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冬下虫の見る夢─34





 互いの気持ちが落ち着いてから部屋を出ると、表に待機していた近衛数人と、見慣れた顔ぶれがそろっていました。


「エリィ……!」


 近衛を押し切って顔を見せるや、わたしを抱きしめたのが兄のアルフレッドです。よかった……よかった! と泣きそうな声とふるえる身体に、わたしも涙ぐんで返しました。そして目を上げた先に、少し表情の固い父を見ます。


 ふっと笑って、わたしのほうから父にかけ寄って抱き付きました。なんて似た者同士なのかしらとくすぐったい思いで。


「ただいま帰りました、お父さま。……ご心配を、おかけしました」

「エリィ……!」


 六歳の時に母が亡くなったあの時以来の、涙声の父でした。すまなかった、と謝るその声にも、様々なものが込められているのが今のわたしにもわかります。


 わたしはただ、首をふるだけでした。たぶんきっと……だれにもどうしようもなかった。父と祖父には、一族が昔から受け継いできた使命と性質があった。それが他の人とはどうしようもなく合わなかった。


 でも──これから少しずつでも、難しくても、変えるべきところは改善していくことができるはず。その思いで父を見返すと、どこかさみしそうな表情で返してきました。


「──まだ、嫁にはやらん」と、言葉だけはかたくなに。


 大きく目をしばたたくわたしと、背後で臨戦状態に入る気配の殿下と、くったくなく笑う兄がいました。


 その兄の隣には涙をこらえてわたしの無事を喜ぶアンナさまがおり、さらには書庫室職員や多忙な部署であろうに、わたしの無事を一目見るために駆けつけてくれた薬学室の面々もいます。


 ようやく、わたしもサウズリンド王宮に戻ってきたのだと、実感する光景でした。





 主要な挨拶と顔出し、説明が終わったあくる日。


 内々に、マルドゥラ国の方々とクリストファー殿下、そしてわたしエリアーナと、緊急の会談が行われました。対面した方は、先にも一度お目にかかったアーヴィンさまの兄君、レグリス・カランザ、マルドゥラ国第二王子。


 両目を閉ざしたままの、盲目の王子。肩より下のクセのない黒髪をゆるくひとつにまとめて片側に垂らし、鋭角な雰囲気もない柔和な様は、隣に座るアーヴィンさまと正反対な印象を与えました。


 今もにこやかな様子で卓上の茶器を手にしています。心からその香気を味わっている様子に、わたしも感嘆しました。

 すると、茶器についていた小さなスプーンがひょいと姿を消します。目をしばたたくと、レグリスさまの左手から現れました。まあ、とさらに見つめた前で再び姿を消すと、今度は右袖の中から顔を出します。


 まるで小さな生き物のように変幻自在に動くスプーンに、あらあらまあまあ、と思わず小さな拍手を送りかけました。どうなっているのかしらと。


 すると、レグリスさまの隣で書類をめくっていたアーヴィンさまがかるく息をつきます。


「兄上。子ども騙しで遊ぶ暇があったら、書類確認をしろ」

「内々の会談とは言え、楽しんでもらえるならいいじゃないか」


 あのな、と青筋立てているアーヴィンさまは、わたしが見てきた彼とは違って、どこか素直な印象です。兄に対してはそうなるのでしょうか。


 新鮮な思いで見つめながら、あら、とも思いました。なぜ、わたしの反応がわかったのかしらと。


 その前でアーヴィンさまが音を立てて書類を卓上に置くと、皮肉気な目を鋭くさせてわたしの隣に上げました。静かにお茶を口にしている殿下に。


「オーディン公爵とうちの第三王子が内密に繋がっていた証拠か。ずいぶんと気前がいいな。王太子どの」


 治療薬の処方箋と原料は、先に殿下が神殿で話した通り、病人には無償で提供される。取引材料にはなりません。しかし、わたしの名で出されるものに、マルドゥラ国としては謝意を示さずにはいられないでしょう。


 その上で加算された証拠物件。アーヴィンさまが警戒しているようなのはわたしにもわかりました。これをもとに、どんな条件を突き付ける気だ、と。


 静かに茶器を卓に戻した殿下が、なに、と平素な様子で口にしました。


「今回、そちらの第五王子どのには、またもや不法入国された上、私の婚約者をなにかと助けてもらったようだからね。その対価とすれば、安いものだ」


 それに、と上げた面が見慣れたにこやかさでした。


「この程度の証拠を揃えるのに、あくせくした誰かと私は違うのでね」


 なにやら怖い空気がただよってきて、わたしも心なし横に身を引きます。アーヴィンさまの面もはげしく引きつった様でした。


「なんでだろうな? この物証で内部政争して、当分サウズリンドには近付くなという風に聞こえるんだが?」

「耳だけはいいようだね」


 さらに青筋を立てたアーヴィンさまが、フッと息をついて話の方向を変えてきました。


「まあ、そりゃそうだな。病やらなんやらが落ち着くまでは、当分、成婚も先延ばしだろうからな。そりゃあ、脅威の相手は長く追い払っておきたいよな」


 ニヤニヤと笑うアーヴィンさまに、今度は隣の殿下に青筋が浮かぶのがわかりました。誰が脅威だって? と返す殿下とアーヴィンさまのやり取りに、救いを求めてマルドゥラ王子の背後に立つ二人に目を上げます。


 従者のレイはとうに変装を解いてはじめに逢った時と同じ、真白な髪と優美な顔立ちをさらしています。そして、その隣にいるマルドゥラの侍女の方ですが、レイと並び立つとどこか似た雰囲気があり、わたしも首をかしげました。一見して、ごくごく普通の侍女の方なのですが……。


 そのわたしに小さく笑ったのが、レグリス王子でした。


「青灰色の眸がこぼれ落ちそうですね、エリアーナ嬢」


 さらに大きく瞬いたわたしに、アーヴィンさまが舌戦を切ってレグリスさまのほうを見やりました。兄上、とたしなめるようなのは、憚られる内容のようです。


 まあ、いいじゃないか、とかるく返すレグリスさまは、たしかに両目を閉ざしているのに、迷いなくわたしと殿下に視線を上げてきました。


「クリストファー殿下はとうに、我が王家の秘事をご存じのようだ。それに、エリアーナ嬢には先の食料援助に加えて、今回の治療薬の件。マルドゥラとしては返しても返しきれない恩がある」

「だからって……」


 なおも止めかけるアーヴィンさまを無視して、クリストファー殿下が答えました。


「神に愛でられた王子。マルドゥラ王家で呼ばれるあなたの名が、盲目の身でありながら、なんらかの方法によって実は見えている、ということですか」


 驚くわたしの前で、レグリス王子がやわらかにほほ笑みました。


「今日のエリアーナ嬢は、淡紅色にやわらかな灰色混じりのドレスですね。レースの中には春の花が組み込まれている。初春の中にやさしく芽吹いた、可憐な花のようだ」


 あらまあ、と再度瞬いたわたしの隣では、殿下の不機嫌度が上がるのもわかりました。たしかに殿下の言葉を肯定するのならば、別にわたしでなくとも、茶器の柄等別のものを口にされるのでもよかった気がします。


 やはりアーヴィンさまの兄君だと、変なところで感心してレグリスさまが小さく笑いました。


「私の母が、少し特別な一族の人間でね。その血を引いている私にも、変わった力が使える。ただ──媒介する者なしには、あまり役に立たないがね」


 媒介する者、としぜんと背後の侍女の方に目が行くと、発言の許可を求めて了承された方が、一度さらりと自身の前髪に触れました。


 すると、先のレグリスさまの手品のようにその方が一変します。レイととてもよく似通った、真白な髪に銀灰色の眸、見惚れてしまう優美な女性に。


 まあ、と口を開けそうになったわたしにその方が鈴を転がすような声で笑いました。


「とても素直なお方ですね、エリアーナ・ベルンシュタインさま。あなたさまのご活躍は、このレイを通してつぶさに拝見させていただきました。ぜひとも、我が国にお迎えしたい方だわ」


 隣の殿下の気配がまた一段低くなった気がします。その方は、侍女として一歩控えているようでいて、経験を積み重ねた自信と余裕にあふれた女性でした。


 ビックリするわたしにほほ笑んで、その方が改めて名乗ります。


「ニーナと申します。マルドゥラ王家に仕える星導師の一族、リムル人の末裔にございます」

「星導師……」


 その職業に思い当たったわたしが思わず乗り出していました。


「では、旧カイ・アーグ帝国に仕え、帝国の最盛期を支えながら突如姿を消し、歴史から忽然と足取りが消えた人々──。その一族の方だと」


 うなずかれる女性が、まるで歴史の中から唐突に姿形を取って現れた人に見え、わたしも恍惚の思いで両手をにぎりしめました。


「その不思議の技も、リムル人の力なのですか? それとも星導師の職の方だけ?」


 レイは普通に変装していたはず、と重ねて問うと、ニーナさまがわたしの好奇心に微笑しました。


「この力を受け継いでいるのは、一族のごくわずかな者だけです。特にこのレイは……外見だけは先祖の特徴を色濃く継いでいるのに、能力はからきし。宝の持ち腐れですわ」


 手厳しい言葉にレイはイヤそうにそっぽを向きます。ニーナさまがそう言えば、と反対に身を乗り出してきました。


「王都に戻ってくる際、レイと馬に同乗していた方。ご紹介いただけませんか? レイには伝わらなかったものがその方には通じていたようです。もしかしたら、リムルの血を引いているのやも」


 あらまあ、と思い浮かべた気怠そうな従僕に新たな可能性が加わります。しかし、わたしが笑顔で首をふると、ニーナさまは残念そうにしながらも引きました。そしてエリアーナさま、といたずらっぽく忠告します。


「目に見えるものだけが確かだとは限りません。素直なのは美徳ですが、お隣の王太子殿下のように、リムル人の能力に惑わされない方もいらっしゃいます。あなたに見えているものと、王太子殿下が見ているものは異なるかも知れない。何が真実か。見極めることも大切ですよ」


 それはとても、ドキリとする言葉でした。まるで、先の王太后アマーリエさまと、先王陛下の行き違いのような。神妙な思いで、はい、とやはり正直にうなずいていました。


 ほほ笑んだニーナさまが続けて誘惑の言葉を投げてきます。


「エリアーナさま。我が国には、他国に流出していない旧帝国の真の歴史のみならず、様々な秘蔵書があります。それこそ、あなたさまが目にしたこともないような書物の数々も──。ご覧になってみたいと思われませんか?」

「…………」


 はい、とうなずきかけたわたしはかろうじてとどまりました。殿下、気配が息を呑むほどとても怖いです。


 他にもどんな本があるのか、聞きたくてウズウズしたわたしですが、さすがに状況をあらためてかしこまりました。すると、ニーナさまが殿下に視線を向けて小さく息をつきます。


「女性を束縛するだけの狭量な殿方。女性の能力が自身を上回ることが許せない殿方。そんな方が世の主導権を握っているから、いつまでも女性の価値が低く見られるのだとは思いませんか。クリストファー殿下」


「客観的には同意する部分もあるが、此度の件を恩義と受け取っているのなら、貴重な書物はただエリアーナへ献上すればいいだけでは? リムルの黒魔女どの」


 まあ、と今度はニーナさまの柳眉が跳ね上がりました。


「いやな呼び方ですね、クリストファー殿下。いったい、だれがそのような呼び名を口にしたのかしら」


 言いながら、ニーナさまの眸が隣のレイへ向けられています。レイが心なしか、視線から逃れるように端に寄って顔をそむけました。


 そこで小さな笑いが挟まれます。レグリス王子が笑いをこらえて話を戻しました。まあ、そういうことです、と。


「一族の血と繋がりがある者は、同じ景色を見ることができる。能力に差はありますが。私がこの目でもクリストファー殿下やエリアーナ嬢、そして弟のアーヴィンやこの国で起きた様々なこと。それらを見て知ることができたのは、ニーナのおかげですよ」


 ただ……、とレグリス王子の声が少し固くなりました。ニーナやリムル人の話はここだけのものにしてほしい、と。瞬くわたしに、レグリス王子が静かに微笑します。


「彼らが歴史から姿を消した理由。──あなたになら、お分かりになるでしょう? エリアーナ嬢」


 わたしもハッと思い当たりました。特異な力を持つ者たちが姿を消した理由──いつの世でも、理由はだいたい決まっています。時の権力者や、世の時流から狙われたのだと。


 歴史を思ってうなずくわたしと、現在を見据える殿下の声は反対でした。


「リムル人はけっこう──他にもいそうですがね」

「それはまた……なぜ」


 穏やかにほほ笑むレグリス王子に、殿下も微笑で返しました。


「今回、あなた方がいやに静かだったからです」


 わたしもふと、思いました。レグリス王子と共に来ていたマルドゥラ貴族と、兵士の方々。今回、彼らが無理にでも力に訴え出なかったから、穏便に済んだ面もあります。もしかしたら、そこにもどなたか、一族の方が潜まれていたのかも。


 さらには、マルドゥラの王子が拘束された。その事実だけで、好戦的な国には火に油の状態だったでしょう。でも今回、マルドゥラの人たちはだれも武力に訴え出なかった。それは──。


「あなたが、その能力を使ってサウズリンド王宮内に拘束されたマルドゥラ人と、本国へも停戦命令を出した。おそらく、そこの魔女の目を通して──治療薬開示の声明が出されるのを待ってから」


 今さら、戦慄する思いでした。治療薬の処方箋開示と原料の無償提供、その声明がなかったら。開戦の火蓋はとうに切られていたかも知れない。


 柔和な雰囲気を持つ方でも、見掛け通りに受け取ってはいけない怖い方だと、あらためて思いました。そしてまた──。


「あなたも抜け目のない方だ。クリストファー殿下」


 レグリス王子の言葉にわたしもそれを感じていました。マルドゥラ軍を止める、確実なもの。他国の人間のそういった能力を把握していなければ、今回のことは穏便に収まらなかったかも知れない。この方は、どこまで先を見通していたのだろうと。


 この方には、わたしたち一族の隠し名など必要ない。そしてそれこそが、王なのではないかと。そんな思いを、あらためて実感しました。


 ふん、とそこで皮肉気な声が水を差します。


「結局のところ、どう言葉を取り繕ったって、他人頼りだった、ってことだろ」


 別に王太子一人の手柄じゃない、と口の端で笑ったアーヴィンさまに、収まった舌戦が再開しました。


 群衆の一人が主役を妬むのは世の常だ、存分にうらやんでくれ、と冷笑する殿下に、脇役以下の群衆ってなんだ、と顔を引きつらせるアーヴィンさま。すぐにせせら笑いを返します。まあ、主役の影も薄くなるほど、エルと濃密な時間を過ごしたのは俺のほうだからな、そりゃ主役を奪われそうで焦るよな。はぁ!? と青筋を立てる殿下……。


 この時に至ってようやく、わたしは対面にレグリス王子が据えられていることの意味を知りました。


 隣のお二人は会話を取り繕う様子もないことから、なんだかんだ言って仲良しなのかも知れません。わたしはレグリス王子と話を進めようと、役割分担に徹することにしました。

 彼らは治療薬を持って、早々に帰国の途につかねばならないのですから。





 そして──。


 重臣会議を通してマルドゥラ国使節団の正式な緊急帰国が決まったのが、そのまたあくる日。


 異例な速さではありましたが、マルドゥラの方々はどうやら、事が起こるよりも前に帰国の腹積もりでいたようです。皆さまの動きや様子はとても自然な流れでした。


 王城前に集まった見送りは、時が時だけにごく少数の者です。国境までの道中は来た時と同じ黒翼騎士団、今度はバクラ将軍自らが同行する手筈でした。


 怪我の状態を心配して、「セディおじいさまが行かなくても」と、ウロチョロと出立準備の邪魔をするわたしを、バクラ将軍が少々苛立ったように、


「なんだったら、今からでも敵国の一個師団を私一人で打ち破ってみせるわ!」と豪語しだしたので、怪我人を刺激してはいけないと、わたしも引っ込みました。



 そして挨拶を交わしている殿下とレグリスさまのもとへ戻ろうとすると、アーヴィンさまがちょっといいか、とわたしを横に連れ出します。


 周囲が出立の準備で騒がしい王城前の馬車溜まり。喧騒にまぎれる一角でした。


「俺は……実は、あんたを試してたんだ」


 瞬くわたしにアーヴィンさまが少し自嘲気味な笑みを口の端に閃かせます。


「俺は、兄上こそがマルドゥラの次期王たるにふさわしいと思ってる。だがそれでも──兄上が俺の望みとは異なるところに踏み出そうとしたら。俺はそれでも、兄上を次期王と思えるだろうか。もしも兄上が──、母が存在を消されても守った祖国、サウズリンドとの戦を決めたとしても」


 ……それは、わたしもいつか考えたことでした。アマーリエ王太后と先王陛下のすれ違いを学んだ時に。もしもこの先、わたしがどんなに止めても殿下が戦に踏み込んだら、と。


 だが、とアーヴィンさまの声はくったくなく明るいものでした。


「あんたは相手が意に添わない決断に踏み込もうとしたら、何がなんでもそれを阻止するんだな。ジャンの時のように、力ずくでも」


 ククッと笑うアーヴィンさまにわたしも気恥ずかしい思いをします。ジャンを止めたあの時の煙幕はまだ試験段階で、……少々、改良が足りなかったものです。失敗は成功のもと、と先人も言っています。


 都合よく納得させるわたしを、アーヴィンさまが見透かしたように笑いました。俺も、あんたを見習う、と。


「もしもこの先──兄上やマルドゥラが、俺の望まない道に向かおうとしたら。それが、繰り返された負の歴史を歩むものなら。俺も、身体を張ってそれを止める。母が残した想いは、必ず受け継いでみせる」


 愛した地を戦場にしたりはしない。エイデルの花を守る、レディバードのように。


 わたしも思わず、うれしい思いのまま、ほほ笑んでいました。秋の狩猟祭に出逢ってから、短期間でほんとうにたくさん、この方に何度もたすけられ、励まされました。この方がいなかったら──たぶん、今わたしはここにいなかった。


 心に掛かる思いはありましたが、強いてそこには目を向けず、向けられる黒い眸を見つめ返しました。真っすぐ返すと、その眸がフッと、不意を突いて射貫いて来ます。


「俺は、今もあんたをさらっていきたいと思ってる。ウソじゃないぜ」


 誘いかける黒の双眸。それは、わたしが知らない異国の香り。見も知らぬ他国の文化や風習、生活の調べをのぞかせる誘惑の眸。


 この方にはたくさん──たくさん、たすけてもらった。それなのに、わたしはアーヴィンさま個人に何も返せない。心苦しくて、息も詰まるほどわたしも追い込まれました。


 それでも。


 眸を返して、静かに首をふるわたしに、アーヴィンさまも静かな──大きな、息をつきました。それは、どこかわかっていたような色合いを含んで。


「……あんたを、貴族令嬢の社会から連れ出してみたかったな。海や、その先に広がる未知の国々に」


 まあ、とわたしも痛む胸を押して、ほほ笑み返しました。


「アーヴィンさま。それは、あなたがその世界に飛びだして、そして本にして、わたしに伝えてくれるのでしょう?」


 眸を大きく開いたアーヴィンさまが、次いでくったくない声で笑いました。一本取られた、と。


 笑顔で返すわたしに、ふと、その後ろに視線を向けると、ニヤリと彼らしい笑みに戻りました。そして身をかがめてわたしの耳元にささやきかけます。


「あんたが泣くのをこらえたあの時の表情。押し倒したいほど凶悪的だった」

「……っ!?」


 瞬時に頬に血がのぼる思いで反応したわたしに、アーヴィンさまが意地悪く続けました。


「馬に乗せて走った時も、何度もあんたを抱きしめた。あんた、華奢に見えてけっこうさわり心地いいよな」

「ア、アーヴィンさま……!?」


 声がひっくり返ったわたしの背後で、近衛騎士グレンさまの、うわっと言う叫びが聞こえました。


「やめろ、クリス! 俺の剣を奪おうとするな! 落ち着けっ!!」


 え、殿下? とあわててふりかえるわたしと、その前で快活そうに笑うアーヴィンさま。グレンさまの、殿中でござる! とふしぎな叫びが響いていた、別れの時でした。







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