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2 九月 コーラ

 別に、あの犬っころと隣の席になったとて、そこまで大きな支障はない。ないはずである。

 うちの学校は、隣の机と席をくっつけずに各々独立した並びになっているし、授業中はわんわん騒ぎ立てることもないし、お昼休みになると見えない尻尾を振って飼い主どものところに飛んでいく。

 世には隣の席をきっかけに関わりが増える人たちもいるのだろうが、だからといって全人類がお隣さんと仲良くなるわけでもない。

 日常生活において、あたしがあの犬から迷惑を被ることさえなければ、仲良くなろうともならなくとも、どうでもいいのだ。



 とはいえ、あたしはあいつに対して『あぁ、うるさい犬だ』と散々心の中で悪態をついていた。突然、毎日隣の席になど座られたら、さすがに気まずい。

 その上、あちらはこちらの心中を知ってか知らずか、友人のように別け隔てなくフレンドリーに接してくる。朝とか平気で『おはよー』と言い、帰りも普通に『バイバーイ』と言ってくるのだ。なおのこと気まずくなる。


「というわけで、もういっそのことクラス替えしてほしいな、みたいな気持ちになってる、今」


 ご飯どきの昼休み。あたしたち二年の教室が並ぶ第二棟と、一年と三年の教室がある第一棟に挟まれた、日陰になっている小さな中庭で、あたしは友人の北畑きたばたけじゅんにそう愚痴った。

 純はポニーテールの長い髪を軽く後ろに払って、膝の上にお弁当を広げた。毎日自分でお弁当を作るお手製お弁当だ。そして、お箸を出しながら「ふーん」と相槌。


「そのまま、むぎと仲良くなればよくない?」

「やー、それは、なんか、嫌というか」

「なんかって何よ」

「それは、なんか……」

「うちのクラスにもたまに遊びに来てるけど、むぎのこと嫌がってるのひよくらいだよ。いただきまーす」


 自分もおにぎりをぺりぺりと開封する。あたしは今日も今日とて、コンビニおにぎり二つ。本日の具は鮭とたらこだ。


 二年が過ごす第二棟は、文系のクラスは三階に、理系のクラスは四階に割り振られている。全九クラスあるうち、AからEまでは文系の三階、FからIまでは理系の四階といった具合だ。

 あたしのB組は三階、純のG組は四階にあるのだが、あたしは四階まであんまり行ったことがない。用事がないとわざわざ行かない。たまに行けば、わけのわからない長い数式が黒板にびっしりと書かれている。そんな恐怖を覚える場所である。


「本性を隠してるんだよ、きっと。四階だと大人しくしてるんだ」

「それはひよのほうでしょ」

「あたしは三階でも四階でも大人しいもん。あっちは、本当にうるさいんだから」

「そうかなー」


 ふん。純は知らないんだ。あいつがどれだけうるさいやつなのか。


「会話丸聞こえなんだよ。本当にびっくりなんだから。語りだしからオチまで全部聞こえちゃうんだよ」

「どんな話してるの?」

「なんか、英語っぽく聞こえる日本語選手権とかしてる」

「なにそれ、面白そう」


 確かに、英語っぽく聞こえる日本語選手権の話は、ちょっと面白かったが、隣で繰り出される会話は面白い会話だけではないのだ。

「昨日のもっちーのストーリー見た?」とか「あいつウルト強すぎ!」とか、なんにもわからない内輪話もたくさんされる。ちっとも面白くない。

 なのに、どれもこれも真隣で喋られ、その上、声量まで大きいわけで。


「あのね、本当にうる」

「くっそーっ! グー出しとけば良かったあああ!」


 噂をすればなんとやら。中庭に件の犬の声が鳴り響いた。純と目を合わせ、あたしは上を指さす。ほらね。


「本当にうるさいんだから」


 まだ夏の暑さが残る中庭は、どこからともなく聞こえるざわざわとした話し声で満ちている。

 近くに食堂があるからだろうか。一階の渡り廊下を絶えず行き交う人々を眺める。お昼ご飯を食べて教室に戻ってく人や、体操服でへ移動している人に、教科書片手に実験室に向かう人まで。

 皆、何か話しているけれど、ここまで聞こえる声ではない。しかし、


「ちょ、みんな同時に言わないで! 誰かメッセ送って!」

「ね。丸聞こえでしょ?」

「あー、これは完全にむぎの声だね」

「うるせー! 明日はぜってー俺が勝つし!」

「教室三階なのに、ここまで聞こえるって」


 あいつの声はよく通る声質なんだと思う。ハキハキとした聞き取りやすい中低音。

 ただ大人しく話すだけでもすんなり耳に入ってくる声をしているのに、どうして音量まで上げてしまうのか。そのせいで中庭にまで響いてくる始末。お隣迷惑も甚だしい。


 あたしは、もぐ、とおにぎりの最後の一口を食べた。おかかおにぎりを飲み込むと同時に、背後からダダダと猛ダッシュする足音がした。素早く動く人影が、第二棟から第一棟の一階にあるコンビニへ消えていく。


「あれ、さっきのってむぎ?」

「そこまで見てなかった。そうなの?」

「ぽく見えた。さっきなんか騒いでたもんね」

「さあ、知らないけど」 


 犬のことなんぞ、知らぬ存ぜぬどうでもよ。

 あたしは鮭おにぎりを手に取った。コンビニおにぎりの真ん中のテープをペリペリ剥がす。ふふ、上手に剥がせたら単純に嬉しい。片方だけフィルムを外して、鮭おにぎりもいただきまーす。

 直後、コンビニからわんころがレジ袋を抱えてて出てき、風のように第二棟に走り去っていった。もう見えない姿を、じとっと睨む。上がった気分が急降下していく。


「さっきの、やっぱむぎだったね」

「ほらね、うるさい」

「なんかの罰ゲームかな? 元気だよねー、男子って」


 校舎で全力疾走だなんて、他の人にぶつかったらどうするんだ。お隣を超えて校内迷惑である。あの騒ぎが、これから毎日、真隣で。考えただけでもゾッとする。


「早く席替え、いやクラス替えしたい」

「とか言いつつ、案外仲良くなっちゃったりしてー」

「ありえないって、そんなこと」

「どうだろ。むぎだしなー」

「ないない。あたし、お米派だし」

「どういうことよ」


 パンでもパスタでもおうどんでもなく、ご飯ラブ。小麦など眼中にもない生粋のお米ガールなのだ。あんな犬犬しい麦野郎なんぞ、眼中にもない。

 猫派でお米派で、静かなほうが好き。ハハ、対極無縁な犬なんかと仲良くなるわけ。




 教室に戻ったら、教室の後方で例の暴れ犬がわんわん喚いていた。純ってば、こいつの何が良いんだか。


「はあ? お前らにやるわけないだろー?」

「いいじゃん、お前飲まねえんだろ」

「やーだ。お前らにやるのはなんか癪」


 教室の後方とはつまり、最後列であるあたしの席も含まれているわけで。自分の席に座ろうとすると、自然、横でたむろしている犬に近付くことになる。

 できるだけ影を薄めて座ろうとするも、運悪く目が合ってしまった。「あ」と笑いかけられる。はあ、どうも。


「おかえりー。ねえねえ、コーラいる?」

「コーラ?」

「そそ。さっき買ってきたんだけど、ジュースと間違えたっぽくて、一本余ってんだよね」

「そうなんだ。自分で飲んだら?」

「うーん。俺、コーラはあんまり好きじゃなくて」


 あっそ。どうでもいいけど。

 誰かコーラ好きな友だちにあげれば。と言いかけて、中庭で見かけたダッシュとさっきの鳴き声を思い出す。自分をパシった飼い主どもにあげるのはなんか癪、だからあたしに、ということか。

 でも残念。聞いた相手が悪かった。あたしは午後一の古典の準備しながら答えた。


「あたしもいらない」

「えー、なんで」

「炭酸好きじゃない」

「あー、へー」


 なにその反応。そっちから聞いてきたくせに。

 授業の予鈴が鳴る。教室や廊下にいた他のクラスの人たちがバラバラと自分の教室に帰っていく。


「あ!」


 うるさ。犬が突然廊下に向かって走り出した。愛しのご主人様を見つけてわんわんわん。廊下で誰かを引き止めて何か話している。相手は誰なのか遠目でもすぐわかった。黒髪ボブのA組の美人だ。

 わんころは手に持っていたコーラを渡し、ニコニコして隣の席に座ってくる。


「いえーい。コーラ引き取ってもらってきたー」

「ふーん、良かったね」

「次って古典? ちょっと寝よーっと」


 腕を組んで頭を伏せる。わざわざ宣言する必要はあったのだろうか。好き勝手に寝て先生にバレて怒られてしまえばいい。あたしは絶対起こしてやらないんだから。


 机に肘をついて窓の外を見、ようとしたら窓際の席でわんころがもぞもぞと寝る体勢を整えていたので反対側を見た。

 廊下を歩いてくる古典の先生が教室のドアを開ける。やがて真横からはすうすうとした寝息が聴こえてくる。


 別に、この犬っころと隣の席になったとて、そこまで大きな支障はない。聞こえてくる会話やら罰ゲームやら居眠りやらが、あたしに直接迷惑をかけているわけでもない。

 でも視界に入るせいで、耳に届くせいで、気にしてしまう。……こういうのが、なんか、嫌だ。

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