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5 九月 未読無視

 九月早々、秋の風物詩である体育祭が終わった。とはいえ、気が抜けないのが二学期である。もうすぐしたら中間テストが始まるし、修学旅行の話題も出てくるだろう。

 世間は秋の味覚だのハロウィンだのと秋を全面に押し出してくるが、まだ九月な上に普通に暑い。

 二学期はまだまだ始まったばかりなのである。


 しかし、まだまだ始まったばかりだというのに、朝からうるさい教室に入った瞬間、家に帰りたくなる。ワイヤレスイヤホンを貫通してくるきゃーきゃーわんわん喚く騒音。その中心が、あたしの隣だなんて。毎秒ごとに生気を吸い取られている気がする。

 あたしは教室に入りながらイヤホンを片付け、自分の席の後ろで足を止めた。


「桃香ちゃん、おはよう。席に座りたいです」

「あ! ひよちゃんおはよ! このももがひよちゃんのために椅子を温めておきましたぞー」


 桃香ちゃんがぴょんと立ち上がり、ウェイターさながら椅子を下げてくれた。いつの間にかあたしはどこかの大名になっていたらしい。いつか下剋上されそう。

 座らせていただくと、鞄を置く間もなく真横からじとっとした非難がましい視線が浴びせられる。なんだ、隣のわんころよ。


「おはよ。ねえ、なんで打ち上げ来なかったの?」

「そうだよー、ひよちゃん来てなかったよね」

「打ち上げ? あったっけ」

「てか未だにクラスのグループに既読つけてないっしょ」


 犬がバウバウ威嚇してくる。なんのことやら。

 あたしはとりあえずメッセージアプリを開いた。うわ、クラスのグループトークの未読メッセージが数百、だと。なんだこれ。いくら下にスクロールしても終わらない。


「打ち上げあったんだね」

「知らなかったの?」

「まぁ……」


 体育祭が終わった次の日の日曜日と、振替休日だった月曜日に、チラッと通知を見たような気もする。同時に、出かける気力が沸かずスルーした記憶が蘇ってきた。


 忙しかったのだ。

 土曜日は「ひよりがまさかリレーに出るなんて! 頑張ったね!」と感激した両親に散々褒めそやされた。

 その流れで、日曜日はせっかくの休日の午前中からアパレル店や雑貨屋をウィンドウショッピングに連れ出され、猫柄の可愛いコップとお皿のギフトセットを渡され、夜ご飯は美味しいレストランに連れて行かれた。お腹いっぱい食べさせられ、夜はぐっすり良き寝付きだった。

 なので翌日、振替休日の月曜日は、両親が仕事に行っていて、いわば唯一の休息日だったと言えよう。昼前に起き、作り置きされたお昼ご飯と日曜日に買ったケーキを食べ、犬や猫の可愛い癒やし動画を見ながらソファーでのんびり昼寝をした。土曜と日曜で溜まった疲労もあって、あたしはソファーから一歩も動きたくなかった。

 ほんに多忙な休日だったのだ。


 と、いちいち説明するのも手間なので、言葉尻を濁しておく。


「もし次の打ち上げがあれば、今度は行くね」

「じゃあ、次はひよちゃん個人のほうにも送るね! 見てなかったらスタンプ連打しちゃうぞ〜」


 桃香ちゃんに肩を大きく揺さぶられる。読まぬなら読ませてみせようメッセージ、というわけか。あたしはこそっとメッセージアプリの通知をオフにした。

 予鈴が鳴り、皆がそれぞれの席に戻っていく。残ったのは、未だにご機嫌斜めな隣のわんこだけ。


「ねえ、なんで打ち上げ来なかったの」

「何よ。あたしの勝手でしょ」

「え。ももと俺ですげえ態度違くない?」


 驚いた声を上げる。何言ってるんだろう、この犬。


「桃香ちゃんとあんたが一緒なわけない」

「えっ、なんで」

「桃香ちゃんはいいけど、あんたはムカつく」

「あー、……はぁ!?」


 うるさ。この犬、気に食わないことがあれば大きい声で鳴けばいいと思っている。


「先生来たし、静かにしてよ」

「はぁ? ムカつくって、おい、はぁ!?」

「先生来たってば」


 あしらいながら、スマホの画面をスクロールしていく。『ここから未読メッセージ』から下へずらずらと流れるトーク履歴。斜め読みでざっと目を通す。

 アルバムにまとめられた集合写真を見るに、クラスの過半数が参加したようだ。けれど全員ではない。あたしの他にも不参加の人も何人かいたということだ。

 隣から睨みに近しい視線を感じる。打ち上げごときに参加しなかっただけで、どうして怒られなきゃいけないんだ。駄犬、面倒くさい。



 犬があたしをどう思っていようが別にどうでもいい。授業中は喋ることないんだし、休み時間も基本話さないのだから。

 と高をくくっていた時期があたしにもありました。


「じゃあ、隣の人とペアになって、これ訳してねー」


 英Ⅱの時間、突如として、とある小説の一節をわざわざ隣の人とペアになって和訳するとかいう時間が設けられた。各ペアで、一、二段落ごとに訳していくのだとか。ペアワークとは運が悪い。隣の犬とは、今朝、険悪になったばかりなのに。

 隣を見れば、授業仕様のお澄ましわんこ。目が合って、にっこりされた。


「じゃ、やろっかー。俺らのとこちょい長いね」


 ……あ、なんだ。いつも通りに戻ってる。

 前から回ってきた小説のコピーを見れば、確かにあたしたちの担当箇所はやや長い。


「あたしは前半の段落するから、そっちは後半訳して」

「一緒にしないの?」

「長いから。役割分担」


 ぱぱっと訳したのちお互いの訳をチェックし合うのが、一番早い。あと、一番会話が少なくて済むと思ったから。

 シャーペンを持ち直して、英文にカッコを書き込んでいく。


「わ、読むのはえー」


 気付けば犬が隣りにいた。いつもより、近くに。椅子だけあたしの机に寄せてきて、真隣にちょこん。どことなく甘い匂いがした。

 わんこみたいにきゅるんとした大きな目がこちらを覗き込む。目が合って、一瞬言葉に詰まった。


「あの、あたし、さっき役割分担って」

「ペアワークだから一緒にやってる感出さなきゃダメじゃんか」

「あぁ、まぁ」


 ふむ、一理。と納得しかけたが、他のペアは精々向かい合う程度で椅子移動まではしていない。あ、危ない、こいつの屁理屈にこねられるところだった。


「こっち来なくてもいいでしょ」

「来ちゃダメなの?」

「ダメなわけではないけど」

「じゃあよくない?」


 あたしの机に腕を乗せて上目遣い。む、ムカつくな、わんころめ。

 他のペアはさっさと和訳に取り組んでいるのに、あたしたちは変なところで躓いている。さっさと解きたいんですけど。犬の腕をあたしの机から押し降ろす。


「早くどいて。あっち行って」

「あー、そかそか」


 案外すんなり身を引いた。ぼそっと小さな呟き付きで。


「俺のこと、嫌いだもんね。おけおけ」


 はあ? あたしは思わず顔を上げた。犬が気だるそうに金髪をかき上げて、バニラの香りがやや強くなる。

 さっと自分の席に戻るお澄ましわんこ。ちらりとすらこっちを見なかった。残り香だけがあたしのそばを漂っている。

 はあ!? な、なにこいつ。あたし、あたしはあんたのこと、嫌いだなんて一言も言ってないんですけど!




 その後、授業は滞りなく行われ、学校はお昼休みを迎えた。

 せっせと中庭の風通しの良い日陰のベンチに向かう。すでにご飯のお供、純が座っていて、おいでおいでと手招き。なんだかにやにやしている。


「ひよ、あんなに言ってたのに、むぎと仲良くしてて偉い!」

「なんのこと?」

「あれ、体育祭のとき、むぎと一緒に橙のテントにいなかった? 見間違えたかな」


 橙のテントに犬と一緒に。それは見間違いではないけれども。それはそれ、これはこれ。昨日の友は今日の敵というやつである。

 ふんっと背を向けて、あたしはおにぎりを食べ始めた。今日は昆布おにぎりだ。


「仲良くしてないよ。今、あいつと喧嘩してる」

「へえ。……え?」

「喧嘩っていうのかな。とにかく、仲悪くやってるよ」

「ええ!?」

「そんな驚かなくても」

「だってむぎが喧嘩とか想像できないもん! ひよ、何やったの!」


 はて、しばし待たれよ。純さんや、どうしてあたしが悪い前提なんですか。

 和訳のときの件は、あたしは悪くない、はず。あっちが突然キレてきた。いや、違う。その前から亀裂はできていた。そう、今朝、あいつはあたしを睨んできた。そう、怒りの原因は。

 

「打ち上げに行かなかっただけなのに」

「それだけ?」

「B組の打ち上げトークス見てなくて、今日は朝から怒られました」

「うわぁ、無視してたの? それはダメだよ。ひよ、みんなで決めごとをしてるときの無視は犯罪だよー?」

「えっ」


 昆布おにぎりを喉に詰まらせかけた。な、なぜあたしに矛先が。無視だなんて、そんな人聞きの悪い。スルーしたと言ってほしい。それに、スルーのにもわけがある。こちらの弁明も聞いてほしい

 あたしは懇切丁寧に、いかに疲れる休日を過ごしたか説明した。よく走った土曜、たんと食べた日曜、しかと休んだ月曜。忙しかった、あの休日たち。


「充実してるね」

「そうだよ、そうなんだよ、大変だったんだよ。疲れてたからスルーしたのも仕方なかったんだよ」

「本音は?」

「外に出るのが面倒だった」


 一週間のうち一日くらいは、家でごろごろする日が欲しいインドア派。犬みたいに外やら庭やらで走り回るタイプとは違うのだ。

 あの日はお家にこもっていたかった。だからトークをスルーした。


 別にいいではないか、たかが打ち上げのグループトークをスルーしたくらい。だのに、犬にあんな態度を取られたのが納得いかない。


「打ち上げ行かなかったくらいでさ、そんなに怒る? 他にも行ってない人いたのに」

「まぁ、予約取る人は困るだろうねー。大人数なら予約必須じゃん」

「一人くらい減ってもなんとかなるんじゃないの? 急な予定で来れなくなったとかさ」

「一人じゃない。ひよの他にも行ってない人いたんでしょ」


 ……む。それはそうだ。

 二年B組は四十人いるのだ。あたし以外にも不参加者はいた。トーク履歴の返信を見るに、あたし以にも反応ゼロの人が一人や二人はいるだろう。一人ならまだしも、二、三人も減ると、お店にも迷惑がかかるかもしれない。

 お店の予約は、おそらく犬主導だった。参加人数は早めに知りなかったはずだ。あたしは一言返事するだけで良かったのに、そこまで気が回らなかった。


「仲直りしなよー」

「……うん」


 もそもそ昆布おにぎりを食べる。ううん、ちょっと塩っ気が強い。




 あたしは謝ろうと思えば素直に謝れる。逆に、謝罪を先延ばしにして事態が悪化するほうが後に響くので、さっさと謝るタイプだ。


「ねえ」


 放課後、帰ろうとする犬の背中を引き止める。「なんだよ」とだるそうに一瞥された。まだ怒っているみたいだ。


「あの、昨日はクラスのグループ見てなくてごめんね。次からはちゃんと見る」


 確かに、あたしは悪いことをした。反省している。ごめんなさい。

 あたしは謝った。わんちゃんは頭にハテナを浮かべていた。わんころさながらのまんまるお目々をぱちぱちまばたき。


「クラスのグループ?」

「うん。朝から怒ってたでしょ」

「あー、打ち上げの?」

「そう、ごめん。今度からは気を付けるね」


 ぺこりと一礼。さてはて許してくれたのか、どうか。顔色を窺えば、犬は「はあ」と驚いていた。これはどっちだ?


「…………」

「…………」

「……それでは」

「え、……えっ!? ちょお! それだけ?」


 謝罪が済んだと思ったら、済んでなかったらしい。犬がぱっとこっちに体を向けた。『それだけ?』。つまり、おわんこ様はさらなる謝罪をご所望らしい。

 はて。他にも何かありましたかな。あたしはてっきり、今日一日中ずっと、犬はトークをスルーしたことについて怒っているのかと思っていた。


「他に謝ること、あったっけ」

「謝るというか」

「あ、ペアワークのこと? あれ、そんなに怒ってたの?」

「いや、そうじゃなくて」

「違うの? じゃあ何。打ち上げ行かなかったこと?」

「あー、それもあるけど……」


 おわんこ様のお目々が無言の訴え。なんだろう、犬が怒っている理由、他に謝ること。うーん、これ以上思いつかない。

 あたしが首を傾けたら、おわんこ様がむむ、と唇を突き出して不満顔。が、その意図を読み取れるほどあたしは飼い主ではないのだ。


 ずっと目を合わせていたら、なんだかだんだんムカついてきた。なんなの、この犬。人が下手に出れば黙りこくって、果てには視線だけで命令しちゃって。一体どんな殿様気取りだ。生類憐れみの令はもうとっくの昔に廃止されているんだぞ。

 犬に付き従う義理はない。あたしは帰りたいのだ。


「何。用事があるなら言ってくれないとわからない」

「……嫌いって言ってたのは?」

「なにそれ」

「ももたちはいいけど、俺のことは嫌いって」


 目を細めてブツブツブツブツ。なにそれ。被害妄想も甚だしい。


「あたし、嫌いなんて言ってない。嫌いなんて人に言っちゃダメだもん」

「じゃあなんて言ったんだよ」

「…………」

「…………」


 一時停止。二人揃って、視線を斜め上に動かした。えーと、あたし、なんて言ったっけ。

 先に動いたのはあちらだった。


「あ! 思い出したわ。俺、ムカつくって言われた」

「あたし、そんなこと言ってたの? わあ、ごめん。口が滑っちゃったんだ」

「はぁ? なんだよ、それ。ムカついたのはマジなの?」


 普段はあれだけうるさく喚いてけらけら笑っている犬が、静かにむすっと拗ねている。怒り、というか、不満百パーセント。この人は感情を素直に表す。

 その、そういう目が、そういうところも、まさに。


「だ、だって、なんか君、犬、っぽいし」

「いぬ?」


 圧倒的に間違いなく猫派のあたしだが、SNSのアルゴリズムがペット好きと勘違いして、猫に紛れてなかなかの頻度で犬の動画も流れてくる。

 散歩を忘れた飼い主に無言の圧をかけて怒る柴犬。おやつを取り上げられ首をかしげたまま飼い主を見上げ続けるポメラニアン。マッサージを途中でやめられてご機嫌斜めになるゴールデンレトリバー。

 目の前の怒れる犬が、まさしく動画のわんこそっくり。なんでこいつの目はこんなにも大きくてきゅるきゅるなんだ。


「ああもう、ちょっと可愛いとか思っちゃって悔しい。ほんとにちょっとだけ、ちょこっとだけど可愛いのがムカつく」

「かわ、……は、はあ!?」

「体育祭の犬のカチューシャとかも、妙に似合っててムカついたし」

「似合っ……なあ、待って」

「そうやって、首かしげるのとか、地味にあざといし」

「ちょ、おい!」

「どうして、可愛く見えるんだろう。意味わかんないし」

「待てって、勝手に帰んな!」


 勝手も何も、あたしはあんたに指図される筋合いはない。帰ると言ったら帰るのだ。ええい、手を出してくるな、このわんころめ!


「あたし、帰る!」

「なになに、ムカついてんの? 俺が可愛いから?」

「うっさい!」


 犬の手を払い除けて教室を出ていく。後ろから「また明日なー!」とかほざく声が聞こえてきた。ニヤニヤしていそうな顔が頭に浮かんでくる。

 うるさいうるさい。大声で調子に乗りやがって。これだからあの犬っころは、本当にムカつく!

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