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四幕─2



 連れて行かれたのは、いつものクリストファー殿下の執務室でした。お茶を給仕してもらうと殿下は早々に人払いをして、室内は二人っきりになります。


 わたしはなによりもまず、真っ先にたずねたくてたまらない事案がありました。

 ………なぜ、わたしの隣におられるのですか、殿下。


 火急の用、王家の存亡の一大事、とおっしゃられた割には優雅にお茶をたしなまれています。そうして全身で大きく息をつかれました。それはとても安堵した響きでした。



 そしてわたしに向き合われると、おもむろに手を伸ばして来ます。

 触れるか触れないかの間際で添えられた手はわたしの頬にあり、殿下の指先が耳にふれていました。

 わたしのポワポワの髪にも。


「───やっと、つかまえた」


 いままでにない甘い微笑に、カッと頬に熱が走りました。耳の先にも。


 クリストファー殿下はゆっくり微笑を深めると、青色の双眸もなごませました。

「ごめんね、エリィ。いままでたくさん、誤解と不安を与えたね」


 わたしは首をかしげそうになって、殿下の手にふれてしまうためにそのまま硬直しました。殿下はフフ、といたずらっぽく笑むと話し出しました。


「実は四年前………というか、ほんとうは十年近く前なんだけど………。いや、うん。きみと婚約するにあたって、ベルンシュタイン翁と侯爵から出された条件があったんだ」


「条件、ですか?」


「うん。一つ目は、ベルンシュタインの隠し名を使わず、貴族たちから婚姻の賛同を得ること。二つ目は………エリィの関心を書物よりも得ること」


 わたしは思わず言葉を詰まらせました。殿下はクスと笑って、かすかにわたしの頬をなぞって手を離します。


「期限は四年。エリィが成人するまで。それまでに条件が満たされなければ、婚約は解消されてエリィもアルフレッドも侯爵も───宮廷から引き上げて、領地に引きこもる話だったんだ」

「まあ………」


 全然知りませんでした。と言いますか、はじめに聞かされていた話と全然違います。殿下は小さく吐息をつかれました。


「それで私が成人しても、強引に成婚の話を進めることはできなかった。ごめんね、不安にさせて」


 真っすぐ眸を見つめて謝意を伝えて来られます。わたしはかすかにたじろいで、飛び出しそうな鼓動を懸命に抑えました。

「………はじめに、言っていただければ」


 うん、と青空色の眼差しがどこかうつろな気配で宙にただよいました。

「あの時のエリィに言ったら、まず間違いなく、『そんな面倒くさいことをせずとも、婚約相手は他の方になさってください』───とか返されただろうね」


「…………」

 返す言葉もありません。


 たしかに当時のわたしは王宮書庫室というワナにつられました。しかしそれがあったとしても、事情を話されて諾とうなずいたかと言えば───否です。

 自由の時間と王太子婚約者の立場───どちらを取ると言われたら、まず間違いなく前者です。本を読むための時間は譲れません。



「………申し訳ありません」

「そこで謝られると、私の立場がないというか…………いや、まあ。結局エリィは、書物より私に関心を示してくれた。そうだよね?」


 ちょっと………だいぶ、私の予定と違っていたけれど、と引きつったお顔をされたかと思うと、きらきらしい微笑でわたしを見つめられます。


 殿下がおっしゃられているのは、わたしがいただいた本を突き返した時のことでしょう。たしかにあの時のわたしには、すべての書物が無価値なものに映りました。

 ───「虫かぶり姫」の、このわたしが。



 殿下の手が膝上のわたしの手をにぎりしめ、麗しい微笑でのぞき込まれてきます。

 とたんに逃げ出したいくらいの感情の波に襲われました。殿下のきらきらしい微笑を見つめ、引き込まれかけて───わたしは気を引き締めました。


 これに騙されてはいけません。わたしだって学ぶのです。


「───殿下。我が家の隠し名とは、なんですか?」

「………そう来たか」



 殿下の眸がそらされました。片手で眉間の皺をもむようにし、………できれば、私が条件を飲んだ理由とかね、と不満げなつぶやきをされています。


 吐息で気持ちを切り替えられると、再度わたしと眸を合わせられました。

「それを話す前にまず、誤解のないように言っておくけれど」

「はい」


「私は、エリィをベルンシュタインの隠し名ゆえに側に望んだのではない。それだけは絶対に心に留めておいてほしい」


 きれいな青の双眸がわたしを捕えて離してくれません。いつの間にか愛称呼びになっていますが、それすら気になりません。

 たじろぐわたしに殿下の微笑はなんだか迫力あるものになります。


「信じられないというのなら、今すぐこの場で押し倒してわからせてもいいけど」


 はい!?

 わたしはあわてて心持ち身を引くと、首振り人形のようにうなずきました。



 殿下は微笑んで話し出されます。

 わたしの家は、『サウズリンドの頭脳』という隠し名があること。知っているのは王家の人間やごく一部の者に限られていること。ベルンシュタイン家の人間が仕えた王の御代は、等しく繁栄してきたこと。


「それは………光栄なお話ですが………」


 わたしはかるく困惑します。

 我が家は代々、ただの本好き一族の集まりではなかったでしょうか。父も兄もその例に漏れていませんし………確かに、先のアレクセイさまのお話から二人の能力の高さはうかがい知れましたが。


 ………まあ、王家からの申し出に条件を付けられたのも、隠し名の影響力ゆえかも知れません。宮廷内の勢力図的には、どう見ても弱小貴族に過ぎませんが。


 殿下は苦笑されました。

「ベルンシュタインの人間は己の能力に重きを置かないのが美点でもあり、欠点でもあるね」

 おかげでここ何世代かずっと、書庫室勤めで終わっている、と。


 いえ、殿下。それはベルンシュタインの人間にとっては最高の職です。


「エリィもその能力を示してきたよ。覚えはない?」

 まったく、と眉根を寄せたわたしに、殿下は笑うような息をこぼされました。



「───ワイマール地方の横領事件」


 示唆されてわたしも記憶をたどります。

 あれは確か、殿下の婚約者としてお側に上がったばかりの頃。殿下の執務室で本を読むのも不慣れな時分、アレクセイさまと殿下の会話に引っ掛りを覚えたのがきっかけだったと思います。




 ~・~・~・~・~



 それは港町に面した一地方、ワイマールという地の近年の不漁による税収問題で、殿下たちが引き下げを話されていました。疑問を覚えたわたしは、思わずそのまま口にしていました。


「ワイマールはここ半年ほど、豊漁ではありませんか?」と。


 瞬きをした殿下が冷静に反問されましたので、わたしも素直にお答えしました。


「───一月前に出た、ダン・エドルド著の旅行記に、ワイマール地方の漁の技法について記載がありました。あの地方の名物、サミ魚を使った料理がとても美味だと」


 眉をひそめられたアレクセイさまの、それがなんです?という言葉にしない声が聞こえて、わたしもちょっと心がひるみましたが、それでもなんとか返しました。


「ダン氏の文体は大衆受けしませんので人気は低いのですが………記載は正確です。彼の著にワイマール地方が不漁であるという記述はありませんでした。著は今年訪れた地域を題材にしていますので、過去の話ではありません。それに───」


 わたしは少しためらいました。さすがに少し気恥ずかしかったのです。

「サミ魚の料理とはどんなものか気になりまして………ワイマール地方の地域回覧版を取り寄せてみました」


「地域回覧版?」


 殿下が意表を突かれたようなお声を出されました。わたしはうなずき返します。


「料理本などはなかったので、地域回覧版なら載っているかと。そうしましたら、とても活気のある内容で面白かったものですから、半年ほど遡って取り寄せました。───その記事のどれにも不漁の記載はありませんでしたし、むしろ漁師たちの活発な仕事の様子が載っていました。サミ魚を使った料理の数々も。不漁で困っている地域には見受けられませんでしたが………」


 不漁なら活気があるわけはないし、漁師たちの活発な仕事の様子などありえない。まして、名物料理の数々など。


 そこまで話しますと、殿下とアレクセイさまが険しいご様子で顔を見合わせられました。殿下はすぐさま指示を出されます。


「───アレク。ワイマール地方の領主と執政官を至急調べろ」と。



 そうして、またたく間に不正と癒着が発覚し、租税の横領が明るみに出た次第でした。



 わたしの顔はなさけなさそうになっていると思います。

「あれは、殿下とアレクセイさまがお調べになって見抜かれたのではないですか」


 わたしの功績などではありません。殿下は笑って頭をふられます。


「エリィの発言がなかったら、発覚しなかったよ。それに、料理本にして出版させたのはきみだろう?さっきの彼も言っていたけれど、あれがきっかけで市場の海産物人気も高まったんだ」


 地域回覧版なんてものがあるのも、はじめて知った。きみがあれに掲載されていた主婦の日常が描かれた短評欄コラムに目を付けて出版化を進めた。それも大流行したから、出版関連の商会では、きみが次に何に目を付けるのか動向をうかがっている───。



 わたしはちょっとポカンとしてしまいました。


 料理本として一冊にまとめたのは、家の料理人がそう望んだからであり、短評欄を一冊の本にしたのも、ただ単にわたしがまとめて読みたかったのです。


 世の中、なにが幸いとなるか、ほんとうにわかりません。





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