなー」
「この前動画でさ、めちゃくちゃ綺麗な観光スポット見つけたんだけど」
「どこどこ? 見たーい!」
あたしがおかかおにぎりを食べている間に、修学旅行の行き先の話から、SNSで流行っている動画で盛り上がり、それを真似した撮影会へ。
あたしは軽く目をこすった。ご飯食べたら眠くなってきた。
カーテンの隙間から差し込む眩しいくらいの直射日光、秋風通る昼下がりの教室。
動画のために簡単なダンスを練習し始める桃香ちゃんたちと、なぜか一緒に練習に参加する男子たち。騒がしさが増す後方列で、スマホが奏でる流行りの音楽。「むずくね?」と諦めてあたしの前に座る犬。腕を組んで伏せる金髪、若干見える根本の黒色。今日はどっちもくるくるしていない。
いくら話題が変わっても、お昼休みが終わっても、明日が訪れても、来月になっても、修学旅行から帰ってきても、それでも。
「眠たそ。この席なんか眠くなるよな」
「ここ日当たりいいね。ぽかぽか」
「午前中とかすげえ暖かいもん。授業中つい寝ちゃう」
「午後も寝てるくせに」
「あは、バレてたか」
次の席替えまで、この犬と隣同士なんだな、なんて。