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1 九月 席替え

 夏休み明けの初日。


 猫がいた。

 駅から学校までの十分ほどの道のりの途中、二、三分足らずで到着するといったところだった。



 車窓から穏やかな海を見下ろし、十数分揺られれば、学校の最寄り駅に着く。スーツやシャツの人波の後ろをついてホームに降りる。

 エアコンガンガンの強冷房車両は肌寒いくらいだったので、太陽特製のむわっとサウナがちょうどいい。と思ったのも束の間、次第に肌がじんわり汗ばんだ。


 駅に併設されている開店前のファッションビル。散り散りに駅近くのビルに吸い込まれていくリーマンたち。駅前の大通りを超えた先に続く、ちょっぴりレトロを残す商店街。

 通学路の大半を占めるこの商店街は、通りを含め両脇のお店からお店までが、屋根で覆われているアーケード商店街だ。日照りの猛暑でも唐突の豪雨でも台風寸前の強風でも、あたしたちを安全に駅から学校まで繋いでくれる。

 とはいっても、あたしは未だにこの商店街の全貌を知らない。学校へ行くには、商店街を横断する車道との交差点で直角に曲がらなくてはならない。商店街とは途中でおさらばなのだ。


 どうせなら学校まで続いてくれればよかったのに。曲がり角が見えてくる。屋根の外に出たくない。すでにこんなに蒸し暑いのに、直接日差しを浴びたらどうなることやら。

 首に張り付く髪の毛を払いのけたときだった。


「あ、猫ちゃん」


 猫がいた。曲がり角のある交差点、その一つ手前に横に伸びている小路に、猫がいた。

 良い匂いがするパン屋さんの、おそらく客用と思われる木製ベンチの上で白と薄茶が混じるトラ柄の猫が、にゃむにゃむと横になっている。近付いても逃げる気配はなく、こちらを一瞥して『なんだ、人間か』と再度腕に首を乗せるだけだった。


 人間どもがこれから学校だ、仕事だと忙しなく動き始めるときに、涼やかな陰の下で生ぬるい風を浴びる。なんとまあ、非常に優雅な朝を送っていらっしゃる猫様だこと。


「にゃあ」

「…………」

「にゃーお?」

「…………」


 無視された。これまで話しかけた野良猫は、大抵不思議そうに鳴き返してくれたのに。こやつはガン無視。なんだこいつ、と言わんばかりの冷めた目で大あくびをかます始末である。うわあ、けしからん、可愛いやつめ。

 まんまるのだらしない体つきのわりには、意外にも良い毛並み。美味しいものをたくさん食べているであろう、腕に乗ってぷっくり膨れたもちもちほっぺた。人間がそばにきても逃げないのは、他の人間からもたっぷり愛されている証拠である。


 触ってもいいのかな。びっくりさせちゃうか。写真撮影してもいいですか。いや、このパン屋さんの看板猫かも。勝手に撮影は……。けれど首輪はしていない。この辺りの地域猫だろうか。

 スマホを片手にしばらく迷った末、よく見たら商店街を歩く生徒たちがいなくなっていることに気付いた。即座にスマホで時間を確認する。

 あ、まずい。走らないと遅刻する!




 犬派か猫派かと問われたら、あたしは絶対に猫派だ。猫のほうが可愛いし癒やされるし可愛いし賢いし可愛い。とにかく可愛い、これに尽きる。

 SNSで猫の動画ばかり見ていたら、いつの間にやらあたしのタイムラインは可愛い猫で溢れるようになった。アルゴリズム、恐るべし。

 ふわふわ毛できゅるんきゅるんのお目々の生きるぬいぐるみ子猫。しなやかな体躯と凄まじいジャンプ力のイケメン猫。じゃれ合う仲良し猫兄弟。どの子も可愛くて仕方ない。

 どちらかといえば猫、ではなく、絶対に猫。圧倒的猫派だ。


 けれど、世間はそうではない。


 切れた息を整えつつ、本鈴とともに教室に入る。まだ先生が来ていない室内は、夏休み気分の生徒で溢れていた。


「マージで夏休みめちゃくちゃ遊んだよねー」

「だってこいつが遊ぼ遊ぼうるせえし」

「むぎ、毎日ストーリー更新してたよね!」


 あたしのクラスには、犬がいる。


「だって俺夏休み暇だったんだもーん。みんなもそうでしょ」

「俺はちげーよ。バイトあったし」

「私も夏期講習で忙しかったんですけどー」

「でも構ってくれたじゃーん。好きー」


 いわゆる犬系男子というやつだ。哺乳綱、肉食目、構われないと死んじゃう科、メンヘラそう属、スキンシップベタベタ種の犬っころが、教室のド真ん中でわんわん鳴いている。


 実の名を、麦野むぎのみのるという。

 身長はやや高めで、図体も態度も大きければ、声量も大きい。見た目はまるで大型犬。髪は、夏休み前は黒だった気がする。今は白っぽいアッシュゴールドになっていた。目が隠れるほどのストレート金髪が、話すとふわんふわんと揺れる。多毛かつ長毛種、しかもうるさい。


 きゃんきゃん喚く暑苦しい系犬が教室で騒ぐ度に、あたしはやっぱり猫派だなと、しみじみ思う。

 猫なら鳴き声も可愛いのに、いや、犬にも鳴き声が可愛い犬種がいるだろうに。それに、実際の大型犬は、優しく温厚で頭が良いのに。子猫や人間の赤ちゃんの親代わりになっていたりするというのに。

 二年B組が飼っているのは、よりにもよってはた迷惑な二足歩行の人間型犬だった。


 夏休みが終わった。あたしは、この騒音とともに毎日を過ごす日常に戻ってきてしまったのだ。




 新学期が始まっただけで、すでに結構な憂鬱だった。早起きは苦手だし、外は暑いし、教室では犬がうるさい。あたしは昨日まで、心ゆくまで眠り、快適なソファーでごろごろと、静かにひたすらに猫動画を見ていたのに。


「あのさー、時間あるなら席替えしよーよ」


 犬が何か言い出した。

 始業式が終わり、先生の話も終わった。まだパン屋さんの猫がいるかも、帰り道に寄って帰ろうかな、なんて立ち上がってリュックを背負った矢先のことだった。


 席替え、だと。嫌な発案を聞いて、身を固める。なんたって、今のあたしの席は、真ん中の列の一番後ろ。教室の全てを見渡せる、全知全能の気分になれる最高の席なのだ。

 すやすや睡眠に励む居眠り部から、スマホをコソコソといじっている不届き者、別授業の課題をしている内職マンまで観測できる。授業中の暇つぶし観察に最適の場所だったのに!


「いいね! ちょうど新学期始まったし」

「えー、この席から動きたくなーい」

「賛成賛成賛成。俺一番前もうやだもん」

「くじ引き? 私くじ作るよー」

「今からすんの? だるくね」

「さっさとやっちゃお」


 どうしてこういうときだけ、人は無駄にテキパキ動くんだろう。速やかにくじ引きが作られ、あっという間に席替えを行う準備が行われていく。

 決まってしまったものは仕方ない。もはやあたしに残された手段は祈ることだけ。あたしは静かに胸の前で両手を合わせた。せめて後ろのほう、あわよくば窓際が良い。誰もが羨む窓際最後列よ、来たれ!


 くじの順番が回ってきた。即席くじの箱は誰かの巾着袋だった。指を入れ、一番最初に触れた紙を取り出す。あたしは心の中でひとしきり祈り、四つ折りの紙を一気に開いた。

 ルーズリーフの切れ端、書かれた数字は十四。黒板に走り書きの座席表から、十四を探す。


 えっ、うわあ、嬉しい。最後列だ、最後列。

 一番後ろ、しかも窓側から二列目。誰もが羨む神席七番の、一つ隣の席だった。最後列、窓際のほう。完璧とはいかないが、おおむね希望通り。やった!

 きゃっきゃっと十四番の席に移動する。これで、隣に静かな人が来てくれれば、


「あ、俺の隣、田中たなかさん?」

「え」


 隣の席には犬がいた。ははは。いやいや。二年B組は何人クラスだ。四十人だ。四十人もいて、あたしの隣がよりにもよって犬になるわけがない。他の田中に話しかけているのではないか。


「わー、どうしよ。俺らあんま喋ったことないよね? お隣さん同士仲良くしようねー」


 前は中谷だった。斜め前は原野さん。よく考えれば、日本中には数多いる田中でも二年B組には一人しかいなかった。


「あー、えと、あ、そういや、田中さんって名前が可愛かったよね」


 あたしは一切返事をしていない。というより、返事ができないでいた。心中であれこれ文句をぶつくさ言いつつも、言葉を交わすのは、実は初めてましてなのだ。心臓がドキマギしている。

 にこっと笑いかけられて、あたしは一歩後ずさりした。そのフレンドリーさ、なんと犬犬しいことか。焦げ茶色のまんまる瞳と目が合った。思わず椅子に手をつく。


「ねね、とりあえず、ひよりって呼んでいーい?」


 夏休みが終わった。

 夏休みが終わって、犬が隣にいる日々が始まってしまった。

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