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4 九月 体育祭

 開会式のおじいちゃん理事長の挨拶を聞き流す。『秋晴れ』というにはいささか強引ではなかろうか。あたしは空を見上げて額の汗を拭った。視線の先には真っ白い入道雲。

 どう見ても夏日和の下、体育祭の開会が宣言された。



 うちの高校では、体育祭の日は団Tに体操服のパンツ、そして頭にははちまきを巻くという格好が推奨されている。昨今はちまきは色々な巻き方があるが、その一種である猫耳スタイルをご存知だろうか。

 あたしは午前の部の最初のほうにある綱引きを終え、残りは午後の部にあるクラス別リレーのみ。結構時間を持て余していたので、橙団の隅っこでせっせと猫耳はちまきを作ることにした。


「ひよひよー、なーにしてるの」

「はちまき? あ、猫耳じゃーん」

「わ、めっちゃ可愛いじゃん。リレー組で写真撮っとこ!」


 陽気な人間たちに絡まれた。リレーの選抜決めのときに他の団を連れ回されて以来、桃香ちゃんを始め陽気な人間たちが、なぜかあたしを『ひよちゃん』や『ひよひよ』と呼んでくる。

 純が『ひよ』って呼んでるからか。それともあたしってヒヨコっぽい? 身長は平均よりは少し低いが、実質ほぼ平均だというのに。不服だ。どうせなら猫っぽいニックネームがいい。


 桃香ちゃんたちが嵐のようにやってきて、ぱしゃり。当たり屋ならぬ撮りまくり屋。

 彼女たちはイベントごとに気合が入る部類なようで、暑いのにばっちりメイクをして、目元にキラキラしたストーンまでくっつけている。

 写真を撮るなら、あたしもそれなりのメイクをしてこればよかったかな。


「てかさ、ひよひよ」

「うん?」

「うちら今から借り物行くんだけど」

「あー、さっき招集かかってたね」

「そそ。で、うちらの順番のときに動画撮ってほしくてー。ひよひよいける?」


 合点がいった。この人たちがあたしに理由もなく話しかけてくるわけなかったのだ。まぁ、いい。


「おっけー、わかった」

「ありがと!」

「代わりにこれ巻いてちょうだい」


 あたしはたった今完成した猫耳はちまきを差し出した。ギブアンドテイクってやつである。




 請け負ったものは遂行しなければ。あたしは橙団テントの最前列に潜り込んだ。借り物競争の順番を待つ、その間に猫耳はちまきのチェックだ。

 自撮りアプリを鏡代わりにしてはちまきの確認。ふむふむ、なかなか上手に作れた。猫耳の部分もしっかり三角形になっている。


「お、猫だー」


 背後に白金わんころが現れた。ピースピース、とぴょこぴょこ跳ねながら映り込んでくる。髪がふわふわ浮いて本物の犬の耳みたい。


「なに」

「撮んないの? ピースピース」

「さっき撮った」

「え。誰と」

「桃香ちゃんたちと」

「あー、えー、へー」

 

 なんだその反応。後ろを見上げたら、顔に強風がぶつかった。犬が持っていたハンディ扇風機が、絶えず風を巻き起こしている。若干生ぬるいが涼しい風だ。


「次の種目なんだっけ。あー、次借り物じゃーん」

「体育委員でしょ。仕事しに行かなくていいの」

「俺の午前の仕事はさっき終わったの。そっちこそ一人?」

「あたしはカメラマンの仕事があるから」


 スマホを見せて、グラウンドを指差す。


「あー、ももたち撮んの?」

「うん」

「じゃあ、それ隣で見てるわ」

「え、なんで」

「お隣さんだから」


 どういうことだ。謎理屈をこねては、あたしの横に座ってあぐらをかく。あちー、と言いながら、ハンディ扇風機の首を振らせ始めた。かすかに制汗剤の清涼感ある香りが漂ってきて、ふわりとあたしの後れ毛が揺れる。

 ふむ。涼しくなるなら、まぁ、いいか。


 二年女子の借り物競走は、毎年体育委員がお題を考えている。今年は〝動物〟がテーマらしい。お題の動物に似ている人や雰囲気が合っている人を借りて、お揃いの動物の被り物をしてゴールするという流れだそうだ。

 なんだ、簡単そう。こいつによる前評判と大違いだ。


「これのどこがえぐいの?」

「ゴールするとき動物の鳴き真似もしなきゃいけない」

「それだけ?」

「お題にパンダとかキリンがある」

「うわ」


 あたしはどっちの鳴き声も知らない。


「わからなかったらなんて鳴けばいいの?」

「パーンダパーンダ、キリンキリンキリン」


 裏返った細い声で口早に言われて笑いかけた。なにそれ。至極真面目な表情だったのが余計におかしかった。ふーん、ちょっと面白い、ちょっとだけね。


『今、一斉に走り出しました!』


 ばぁん、と銃声と同時に実況が始まってハッとする。いつの間にか入場していた一番目の走者が走り出していた。あ、動画撮影の準備をしておかなきゃ。


 被り物は、ふわふわでメルヘンなデフォルメ調の可愛いカチューシャもあれば、どこに売っているんだと思うようなへんてこりんな顔をした頭全体を覆う被り物もあった。

 順調に桃香ちゃんたちを撮影しつつ、被り物で一喜一憂する様子を眺め、さまざまな動物の声真似を聞き、たまに寄声を耳にした。おおよそ楽しめた、見ている分には。

 さて、次のネタ……違う、走者たちは、

 

「あ、姉御だ」


 女王こと、A組の美人がいた。隣の犬が大好きな飼い主を見つけて前のめり。見えない尻尾が見えた。

 あの人がスタートし、数メートル先のボックスからお題を引く。つやつやの黒髪ボブ、すらっと長い脚、胸を張って背筋が伸びた立ち姿。遠目からでも目を惹く、姿勢の美しい人だった。


「なによ、これ。いぬ? 犬ー!」


 犬を引いたらしい。持っている紙の色はオレンジ。こちらに駆け足で向かってくる。橙団のテントがざわついた。


「橙の犬ー!」

「はいはいはい! 俺行く俺行く!」


 横の犬がはしゃぐこと、はしゃぐこと。挙手して喚いて盛大にアピールまでする始末だ。うるさい。

 これだけ騒げばさすがに気付く。美人の目がすっとあたしの横に止まる。


「あ、麦野いるじゃん。来な!」

「はいっ!」


 飼い主に呼ばれて走ってわんわんわん。うわあ、犬々しいやつめ。

 桃香ちゃんたちと同じく、犬も写真を撮るのが好きそうだった。あいつの分も動画を撮ったら喜ぶかな。あたしはなんとなく録画のスタートボタンを押した。

 ふわふわした色違いの犬耳カチューシャをつけ、手を握って、いや、美人が犬の手首を掴んで走る。美女が連れ走るわんこの散歩。

 そしてゴールでマイク係に紙を渡す。


『お題は犬でーす、せーの』

『『わんわん!』』


 二人揃って可愛らしく答え、無事にゴール。犬は終始ニコニコ、見えない尻尾をぶんぶんぶん。うわあ、どこまでも犬々しいやつだ。




 お昼を済ませると午後の部が始まる。つまりリレーが始まる。始まってしまうのだ。

 団別には劣るとはいえ、クラス別リレーも十分盛り上がる競技の一つである。あたしは目立たない位置の走者だが、その、ちょっと。


「ひよちゃん、やばーい。そわそわしすぎ」

「や、あたし、そんな、緊張とか、そんな、そんなに」

「ひよひよがビビりすぎてて逆に緊張しないんだけどー!」


 入場ゲート横の待機列に並んでいたら、前後の子がなんか言ってきた。

 ち、違うし。あ、あたしは、緊張とか、そんな、あたしが緊張なんて、す、するわけが。つーっと背中に汗が流れる。こ、これは、暑いからであって。


「あ、むぎ!」

「よー、がんばー」


 声のしたほうを向けば、犬が片手を上げてこちらに歩いてきている。橙の団T、首にゆるく巻かれたネクタイはちまき、そして白金頭にはゴールドベージュの垂れた犬耳。二足歩行の犬が来た。


「むぎそのカチューシャ可愛い!」

「やば。ぴったりじゃん! 面白〜」

「なんかそれみんなに言われるー。姉御にも似合ってるって言われたし」


 へへっと嬉しそうに笑う。美女に褒められ、まんざらではないご様子。

 ふざけた格好をして、自由にほっつき歩いていていいのか、体育委員のくせに。カチューシャを一度見、二度見、ついでに三度見。じろじろ見ていたら目が合った。にんまりと得意げな顔に変わる。


「今回は仕事でーす。俺、リレーの係なんでーす」

「それつけたまま?」

「先生公認でーす。いいっしょー?」


 眉毛を上げ、垂れ耳も持ち上げ、ドヤ顔アピールされた。うわ、なんかムカつく。


「ねえねえむぎ、それもう一個なかった?」

「俺の後ろにあるよーん」

「なんで首につけてんの!」

「貸して貸してー。私もつけたーい」


 今度は桃香ちゃんとお揃いで犬耳カチューシャをつけ始めた。桃香ちゃんも可愛いが、やはり犬は似合っているというレベルではない。髪色と犬耳の色も相まって馴染んでいるを超えている。

 これはどう見てもゴールデンレトリバー。いやラブラドールか。あたしは犬種に詳しくないけど、まぁ、そんな感じだ。

 温厚な犬というか、人懐っこい犬というか……。犬耳を見上げて考えていたら、あっちもあたしをじっと見ていることに気付いた。な、なんだ。目を合わせてしばし固まる。


「…………」

「…………」

「……べ!」

「ぷっ、なに」


 急に白目を向いた変顔をしてきた。なにこの人。ニヤニヤしちゃって。あたし、笑ってないですけど、ちょっとだけしか。


「やばー! むぎ変顔やばすぎ!」

「え、私見てなかった。もっかいやってー」

「もう時間なんでやりませーん。それも返してー。はいはい、みんなちゃんと並んでくださーい。そろそろ入るよー」


 入場を案内するアナウンスが流れる。犬も体育委員らしく整列を促し始めた。

 あぁ、いよいよか。小さく深呼吸をする。うつむく視界に、ひょいっとゴールドベージュの犬耳が入ってきた。


「ねね、緊張解けた?」

「別に元から緊張とかしてないですけど」

「へぇ? そっかぁ」

「早く仕事行ってこれば?」

「はいはーい。走んの頑張ってねー。いってらっしゃーい」


 半笑いで手を振ってくる。おかしな格好に謎の変顔に、最後のにへら顔。なんだか煽られた気分になるお見送りだった。

 なんだ、あの犬。お気に入りのご主人様にはわんわんしといて、あたしには……。いやいや、あたしわんわんされても困る。あたしははちまきにしちゃうレベルで猫派なんだから。

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