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冬下虫の見る夢─31




 はて、と思いました。


 サウズリンド王国、王都サウーラ。英雄王カルロ神が祀られた王家縁の大神殿。ふだんなら、一般参詣が終わるとめったに立ち入れない閉ざされた神域。そこは今、人々の熱気と歓喜の声であふれていました。


 灰色の悪夢、その病人を受け容れると開放されてから、様々な人が入り乱れている場所です。通常なら病人を慮って静寂な場であるべきでした。


 内部に入り込んだわたしはまず、全体の様子を確認して神殿内に入れない表の人々と、状況と原因を探ろうとしました。受け容れようとすれば、無理にでもできないことではない。けれど、それをとどめている原因。



 それは、神殿内感染でした。


 新たな人々を受け容れることによって、その家族や付き添ってきた別の人にも感染が広がっている。そして、病人を看る医師や看護人、下働きの人々にも。感染が広がることによって人手も足りなくなる。これ以上は無理だと判断しての、決定なのだとわかりました。


 では、どうしたらよいのか。


 その対処と対策を求めて、あの地で記録してきた様々な知識と、病に侵された人たちの治療薬投与後の経過観察、様々な経験を神殿内の医師たちにさらしました。──彼らは、王都に作られた貧民向けの施療院の医師たちです。わたしの意志は伝わるはず、と託した思いに彼らは応えてくれました。


 そして動きだした矢先。


 あれよあれよと展開していく光景に圧倒され、──その言葉には、はて、と疑問符が浮かびました。


 どう反応したものか、と目をしばたたくわたしの前で、居合わせた人々から歓声が上がります。凍り付くような表情で固まったままのファーミアさまへ。


「…………」


 どうしても思わず、気持ちが引けました。この場にいてはいけないような、いたたまれなさで。


 でも、とあらためます。殿下を一人で立ち向かわせたりしない。そう見守る前で、その方が一歩を踏み出しました。歓声を抑えるように片手で制して。


 そしてオーディン公爵の前へ進み出ます。皆が殿下の言葉を期待で待つような、次に上げる歓声の準備のような静けさが行き渡りました。


 そして、その声は響きます。


「私の妃は──エリアーナ・ベルンシュタイン嬢、ただ一人だ」

「……っ!」


 公爵の一転した表情と、広がる困惑の気配。殿下、と低くもれた公爵の声に、冷ややかな青の眸が落ちました。


「オーディン公爵。そなたは先ほど、その名において真実を口にすると誓った。では、聞こう。──エリアーナの生存と治療薬完成の報がもたらされたのが、四日前。そなたの話によると、この四日の間にエリアーナは再度何者かに狙われ、命を落としたことになる。遠く離れた地にいるエリアーナの情報を、この私にももたらされていない情報を、どうやってそなたは知ったのだ?」



 顔を見合わせるような困惑の様子がさらに広がり、公爵は小さなやわらかな息をつきました。感情をあらわにすることのない、貴族らしい鷹揚さで。


「殿下。あなたとエリアーナ嬢の仲は、我々貴族や民にも広まっておりました。信じたくないお気持ちはお察し致します。ですが、事実は事実です。どうしても信じられないとおっしゃるのなら……亡骸とご対面することも可能です」


 声と表情だけはとても沈痛そうでした。殿下の心をいたわるように厳しさの中に垣間見せたもの。


 そうか、と殿下がわずかに目を伏せました。まるで、自分の内の何かとけりをつけるように落とした沈黙。公爵がさらにかぶせようとして、あざやかな青い眸が上がりました。


「エリアーナは亡くなっている。あくまで、そなたはそう言い張るのだな」

「──誓って」


 譲らない公爵の視線とぶつかり合って、殿下はひとつ息をつきました。わかった、と踏ん切りをつけるような潔さで踵を返します。


 公爵の怪訝そうな様子と、ファーミアさまの諦めたように眸を閉ざす表情。目にした次には、わたしの視界はその方で占められていました。


 晴れ渡った青空のような、あざやかな眸。青年らしく引き締まった顔立ちに麗しさを刷いた表情。今はどこか固さを残したままで、でも、わたしに向けてくれる気配はいつも真っすぐで、どこまでもやさしい。


 まばゆい金髪を神殿の厳かな光に散らした、二人といない王太子殿下。


 その方がわたしの前に来るのに合わせて周囲の医師たちは下がり、わたしも内心たじろぎながら、怯まない意志と何よりもその方に魅了されて見つめ返していました。


 青い眸が慈しむようにほほ笑んで、わたしに手を伸ばしてきます。頭部を覆った布を外し、まとめた髪に手を入れてほどくと、ゆるやかに髪が落ちました。


 周囲がざわつきはじめるのをよそに、殿下がやさしくほほ笑みかけてきます。


「エリアーナ──」と。


 馬鹿な、と信じられないつぶやきが聞こえ、それに殿下がいつもの見慣れた、きらきらしい笑顔でふり返り答えました。


「私がエリアーナを諦める? それはいったい、どこの世界の言葉かな」


 私の世界には存在しない、と傲然と言い切るクリストファー殿下に、公爵の顔色がはじめて変わりました。まるで、おのれの矜持を傷付けられたような怒りで。


 反対に、居合わせた人々からは驚きと、わたしの名を呼ぶ声が次々に広まり──さらに大きな歓声が上がります。

 生きておられた……! とあらためて生存を喜ばれ、わたしもその声の強さに驚きました。


 ファーミアさまに聖女の歓声を上げていた人たちが、次にはわたしに歓声を上げる。複雑な思いも覚えながら、今は押し込めて殿下の眼差しに強く返していました。


 それにほほ笑んだ殿下がわたしの腰を抱き、あらためて観衆に向き合います。歓声の中にも響き渡る、凛とした声で。


「私の婚約者、エリアーナ・ベルンシュタイン嬢はここにいる! 亡くなったなどという話は、まったくのでたらめだ!」


 わぁ! とさらに上がる歓声の中、お待ちください! と声を張り上げたのが公爵でした。片膝ついた体勢から、今や立ち上がって対峙する姿勢へと態度を変えています。


 それでも声を荒げることなく、堂々と持論を語る様はさすが、サウズリンドを代表する大貴族の一人でした。


「エリアーナ嬢が生きておられた……。それは大変、喜ばしいことです。私が得ていた情報は誤りだった。認めましょう。ですが──我々、サウズリンドの民が知らされていたのは、エリアーナ嬢はラルシェン地方にて生死不明になられたという報です。しかし今、ここにおられる。……エリアーナ嬢はもしや、ずっと王宮の安全な場所で守られ、治療薬ができた今、姿を見せられたのでは? この治療薬は、ほんとうにエリアーナ嬢が完成させたものなのでしょうか」



 再び、周囲がざわめきました。


 病が発生してより、貴族の邸から毎日外に出て、病人に接していたのは、ファーミア・オーディン嬢。反対に、遠方にいて何をしているのかもわからなかったのが、わたし、エリアーナ。


 ──王都は、聖女の信仰に染まっている。あんたが戻っても、風当たりはきっと強い。


 そう言ってくれたのは、ウルマ鉱山麓の鉱山夫、ラッカさんでした。昔のわたしだったら、きっと怖気づいていた。でも、今のわたしにはラッカさんや皆が後押ししてくれた自負と、自分で築いてきた自信がある。


 引くことなく、顔を上げたわたしに、隣の殿下が気配だけで感じ取ったようにほほ笑むのがわかりました。わたしに触れた手に力がこもったのも。


「オーディン公爵。王都にいて、地方の状況を知らぬのは、私もそなたも同じだ。信じ得るのは、現地の者から上がる声のみ。そしてまた──実体験のみ。そうではないか?」


 眉をひそめた公爵の前で、殿下の視線はわたしたちの背後、医師たちへ向けられました。殿下の眸にうなずかれた医師団の代表者が声を発します。


「エリアーナさまが持参された記録書は、ラルシェン地方で病人を看た実際の経過観察です。そして、我々も知らなかった新たな対処法も記されている。これは、直に体験した方──エリアーナさま直筆のものです」


 公爵から小さな失笑がもれました。


「殿下。子どもの遊戯のようなことはおやめください。そのようなもの、先に情報を得ていればどうにでも作り変えられましょう」


 そうか、と小さくつぶやいた殿下が懐に手を入れ、新たな書面を皆に見せました。


「これは、先の急使とともに届けられたものだ。──サウズリンド王国ラルシェン地方領主、カール・ラルシェンの名に置いて、暴動を鎮め、この地の病人を救ってくれた王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタイン嬢に忠誠を誓う、とある。また──」


 書状をしまうと、殿下のあざやかな眸が周囲をも見渡しました。


「ラルシェン地方にて治療薬が完成した時点で、イーディア辺境領、ヘイドン辺境伯のもとへも情報は送られている。──王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタインの名に置いて、灰色の悪夢に罹った病人すべてに処方箋を開示し、また、そのための原料を提供する。自国民、他国の者に限らず──と。ヘイドン辺境伯は、この声明をもってマルドゥラ国との和議に臨むように、と」


 顔色をなくした公爵とは反対に、周囲の人々からはざわめきと驚き、そして喜びの声と気配が広がりました。戦は起こらない、開戦はなしだ……!と。


「そのような、勝手なことが……」


 重臣会議を通さず、王の決定もなしに、ともれる声に、殿下の決然とした眸が返されました。揺るぎない、サウズリンドの王としてのものが。


「私は、治療薬を武器にも取引の材料にもしない。もしも、人の命を救う治療薬を武器にした時──この先、私がいない未来のサウズリンドに、私の行為が民に降りかかるやも知れないからだ。私は、サウズリンドをそのような国にはしない」


 未来の民をも守ってみせる──。


 この方は、今だけじゃない。もっと先の、未来の国の姿まで見ている。そして、治療薬を武器にはしないという考え。それはわたしが、『ヒューリアの壺』に対して思っていたことと同じでした。


 言葉にできない想いと、何よりも王者然としたその方に見惚れて周囲が上げる歓声も耳に入りません。

 そして、決定的な言葉が公爵に向けられます。



「エリアーナには、ラルシェン地方に赴く際、私の代理である証明の、王家の紋章を渡してある。治療薬の認可も声明も、辺境伯への命も、すべて王家の名のもとに行われた。──オーディン公爵。サウズリンド王家の名のもとに封爵された貴族位にありながら、王家の決定に反するというのか」


 公爵位を賜った身分であるのは、公爵自身が先に口にしていました。王の決定に逆らうことは、すなわち、自身が口にした国家反逆罪も同様であると。


 はじめて、公爵が形相を塗り替える様を見せました。口にした言葉や考え、自負してきたものをひとつひとつ覆されて。


 おそらく──、公爵が考えていたのはふたつのこと。

 手にした処方箋で聖女ファーミアさまの地位を確立させる。そして、それを武器にマルドゥラとの交渉にあたる。和議は端から視野に入れていない。


 治療薬を武器に、有利な条件をマルドゥラに突き付ける。例えば、有利な関税。例えば、金脈を生む鉱山。しかし、それらはすべて無になりました。そしてまた、公爵が持つ処方箋にも重みはない。


 グッと公爵がそれを握りつぶすのがわかりました。だが……、ともれ出た言葉は、培われた自尊心ゆえのもの。


「クリストファー殿下。あなた方はもうひとつ、肝心なことを失念していらっしゃる。それとも、故意にでしょうか。──我が娘、ファーミアは、あなたの御子を宿している。これは皆も承知のこと。この事実ばかりは、いかなる言い訳があっても覆せるものではないでしょう」


 それは表向き殿下に向けた言葉でも、その実、わたしに向けたものとわかる目付きでした。そして、その言葉にざわつく衆人たち。


 わたしも視線を公爵のやや後ろ、華美にならないよう装った、聖女然とした身なりの令嬢、ファーミアさまへ移しました。昔とは違う、対極する位置にいる方へ。






 ~・~・~・~・~




 ファーミア・オーディン嬢。サウズリンドを代表する大貴族、オーディン公爵家、アンリエッタ王妃さまの血を分けた姪でもある、公爵家の一人娘。わたしがこの立場にならなければ、一生言葉を交わすことも、関わり合うこともなかったに違いない、深窓の姫君。


 生まれも育ちもテレーゼさまと同じ、わたしとは正反対の育てられ方をしてきた女性。でも……どこか、わたしと似た面のある方。


 五年近く、王都の社交界でテレーゼさまとわたしと、共に過ごしてきた一人です。その方は今、眸は開けても、わたしでもクリストファー殿下でもない、まったく別の方と視線を合わせていました。


 英雄王カルロ神殿、イーヴァ神官長。サウズリンド王国内のすべての神殿を統括する、神官たちの長。


 真白な銀髪をきれいにまとめた、積み重ねた年輪を思わせる、重厚な雰囲気。老齢の方と一見してわかるのに、端然とたたずむそのお姿は、ただ清冽なばかり。


 人を圧する近寄りがたさと眼差し。それが、その方を女性と教えながらも、性別を超えた存在であると一線を画してもいるよう。


 まさに、神殿の長。サウズリンドの神事を司る王。


 その眸にさらされ、ファーミアさまがかすかな声をもらしました。私は、と。上がる息遣いと、押し込めていた彼女の内からこぼれる、子どものような稚い声。

 紡がれた、決定的な言葉。


「……私は、どなたの子も宿してはおりません」


 周囲がざわつくよりも先に、心の声があふれてこぼれだしたようでした。


「クリストファー殿下は、私には指一本、触れられなかった……!」

「──ファーミア!」


 (くずおれ)れた彼女に、オーディン公爵の叱声が飛びました。はじめて、感情に任せたものが。


「この、愚か者が……!」と上がる叱責に、それよりも早くわたしはかけだしていました。


 ファーミアさまにぶつけられようとした、処方箋を握りしめた片手。それを、持っていた大判の本で思いっきりはね返しました。思ってもみない方向からの攻撃だったのか、公爵が痛みよりも驚きの表情でよろめき、数歩後退ります。


 わたしもはじめて、政治的な憤り抜きに、その方への心からの怒りで向き合いました。


「父親とは言え、女性に手を上げるのは男性としてこの上なく卑劣な行為です。恥を知りなさい、オーディン公爵」

「な……っ」


「ファーミアさまは、サウズリンドの聖女です。その行為に多少、間違いがあったとしても、灰色の悪夢が発生してより、サウズリンドの民に希望と勇気を与え続けた。その行為は、だれにも否定できません。たとえわたしにも、父親である、あなたにも。──ファーミアさまに手を上げることは、サウズリンドの民を敵に回すことと同意です……!」


 それが浸透するように数拍置いて、「……ファーミアさま」と呼ぶ声が周囲からもれました。わずかでも、それは確実に。そして、それに我慢ならないように憤りの様子を見せた公爵。


 その有様には、わたしも息を呑むようでした。そして──。


 そこに、わたしを半ば隠すように立ちふさがったクリストファー殿下。その光景に公爵の形相がこの上なく高まったものでいろどられるのがわかりました。

 ……いいでしょう、と昏い愉悦をまとった様で。


「お二人を、サウズリンド史上、最悪の王と王妃として名を残して差し上げよう。友好を求めてきた敵国を──病に侵され救助を求めてきた国を欺き、手にかけ、開戦へ持ち込んだ。他国にも例のない、史上最低な王太子とその妃として、名を刻んで差し上げましょう」


 公爵は、まだ何かを仕掛けようとしている。そう感じ取って殿下に目を上げたわたしに、公爵の低い愉悦の声がもれました。


「これは、私の予定通りの手でしたが──彼の国との国交を断絶する、計画のひとつ。ですが、あなた方のために演出して差し上げよう」


 わたしたちにだけ聞こえるようささやいていた声が、次には張り上げるものへと変わりました。


「皆、だまされるな……! サウズリンドの開戦は回避などされていない。中枢部は隠してきたのだ。王宮内にいるマルドゥラ国王子は、クリストファー殿下の命により、すでに軍部の強攻派によって亡き者とされている……! その亡骸をもって、サウズリンドはマルドゥラへ宣戦布告する予定だ。マルドゥラ国との開戦は避けられない。クリストファー殿下と、虫かぶり姫によって……!!」



 悲鳴を呑み込むような衝撃が走り、それが声になって出る前でした。近くの扉が音を立てる響きと、そこから大勢の人がなだれ込んでくる気配。


 皆の視線が向かったその先で、わたしも大きく目をみはりました。中心にいるその方は──。


「カルロ神殿神官長、そして病に伏した人々には、武骨な軍人が神殿内を騒がせる詫びを申し上げる。私はサウズリンド国王、ウィリアム陛下より東の国境守備を命じられた黒翼騎士団が一人、──セオデン・バクラだ」


 短く刈り込んだ白髪と、老齢の身ながらも周囲を圧する、みなぎる重圧。目にした者に強く焼き付く、鋭い隻眼。サウズリンドの名にし負う英雄、セオデン・バクラ将軍。


 皆がどよめいたのは、その方が亡くなられたと先に聞いていたからでした。王太子婚約者の護衛中、正体不明の襲撃者によって命を落とされた──。


 ざわめく衆人の前で、バクラ将軍の力強い、聞く者の肚の底に響く声が行き渡りました。


「サウズリンドの民を惑わせ、虚言をふりまく者がいる。だが、事実はひとつであり、だれの目にも明らかであることを証明する。──マルドゥラの王子は、無傷で我らが保護した! 王太子殿下の命に背き、他国の王族を手にかけようとした軍部の強攻派、また、遺憾ながら黒翼騎士団の一部違反者はすでに捕えてある。我が国が他国の王族を殺めることは決してない。そしてまた、開戦を仕掛けることもだ……!」



 バクラ将軍が片手をふった背後に、身なりの整ったやわらかな面立ちの男性がいるのがわかりました。両目を閉ざしたままの、盲目の王子。そして、その隣に見慣れた男性、アーヴィン・オランザさまと従者のレイ。


 無事だった、と幾重にも安心したわたしの前で、周囲がこの上ない歓声で包まれるのがわかりました。それはきっと、神殿の外にも響き渡る声で。


 二転三転とする状況下で、人々の混乱もきっと極致だったのでしょう。しかし、バクラ将軍の言葉通り、事実はだれの目にも明らかでした。


 亡くなったと聞いたバクラ将軍は生きている。そして同じく、亡くなったはずの王太子婚約者も。クリストファー殿下が害したとされる他国の王族は生きて無事でおり、開戦が宣言されることもない。


 大きな歓声はクリストファー殿下と虫かぶり姫、そしてバクラ将軍の名を呼ぶ声であふれていました。そしてその中で、馬鹿な、とあえぐように繰り返す声。


 そんなことはあり得ない。何重にも策を練って次手を打って、さらにその先の展開まで手抜かりはなかったはずなのに。なぜ──と。


 今や、だれの目にも虚言をふりまいたのがその人物であることは明らかでした。歓声の中で、クリストファー殿下の静かな声がかけられます。


「オーディン公爵。そなたがこれまで、マルドゥラと秘密裏に通じて得た金銭、密貿易等の証拠はテオドール叔父上が抑えたと報告が届いている。そして……テオドール叔父上を内密調査に向かわせたのは、陛下だ」


 公爵の目が大きく見開かれました。陛下は今、病に伏している。ならば、それよりも前から命じていたということ。


 陛下は……と言いかけた殿下が、はじめて苦渋に満ちた様子で言い直しました。


「父上は、母上が難しい立場に追いやられるとわかっていても、あなたの不正を暴くと決められた。オーディン公爵……伯父上。私は、あなたのような貴族はサウズリンドに必要不可欠だと思っていた。マルドゥラとの友好や改革を進めるだけがすべてではない。あなたのように、貴族は貴族としてふるまう人物がいるからこそ、王国の貴族社会が成り立っている面もある。だが──」


 殿下の握りしめた拳に力が入るのがわかりました。紡がれたのは、苦渋を消した王者としての厳しいもの。


「あなたは、やり過ぎた。病が蔓延する情報を得ながらそれを利用したこと、治療薬の可能性をつぶそうとしたこと。民の命を踏みにじったその行為だけは、──決して許されるものではない」


 断じる殿下に、公爵もまた立て直した矜持で顔を上げていました。すべての罪を暴かれ、断じられながらも傲然としたその態度。サウズリンドの大貴族。わたしもそう思わざるを得ませんでした。


 殿下がバクラ将軍と共に来たグレンさまたち近衛に捕えろ、と命じて彼らがかけ寄ってきます。反対に、わたしは走り出していました。その方のもとへ。



「……セディおじいさま!」


 抱き付いたとたん、豪傑なその方が痛みをこらえる様子を見せられました。あわてて顔を上げると、やはり顔をしかめられています。


「お怪我を……」


 最後に見たのは、並走する馬車を守って崖上から矢を受けた姿でした。吹雪の中にまぎれた赤い色は、今も目に焼き付いています。

 あの時の恐怖とセオデンおじいさまの痛みに涙するわたしに、強くやさしい、見慣れた笑顔が返りました。


「不覚を取ったわ。私としたことが」

 あたたかく力強い手が、わたしの頬をぬぐいます。


「おまえを守り切ることができなかったのは、私の武人としての生涯の不覚になる。だが……無事でよかった。エリィ嬢や」

「……生きて、生きていてくださっただけで……」


 首をふって大泣きするわたしをセオデンおじいさまが片手でなだめるように、やさしく抱擁しました。そして簡単な説明が降ります。


 負傷して一度引き下がったものの、すぐに捜索に加わろうとしたそこで、王太子の右腕アレクセイさまに止められたのだとか。曰く──。


『クリストファー殿下のご命令です。将軍、あなたにはひとまず、お亡くなりになってもらう』


 どういうことだと不穏な思いで返した先に、氷の魔人と呼ばれる、冷ややかに冴え渡った風貌があったとか。


 少々予定が狂いましたが、と渡された王太子からの書状、そして元から途中で、黒翼騎士団とわたしエリアーナは切り離して行動させる予定だったのだと。そして渡された書状にあったのは──。


「我が黒翼騎士団に一部、愚か者がおってな。軍部の強攻派と通じて、戦を起こしたがってる不穏分子がいると。そやつらは私の訃報で動き出すだろうから、身を隠して王都に戻り、騎士団内部の不始末は自分たちの手でつけよ、と」


 忌々しそうな様子は自団内部の不穏分子に気付かなかったからでしょうか。殿下にすべてをお膳立てされたからでしょうか。少し憤然とした息をついてわたしの頭をなでるのは、ご自身の気持ちもなだめているようでした。


「軍人は、戦が起きないと功を立てる場がないと思い込む輩がいる。我らが日々腕を磨くのは、国を守るためだというのに……。だが、そやつらを見逃したために、エリィ嬢やの身まで危うくした。これは私の落ち度だ。黒翼騎士団を代表しておまえに謝ろう。エリアーナ」


 首をふって返すわたしに、やさしくいたわる声が落ちました。


「おまえは、私が出した条件をそれ以上の結果で返してみせた。おまえを王太子婚約者──未来のサウズリンド王妃として、私も認めよう。……よく頑張った、エリィ嬢や」


 一度顔を上げて力強くやさしい隻眼と目を合わせ、再びわたしは大きなその胸に顔をうずめました。セディおじいさま……、とその鼓動を確かめるように。


 しかし、ふいに厳しい声が出ます。──だが、と。


「やはり、伴侶は考え直したほうがよいのではないか。こやつはそれが有効だと思えば、だれにもおのれの内を明かさず、一人で事を進めるやつだぞ」


 ……それは、わたしも薄々感じていました。


 顔を拭いて身を起こすと、間近にクリストファー殿下がやって来ていたのがわかります。すべての決着がついたのに苛立たしそうな殿下と、忌々しそうな表情を隠そうともしないセオデンおじいさま。


 睨み合う二人のうち、先に口火を切ったのが殿下でした。


「やはり──見る目のないご老体には、とっとと隠居してもらうほうが世のためだ。過去の栄光にすがって後進の育成も見誤られるとは……不甲斐ないの一言だな」


 辛辣に断言する殿下に、セオデンおじいさまの覇気が膨張したようで、わたしも思わず離れて後ずさっていました。


「よく言うわ、この小童が。おのれの近衛を動かせば相手方に勘付かれる恐れがあったために、私を都合よく利用しただけだろうが。他に手駒も揃えられない、おのれの不甲斐なさを省みよ」


「手駒に使われたからといって、そう憤慨されるとお体に毒だ。やはり静寂閑雅な地で余生を過ごされたらいかがか」


 何をぬかすこの小童が、まず私に勝ってからにしろ、と剣の柄に手をかけるセオデンおじいさまに、手負いのご老体に勝っても自慢にならないのでね、と相手にしない殿下。


 何やら子どものような応酬に、わたしも涙がすっかり引っ込んで身を引きました。そこで、近衛兵たちがとまどっている様子にも気付き、そちらへ足を戻しました。







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