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図書館の亡霊 2



 

 吾輩は亡霊である。

 名前はまだない。


 いや違う。なにやら摩訶ふしぎな力がわしに妙なセリフを言わせた。

 わしは、ベルンシュタイン領にある、図書館に棲む亡霊である。それがわしの名前だ。うむ。


 ベルンシュタインの領地は小さな面積ながらも、王都の王立図書館に勝るとも劣らぬ稀覯本の品揃えと蔵書量を誇るため、それ目当てに訪れる学識者たちが昔から後を絶たない。


 ゆえに、これといった特産物のない小さな領地なのだが、反した数の宿屋はどれも繁盛しており、街道もきれいに整備されている。


 大陸公路から外れた僻地にも関わらずだ。そして、ベルンシュタイン領に接する近隣の領地は等しくその恩恵にあずかる面もあるらしく、小さな領地は昔から周辺の領主に敬意を払われている。



 初夏の頃。

 雨期に入る前の新緑がまばゆいこの時期は、亡霊であるわしにとって苦手な時期のひとつでもある。


 新緑や若芽から伸びるみずみずしい息吹が至るところにあふれ返り、生者とは異なる存在を隅に追いやる。まあ、それはいつものことではあるが、快くはないのである。


 そして今現在。


 わしの不快指数を上げるものが後を付いてきていた。

 陰気にそぞろ歩くわしの後を、軽快なリズムで付いてくる足音である。


 ちろり、と目をやると、澄んだ春の青空のような眸が、きらきらと好奇心に満ちあふれたさまで見返してくる。


 ……ウッ、と神の威光を目にしたような気分でわしは思わず目をそらした。

 泣く子もさらに泣かせる亡霊のわしと言えど、苦手なものは存在するのである。至極遺憾なことに。


 見つめ返してくる子どもは推定、五、六歳。新緑を浴びたようにまばゆい金髪に、小憎たらしいほど整った顔立ち。子どものくせに人を惹き付ける、きらきらしさにあふれた様子だ。


 ……よもや、わしを退治にやって来た神殿関係者の身内ではないだろうな、とわしはさらに身を縮こまらせる。


 まったく不愉快なことだ。

 このわしを見て悲鳴を上げるどころか、泣き叫びもしない子どもなど。不届き千万。どうしてくれよう、と苦虫をかみつぶしたわしはなつかしい気分になった。


 いつだったかも、この子どものようにわしのご面相に驚かない相手にムキになっていたような……。


 うむ。まあいい。亡霊は過去をふり返らない生きものである。決して忘れたわけではない。


 目下の不快指数は、いやにきらきらしいこの子どもだ。

 再度ちろり、と目を投げると、やけにワクワクした期待度で返される。その表情が物語っている。今度はなにをしてくれるの? と。


 ……ぐぬぬ。認めよう。おそらく、わしはちょっとばかり下手を打った。


 この子どもと目が合った瞬間、わしはいつもの通り、とっておきのおそろしい顔ですごんでみせたのだ。それは亡霊として間違っていなかったはずだ。


 通常ならば、大の大人でさえも腰を抜かして粗相をするに違いない、わしの十八番。

 だが、この子どもはその空色の眸を見開くと、いかにも面白いものを見付けた、と言わんばかりの顔でわしに近付いてきたのだ。


 亡霊にとってその存在を認められるのは、この上ない喜びである。

 が、しかし。

 わしが認められたいのは、このような好奇心に満ちあふれた眼差しではないのだ。


 思わずムムッとむきになったわしは、姿を消して子どもの背後からひんやりとした手でうなじをなぞってみた。

 子どもはヒャッと可愛らしい声をあげた。

 次にはフウッと、耳元で陰気なため息をついてみた。

 子どもはキャッとくすぐったそうに声をあげた。

 今度は天井から逆さにぶら下がって血を吐く真似をしてみた。

 子どもはうわあ、となぜか拍手をした。

 仕方がないので書棚の角に隠れて、子どもがやって来たそこにバア、と飛びだして見せた。

 子どもは声をあげて笑って喜んだ。



 ……なぜだ。


 わしは泣く子もさらに泣かせる図書館の亡霊ではなかったのか。


 これではまるで、ドッキリ要員──いや、わしの神聖なる縄張りであるこの図書館が、お化け屋敷の様相を呈してしまうではないか。

 それはそれで居心地がよくなるのだが……いやいや。


 わしはあくまで、生者の世界にひっそりと隠れ棲む図書館の亡霊。それでいいのである。


 ううむ。ではこの不愉快な存在をいかがしてくれよう。

 わしがさらに思案をめぐらせたそこで、書物を難しい顔で立ち読みする学識者の一人と出くわす。すると、子どもはわずかにいやそうに顔をしかめた。


 ……ふむ。

 この子どもが苦手としているのは学識者──いや違うな、とわしは一人ほくそ笑んだ。


 子どもはその顔立ち、雰囲気、身なりからして貴族の子息であろう。そして貴族の子どもというのは、幼い頃から厳しい教師が付いて子どもを勉学に向かわせるものだ。


 子どもの苦手なもの。

 それは、遊びたい盛りの時期を小難しい学問と、窮屈で退屈な時間に縛り付ける教師の存在だ。


 ……フッ。まだまだ子どもよのう。

 よかろう。ここはひとつ、わしの本来あるべき姿を見せてやろうではないか。人を驚かせるだけがわしの特技ではないのだ。


 書棚をまわって、一際難解な論文集の列に来た。


『余剰価値に対する学術的な考察の価値』

 うむ。意味がわからん。

『インフレ。それはすなわち男女逆転の法則』

 うむ。分かるようで分からん。

『愚王と賢王。その岐路と女性遍路』

 ……うむ。ちょっと心惹かれる題材ではある。


 わしがまじまじとその表紙をながめていると、後から付いてきた子どもが本とわしを交互に見やった。


「この本が読みたいの?」


 小さな手と背でよいしょと上段の本を取りだした。

 手元に置いてええと、と読み出すが、習っていない単語が多用されていたらしい。ムッとしたような顔が次第に真剣になっていき、……しまいには悔しそうな、歯噛みするような感情をあらわにしたものになった。


 先ほどまでの、きらきらと余裕ぶった様子がみる影もない。いかにも、子ども特有の悔しさがその表情に表れている。


 ふふん。ようやくわしの秘めたる学識の差が分かったか。

 鼻を鳴らそうとしたわしの眼下で、子どもが強い光を宿した眸でわしを見上げてきた。


「今、ちょっとわからないだけだ。ボクならこんな本、明日にはちょちょいのちょいだ」


 誰から聞いた万能の呪文か知らんが、……ッフ。無理はするな。


「ホントだったら! ボクのお母さまに聞けば、こんなのあっという間なんだ!」


 うむ。それでは、そなたの実力ではないのう。


 ニヤニヤとほくそ笑んだわしに、子どもが整った顔をそれは悔しそうに歪めた。そして、わかったよ……と歯噛みする中でつぶやく。


「ボクは自力でこの本を読解してみせる。それでおまえに講義してやる。いいか! おまえはボクの受講生、第一号だ。それを受けるまで、絶対待ってろよ!」


 忘れるな、と一方的に言って子どもは背を向けた。講義用の本を両手に、ちょうど遠くから声をかけてきた女性に向かって。


 扉から差し込む日差しに逆光して見えなかったが、日に透ける髪と女性らしい身体つき。腕に、歩き疲れたらしい一、二歳の幼女を抱いた女性。


「お母さま……!」


 かけ寄る子どもとくったくなく会話するありふれた光景をながめ、なぜか既視感に襲われたわしだった。その女性を昔にも見たような……。

 まあ、気のせいだろうと踵を返すわしに子どもの声が追いかけた。


「また明日ねー! 図書館の亡霊」と。


 ふむ。見所のある子どもだ。わしの名をしっかと言い当てた。よかろう。明日も待っていてやろうではないか……。


 わしが自分でもめずらしく、名を呼ばれてにこやかにふり返ったその時だった。子どもが、あ、と口を押さえた。


「間違えた。図書館の亡霊はお母さまの昔の呼び名だったね。ごめん、お母さま」


 なんと! わしの呼び名を奪った相手!

 めまぐるしく、わしが記憶を呼び起こす前で、子どもが無邪気に母親に返していた。


「今度は、ボクが『図書館の亡霊』って呼ばれてみたいなぁ」

 ボク、一所懸命頑張るよ、このベルンシュタイン領の図書館を盛り立てるために。


 なんと、なんと……!

 あの子どもは、わしの名を奪った子どもの二代目だというのか! どうりでふてぶてしいと思った。さらには、再びわしの名を奪いにやって来たとは。


 許すまじ! キラキラ子ども! 打倒、キラキラ王子!


 新たな標語を掲げ、わしは久しく怠っていた恐ろしい亡霊顔研鑽のため、今日も北東の鏡の間に向かった。

 ベルンシュタイン領の『図書館の亡霊』、この名は二度と渡さん!


 亡霊の生きがいを奪っては、ならんのである。うむ。

 そんなベルンシュタイン領の一日だった。









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