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冬下虫の見る夢─29

※日数のネタバレは次話で出てきます。

 今は保留お願いします。m(__)m





「──ファーミアさま!」と上がった声に、周囲にも動揺が走りました。


 周辺を固めていた護衛兵たちがすぐさま、「馬車を!」と声を荒げる様子。困惑する人々に「道を開けろ!」という声も聞こえ、さらに騒然としました。


 王都サウーラの神殿前広場には、臨時に建てられた仮設小屋に神殿内に入れなかった人々が敷いた、日除けを立てただけの掘っ立て小屋がいくつもあります。


 人がひしめき合うその場に馬車を寄越せというのは、あまりに乱暴な命でした。

 おそらく、ファーミアさまに他の男性が手を触れないよう気を使っているのだと思いますが、ざわめく人々を叱りつける護衛兵は傍目にも横暴に映ります。中には、身動きの取れない病人だっているのに。



 いけない、ととっさに立ち上がったわたしを止める手がありました。「──エル」と呼ぶ声も。


 止めたのは、風貌を隠したアーヴィン・オランザさま。

 広場の中に無数にある掘っ立て小屋の中に身をひそめたのは、わたし、エリアーナと行動を共にしている彼でした。そして、同じように容姿を隠した従者のレイ。


「でも、このままじゃ……」


 民にもファーミアさまにも、双方によくない感情が増幅してしまう。いいから座れ、と強引に強いたアーヴィンさまはどこか有無を言わせない状態でした。


「状況はわかってんだろ。今あんたが出て行って正体を明らかにしたって、あちらの思う壺にしかならない。むしろ喜んで、王太子の子を宿した聖女を害した、って犯人にされるだけだ。今のあんたに、それを覆す力はあるのか?」


 現実的な言葉でした。


 王都に着いたのが、昨日。そして現在、正体を隠して神殿近辺に潜伏している。もし、ここでわたしの正体が露見したら、どんな醜聞を立てられるかわかりません。一番あり得そうなのは、アーヴィンさまのおっしゃる冤罪でしょう。


 それだけはしてはならない。殿下の作戦に反してしまう。騒ぎを耳にしながら、わたしの中にある棘も思い知らされました。──王太子の子を宿した聖女。


 そこで、さらに押さえる声が出ました。


「アランがこの場にいても、同じことを言うと思いますよ。今は我慢、と」


 エリアーナさま、と途中で別行動を取る、と言い出したアランさまの言葉がよみがえりました。


『王都に着いたら、きっと色々なものを目にすると思います。でも、できる限り我慢してほしいんです。王都は、エリアーナさまが采配できたモッズスとは違う。正義感や使命感に燃えられるのは、とてもエリアーナさまらしいけど……ボクは、そんなあなたがクリスさまと同じくらい好きだけど』


 いたずらっぽく笑った顔が、約束させるように人差し指を立てました。


『今は、我慢ガマン、ですよ』と。

「…………」


 深呼吸を繰り返しました。わたしはいつも、先のことも考えながら、目先で起こっている事態や人々を優先してしまう。そのことへの対処で気持ちがいっぱいになってしまう。


 でも、それではいけない。目先で起こっていることに対処したって、それはただの自己満足。その場しのぎ。大局を見るべき者の考えではない。


 うなずき、膝を落としたわたしに、アーヴィンさまも小さく笑いました。


「ここであんたに何かあったら、ジャンのやつも地の底から恨み言いい出すだろ」

「墓の下から見守るジャンのためにも、本懐を遂げなければなりません」


 神妙なレイの言葉に、日除けの中で横になっていた人物から、まさに恨みがましい声がもれ出ました。


「……勝手に人を殺すなってんですよ」


 あっ、とジャンの容体を確認しようとしたそこで、騒ぎが収まる様子がありました。遠目にしか見えませんが、どうやらファーミアさまが体調をこらえて立て直されたようです。周囲からの励ましの様子もあり、わたしもホッと胸をなでおろしました。



 実は、王都に着いたら真っ先に王宮へ入るようアレクセイさまから指示されていました。誰にも帰還を知らせず、正体を隠したまま殿下の庇護下に入るように、と。


 それは殿下の作戦の内らしいのですが、正体を隠したままでよいのなら、わたしにはその前にしたいことがありました。


 ひとつは、病人が集められている神殿の様子を確認すること。王都には、ラルシェンよりも灰色の悪夢に精通した医者や研究所が備わっています。それは、わたしと殿下が何年もかけて補充、強化してきたこと。


 それがどのように機能されているのか。また、王都ならではの対処法があるのか。それらを確かめ、ラルシェンや他の地域に活かせたら、と思いました。そして、もうひとつ。


 ──ファーミアさまと、一対一で話せたら。


 もう事態は取り返しのつかないところまで進んでいる。それはわたしにも理解できました。けれど、すべての決着がつく前に、一度だけでも。


 テレーゼさまとファーミアさまとわたしと──三人で過ごした日のように、一度だけ。一人の友人として話をしたい。

 甘い考えでも、機会がないかこうして神殿前広場一角に身を潜めましたが、やはり難しい状態なのを思い知らされるだけでした。


 中央から離れた場所では、平然とささやかれる声。


「……護衛たちも躍起だ」

「偽聖女の仮面がはがれかけてるからな」

「もともと、あん人は信用ならんかった」


「神殿に入れる人間も、上流階級のやつらだけらしい」

「貴族以外はどうでもいいんだ。公爵家のお嬢さまだからな。薬を分け与える人間も選んでんだろ」


 耳にする言葉の数々に、わたしも他人事ならず胸が痛みました。世の中がこのような状況では、矢面に立っている人にはどうしたって非難や批判が向く。


 それはモッズスの町で経験したことでした。けれど、わたしには王太子婚約者という肩書と拠り所があった。ファーミアさまは、それなしに立ち向かっている。


 いえ……と考え込んだわたしに、アーヴィンさまのつぶやきが出ました。民ってのは、と。


「……自分たちに有益なものを与えてくれる間は、ちやほやするもんだ。それがなくなったら手のひら返す。そんなもんだ」


 夢を見過ぎるな、とわたしに釘を刺しているようでもありました。いつだったかは、わたしに理想を求めてもいいと言っていたのに。

 小さく微笑し、わたしもジャンの容体を確認に戻りました。



 吹雪の山道でジャンを取り戻したのはよいものの、彼もまたかなりの深手を負っていました。その手当と容体を見るために半日ほど時間をつぶし、その間にアランさまと黒翼騎士団は準備を整えて別行動を取りました。


 共に王都へ向かうものだと思っていたわたしは驚きましたが、『殿下の作戦なんだ』と内緒のように人差し指を立てます。そして先の約束事をわたしに言い聞かせました。


 馬車を用意していた様子からして、だれかを迎えに行くのかも知れません。騎馬で王都に向かうわたしよりも、ジャンはアランさまたちに任せて馬車で安静にしてもらうほうがよいのかも、と思いましたが、アランさまがそれを否定しました。


『ボクと一緒にいても、ジャンは気が休まらないと思うよ』、と笑顔で、何やら小悪魔のような……。それに、と苦笑するふうでもありました。


『ジャンが今、エリアーナさまから離れたがらないと思う。……激辛料理を食べさせられても、絶対口にしないと思うけど』


 そう言うアランさまの言葉と本人の意志、そして怪我の手当には慣れている黒翼騎士団の助言で、迷いに迷った末──王都までの強行軍に付き合ってもらいました。


 途中、こまめに様子を見、休憩を挟もうとしたのですが……『この状態が長く続くよりも、しんどくても我慢して早く終わったほうがいいッス』という本人の言で騎馬を走らせ続けました。


『なんで知らない声が聞こえるんッスか……。これがお迎えの声ってやつッスか……』


 ぶつぶつと嘆きをもらすジャンを傍迷惑そうに、括り紐で背負ったレイと、わたしを乗せて早駆けするアーヴィンさまと、傍目にはたった四人の行程でした。



 そうして少し回り道をしながら、どうにか王都まで着きましたが、ジャンはとたんに倒れ込んでしまいましたし、わたしもまた、不慣れな乗馬と強行軍に気絶寸前でした。昨晩は宿屋が満杯なため、物置小屋を借りて身体を休めたのですが、今日ははじめての筋肉痛で身体がガタガタです。


 それでも、起き上がるのも困難な状態のジャンよりはましでした。


「ジャン……」


 わたしも無理をさせてしまった罪悪感と不安で、胸が締め付けられます。医者を呼ぼうにも、王都もやはり医者不足なのです。思わず、彼の冷えた手を取り、祈るように「しっかり」と言葉にしました。


「ジャン、頑張って。回復したら、わたしに贈られてくるお菓子は全部、あなたにあげるから」


 え、毒見役? とレイの言葉に、アーヴィンさまがなるほど、と納得の声を出しました。残飯処理係か、と。


「……オレをなんだと思ってるんッスか」


 呻くジャンにアーヴィンさまがひとつ笑って大丈夫だ、と容体を説明します。


「脈も正常だし意識もある。今は少し無理をしすぎて体力気力が落ちてるが、地力のある鍛え方の身体だから、二、三日安静にしていれば動けるようになるはずだ」


 ホッとわたしも息をつきました。そこで、アーヴィンさまが口調を変えます。で、これからの行動だが、と強くわたしを見据えてくる、黒い眸。


「オレは兄貴を助けに行く。王宮に入る伝手を、あんたに紹介してもらいたい」


 ドキリと核心を突く話でした。


 マルドゥラ国の王子、アーヴィン・オランザさま。従者のレイ。彼らがここまでわたしを護衛しながら行動を共にしてくれたのは、彼らの目的があったから。当然だと思いながら、どこかで心細くなる自分もいました。

 さみしくなってしまう自分も。


「……わたしが……やはり、王宮に」


 殿下の保護下に入れば、アーヴィンさまたちも王宮内で動くことができるはず。でも、と唇をかんだわたしに、アーヴィンさまがあっさり否定しました。いや、いい、と。


「ジャンは今、動かせないだろ。それに事情がどうあれ、あんたがオレたちを王宮に招き入れたって事実を残すのはまずいと思う。王太子もオレたちだけは締め出したはずだ。あんたは自分の伝手を持っていた。オレたちはそれを勝手に利用する。──これで行こう」


 彼の先見の目はもしかすると、クリストファー殿下にも比肩するのかも、と感じた瞬間でした。


 逡巡しましたが、うなずいて思考を切り替えます。

 王宮内の伝手。真っ先に思い浮かんだのはクリストファー殿下ですが、殿下は今、作戦の中で細心の注意を払っている。その邪魔にならないように……。


 次に考えたのは近衛騎士グレンさまです。でも、グレンさまは殿下の護衛が最重要任務。王弟殿下、テオドールさまは不在。父や兄に連絡を取ったら、わたしの所在が漏れてしまう危険性がある。王妃さまは今きっと、厳重警戒中。アンナさま、ストーレフ家、王宮薬学室長ナイジェルさま……。


 考えたそこで、ハッと閃く人たちがいました。彼らなら、今王宮内で手が空いていて、警戒も薄い。


 うなずいて、わたしは片時も手離さず持ち歩いていた、特大版の厚い本から白紙の紙を取り出し、手持ちの筆記用具で依頼文を(したた)めはじめました。


 ジャンがうっすら横目で、

「ずっと気になってたんッスけど……なんなんッスか。その分厚い本」


 と言うので、わたしは自身の秘密兵器に、自分でもめずらしくほほ笑むのがわかりました。「秘密」とペンを動かすわたしに、アーヴィンさまとレイも若干引き気味です。


「……あれ、すげー重かったな。何であれを軽々と持てるんだ」

「あの細腕のどこに……もしや、魔女の傍流……」


 ささやく声を横に手紙を書き終え、繋ぎをつける方法を伝えます。五年近くやり取りをしてきた方々。わたしの筆跡や依頼する意図は理解してもらえるはず。


 思いを込めて渡すと、アーヴィンさまがふと、真剣な表情になりました。


「あんたの周りから人を手薄にするのは、かなり心配なんだが……」


 ちらりと周囲に目をやるのは、潜伏している王家の影を確認しているようです。そしてジャンに向ける皮肉な目。張り詰めたような雰囲気に少しあわてました。


 そこで、離れた場所から上がる明るい気配があります。神殿内から医師や看護人、手伝う人たちが出てきて、定期的な回診を行う時間のようです。その中に一人、周囲をキョロキョロと見回す人物がいました。


 その目が日除け布の上に結んだ赤い布を見付けて、一目散に走ってきます。日除け布下にいたわたしに目を止めるや、「エ……ッ!」と叫ぼうとしてレイに口をふさがれました。


 サウズリンド王宮、アンリエッタ王妃さまの配下であった、侍女のサラ。今は下働きの身で仕えている女性でした。


 殿下の庇護下に入るように、とアレクセイさまから指示された時、まずサラに連絡を取るよう言われていました。しかし、王都について影が確認したところ、サラたち王宮の下働きの者は、今神殿内の手伝いに派遣されている、との話。


 なのでわたしも、神殿内の様子を見てみたいと思ったのです。


「──サラ」


 わたしの名は呼ばないで、と意味するように口元に人差し指を当てると、うなずいたサラがレイから解放されます。しかし、見る間に感情の起伏が頂点に上って大粒の涙をこぼしました。


「ご無事で……ご無事で……っ!」


 口元を押さえて泣き崩れる彼女に、周囲が少しざわつきました。あわててなだめて、目立ちたくない旨を伝えると、さすがは元王宮務め侍女。


 ピタリと感情を収めて、息を整えました。しかし、上げた顔はどう見ても感情があらわで、思わずわたしもほほ笑んでしまう様子でした。彼女に連絡を取ったのは間違いではなかった、とあらためながら、ジャンを神殿内で保護してもらえないか声をひそめてお願いします。


 サラは素早く状況を見て取りました。そして、わたしの状態にも目を細くしてきます。



 サラは控えめな女性なので口にこそ出しませんが、わたしも自分の状態がかなりひどいものなのは承知していました。少年の格好なのはもちろん、髪を隠す布を頭に巻き、防寒のために着込んだ衣服もこの強行軍で薄汚れています。どう見ても貴族令嬢、王太子婚約者の有様ではありませんでした。


 かつては王妃さまの配下でもあったサラの目にさらされて、わたしもいたたまれない思いで小さくなります。


 静かに大きな息をついたサラが、「お名前を」と口調を変えてきます。エルです、と答えると、うなずいて行動を伝えてきました。


「神殿内での看護対象と受け容れます。病人の方は担架でお運びいたします。付き添いは原則一人のみ。あなたでよろしいですね?」


 有無を言わせない口調は、何やら別の使命感に燃えだしたようです。呑まれてうなずくと、次には立ち上がっていました。


「付き添いの方は、身を清めて検査を受けていただく必要があります。そちらの案内は私がしますので……他の方はここでお引き取りいただきます。よろしいですか?」


 目を向けられたアーヴィンさまが、ニヤリと口の端を上げてうなずきました。そしてレイと二人、その場から立ち上がる動きに、わたしもとっさに膝を上げます。


「気を付けて──」


 アーヴィンさまの兄君を救う。サウズリンドの王宮内で、しかも警戒が厳しいであろう人たちを。それは、どんなに甘く考えても、騒動が起こる可能性を想起させるものでした。


 今はまだ、何事にも気を抜ける状態にはない。不安がつのるわたしに、アーヴィンさまはあざやかな笑みを返します。


「オレは、オレの花守り虫を守る」──と。






 ~・~・~・~・~





 サワサワ、とやわらかな風になでられた気配がありました。


 ぼんやりと瞬き、目をこすってみると、いつもの図書館。本を読みながらうたたねをしてしまっていたようです。


 でも、なんて幸せな一時。


 たくさんの本に囲まれて、その中に眠る物語の息吹、脈動、未知なる世界、たくさんの人の知識、思い、綴られた様々な文章。


 現実的なもの、詩的なものや幻想的なもの、時には狂気を感じさせるもの。それらのすべてに命がある。


 物語は、時に人を未知の世界に連れ出す。そこで紡がれる人々の生き様。思い、悲しみ、痛み……読む者を虜にする物語。力を分け与えてくれる物語。いつまでも悲しく思ってしまう物語。夢見る思いにさせてくれる物語。一緒に冒険している気分になる物語。読む者の想像力を、はてしなく広げてくれる物語たち。


 研究書、歴史書、医学書、地図記、随筆記、年代書、旅行記、昆虫記、動物記、植物図鑑、花図鑑、楽譜、画集、もっと……もっと。


 図書館には、未知の世界が詰まっている。その中で眠れるなんて、これ以上の幸せがこの世にあるのでしょうか。


 心が沸き立つ思いで多幸感に包まれながら、いつまでもこの幸せに浸っていたかった。……なのに。


「……え?」


 落ちた滴に目を瞬きます。自分が泣いていることに、一拍置いて気付きました。なぜ、と思うよりも先に大波のような感情がわたしを襲います。


 もっと、大切なこと。本と同じくらい、──いえ。それよりもかけがえのない存在だと、そう思った方がいた。その方がいない。その方がいなかったら、わたしはたくさんの本の中にいても、ずっと一人ぼっち。


 昔はそれでいいと思っていた。でも、たった一人を想う気持ちを知ってしまった。その方と気持ちが通い合う喜びを知ってしまった。


 もう、本だけがあれば幸せだった、昔のわたしには戻れない──。




 揺さぶる手に目を覚ましました。


「……お嬢?」


 けむる視界に瞬くと、こぼれるものがあります。ジャンのうかがうような目と、大きな空間の中にいる孤独感。


 疑問を覚えながら目元をこすって起き上がり、隣で身を寄せ合うように眠る女性にも気付きました。サラ、と思うのと同時に、ドッと状況が押し寄せてきました。



 王都サウーラ。英雄王カルロ神殿内部。いくつかある広間の中、病の軽症者が寝台を並べる一角。ジャンは怪我人でしたが、サラの手配で寝台で休むことができている。付添人はその下でごろ寝。


 神殿に入る前に風呂場で身を清め、サラが用意した新しい服──引き続き少年のものでしたが、それに袖を通し、食事ももらい、ジャンの手当もし直されている状態。それらにわたしは安心して、倒れるように眠ってしまったのだとわかりました。


 そして、わたしの隣で一緒に横になっている神殿関係者のサラ。まったく気付きませんでした。ここ数日の疲労もたまっていたのだとは思いますが……まだ、こういう状況なのに。


「……もう、夜なのね」


 広間の薄暗さと人々の寝入った様子。一日が終わってしまった事実に、焦燥ばかりがつのります。


 息をついて気持ちをあらため、深く寝入っているサラを起こさないように起き上がります。ジャンの容体を確かめ、ささやくような軽口を交わして、小さな手巾を手にわたしは広間を出ました。



 とたんに、キンと張った冷気が全身を襲います。それは深夜の時間帯をわたしに教え、人の気配もほとんどない回廊は暗がりが多く、不気味な演出もかもしだしていました。


 一定間隔の角灯を頼りに外の水場に着いて、濡らした手巾で顔を洗います。暗闇の中、白い息をつくと、じんわりとのぼる自身の血のめぐりが、ようやく目を覚ましてくれた気がしました。


「…………」


 明日はきちんとやることをやらなきゃ、と気持ちをあらためた時です。


 小さな、氷を割ったような音が近くでしました。心臓が跳ねるような思いでふり返り、同時に後ずさります。わたしが王都に戻っていることは、まだ誰にも知られていないはず。だから、狙われることは──。


 後ずさったそこで、暗闇に沈んだ木陰の中から、あり得ない声が出ました。ささやくような、思い詰めたような声。わたしを呼ぶ、ただ一人の人の声。


「──エリィ」と。


 ドクリと、鼓動が鳴りました。


 まさか、と固まった思考の中、声の主が影の中から歩み出る気配と、遠くもない場所から聞こえた、夜間の見回りの声。そちらに気を取られた一瞬でした。


 木陰の中から出た人物がわたしの身をさらい、暗がりの中に閉じ込めました。とっさに上げかけた声を、シ……ッ! と低くとどめます。


 その方の鼓動と、見回りの者が周囲を灯りで照らしながら去っていく気配。わたしを捕えたその人の外套の中にくるまれて、人の気配が絶える様子を一緒に聞いていました。


 ──知っている。


 この香り。この声。手の熱さと大きさ。わたしとは違う心音。肩幅や身長や、──わたしに触れる仕草も、包み込んでくる気配もすべて。知っている。覚えている。


 まさかと思う気持ちが、不安と期待の思いが、見る間に氷解してわたしは顔を上げました。


 風も音もない深夜。


 積もった雪が氷に変わるような、凍て付く夜。かすかな息も白く溶ける。暗闇にひっしに目をこらしたそこで、近くの枝から積もった雪が落ち、細い二日待ちの月がのぞきました。


 ほんのわずか、差し込んだ月明かり。


 しかし、それで十分でした。青い眸。目深にかぶった外套からのぞく、金の髪。今は笑顔もなく、張り詰めた真剣な顔でわたしを見つめてくる、ただ一人の人。


「…………」


 ふるえる言葉を紡ごうとして、声になりませんでした。


 たくさんの想いと言葉、話したかったことも伝えたかったことも確かめたかったことも──すべて。一緒くたになって、何を言うのか、言えばいいのかもわからない。


 そんなわたしに、その方も白い息を吐いて強張った表情のままでした。いつも、わたしに見せる余裕も笑顔も、……気遣いながらふれてくるのに、たまに見せる強引さもない。


 まるで、何かを怖がっているかのよう──。


 思ったそこで、気付きました。わたしと一緒だと。王都に着いたら、王宮に向かって殿下の庇護下に入るように。そう言われていたのに、わたしはそれを避けました。言い訳を並べて。


 ──怖かった。殿下に逢うのが怖かった。


 あんなに逢いたいと想いをこらえていたのに、いざ逢えるとなったら、わたしは怖くなった。殿下を信じると何度も思いながら、何度も支えられながら、わたしはその声を見失いました。


 何も見えなくなった。吹雪に巻かれた旅人のように。


 そして戻った王都には、声があふれていました。王太子と聖女。未来の王太子妃。二人の間に生まれる次代の象徴。由緒正しき血筋を受け継いだ、サウズリンドの希望。


 ──わたしは、ここに戻ってもよかったのだろうか。


 浮かんだ思いがわたしを臆病にさせました。立ち向かわなければならないのに、怯んでしまった。……でも。


 夜目にも白い息をついて、その方がそっと、もう一度わたしを呼びました。


「エリィ……」と、聞いたこともない臆病さで。


 その手がわたしの頬にふれ、隠してもこぼれた髪にも触れ、愛しむように、慈しむように……怪我がないか、確かめるように。

 気遣うようにふれて見つめてくるのに、見る間に感情がなだれてあふれました。


 堰き止めていた想いがとめどもなく。


「……っ」


 ずっと、言いたかった言葉。口にすると苦しくなるから、とどめていた想い。ずっと、ずっと──。


「……たかった……」


 セオデンおじいさまに婚約を解消しなさいと、選択を迫られたあの時。命の危険にさらされた時。渡された手紙に勇気をもらいながら、その期待に応えられなかったあの時。声を、想いも見失いながら、それでもわたしの胸の中にいるのは、いつも一人だった。


 青い眸。金の髪。二人といない、凛然とした気配。サウズリンドの未来を嘱望された王子。でも……わたしには、たった一人のかけがえのない人。


「逢いたかった……っ、殿下、クリストファーさま……っ」


 泣き崩れるように口にしたその瞬間、殿下の眸が屈折するようにゆがんで、かすれた声が出ました。エリィ、と。それが次には箍が外れたようにわたしをさらいました。


「エリアーナ……ッ」と。


 勢いのままわたしの呼吸は熱い唇でふさがれ、その強さと想いに離れたくなくて、わたしも殿下の首に手を回していました。


 逢いたかった──逢いたかった……!


 ただ、その想いだけでいっぱいでした。この方のそばに戻りたかった。たくさんの出来事に襲われて、傷付いて打ちのめされても。


 ただ、もう一度。──どうしても、逢いたかった。わたしを本の世界から連れ出した唯一の人。クリストファーさまに。


 息もできないくらい、重ね合った唇の熱さが、殿下の余裕のなさ、ひっしさを教えました。それが、わたしの中に残る氷塊も棘もすべて溶かして、想いだけでいっぱいにしてくれる。


 この強い熱さがあれば、どんなことだって乗り越えていける。辛いことも、悲しいこともきっと──。同じように返したい。殿下が辛い時も苦しい時も、力になりたい。わたしの想いが少しでも殿下の力になればいい。


 かけがえのない、たった一人。この方を守りたい。わたしの何に代えてでも──!


 想いと、互いの熱さを伝えるように強く抱き合って唇を重ね、永遠にも感じる時が流れました。どうしても……、先に苦しくなってしまったわたしが音を上げると、少しだけ唇が離れます。


 近くで混じり合う白い息はもう、どちらのものかもわかりません。ぼんやりそれを見たわたしに、小さな声が降りました。


「エリィ……」


 いつもとは違う、余裕のなさで。


 思い出したようにこぼれたわたしの涙を指先で拭うと、殿下の唇がまたわたしの息をふさぎました。エリィ、と何度も。まるで、他の言葉を口にする間を惜しむように。わたしの名を呼ぶたびに──きみが好きだと、伝えてくるように。


 そして、わたしの首筋をさらって、逃げ場なく呼吸を重ねてきます。わたしが苦しそうにすると離れて、やるせなさそうな、留め金を失った声をもらす。


「エリアーナ……」と、熱い想いのこもったものを。


 その声に誘われて眸を開け、互いの想いにあふれて、息も詰まる苦しさでした。重なり合う眸が同じ思いを伝えています。──逢いたかった、もう離れたくない、と。


「……っ」


 もう一度強く呼吸を重ね合わせ、それでもわたしはわかっていました。わたしたちは今、一緒にはいられない、と。


 アーヴィンさまが王宮に潜入したということは、きっと軍部の方々と一悶着起きる可能性がある。わたしは安全な場所にいて、殿下の気懸りになってはいけない。


 殿下は今きっと、ようやくすべての元凶を公の場に引きずり出そうとされている。たとえそれが、自分にとって痛みを伴うものだとしても。


 小さな息で唇を離した殿下に、もう一度、わたしから重ねました。何があっても、自分がそばにいる、と想いを込めて。


 何度も互いの唇の形もわかるほど重ね合って、ふだんのわたしならきっと、赤面してはじめの段階でもう無理と思っていたに違いありません。でも、わたしも離れて、この状況に陥って、知ることがありました。


 自分の中の独占欲。この方をだれにも渡したくない。──たとえ、聖女と崇められるファーミアさまにだって。負けたくない。


 呼吸を離し、わたしの眸の中にある強さを見て取ったように、殿下がフッと笑いました。庇護するだけじゃない。王宮の奥深くに囲って守るだけではない、対等に隣に立つ存在だと認めるように。


 わたしを信頼し、互いの行動を信じて、目指す道をつかもうとする意志。

 片手がわたしの頬を慈しむようになぞると、今度は額に唇を落としてささやきました。


「必ず、迎えに来る。──私のレディバード」と。




 そうして身を隠しながら姿を消す方を見送り、思い出した寒さにわたしはふるえました。一人は、こんなに寒い……。


 戻って休もうと踵を返した時です。忍ぶ音ではなく、故意に出した音にわたしはハッとしました。それは、目指す相手を見付けた意志あるものだと知っていました。


 この道中で、何度も思い知らされた──。

 殿下、と思わず別れたばかりの方にたすけを求めていました。







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