冬下虫の見る夢─30
クツクツと、抑えても愉悦がわき起こった。
思った通りだった。あの王子の行動を見張らせ、目指した標的を手にした。
こんなことだろうとは思っていた。王になる者として育てられた考え。大河を見ながら正道を歩み、時にはそこから外れた手も打つ。必要とあらば、身内に入れた者すら
──王子は、こちらの手も読んでいる。追い詰められているように見せていたのは、見せかけだったと思い知らされたばかり。ならば、王子の弱点は今どこにいる──?
考えた時、自身が思ったこの勝負の根幹に気付いた。
ラルシェン地方から王都まで、急使なら馬を駆け続けて三日。馬車での復路は十日ほど──いや、例年にない雪の積もった年ならば、それ以上。
この勝負の鍵は、時間だと思った。王宮に急使が来て、あの存在が王都に戻るまで。それまでにあの者を始末できるかが鍵だと。
しかし違う。王子はこちらが放った手の者をとうに理解していた。遡れば、それは狩猟祭の時から、表に出ない私に警戒の目を光らせていた。
サウズリンドを代表する屈指の大貴族、オーディン公爵家当主たる私を。
「そうか……」
すべての符号が合致した気がした。今この時、王宮に急使が来たわけ。手の者からの連絡が絶えていたわけ。なるほど、と喉の奥で鳴る声があった。
王子は、情報を操作していた。仲間だけでなく、私にもたらされるものさえも……!
クッ、と愉快な笑声が私室にあふれた。それでこそ、私が見込んだ次代の王。私が夢見た、サウズリンドの──いや。この大陸に名立たる覇者となる、我が王!
こらえても漏れる愉悦があった。派閥の者たちはあわてて保身に走っている。内部崩壊がすでにはじまっている。だが、去る者は去ればいい。真に残った者を選別できる。
「…………」
あの急使は、王子の戦略の内だ。
傍目には、ラルシェンからどんなに急いでも三日かかる急使。しかし、それが操作されていたら? 急使はおそらく、とうの昔に着いていた。しかし、王子はそれを留めていた。――あの者が王都に戻る、その時まで!
時間の
なるほど、ともう一度思った。こちらの焦燥を誘い、私がはやって愚かな手に出る──そこを掴もうとしたのだろう。こらえてももれる声があった。甘く見られたものだ、と。
だが、と愉快な思いにもなった。
「乗りましょう。王子、あなたの手に」
ラルシェンに向けて飛ばした手の者は、おそらく捕えられている。王子はようやく、こちらの尻尾を掴んだ気でいるかも知れない。だが、それでいい。
今度はこちらが焦燥の演技で王子を謀りにかける。そして、王子の弱点を捕える。王子の一歩先を行くのは、この私だ──。
そして見付けた。
身を隠して王宮を抜け出す後を配下に付けさせ、そして捕えた。王子の弱点を──!
それを告げた時の王子の顔は、今思い出しても愉悦が込み上げる。王子の弱点が最後まで足を引っ張った。いや、王子の甘さが、というべきか。
『──取引をしましょう。殿下』
蒼白な顔色でこちらを睨んでいた王子の頬がピクリと動いた。取引とはなんだ、というように。私も譲歩することにした。躍起になっていた自分をなだめるように。
『あのご令嬢は、公的にお亡くなりになってもらう。しかし、その代わり、無傷であなたのもとへお返しする。王都から離れた郊外にでも囲って、お二人で好きなだけ夢の世界を広げられるといい。しかし──』
笑みを消し、妥協も隙も見せずに告げた。これが最後の機会だというように。
『あなたの妃はファーミア、ただ一人。そして、その血を受け継ぐのも。それをご了承いただかなければ、あの者の生命は保証しません』
ああ、と
『……っ!』
音を立てて椅子から立ち上がった王子に、培われた笑みで返した。いついかなる時でも他者に侮られるな、傲然とした者であれと叩き込まれた、サウズリンドの大貴族たる自負で。
『殿下。選ぶべき道は二つです。あの者とのささやかな生活か、もしくは──すべてを諦めるか』
どちらだ、と選択を迫る自分に、激しい怒りと葛藤と──自分が何よりも見たかった、敗北をこらえるくやしさと。すべての表情で王子はもらした。
しぼりだすような、屈した声を。
『……エリィに、手は出すな』
込み上げる愉悦をこらえながら、答えた。承りましょう、と。そして、王子のもうひとつの武器の提出を強いた。それでもって、ファーミアの地位と存在を確立させる。
王子の面には、激しい憤怒の色が浮かんだ。どこまで、エリアーナの努力と価値を貶める気だ、と。だが、王子はすでにもう選んだ。あの者の無傷の生存を。
すさまじい感情をこらえた様子でそれを渡す王子に、明日、神殿へやって来るように告げる。そこで、大衆の面前ですべての幕を引く。
おそらく、はじめての敗北であろう屈辱と悔しさに面を染める王子に、私もはじめて愛しさを覚えた。今まで忌々しく思いながら、どこかで認めていた、自分と同じ血を引く存在。
ようやく、甥として愛しく思えた瞬間だった。
そして迎えた幕引きの日は、まさに勝利を祝うかのような快晴。
神殿に着いた馬車から降りようとして、ケチをつけるような不快な光景に遭遇した。神殿前には地べたで寝起きする者たちが広がっており、その間を歩いて行かねばならないらしい。
汚らしいことだと一瞥してから聖女の身なりを整えたファーミアを従え、道を開けさせた。
私の身なりと気配、ファーミアを従えた様子からサウズリンドの貴族ということは理解したのだろう。潮が引くように道は空き、また神殿近くから衛兵たちが飛んできた。
「オーディン公爵閣下。本日はなにゆえ、こちらに……」
困惑とどこか上級貴族を押しとどめようとする気色に、さらに不快度が上がった。一兵士に話すことでも、行動を遮られることでもない。
一瞥してファーミアをうながし、神殿までたどり着いた。内部に踏み込むと、さらに不快な──いや、不可解な光景に出逢った。
「準備は整ったか? 軽症者の棟からだぞ」
「蒸気による消毒設備、整いました。患者や付添人はいったん、この広間に移しています」
「よし。順番にはじめて行くぞ。患者や付添人を戻す際には、ケネス草で消毒させるのを忘れるな。煎じ薬はいったん止めておくように」
はい、と動き回る人々に活気の宿った様子。
なんだこれは、と不可解な思いが広がった。神殿内は、病に侵された者たちで占められた死の空間ではないのか。そこで私があらわにするもので、世論は染められる──ファーミアを聖女として、確実なものにする。
そのはずが……。
「──静まれ!」
神殿内、中央部は支柱がいくつも並んだ、上に高く奥行きを測れない広さで声が届く。あわただしく動き回る者たちも、隅に寝転がった病人たちも、通った声に顔を上げた。
観客が増える分には申し分ないと、語気を強める。
「これはいったい、どうしたことだ。だれの許可を得て、神殿内の改革をしている。聖女ファーミアが一日留守にしただけで、この有様か?」
昨日、ファーミアは邸から一歩も外に出さなかった。王子との取引が終わるまで。そして、万が一にも、王子側がファーミアを攫い、取引をふりだしに戻さないためにも。
「──責任者、前に出ろ」
ハッとしたように、お父さま、と後ろのファーミアが制す声を出す。この娘は、私が周囲の声を高めて聖女の名を与えてやったにも関わらず、神殿内の者たちも従えることができていないのか。
失望と嘆息で昂揚した気分にも陰りが射す。そこで、声を出していた医師らしき男が進み出ようとし、それを一緒にいた少年が止めた。
胸に記録書類か大きな本を抱えた、頭部を布で覆った小柄な少年。背後のファーミアがなぜか息を呑んだ様子に不可解を覚え、だが今はかまっている暇はなかった。
「その者か。捕えろ。カルロ神殿で保護されている者たちは、すべて聖女の庇護下にある。そこで勝手するのは、国家反逆罪も同様の行為だ」
つまみ出せ、と命じる声に周囲の護衛たちが従う。少年と共にいた医師たちが応戦の意志を見せた、その時だった。
リィン──、と音がした。
空間を響き渡る、はかなく、うつくしく、──その場を清浄するような清冽な音。人の心に沁み渡る、清らかさ。
だれをも惹き付ける音に、視線が一ヶ所に集まる。中央部のさらに奥。カルロ神が座するほうから、姿を見せた一行がいた。それは、神殿に仕える神官たち。世情にかり出されている者がいても、それはあくまで一部。末端。
中枢ではない。
「…………」
その姿を目にした時、この上ない昂揚感が内を占めるのがわかった。
国の最重要祭事でなければ、姿を現わさない神殿の長。政と分断されたサウズリンドで、だが揺るがしがたい権威を持つ、もう一人の王。各地の神殿を統べる、神職者たちの長。
来た、と思うのと、そのそばを歩む、もう一人の存在にさらに昂揚感が増した。
金の髪、青い眸。辺りを払う、比類なき存在感。めったに姿を見せないお方を隣にしても、委縮する気配も畏れる様子もない、王太子然とした揺るぎなさ。
どこかで、ふいに思った。そうあるべき者として育てられた自分とこの王子は、ある意味似た者同士なのだと。しかし、抱いた思いも立ち位置も異なる。
神官長──、と周囲が驚きとざわめきでその存在を迎えるのを見守った。そしてまた──「クリストファー殿下……!」と、知らぬ者たちへ教える声も。
サウズリンド王の子の誕生。そして、王の戴冠、成婚、崩御、その祭事以外姿を見せることのない神官長。サウズリンド国内、数多の神殿を統括する、もう一人の王。
さすがに私も息を呑んだ。だが、周囲が王子の名を呼ぶ歓喜の声に自負を取り戻す。
灰色の悪夢。その病が蔓延した場にはじめて姿を現わした、サウズリンドの未来を嘱望された王太子。しかし、その面にはいつもの余裕ぶったきらびやかさがなく、固く険しいままだ。
比類ない二人を今この時、この場に呼び出したのは他でもない、サウズリンドの大貴族、オーディン公爵たるこの私だとみなぎる自信のまま声を張り上げた。
「皆、聞け……!」
静かに強く響き渡る声で、衆目を集めた。厳かに、真摯な様を意識して。
「今日この時、英雄王カルロ神殿の長たるイーヴァ神官長、そして王太子、クリストファー殿下にご足労いただいたのは他でもない。サウズリンドの中枢部で秘されてきた事実を、皆に明らかにするためだ」
ざわり、とざわめいた衆人の前で、ひとつ儀礼的なものを神官長と王子に示した。次の言葉に重みを持たせるために。
「サウズリンド王国、公爵位を賜ったグレイグ・オーディンの名において、真実を口にすることをここに誓う。──サウズリンド、第二十一代国王、ウィリアム・カースティン・アッシェラルド陛下は、今現在、灰色の悪夢の病床に臥せられている……!」
あぁ……! と悲鳴にも似た声で神殿内が占められた。民の間にも広まっていた噂。国王陛下もまた、病に倒れられている──それが事実だとあらためて告げられ、絶望にも似た声と思いが一瞬で広まった。
そこへ、さらにかぶせた。面だけは沈痛な色を浮かべて。
「そして、先の大戦で国を救った英雄、セオデン・バクラ将軍は先日、王太子婚約者の護衛中、正体不明の襲撃者によって命を落とされた。また──王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタイン嬢も……その尊い命を奪われた……」
そんな、と絶望的な声と思いが充満した。じゃあ、と観衆が悲痛な声を上げるのはわかっていた。
治療薬は……治療薬はいったい、とすがるように向けられるいくつもの視線。それに応えるように大きく、だが表情はあくまで厳かにうなずき、懐から取り出した紙片を掲げた。
「エリアーナ嬢は最後に、治療薬の処方箋を聖女ファーミアに託された! これで病に苦しむ国民と、国王陛下の命を救って欲しいと……!」
上がった歓喜の声と希望に満ちた目がそそがれる。聖女、ファーミアに。
──順番が問題ではないのだ。
治療薬が出来上がった時点で、おそらく陛下への投与は開始されていただろう。急使が駆け込んでくるよりも前に。王子がこの処方箋を持っていたのがよい証拠だ。
肝要なのは、それがファーミアの手によって陛下に投与され、その命が救われたと知らしめること。先に皆に周知してしまえばよいのだ。
最高に高められたファーミアの名に、この上なく満足した。あの目障りだった虫かぶり姫は、今この時、何よりも役立ってくれた。治療薬の完成とともに……!
最後の仕上げとばかりに儀礼的に片膝をつき、恭しく処方箋を捧げた。めったに姿を見せない神官長、その力には王子も逆らえないことを確信して。
「イーヴァ神官長。聖女ファーミアの名において、この処方箋は神殿へ寄与させていただきます。どうか、病に苦しむサウズリンドの国民を救っていただきたい。そしてまた──」
この時ばかりは顔を上げずにはいられなかった。敗北の色に染まる、その面見たさに。
「王太子、クリストファー殿下の御子を宿した聖女ファーミアを、王太子妃として認めていただきたい……!」
さらに上がった歓喜の声に、我知らず興奮と昂揚感が頂点に達していた。異例なこととは重々承知しているが、と前置いても弾む声は抑えられない。
「イーヴァ神官長。クリストファー殿下。どうか、ご承認を──!」
片膝ついた姿勢でも、それは強いる声だった。
~・~・~・~・~
小さな痛みをこらえる声に、後ろを見やった。
サウズリンド王宮の衛兵の格好をしたレイが、頭痛をこらえるように顔をしかめている。
「……大丈夫か? レイ」
ええ、と答える声も表情も、まったくそうは見えない。この一族の能力は自分には計り知れないものだが、個人差があるらしく、レイはあまり適していないのだと昔に聞いた。
遠方にいると一族の能力はまったく働かなく、近くに来ることでどうにか伝達されるのだとか。
「大伯母上殿はなんと言ってる?」
「……その呼び方を今すぐやめろと」
思わず失笑がもれた。他国の王宮に侵入している身としては、まったくそぐわない呑気さだ。
王都にある一軒の本屋を介し、王宮書庫室職員に連絡を取る手段を教えたのはエリアーナだった。しかし、連絡を取ってもさすがに他国の王宮。すぐには侵入できず、一日半ほど待ってようやく王宮内の書庫室に入れはしたが……ここは王宮内でも外れのほうだという。
どうやって目指す場所にたどり着くか、と思案したそこで、案内をした職員がそれを渡してきた。
『あの……伝言です』
コンラートという若い職員ははじめての出来事と行動にかなりどきまぎした様子だったが、いつもの書庫室でようやく落ち着いたらしい。差しだしてきた紙片は覚えのないものだった。
『伝言? 誰からだ?』
まさか兄上から、と気がはやったが、渡されたものはまったく違う人間からだった。しかも、文字からも忌々しさがあふれるような文言。さらには、命令付き。
──動くのなら、明日にせよ。そして、ある人物と合流せよ、と。
『どういうことだ……?』
疑問と不可解さでいっぱいだったが、ここは他国の王宮。迷ったが一日待ち、衛兵の服を手に入れて指定された場所へ向かった。
「……アーヴィンさま。何か変ですよ」
王宮内の様子と人の少なさには気付いていた。世の状況が状況だからか、と思っていたが、たしかに違和感があった。自分たちを嵌める罠──その可能性は常にあったが、この状況では理にかなわない。
また、そんなことをする人物でもないのは、あの時に理解した。ここまで来たからには、こちらも相応の覚悟を決めなければならない。
その思いで着いた一角。目にした相手には、さすがに息を呑んだ。
「あんたは……」
サウズリンドの忙しない一日がはじまろうとしていた。