冬下虫の見る夢─33
そこへ向かう途中、やはり衣服をあらためたジャンが待っていたのに出逢います。休んでいなくていいのかと、具合を見ようとするわたしをとどめて、剣を外され跡だけが残った銅板製の本を返してきました。
言葉はどこか不機嫌そうな殿下へ向けられます。
「……自分も一緒に行っていいッスか」
まるで、どこへ向かおうとしているのか、わかっている口ぶりでした。殿下も静かなため息でそれを受け入れます。王宮内がまだ騒がしいため、周囲をグレンさまたち近衛に囲まれての移動です。
そして着いた部屋には、ドキリと胸が締め付けられる思いでした。まさか、と見上げた先の殿下は厳しい面持ちのままで、怯む色は欠片も見当たらない。
立ち向かおうとされているのだと、わたしも気持ちをあらためる思いでした。
近衛をその場に待機させ、グレンさまとジャンだけを伴って、開いた扉と中を進みます。冬晴れの日差しが差し込む、窓際にいる方の名を殿下が呼びました。
「──オーフェン先生」
顔を上げた方が、わたしたちを認めてほがらかに笑います。いつものように、好々爺の様子で。
殿下の幼少時よりの筆頭教育係、オーフェン老。王宮の三賢者と呼ばれる内の一人でした。
「殿下、どうなされた。まだ城内が色々と騒がしかろう。エリアーナ嬢も無事に戻られたようで、何よりじゃ」
軍部の強攻派が動いたり黒翼騎士団の一部がそれに加わったりと、王宮内はたしかに騒がしかったはず。この方がそれを知っていても何もおかしくはない。
ああ、そうじゃエリアーナ嬢、といつものように一冊の本からはじまる雑談を交わす流れに、殿下がもう一度口にしました。先生、と。
「王家の影──それを統括する長は、あなたですね。ディルク・オーフェン」
おや、というようにオーフェン老の眉が上がりました。それはきっと、昔から交わしてきた生徒と教師のやり取りのように。
王家の影か……、と面白そうに口にした次には、その歴史と形態を説明し出します。
「──英雄王よりもその昔から、連綿と続いてきた王家の秘密部隊。陰ながら王族を守り支え、内偵調査や秘密裏の任務、はては要人の暗殺も請け負う。表の近衛と裏の影。常に王を守り、その治世に陰りがないよう、支え続ける者たち」
ホッホッホとほがらかな笑いがこぼれました。
「その長が、わしだと?」
静かに殿下も返しました。いつものように答えを返す生徒の様で。
「王家の影の長は、王位継承の儀式時にしか明かされない。ゆえに、私も知りませんでした。しかし今回、王家の影には不穏な動きがあった。仮の王座に就いた私の意と反する、別の指示が入っていた」
ほう、と続きをうながす様子に、殿下は冷静に答えます。
「私は、エリアーナの身を守れ、オーディン公爵の動きを見張れと、二つの指示を出しました。しかし、オーディン公爵を見張っていた者たちが離反し、エリアーナの身を狙う側になった、一つ目の異変。二つ目──治療薬の可能性をつぶそうとする者の存在」
ホホ、とオーフェン老が笑います。
「殿下。わかっているとは思うが、それはオーディン公爵にも言えることじゃ」
──オーディン公爵が影の長だったのなら。自身についた監視の目は撤回させることができる。そして、治療薬の可能性をつぶそうとしたのも彼である。
いえ──と返した殿下がそれを否定します。オーディン公爵ではない、と。
「なぜなら、公爵は知らなかったはずだからです。治療薬の可能性がある書物の存在、『ヒューリアの壺』を」
ハッとわたしも思い当たりました。
その話をされたのは、王宮薬学室長ナイジェルさま。あの時は、ただの伝説上の話だと思っていました。でも、『ヒューリアの壺』と並び称される研究書が実在するとわかった。あの場に居合わせたのは……。
それに、と殿下が強いて感情を消したようなのがわたしにも伝わりました。
「私の友人である、イアンの存在をあらかじめ公爵に教えたのも、あなただ。イアンは私が十五の歳に港町で偶然知り合った、極少数の者しか知り得ない存在です。しかし──私に付いていた影なら知っているでしょう」
イアン・ブレナンさま。黒翼騎士団の一人である、殿下のご友人。わたしも一度だけ逢ったその方を思い出していました。騎士というより、貴族の令息のようなやわらかな雰囲気を持った方。
そして、と殿下の声は静かな中にもどこか、皮肉なものを含んだ様でした。
「マルドゥラよりの訪問者が来る。その報と同時に、私は周囲の人間の身辺調査を影に命じた。アレクセイ、グレン、アラン、テオドール叔父上、アルフレッド、ベルンシュタイン侯爵、古参侍従──エリアーナの周辺もすべて。だが一人、報告に嘘が混じっていると直感するものがあった。私が昔、本人から聞いていたものと、微妙に差異があったからだ。──イアンのものだけに」
影の報告に手を加えられるのはだれだ。
ふむ、と相づちを返したオーフェン老が口元の髭をなでました。しかし、と続けられたオーフェン老の言葉は、わたしも息を呑むものでした。
「その者は確か……不慮の事故で亡くなったと報せが出ていたのう」
動揺のまま、とっさに殿下を見返したわたしの前で、やわらかな声がたずねます。
「あなたが手にかけられたのか? ご自身の友人を」
「──はい」
理由は、とうながす空気に殿下は淡々と答えました。一切の感情を消した声で。
「陛下を、故意に感染させた人物だったからです」
灰色の悪夢。死の病と恐れられるそれに、故意に感染させた──。それは、どんな言い訳も情状も考慮されない大罪。
そんな……なぜ、と混乱と胸が締め付けられる思いで殿下を見つめていると、ホッホとふくろうのような笑いがもれました。それにも目を疑う思いでオーフェン老に視線を戻します。
「まあ……まだ甘いところはあるが、及第点かのう。殿下」
「影の長だと、認められるのですね」
「さてのう」
ここまで来て、まだとぼけたようにオーフェン老ははぐらかします。しかし、その言葉は決定権を持つ者のそれでした。
「王の座につく者に課せられる、試練のひとつ。王は私心で動くか。王が私心で動けば、国が乱れる元じゃ。アレクセイやグレンが使われる可能性もあった……だが、そやつらは忠義が厚い。家族や恋人を人質に取られても、陛下や殿下への忠誠を示したじゃろう」
グッと殿下の手が拳を握るのがわかりました。オーフェン老の言葉は、わたしたちの背後にいるグレンさまの存在も目にしていながら、淡々としています。
「また、そやつらだと忠義ゆえに自ら命を絶った可能性もある。それでは、殿下が自ら乗り越えるべき課題にはならんのう。しかし──殿下。甘さはやはり変わらなかったか」
穏やかな眸が、少し隣のわたしにも向けられました。
「友人であろうと、イアンの罪を明らかにしていれば、その時点でオーディン公爵の罪も明らかになっていたはずじゃ。そして、エリアーナ嬢が狙われることも、治療薬の手掛かりが狙われることもなかった。──まだまだじゃのう、殿下」
それはわたしの胸にも、そろりと忍び込む毒のようでした。まるで殿下が、わたしの命や治療薬の手掛かりと、友人の名誉を天秤にかけていたような。
そして、それを払拭するかのような、殿下の声でした。
「あなたの言葉は、すべて偽りだ。ディルク・オーフェン」
それはもう、生徒として答える者ではない、神殿内でも見せられた王者の気配。
「あなたはまず、私の友人であるイアンの存在をオーディン公爵に伝えた。彼の裏切り行為によって、私がエリアーナにかかり切りになれなくなるのを見越してだ。そして、治療薬の可能性がある『ヒューリアの壺』の存在も教えた。エリアーナが、それを手に入れる可能性も」
わたしが狙われたのは、暴動の起こった町へ向かう途中。あの時、わたしは命そのものを狙われました。──これがきっと、オーディン公爵の命。
けれど──『ヒューリアの壺』と同等の価値があると見なされた、ファーネス博士の研究書。治療薬の手掛かりと目されたそれを消したのは──それを、命じていたのは。
「もしも──百歩譲って、あなたが私に王者の試練を与えようとしていたのだとしても。治療薬の手掛かりを消そうとしたことだけは解せない。あなたは、懸念されたのでしょう。たとえ、エリアーナを消しても他の者が──ベルンシュタイン家の人間がそれを手に入れ、治療薬を完成させるかも知れない可能性を」
息を呑む思いでわたしもその方を見つめ返していました。白髭をたくわえた、穏やかな風貌の老人、オーフェン老。
「エリアーナ・ベルンシュタインは王太子婚約者だ。そして、ベルンシュタイン家は『サウズリンドの頭脳』という隠し名を持つ。──あなたは、貶めたかったのではないですか? 大層な隠し名を持つ家の者でも、大陸中を恐怖に陥れた病の治療薬だけは作れなかったと」
なにが、『サウズリンドの頭脳』。しょせん、人の命を奪う戦時にしか役に立たない、頭でっかちの輩ではないか。
嘲笑う声が聞こえたようでした。しかし、それが凛とした殿下の声で変わります。
「あなたは、王宮の三賢者などではない。ただ、おのれの猜疑心と嫉妬心を肥大させた、オーディン公爵と同じ俗物だ」
ふいに、日差しの中にいる方の形相が一変したように感じられました。重たそうな眉の下の眸が、鋭く冷たくなったのも。
「……ホッホ。言うのう、未熟者が。お主が今回気付けたのは、そこの従僕が話したからであろう」
後ろのジャンがぴくりと反応するのが、ふりかえらずともわかりました。そしてそれに、わたしのほうが返していました。込み上げたもので、思わず感情的に。
「ジャンは……何も話していません。あなたのことは、ただの一言だって……!」
彼があの時、どんな思いでわたしの元に戻って来てくれたのか。きっと──想像もつかないくらい、迷って悩んだ。それでも戻って来てくれたのは、おそらく、わたしへの信頼があったから。彼が抱えているもの、すべてを受け容れると言ったわたしを信じてくれたから。
ふん、とオーフェン老は冷ややかに切って捨てました。
「現に、こうして裏切ったしのう」
わたしのほうが傷付けられた思いでふるえると、隣の殿下が一度軽くわたしの手を握りました。
「私があなたに目を付けたのは、それだけではありません。今回、オーディン公爵はいやにこちらの動きを読んだ。私は後手に回らざるを得なくなりました。今まで、あまりなかったことです。公爵に助言をする者がいるのではないかと──そう思いました」
そして、その対応の仕方に既視感があった。そう、殿下は話します。先生、ともう一度呼び方をあらためて。
「私は幼い頃から何度も、あなたと盤上遊戯の対戦をしてきた。あなたが私の手を読むように、私もあなたの手のクセはいつしか覚えました。今回、オーディン公爵のそれは、あなたが打つであろう手によく似ていた」
オーフェン老がはじめて聞く、冷ややかな声で返しました。
「あの者は、まんまと殿下が仕掛けた罠にはまったようですな。エリアーナ嬢の囮を、わざとつかませられたか。勝利をつかんだと思い込んだ瞬間が、一番目がくらんでいる時だと助言はしたが……。おのれ一人ですべてを成し遂げたと思い込んでいる方には、届かなかったようですな」
それはもう、すべてを認めた者の言葉でした。ふいに、殿下の拳に力が入るのがわかります。なぜです、とつぶやく声には抑えていた感情がありました。
「なぜ、イアンを使った。命じたのはオーディン公爵でも、あなたなら他にいくらでもやりようがあったはずだ。なぜ、父上を……私の友人を、利用した!」
「答えはもう、ご自身で見付けられているのでは?」
静かに返され、激昂した殿下の勢いも静まりました。こぼれた声は、大人のものなのに、どこか幼い生徒のよう。
「……私を、傷付けたかった」
ホッホ、と口にしたオーフェン老が窓際から近くの机に向かいます。不公平ではないか、殿下、と。
「わしはもうずっと昔から、地の底の業火の中で過ごしてきたようなもんじゃ。人の中に、これほどの生き物が住んでいたのかと、自身で驚くほどじゃ。……忘れもせんわ。四十年近くも昔の大陸戦争──わしはあの時、はじめてその存在の才を目の当たりにした。わしが考案した作戦など
向けられた視線に、わたしも息を呑みました。その視線から庇うように前に出る殿下を、わたしがとどめます。
バクラ将軍が一躍、英雄として名を馳せた戦。当時、劣勢だった戦況を一気にひっくり返した作戦。それは、わたしの祖父、エドゥアルト・ベルンシュタインが考え、バクラ将軍に授けたと聞きました。あの裏にいたのが、オーフェン老……。
「その者たちは、進んで表舞台へは上がって来ない。常にもったいつけて陰にひそんでいる。いやらしいのう。その才を誇るでもないのに、緊急時に乞われれば、これみよがしにその才を見せつける。なんと卑劣な者たちじゃ」
向けられた感情は、はっきりとわたしを傷付ける意思あるものでした。のう、エリアーナ嬢、とオーフェン老の声は、じわじわと沁み込む毒のよう。
「そなた、考えたことはないか? お主がいなければ、この度の騒動は起こらなかったかも知れん。ファーミア嬢かミレーユ姫が殿下の妃になっていれば、オーディン公爵もあのような手段に出ることはなかったろう。ファーミア嬢もまっとうな貴族令嬢の道を歩んでいたはずじゃ。──そなた一人が現れただけで、どれだけの人の人生が狂わされたかのう」
「オーフェン……!」
一歩進み出て声を荒げたのは殿下でした。今までにない怒気を見せられた殿下ですが、オーフェン老はかまわず続けます。
「この殿下もそうじゃ。わしが昔から、何よりその存在を憎悪してきたベルンシュタイン家。地方で永遠に隠棲していれば、わしの中の生き物も静かであったろう。なぜ、再びわしの目の前に現れた。わしの教え子までたぶらかした。そなたが殿下の婚約者になどならなければ、わしは殿下を裏切り、傷付けようとまではせなんだ」
「ふざけるな……っ!」
大きな声と足音で、殿下がオーフェン老を止めました。大きく歩み寄った勢いのまま、その胸倉をつかんで。
「おまえの身勝手な理屈で人を傷付けるな! 嫉妬も欲望も、人間ならばだれもが持つ感情だ。それを制御できなかったおのれの未熟さを、他者のせいにするな! 他人は、自分の感情のままに殴っていい存在じゃない。自分に煮えたぎる感情があるように、相手にだって同じものはある!」
フッと、オーフェン老が小さく笑んで返しました。青臭くなったもんじゃ、と。
「煮えたぎる感情のう……本にしか興味のない一族にそんなものがあるのか。ただ、泣くしか能がない者に」
再度向けられた視線に、わたしも自分が泣いていることに気が付きました。ぶつけられた言葉が痛かった。存在を否定されたことが。でも……。
涙を拭こうとすると、エリィ、と気遣う声でかけ寄ってきた殿下がわたしを胸に抱きしめました。そのまま、言葉は背後の老人に向けられます。
先生──、と眸を閉ざし、決別を決めた者の声で。
「あなたは、直接何かをしたわけじゃない。公に裁かれるのは、オーディン公爵だ。けれど──私は、あなたを絶対に許さない」
陛下を病に感染させたのはイアンさま。そのイアンさまを罠にはめたのは、オーディン公爵。……オーフェン老は、ただイアンさまの存在を公爵に教えただけ。治療薬の可能性を教えただけ。
そして、王家の影は公にはできない。内々に処理される。
ぎゅうっとわたしを抱きしめた殿下と、オーフェン老のいつもの笑い声が聞こえました。ホッホッホ、とほがらかに。
「もとより、この道に踏み込んだ時から覚悟はできていますわい」
それにハッとしたのがわたしでした。抱えていた本ごと瞬時に殿下を押し切り、その方のもとへかけ寄っていました。
小さく割れた音と、重たそうな眉の下から大きく見開いた眸。その方を下に、わたしも感情が昂っていました。あなたは、とはげしい怒りで。
「どこまで、人を傷付ければ気が済むのですか。あなたが自害などすれば、殿下とジャンが傷付く。自害なんてそんなもの、なんの償いにもなりはしません。そんな甘えも逃げも、わたしは絶対に許さない」
見開いた眸が、次には嘲るような色を帯びました。
「自害も許さない。生きて、この煮えたぎる思いを抱えたまま、サウズリンドの頭脳の栄華をこの目に見ろと。……生きながら、地の底にいる思いを味わう。それが、わしにふさわしい生き様ということですか」
「ええ」
さらに歪む眸にわたしは返しました。その名を呼んで。
「以前、あなたはこうおっしゃった。『弟子が師よりも先に逝くことほど、不幸なものはない』と。オーフェン先生。なぜ、反対のことが不幸ではないと言えるのですか?」
年を取った者が先に逝く。それは自然の摂理。けれど、それを悲しまない者がいないわけじゃない。不幸に思わない者だって。
「残された者は、必ず悲しむ。後悔する。自分を責める。それは、だれの、どんな死だって一緒です。あなたを失ったら、傷を負って苦しむ者がいる。わたしは──殿下たちを傷付ける者は、だれが相手だろうと、決して許しません」
再度大きく見開いた眸に、強く口にしていたのにもう抑えが効かず、ボロボロと大粒の涙がその方に向かってこぼれ落ちていました。
「……ウルマ鉱山麓で、たくさんの遺体を目にしました。もう……もう、だれにも、死んでほしくない」
間に合わなかった。あんな思い、もう二度としたくない。してはならない。
思いとは裏腹に大きくしゃくりあげるわたしを、隣で膝をついた殿下がやさしく引き寄せました。暖かい胸で涙が止まらなくなってしまったわたしを抱きしめながら、殿下が身を起こしたオーフェン老に告げています。
「先生……。あなたはアマーリエ王太后が残した、王家への遺恨、その一人ですね」
その言葉にはびっくりして、涙も引っ込む思いでした。しゃくりをこらえる私の後ろで静かな会話が交わされます。
「……いつ、気付かれた?」
「王の試練、と言われたあたりから」
王家に遺恨を残された、アマーリエ王太后。国王陛下と、ロザリア王姉、──偏愛されたというテオドール王弟殿下。三人の母親であり、ラルシェン地方では復興に尽力した女性として敬愛される方。
「まったく……抜け目のない方じゃ」
「師に似たんですよ」
「同類扱いするでないわ。……おちおち、亡者を引き連れて地の底へも行けんのか」
そうしてください、と返した殿下の声はいつもの声音で、くったくなさと悲しみ、ふたつが入り混じったものでした。
「あなたには、まだやってもらうことがある。ディルク・オーフェン。アマーリエ王太后の残した亡者と遺恨、それらを根こそぎあぶり出す。それが終わるまで、楽隠居はさせません」
「年寄りをこき使う気か」
「もちろん──搾りかすになるまで」
少しゾクッとしたわたしがとっさに離れかけて、その腕が許してはくれませんでした。
ジタバタするわたしたちを見て取ったように、オーフェン老にも大きなため息が出ます。ポツリとこぼされた声は今までのものとは異なり、胸に染み入るやさしさがありました。
「わしはやはり、ベルンシュタイン家は嫌いじゃ。だが……あなたの伴侶にエリアーナ嬢がいることだけは……愚かな師でも、喜ばしく思う」
オーフェンさま、と思わずふり返ったわたしに、ほがらかな顔が答えました。ひどい顔じゃ、と。
大泣きして、たしかにすごい顔に違いないと今さらあわてるわたしと、ハンカチを貸してくれる殿下にひとつ笑って、オーフェン老はグレンさまに連れられ、ジャンと三人で部屋を後にしていきました。
二人だけになった部屋で急いで身を取り繕うわたしに、殿下が笑ってからかう言葉を口にします。ムムッと思いながら鼻をすすることもなくなったそこで、殿下の体温がスッと離れました。
顔を上げると、いつもの余裕に満ちた殿下ではなく、少し覇気のない神妙な様子があります。
「……エリィ。オーフェンの言っていたことは、ひとつだけ真実がある。私は、イアンの罪を公にはしなかった」
「……なぜ、ですか?」
「イアンは……恋人と、その家族を人質に取られていた。皆、灰色の悪夢の感染者だった」
ああ、とようやく納得がいきました。罪を明らかにしていれば、オーフェン老の言通り、公爵の罪も早くに表に出せた。しかし──それでは、人質に取られた方々の命もなかった。
大罪を犯したそこにどんな事情があろうと、情状酌量はされない。それが、王家の者に手をかけるということ。
「私の手配で内密に助けだし、抑制薬で進行は遅らせた。治療薬も、間もなく手配されるだろう。……事情を知れば、彼らは私を恨むかも知れない。だが──私は、友人が命を賭してでも託した思いを優先すると決めた」
イアンさまを手にかけられた殿下。王太子としての立場と、友人としての立場と。どちらも譲れずに出した結論が、それだったに違いありません。
「ごめん、エリィ」
ふいに謝られて、わたしは目をしばたたきます。いつもわたしに真っすぐ向けてくれる青い眸が、今は下を向き、まるで何かを怖がっているようでした。
「私はほんとうなら、きみに触れる資格もない。きみを──何度も、何度も、危険な目に遭わせた。たくさん、傷付けた。きみは、ここに戻って来てくれたけど…………もし」
言い淀んだ声が、口にしたくなくて、それでも殿下らしい責任感の強さで言葉にしたようでした。
「もし、きみが婚約者の立場を降りたいなら、私はきみの意思を尊重する。今回のようなことが今後、二度と起こらないとは言えない」
また、同じような危険に遭わせるかも──もちろん、そうはならないよう、充分気を付けるけれど、と苦渋に満ちた声でした。それは、はじめて見る殿下の弱さでした。
いつもは常に余裕と自信、王太子らしい威厳と華やかさに満ちた方なのに……。そう思って、わたしも気付きました。
殿下も、傷付いていらっしゃるのだと。
友人を自ら手にかけ、さらには幼い頃からの師も自身で断罪した。陛下の病や、母親であるアンリエッタさまの兄、伯父である人とも対決した。
さらにはきっと──わたしが危機に陥っていることにも、ずっと胸を痛めていた。反対の立場だったら、わたしも胸がつぶれる思いだったでしょう。だから、これがきっと、殿下が示せる精一杯の贖罪。
殿下は……、とつぶやいた声に、殿下が目に見えてビクリとしました。わたしから告げられる言葉を待つ、叱られた子どものように。
「わたしが他の男性に嫁いでも、平気なのですか?」
「……っ」
激しく荒立った感情と握った拳に青筋が浮く力を見て、いじめ過ぎたと思いました。だって……わたしは、ファーミアさまにもだれにも、殿下を渡したくないと決意して立ち向かったのに。
そっと膝を立てて、まるで懺悔するようにうつむいていた殿下の頭を胸に抱きしめました。驚く様子に、少し前はおそれ多くてふれるのも躊躇していた金の髪をなでます。
もしかしたら、もう二度と、この方にふれることもかなわなかったかも知れないと思うと、なおさら込み上げた愛しさを胸に。
「殿下……クリストファーさま。あなたの弱いところも、わたしにだけ実は臆病なところも、全部、わたしは好きです。あなたは以前──わたしが逃げても、何度だって捕まえると言ってくれた。だから、今度はわたしがあなたを捕まえに行きます」
少しだけ身を起こし、その頬に手でふれて、少し曇った青空色の眸を見つめ返しました。
「もし、わたしが婚約者の立場を解消されても──今度は、わたしが自分であなたの隣を勝ち取ってみせる。絶対に、諦めたりしません」
「……エリィ」
「楽しい時も辛い時も、どんな時でもそばにいさせてください。もしも──それで危険な目に遭うことがあったとしても、二人でなら乗り越えられる。違いますか?」
──私たちは今きっと、歴史が動く時代の節目にいる。一人だとおぼれそうだけど、二人でなら乗り越えて行ける。
あの時の言葉を復唱すると、くしゃりと秀麗な面が泣きそうな様子で崩れました。わたしも、それにありったけの想いで伝えます。
「クリストファーさま。わたし、エリアーナを、あなたの妃にしてくださいませ」
「エリィ……ッ」
わたしの背に回った手に引き寄せられ、わたしも首を傾け、誓いのような約束の印のような──かけがえのない想いを交わしました。
吐息が離れて眸を合わせようとすると、すぐに殿下の顔がわたしの胸元に伏せられます。気恥ずかしさで少しうろたえたわたしですが、どこかひっしな殿下の様子に、そっと抱きしめ返しました。
この方は王なのだと。
今は、その面を見てはならない。でも、この方がその弱さを見せるのは、この先もずっとわたしでいて欲しい。心が離れないよう、行き違うことがないよう、お互いをこの先も見つめていきたい。
その想いで殿下を抱きしめるわたしに、ふるえるような声がつぶやかれました。
「エリアーナ……きみを愛している」と。