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冬下虫の見る夢─32




 座り込んだまま、周囲の声にぴくりとも反応しない女性。父親の公爵は連行する近衛のほうこそ従者のように引き立てていきましたが、娘の彼女だけが取り残されていました。父親に見向きもされずに。


 近衛を下がらせて、抱えたままの書物と一緒にわたしも膝を落としました。


「……ファーミアさま」


 呼ぶ声に、かすかな反応と、視線を落としたままの頬がわずかにふるえました。


 彼女ともきちんと決着をつけなければならない。機会はきっと今この時だけだと、言葉を重ねようとしました。そこで、わたしよりも先に言葉がこぼれます。


「……あなたのためじゃないわ」と。


 一度こぼれたものは、見る間に堰を切って飛び出しました。まるで、ずっと押し込めていた感情の波が、奔流のように押し寄せるように。


「あなたなんかのためじゃない。私は、ずっとあなたが嫌いだった。エリアーナさま。突然現れたあなたに、私が目指した場所を奪われた気持ちがわかる? なぜあなたなんかがいるの。あなたさえいなければ、私は──。……なぜ、私を庇ったりするの。あなたなんかに庇われたくなかった。あなたなんかに……あなたなんかに!」


 むき出しの感情をぶつけられて、わたしもぎゅっと息を詰めました。わたしの行動は、きっとファーミアさまをさらに傷付けて追い詰めた。

 でも、わたしにも引けない思いがあるように、ファーミアさまが取った行動も、その方を想ってのもの。


「……あなたは、殿下の名誉を守りたかったのですね」


 国中に広まった、殿下と聖女の話。それは間違いなく、オーディン公爵派の人たちが噂をまことしやかに広めて真実とさせる作戦でした。でも、公爵の悪事が暴かれ、虚偽が露見していく中で殿下とファーミアさまの噂だけが払拭されない。


 きっと、いつまでも民の間に残り続ける。それはすなわち、殿下の不名誉に繋がる。だから、ファーミアさまはわたしのためじゃない、と言った。


 握りしめた彼女の手を取ると、それが引かれる前にわたしは自分の頬に勢いよく当てました。ベチ、と鈍い音がしただけでしたが、やっと彼女が目を上げました。


「好きなだけ、叩いてください、ファーミアさま。わたしが気付かない間にあなたを傷付けた分だけ、好きなだけ」


 そして、と続けました。


「その後は、わたしにも叩かせてください。わたしはあなたが起こした行動は、やはり許せません。聖女として皆に希望を与えたのはともかく、乾燥させたポメロの実を配り、感染者を増やす助力をした。それだけはやはり、絶対に許せない」

「なによ……」


 つぶやいた声と眸に、ほのかな昏い光が顔をのぞかせます。


「あなたはいつも……いつも、綺麗事ばかり。偉そうなことばかり。あなたに何がわかるの? いつも守られて安全な場所から知識ぶるだけじゃない。あなたなんかにはわからないわ。私のような人間のことなんて。大っ嫌いよ。わかったような口をきかないで」


 ギリッと叩くのではなく爪を立てられ、鋭い痛みが走りました。小さな熱いものも。

 それでも、わたしも引かずにその眸と対峙していました。


「でも、わたしはあなたが好きです」


 動揺する眸に無理やりにでも押し込む思いで、わたしは二人目の相手に自分から踏み込んでいました。


「ファーミアさまは、わたしが王都に来て社交界に慣れていないあの時、いつも気遣ってくださいました。他の方は、王太子婚約者だから、と色々な目に遭うのも当然といった雰囲気だった。でも、あなたはいつも気にかけてくださった。それが当然とは思わずに──人の痛みを知る方だと、思いました」


 それを気遣ってくださる方だと。わたしがしつこく絡まれていた時も、衣服を汚されて笑われていた時も。いつも近くで気遣ってくれた。


「やめてよ……私はあなたが嫌いだって、言ったでしょう」

「でも、わたしは好きです」

「やめてったら……」


 声がふるえるファーミアさまに、いつしか自分でも感情が昂っていました。


 この状況になって、はじめてファーミアさまの想いを想像しました。聖女として名を立たせ、殿下の正妃になろうとした想い。きっとファーミアさまは、わたしなどには想像もつかない思いを経験してきた。


 彼女に返せるものも、どんなものもわたしにはありません。むしろ、それはきっと、さらに彼女を傷付ける。だから──。


「わたしは、テレーゼさまがずっとうらやましかった」


 わたしたちの年代で、だれもが認める社交界の華。皆を牽引していく次世代の代表。


 ファーミアさまのどこか納得するような暗い光に、わたしは首をふりました。五年近くも前から、テレーゼさまと同じくお逢いした時から思っていた想い……。


「わたしも、あなたをミア、って呼んでみたかった。ファーミアさま」


 見開いた榛色の眸が、見る間に乾いたあとに浮かぶものであふれました。その波におぼれて、息もできないくらいに。


「馬鹿じゃないの……」


 馬鹿じゃないの、ともう一度つぶやいたファーミアさまが泣き崩れそうになった、その時でした。その眸がハッとわたしの後ろに向かい、「──お嬢!」とジャンの叫ぶ声も聞こえました。


 何が、どういう順番で起こったか、判然としませんでした。


 周囲はわたしたち二人を慮って距離を置いている。悪事を働くものはすでに捕えられ、この場にいない。どこか気がゆるんでいた一瞬。


 ファーミアさまのとっさに上げたひっしな手と表情。それを視野の端に、わたしもふりかえっていました。本能的に──肌身離さず手にしていた本を掲げて。


「……っ!!」


 ガッキ、と固いものを穿つような音と全身を貫く衝撃。


 目前のかなり薄汚れた男性が何かをわめき、その力にふり回されて、わたしも手にしたものを離さなかったために転がされました。


 両腕の激しいしびれと、ただ疑問符が浮かんだわたしの前で、めずらしく感情をあらわにしたジャンが割って入ります。


「ヴァトー……!」


 応戦することもなく、ジャンの短剣が一撃でその方を止めました。最後に一瞬、ジャンと目が合い、そのまま今度こそ倒れ、動かなくなった男性。


 その人物から隠すように、ひょろりとした背が立ちふさがりました。荒い息を静かに殺して。


 周囲はとたんに騒がしくなっています。近衛たちがあわててかけ付け、周囲を警戒しだす動き。その中でジャンがぽつりとつぶやきました。


「何かがひとつ違っていたら……オレがヴァトーだった」


 王家の影の一員。表に出たのは、ほんのわずかな差。自分と彼の何が違う。


 そうこぼす彼の言葉に、わたしも思いました。もしかしたら、わたしのそばにいたのは、ジャンではなく別の人だったのかも……。でも、と思います。


 手にしたのは、大判の特製記録書。これは、もうジャンに燃やされないためにわたしが自分で考え、作成した、この世にひとつだけの書物でした。


 表紙に深々と刺さっているのは、わたしの命を奪おうとした剣です。それは銅板製の厚い装丁に阻まれて、食い込みとどまっていました。わたしは自分で想定したことを、ようやく叶えたわけです。


 そしてその思いのままに思わずつぶやいていました。ジャン、と。どこか無防備にふり返った彼に告げます。わたし、会得したわ、と。


「──これが東方見聞書にあった、シンケンシラハドリね!」

「違うッス……!」


 反射的に返してくる彼に安心します。やっぱり、他の人ではこうはいかないと。……お嬢は毎回、オレにツッコミさせなきゃ気が済まないんッスか、と傷口が痛むようにうめいたジャンにわたしもあわてました。


 一昨日の夜も殿下と逢った後、怪我を押してわたしを探しに来たのが彼でした。今も、怪我をしているのに飛びだしてきてくれた。

 彼の怪我の状態を見ようとした、その時でした。


「エリィ……ッ!」


 他にも不審者がいないか、警戒して抑える近衛たちをふり切って、殿下がわたしをさらうように腕の中に抱きしめました。座り込んでいたわたしに合わせて、膝をついて。


 勘弁、してくれ、とふるえるような声がわたしの背に落ちます。


「……きみを……ここまで来て、きみを失うなんて……っ」


 まるで、すがりつくような声とふるえに、常に隙なく先読みし、凛然とした気配と不敵な笑みを浮かべる殿下の弱さを垣間見た気がしました。


 わたしも無事であることを伝えるためにその背に手を回します。なだめるようにその背をさすると、殿下も荒い鼓動を静めるように息をつきました。


 身を起こしてわたしの無事を再度確認すると、ため息のように表情をゆるめて、もう一度やさしく抱きしめます。


 立ち上がった殿下に手を貸されてわたしも立ち上がり、周囲を近衛たちに囲まれました。剣が刺さったままの書物はジャンが預かったようなのを合間に見、ファーミアさま、と思った時です。


 リィン、と再び鳴った音にハッとすると、近衛の壁の向こうにやって来ていた神官長を目にします。殿下が近衛を引かせ、その方と向き合いました。


 表情を見せない方の、静かに結ばれていた口唇が開きます。


「──ファーミア・オーディン嬢は、私が預かりましょう」と。


 それに少しの逡巡を見せた殿下が、ややしてうなずきました。


 ファーミアさまには、おそらくこれから父親の公爵が犯した罪や諸々について、聴取と言及があるでしょう。しかし、それまでの一時は、静謐な神殿内で預かる、と。


 二人の決定に周囲の神官たちが動きます。座り込んだままのファーミアさまをうながし、連れ立っていくその後ろ姿を見て、もう今までのように言葉を交わすことはできないだろうことを予測しました。


 もう、昔には戻れない。でも──いつか。

 祈るように見つめたわたしに、静かな声がかけられます。


「エリアーナ・ベルンシュタイン嬢」


 ドキリとするような声にわたしも視線を戻します。まるで、だれもいない静謐な神殿内で、自分のすべてを丸裸にされるような、隠し事は何もできない眸。

 それがフッと、ほんのわずか。睫が揺れるくらいのはかなさで色を変えました。


「──また、お逢いしましょう」と、次を伝える言葉で。


 変に高鳴った鼓動をなだめ、その方が背を向けて神殿の奥へ姿を消していくのを、殿下と二人、静かに見守っていました。






 ~・~・~・~・~





 神殿での騒動から病人や医師たちに詫びをして表に出ると、さらなる歓声に包まれました。内部で起こっていたことは人伝に知れ渡っていたらしく、姿を見せた殿下とわたし、そしてバクラ将軍に再び大きな声が上がります。


 それに応えて、近日中に表に広がる人々も神殿内へ迎え入れる約束をし、わたしたちは王宮へ引き上げました。


 そのサウズリンド王宮。

 バクラ将軍はまだ後始末が終わっていないと数人の黒翼騎士団と別場所へ。アーヴィンさまたちマルドゥラの王子も、無事であることを証明するために神殿まで来ていただいたようですが、安全な別室へ移されました。



 そして、王宮へ戻ったとたん、連絡が先に行っていたのか、わたし付きの侍女たちが泣きそうな顔でかけ寄ってきます。しかしやはり王宮務め侍女。感情をこらえた様子で殿下から引きはがされると、わたしは念入りに身を清められるところからはじまりました。


 病の元はどこでつくかわからない。王宮内では警戒がどこよりも厳しいのはわかりますが……正直、騎馬で駆け戻った時と同じくらいの精神的疲労を覚えました。


 身を隠すためにずっと少年の格好でしたが、ようやく令嬢らしい姿に戻ります。侍女たちにも気合が入っていて、わたしも少々たじろぐほどでした。


 そこへ、やはり身を改めた殿下が迎えに来ます。わたしの姿にいつもの甘い言葉を落として、今さら顔を赤くするわたしにほほ笑み、真っ先に挨拶すべき方のもとへ向かいました。



 王宮の奥深く。厳重な王宮内で、さらに限られた者しか入室が許されていない一画。第一近衛隊、グレンさまの兄、ジークさまたちが守り固める一室。


 声を落とした侍従に取り次がれ、入室したそこで音を立てて立ち上がった方がいました。


 厳しい表情のサウズリンド王妃、アンリエッタさま。常に相対する者を律するような厳格さを漂わせる方ですが、今はどこか窶れ、悄然とした様子も見受けられました。


 わたしも先の出来事を思い出し、礼儀正しく挨拶のために身をかがめます。そこを、かけ寄ってきた王妃さまに抱きしめられました。


 驚くわたしに、アンリエッタさまの暖かい抱擁と、感情があらわな涙声がかけられます。


「……無事で、よく、無事で……っ、エリアーナ」


 よかった、と無事を喜ばれている暖かさに、ふいにわたしにも感情の波が押し寄せてきました。


 様々なことが起こって、アンリエッタさまもずっと、気が休まらない日々だったでしょう。なのに、まずはわたしの無事に涙してくれる思い。


 それが身に染みわたって、わたしも涙腺が決壊するのを感じました。無事を喜ばれている喜び、うれしさ。……本当に、とても危ない橋を渡ってきたのだという安堵感。


 怖い思いや恐怖、苦しかった思いなどが一気にあふれて、わたしもその方に泣き付いていました。


「お母さま……」と。




 大泣きした女性陣二人の感情が落ち着くのを待って、用意された席で殿下が状況を説明します。

 まずは、隣室で病床に伏している国王陛下の状態。


「ラルシェン地方で──治療薬が作り上げられたその時点で、アレクから秘密裏に情報は来ていた。王宮薬学室の者たちに治験をさせて、陛下へも投与がされている。症状は落ち着いているし、今はまだ面会も会話もままならないけれど……回復に向かう見込みも強くなったと、ハーヴェイの言だ」


 陛下の身を案じる殿下やアンリエッタさまの心中は如何ばかりだったのかと、わたしも胸を痛めました。それは、わたしが幼い頃に味わった思い。そして今──サウズリンドのみならず、他国へも広がっている思い。


 宮廷侍医筆頭の、ハーヴェイ医師。今、睡眠も削って陛下の病室に詰めているとか。その方になら、とわたしも最大の気懸りが溶けた思いで息をつきました。


 そして、殿下は神殿内での出来事をアンリエッタさまに説明します。


 王妃さまの兄である、オーディン公爵の犯した罪の数々についても。覚悟を決めていたように、アンリエッタさまはそのすべてをつぶさに聞いていました。


 そして、決然といつものように厳格な判断をします。


「サウズリンドの法に基づいて、適正な裁きを行いなさい」と。


 それがたとえ、自身の身に及ぶものであろうと。

 思わず、隣に座ったわたしは王妃さまの握りしめていた手に手を重ねました。アンリエッタさまが少し眸をやわらげてわたしを見、やはり迷いなく殿下に返します。


「肥大し過ぎたものは、いつか自身の身をも押しつぶすものです。……兄は、夢を見過ぎました。おそらく、自身こそが王を陰から支配する、もう一人の王になりたかったのでしょう」


 サウズリンド王国を統べる王は、ただ一人。王を陰から操るような、いかなる者も許されるべきではない。


 わたしもその重みを感じて神妙な気分になりました。そして、アンリエッタさまの声がふと、その立場から外れたものになります。


「……私が、少しでも兄に譲歩していれば、今と結果は違っていたのかしら……」


 悲しい微笑にわたしが急いで否定の言葉を口にするより早く、殿下のはっきりした声が出ました。


「それは違いますね、母上」


 断じる殿下にわたしも目を上げます。青い眸は真っすぐでいながら、言葉だけはどこか子どものようでした。


「伯父上の欲求と欲望は根っからのものでしょう。たとえ母上が譲歩していたとしても変わりませんよ。むしろ、さらに肥大した可能性が高い。あの方は、昔から私を生意気な子ども以上には見ようとしなかった。自分の物差し以上のものは認められない方です」


 だれの中にもある物差し。それと違う相手を認められるかどうか。認められなくても、そういう人もいるのだと受け容れられるかどうか。

 人との関係は難しいものだと、本で読むだけではわからなかった複雑な思いをわたしも感じていました。


 すると、王妃さまが小さな笑いを込めて返しました。


「おまえはただ単に、エリアーナを狙われたことが許せなかっただけではないの?」

「それはもちろんです。地の果てまで追って、必ず後悔させてやります」


 ……それはちょっと怖いです、殿下。


「その執念深さは、いったいだれに似たのかしら……」


 王妃さまのあきれたような息と、少しだけ明るい微笑が広がり、殿下が静かに立ち上がりました。


「私はまだ、やるべきことがありますので、これで。エリィはここでゆっくり休んでいて」


 やさしくほほ笑んだお顔が、扉へ向かった時にはふいに厳しいものへと変わりました。それは先の、神殿内で見たものと同じ……。


 とっさにわたしも立ち上がり、殿下へかけ寄っていました。エリィ、と驚く殿下に、その手を握って返します。


「──わたしも、一緒に参ります」


 一瞬、殿下のお顔がいつものわたしをからかうものになりかけましたが、引かない意志を見て取ったように、静かなものになります。


 殿下は少し、ためらいを見せてわたしをとどめる言葉を探しているようでした。面白いものじゃないよ……と苦そうにつぶやく殿下に、ぎゅっと手を握って返します。


 小さな息をつくと、わたしの手を握り返し、共に向かう思いを見せてくれました。ほほ笑んで見守っていた王妃さまに辞去の挨拶をし、最後にもう一人、決着をつけるべき方のもとへ二人で向かいました。






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