6 九月 天然パーマ
登校中の電車で、液晶画面を通して世界中に溢れる〝可愛い〟を目にする。それは服だったりスイーツだったり風景だったり、犬や猫や人間だったり、ポーズだったり仕草だったり声だったりする。
そして可愛いなぁと思いながら大半をスルーする。数多の猫や犬の動画も、いいねをするのは極々一部。繰り返し見られるようにブックマークにするレベルの〝可愛い〟に至っては、万に一つあるかないか。
電車を降りて学校までの十数分。耳を澄ませば、イヤホンから流れる流行りのポップソングから、はたまた後ろを歩く同じ制服の女子生徒たちの会話から、「可愛い」のフレーズが幾度と現れる。
〝可愛い〟の波は、海を超え国を超え、もはや見かけない日はないというほどにまで、老若男女問わず親しみ深い日常言葉となった。
にもかかわらず、あたしはここ二、三日、「可愛い」と発することをはばかっている。
「あ、おはよー」
「おはよう」
「ねね、これ見てよ」
登校して早々、隣のわんころがあたしの机に何かを置いた。四角い小さなストラップだった。
この丸みを帯びた美味しそうなフォルム、香ばしい小麦色の焼き目をした色、もしかして。
「食パン?」
「に見えるコーギー。昨日ガチャった!」
よく見れば、食パンに四本足と犬の耳と尻尾がついている。手に取った見てみる。顔はない。パン成分七割、犬成分三割といったところか。手足と耳と尻尾が生えた食パンが、そこにいた。
犬が両肘をついてニコニコ。
「ね、可愛いっしょ?」
「…………まぁ」
あたしは可愛いを肯定すれど、言葉にはしなかった。言いたくなかったのだ。
ここ数日、明らかに犬が〝犬〟と〝可愛い〟をやたらめったら口にする。今日だって〝犬〟っぽいストラップを〝可愛い〟と言って、わざわざ〝あたし〟に見せつけてきたのである。
……ぐぬぬ。あいつ、あたしをからかってやがる。絶対、「可愛い」なんて言ってやらない!
ポツポツと雨が降り出したのは、午後からだった。五限が始まろうかというとき、窓にしずくが当たるようになった。晴れていた空には、薄暗い灰色の雲が重く垂れ込めている。
驚いた。朝は晴れていなかったか?
「今日、雨なんだ」
「そーだよ〜。予報では夜からだったはずだけどさ〜」
「あ、予報も雨だったんだ」
「もう最悪〜」
隣の犬は、露わにはしないものの、朝よりも明らかにテンションが下がっていた。頭を抱えて机にうなだれ、文句をブツブツ、不満をたらたら。
「傘持ってきてないの?」
「傘はあるよ。あんだけどー……」
「そうなんだ、良かったね」
傘があるならずっと良いではないか。あたしは持ってくるのを忘れた。すっきり晴れていたくせに、昼から雨だなんて聞いていない。
置き傘はもちろんのこと、折りたたみ傘を持ち歩くなどという雅なことはしていない。帰りに学校内のコンビニで買うしかない。痛い出費だ。いや、確か事務室で傘貸し出しがあると聞いたことがある。とても派手な傘を貸し出してくれるとか、なんとか。
そのとき、薄暗い教室にパッと明かりがついた。誰かが、いや、先生が電気をつけたのだ。本日の五限は現代文、先生はおっとりと穏やかな発声をするおば様である。
「うわー、も〜」
隣のわんこが頭を抱える。その気持ちはわからないでもない。
最近の現代文は、陰鬱とした近代小説を取り扱っているせいで、どうも気が滅入る。その上、先生が実におっとりと解説するために、皆は睡魔にしばしば負ける。五限の現代文は、別名お昼寝タイム。さらに本日は雨音と低気圧のスペシャルコラボだ。こんなの寝てしまうに決まっている。
あたしも今日だけはお昼寝部隊に加わろうかな。机の上で腕を組んで、お昼寝隊長を見る。目が合った。
「なあなあ」
「なによ」
「俺の髪ボンバーになってない?」
「ボンバーって」
頭を抱える犬、その腕の隙間から見える金髪は、毛先がくるんとしていた。全体的にウェーブがかっているように見える。確かなくるくるは感じるが、爆発はしていない。
「大丈夫だよ」
「ちゃんと見てよ〜。ほら、やばいじゃ〜ん」
「どこが」
「だって俺、いつもストレートじゃん」
はて。頑張って記憶を遡る。朝方のドヤ犬は如何様だったか。
うーん、丸っこいシルエットだった気がする。ストーレートだったかどうかは覚えてないが、毛量が多いのでふわふわ感があった。そうだ、いつものこいつはポメラニアンっぽい。
しかし今はどうだ。ボリューミーなくるくるヘアに変貌。これでは、ポメではなくトイプードルである。
「いや、身長的に、トイじゃなくてスタンダード・プードル……?」
「何言ってんの〜? も〜、雨降るならもっとちゃんとしたのに〜」
机におでこをくっつけてくーんくーんと鳴く金髪プードル。恨めしそうに窓の外を眺める。そこまで落ち込むことなのだろうか。あたしは湿気で悩むタイプの髪質ではないので、悩めるわんこの気持ちはわからないが。
「そんなひどくはないと思うけど」
ぽつぽつとガラスに当たるしずくは依然として止みそうにない。暑さ静める秋雨は、うるさい犬をもしおらせる。犬があたしをしょんぼり上目遣いで見て、小さくため息。
「わかってないなー。ストレートのがあざと可愛く見えるじゃーん?」
前言撤回。うるさい犬、うるさい。可愛いって言うな。あと授業中も寝るな。
この金髪プードルはポメラニアンに大きな憧れを抱いているらしい。
六限が終わった放課後、くるくる癖っ毛大型犬は皆に必死にヘアアイロンを持ってないか、スタイリング剤を持ってないかと聞き回っていた。
「むぎどしたのー? 今日バイトでもあるの?」
「バイトだったら髪型とかどうでもいいけど、今日は遊ぶからさー」
「誰と? どーせ可愛い女子とかいるんでしょ」
「姉御たち!」
「あ、そうなんだ。ごめんねー、うちはバームとか持ってなーいやー」
「マジかー」
なるほど。やたらめったら騒がしく焦っている理由がわかった。
ふーん。A組の黒髪ボブの美人な子と遊ぶから、必死になってるのか。この色ボケ駄犬め。心配なんかするんじゃなかった。こやつにはくるくるぱーがお似合いである。
ガラスに当たっては流れてゆくしずくは絶え間なく、傘がなければ到底帰れるような天気ではない。
あたしは鞄を持った。学校内のコンビニの傘は何円だったか。あたしのお財布、何円入ってるっけ。足りるかな。お財布と相談せねば。
「傘って割引対象だったっけ」
「ねー、やばい、マジでどうしよー!」
「やっぱ事務室で借りようかな……」
「ねーえ、聞いてるー?」
「いやでも派手な傘は、なんかなぁ」
「何がー?」
目の前に悩める駄犬が立っていた。金髪くるくるプードルは、まださらふわポメになれていない。しょんぼり肩を落として、しかししっかりと出口を塞いでやがる。なんだ、こいつ。
「邪魔なんだけど」
「ひ……その、もう帰んの?」
「そうだけど」
「俺がこんなに困ってんのに?」
「帰っちゃダメなの?」
「ダメに決まってんじゃん」
むすっと逆ギレされた。何様のつもりだ、こいつは。
とはいえ、お犬様のご機嫌が直らなければ、あたしの出口は一向に塞がれて帰れないのである。ふむ、ここは急がば回れ。お悩み相談に乗ってやるか。
「誰もスタイリング剤とか持ってなかったの?」
「そうみたい」
「下のコンビニで売ってないの?」
「昼休み見たけど、何も置いてなかった」
うーむ、となれば、クセを直すド定番の方法は?
「一回全部濡らして乾かせば?」
「ドライヤー持ってんの?」
「持ってるわけない」
「じゃあ無理じゃん!」
面倒くさいな。この犬、悩み事を相談してもらっている側のくせに図々しい。
「なんかこう、手櫛でちゃっちゃっと直せないの?」
「天パのことなめてんの?」
はあ? そっちこそ、天パ知らない人のことなめてんの? あたしは天パとは縁もゆかりもないストレート。寝癖もつかないド直毛なんだぞ。
こんなにくるんくるんしている、絵に書いたようなお手本すぎる天パらしい天パを目の当たりにしたのは初めてだ。あたしはくるくる金髪を見上げた。
「ちょっと触ってみてもいい?」
「え、うん」
犬が膝をかがめる。くるくる金髪が目の前に。
「わ……」
うっすらとほのかに甘い香りがした。ややツヤのあるくせ毛に触れてみる。
犬の毛というものは硬く太くてハリコシのあるイメージだった。こやつは髪を脱色して傷んでいるからだろうか。一本一本が細くしなやか。
一束取ってぴーんと伸ばしても、指を離せばたちまちくるくるに戻っていく。ふふ、これが天パ。ダメージ毛でこれだけくるくるしているのだ、髪を染めてなかったらもっとくるくるしているんだろうか。ちょっと見てみたい気もする。
それとなく束感が出るように撫で付け、手を離す。またもやくるくる。凄まじい形状記憶。ふふふ、天パ、すごい。
金髪ではない黒髪のところもくるくるなんだろうか。好奇心がかき立てられた。ついでに頭頂部まで見てやろう。
そっとつま先を立てる。あたしの視界がやや高くなる。すっと金髪頭も上がった。そのまま、あたしが首を動かす高さまで。
犬はこっちを見ていなかった。
「あのー、触りすぎ、なんで……」
「そうだった? ごめん」
「つか、正面だと、その」
「麦野ー? 準備できたー?」
わっ。犬の後ろからつやつやの黒髪ボブが現れた。あれはA組の、
「あっ、姉御! それじゃまた明日!」
犬は急いで大好きな飼い主の元に駆けて行った。邪魔者がいなくなって、がらんと空く出口。
……帰るか。あたしは教室を出た。
「あれ、麦野今日天パーだ。それも似合ってんね」
「え、あ、そうー? やったー、嬉しー」
「鳥のぬいぐるみとか似合いそう。ひよことか」
「鳥の巣扱い? うわー、わりとありかもー」
B組前の廊下で美女と嬉しそうに話しているバカ忠犬。赤い顔で、ヘラヘラ楽しそうにしちゃって。どうせあの犬は飼い主様の褒め言葉ひとつで簡単にご機嫌になるやつなのだ。
あーあ、相談になんか乗ってやるんじゃなかった。