冬下虫の見る夢─27
何かを呼びかけられた。やわらかな声で。
ふと目を落とすと、自身の腰よりも下から見上げてくる目がある。
口唇が言葉を紡ぐよりも先に、近くに梯子も脚立もない状況を見て取り、棚の天辺を目指して隙間につま先をかけた。一瞬の伸びで目当ての本を手に取る。
感情の薄い子どもの顔が、ぱあっと明るくなった。それを見ながら、手にした本の背表紙に目をやる。
『吸血生物と昆虫、その二・あなたの生き血をください』
「…………」
思わず、もう一度子どもの手の届かない最上段へ戻しそうになった。が、その前に子どもは胸に抱えた本とは別に手を伸ばし、それを奪い取る。ありがとう、と言葉と一緒に。
「──ジャン」
と、自分の名を呼んで。
ベルンシュタイン領。
属した組織の命でこの地へ遣わされた。ずいぶんと、変わった地だと思った。東の国境近く、大陸公路からも離れ、主要産業もない小さな、どちらかと言えば世の時流から忘れ去られた土地。
のほほんとした気風はなぜだか自分によく合った。上の命令のまま、無味乾燥な命のやり取りをするでもない、政争相手の弱みや他人の隠し事、秘密を言われたまま暴く、殺伐とした日々。そのどれとも違う、ただ小さな──変わった子どものお守り。
子どもの日課は決まっていた。午前中は邸宅で貴族子女らしい教養と礼儀の勉強。たいていの貴族家庭ではこれが丸一日らしいが、この家はさほど厳しくないのか、午前中、しかも休みが多い。教師たちともなごやかな様子からして、万事ゆるい気風なのだろう。
そして午後。子どもは町中にある、自身の邸宅よりも立派な図書館へ通う。年代を感じさせる、古臭く頑強な石造り。ところどころ、継ぎ足しの木材が見える建物は、決して荘厳なものではない。
それでも、この図書館は小さな領地の象徴であり、遠方からも人の往来や訪問が絶えない、領民の誇りであるようだった。
変わってる、とは思った。だが、どうでもいい、とも。
日課はいつも通りだ。午前中は領主邸の雑多なことを手伝い、午後はお嬢さまのお守りにつく。これが一番楽だ。なにしろ、お嬢さまは図書館から出ない。日が暮れる閉館のその時まで、ひたすら本を読みふけっている。
虫かぶり姫。──そう呼ばれることを知った。本の虫のように、本にかぶりついて離れない。
年端も行かない子どもなのに、その執着心はあきれるほどだった。が、それも血筋らしい。ふうんと感慨もなく思いながら、まあそういう人種も世の中にはいるのだろう、ぐらいの認識だった。
……変だなと、思いはじめた。子どもは、領地の図書館になぜか出た亡霊騒ぎを次々に解決していった。一霊……いや違う、一例。
北東階段、踊り場の絵画。無名の画家が描いた収穫祭の絵には、骸骨の顔が見える時がある。そして、それを見た者には災いが訪れるのだと。
そんな不思議を子どもは少し考え込んで解き明かした。
絵の中の人物が骸骨の顔に見えるのは、決まって雨の日。踊り場に差し込む反対側の斜光窓、その外にある樹木。そこを雨の日になると往来する小動物がいる。日がある時にはいない。雨の日だけ。それによって起こる影の作用と、画家が使用していた時代の絵の具による作用も解き明かした。
二つが重なることで起こる現象。
ははぁ……と領民は感心した。また一霊。
夜になると、シクシクと泣く女性の声が図書館奥から聞こえる。──雨水を溜める貯水樽にヒビが入っており、漏れたそれが伝い落ち、継ぎ足された木材と金属に跳ねて、しゃくり立てるような音になっていた。
シクシク泣く声ではないし、人がいない夜にこそよく響く音階だった。
ほほぅ……と、図書館所蔵の貴重な楽譜目当てに訪れていた音楽家が感心した。また一霊。
それは夜ではなく、日の光がある時に現れる。薄暗がりでもぼうっと現れる少女の霊。本に悪さをしたり図書館内で騒ぐと、決まって現れ呪いをかけられる。
呪いは、図書館に入ると決まってペッと追い出されるのだ。どうやっても二度と入れない。領民の誇りである場所に入れないのは一大事。
しかし、この呪いには解除法がある。甘いものをお供えすると、もう一度入れるようになるらしい。……なにやら聞いたことのある話だ。
そしてまた一霊。
昨今、人の生き血を吸う化け物の話が流行りだ。そしてそれがこの図書館にも出るとか出ないとか、……出る時出るであろう、出ない時出るであろう、ジュゲムジュゲム云々。怪しげな呪文や銀細工を持てばいいやら、
少女は吸血生物を退治してみせた。
領内の鶏や豚など、家畜の被害。沼地に発生した蛭が近年の気候と重なって、大量発生した。その発生原因と駆除方法、対処法などを考案した。本から得た知識でもって。
虫かぶり姫、──さらにその名が定着した。しかし。
……自分は知っている。駆除方法のために実験されたもの。
当初、子どもは生き物が苦手な燻す方法を取った。実験したそれは、領主邸が煙まみれになり、住人すべてが邸宅から追い出され、しばらく領内のお宿に寝泊まりするはめになった。
その二。生き物や昆虫には苦手な臭いがある。ハーブ系の臭いが苦手で、それは厨房の害虫退治にも使われている。本で読み、邸宅の料理人からも学び、子どもは新たな防虫臭を発明した。
その名も──『甘いものには罠があるホイホイ』。
少年たちに人気な昆虫を捕まえるための甘い香り。これを応用して、防虫効果のあるものを混ぜた。……つまり、刺激臭のあるものだ。
甘い香りに誘われてきたものはその刺激臭にやられる、という効果を狙ったらしいが、混ざり合ったそれは、とんでもない臭激──いや、襲撃効果となった。
邸宅の一件で叱られた子どもは、図書館近くで実験した。が、今度は見事に図書館内と近隣の住人も追い出すことに成功した。
……うーん。少女に別名が冠せられそうだが、ここはあえて見なかったことにしよう。
そんな諸々の実験を経て見つけ出された害虫駆除。水を使った音波と吸血生物の苦手な臭い。二つを合わせて、家畜と同時に人を襲うものも退治してみせた。さらに副産物として、図書館に巣食いがちな
そんな裏事情を知り、散々巻き込まれた身としては一言物申したい。だれが毎回、後始末したと思ってるんッスか……!
自分に下された命は子どもに付いて、その身の回りに及ぶ危険を排除すること。たまに情報を流すこと。これだけのはずだった。
しかし、それを守っていたのに、おかしな怪談話に巻き込まれた。他者の命を感慨もなく奪い、葬ってきたおのれが、お供えをしたらありがたがられる存在だったり、怪談の一霊になったり。
奇妙な気分だった。
この領地では誰に狙われることもなく、昼寝もできる。しかし、うっかり午睡を貪ると、とんでもない犯人に仕立てられていたりする。
お供えの泥棒犯だったり、害虫駆除破壊者だったり。……いや、人を害すものはそれは排除するだろう。
なんなんだ、と思いながらどこか愉快な気分だった。今までとはまったく違う生活。世の中には、こんな世界もあるのだと。
予想だにしない騒ぎに毎回巻き込まれながら、その度に呼ばれる声を聞いていた。
自分の腰よりも下、自分がもう、見ることもなくなった目線からかけられる声。昔、小さな頃、確かにこの目線を感じていた。
「……っ!」
火花の散る音と光景に目をしばたたいた。
自分は今、何を見ていたのか。吹雪きだした昼の合間、その一瞬を狙って奇襲をかけた。自分たちにとっては、最後のそれを。
『今度こそ……今度こそ……』
手傷を負い、計画も目論見も、すべてが台無しになった男が逃げ延びた先で、ただそれだけを口にしていた。
共に逃げ延びてきた自分たちにも、それは浸透するように。呪詛にも似たつぶやきで。
『――あの者さえ、消し去れば』
それも別に悪くないことではないかと思った。彼の言う通りにしてやる。ここまでひとつの任務に執着し、こだわってきた彼に準じてやるのも。
これまで、自分はそうしてきたではないか。上からの命を従順にこなしてきた。今この時、彼の思いを叶えてやるのも──最後が見えている今は、なおさら。
その目を覚まさせるような音と衝撃、──次いでやってきた、刺激臭だった。
襲撃者の習いで今さら感はあるが、風貌を隠す覆面をし、捨て身の攻撃だった。目当ての者たちは騎馬で駆けており、襲撃した自分たちに対峙した。逃げもせず、騎馬を止めて。
その馬から、まろぶように飛び降りて。
「…………」
その際、懐から何かを取り出したのは見た。だが非力な一少女。何をしようと相手にはならない。一瞬の判断後の衝撃。
おそらく、緊急時に使用される煙幕に別の刺激臭を混ぜたのだろう。それは覚えのある──北方地域特有の香辛料。舌に残っている苦手な辛味。
何かを口にする前に咳き込んだ。目にも入る刺激臭に視界が霞む。
この少女は幼い頃からの経験を積み重ねて、さらにとんでもない撃退臭を作りだした!
……いや。少女も同じようにむせているではないか。
同じような覆面越しでも容赦ない刺激臭。狙う者と、狙われた相手と、双方が標的そっちのけにむせかえった。吹雪いた風がたまる一角だったのもそれを加速した。
思わず叫んだ自分に非があったとは、決して思えない。
「……アホですか、お嬢!!」
ケホケホと咳き込んでいる相手も何かを言いたそうにして、言葉にできていない。ますます、阿呆としか思えなかった。そして、そんな自分の叫びに目的をあらためた者もいた。
ハッとした。簡易手当をしただけの上からもにじむ、血の跡。深手に相違ないのに、それでも標的を仕留めようとする意志。
──そうしなければ、彼らには帰る場所がないからだ。すでに王家の影という立場からは離脱した。付いた相手の益に足る成果を上げなければ、彼には帰る場所がない。
……では、自分は?
ジャン──、と深く静かに自分を呼ぶ声。あの汚泥の中から瀕死の自分を救い上げた人の声。それだけを聞いて、その命に従ってきた。自分には、それだけで十分だった。
だが──。
夏の暑い昼下がり。本に夢中な子どもが倒れないよう、こまめに水分を渡してやった。密かに見付けた、自分だけの涼しい場所で読書するよう、誘導してやった。……なぜか、他の者も集まりだして、憩いの場が作られるようになってしまった。
実りが多い秋は甘いものも増えて気分が浮き立つ。蒸かした芋も、はじける時を遊戯のように楽しむ栗も。特別豊かな地ではない。甘いものだって、豊富ではない。でも、あの子どもは、いつもそれを自分に優先的に回した。
真っ白な視界に埋もれる冬も、やわらかな緑が芽吹く春も。同じ季節、同じ時間、同じ出来事──様々なものを共有した。感じ方は異なっていても、かけがえのないものを、確かに。
彼が動いたのと同時に、自分も動いていた。たぶん、その声が自分を呼ぶよりも早く。
~・~・~・~・~
「――ジャンを、取り戻したいの」
ラルシェン地方モッズスの町。宿屋の一室には火石を使った蒸気を出す装置が音を立てています。手燭の蝋燭の部分を改良して小さな火石と、その横に定期的に水を落とす水鳥の装置。それを考案しました。灰色の悪夢の予防策の一環です。
その音がいやに響いたのは、わたしが口にした言葉ゆえでした。
エリアーナさま、と率先して厳しい声を発したのはメイベルです。一室に集まったのは、この件に深く関わっている人たち。
難しい顔をしていたのはアレクセイさまですが、その横のアランさまもまた、静かな──どこか試すような表情でわたしの言葉の続きを待っていました。
彼はジャンに手傷を負わされた人である、とわたしも腕の釣りをはずした彼を見て、気持ちをあらためました。
一室に集ったのは、真っ先にわたしのそばについたメイベル。
町とラルシェンの件に関しては伯爵や有力者たちと話し合い、方針や対策、これからの保証など、細かな点まで目途をつけ、大筋は決まりました。当初、この町と土地が落ち着くまで離れる気はなかったわたしですが、次は、と話が及んだ時に声を発したのがアレクセイさまでした。
「──エリアーナ嬢を、王都へ帰すべきです」と。
驚いて見返したそこで、アレクセイさまの譲らない、蒼氷色の眸と姿勢に出逢いました。
「エリアーナ嬢がこの町へ来たのは、この地で起きた暴動を鎮めること。病に侵された病人と家族、その被害者の救済」
いや、しかし! と声を上げる有力者がいました。
「お待ちください! 王太子婚約者がこの地にいてこそ、救援の手は第一に差し伸べられるでしょう。エリアーナさまが立てられた仮説。それが広まれば、なおさら、我がラルシェンに向けられる目と援助は厳しくなる。エリアーナさまが今、この地を離れることは……」
それは、と苦しそうにつぶやいた声がわたしの胸も突き刺しました。
──王家が
反射的に返しかけたそこで、静かな発言者がいました。
それは違う、と揺るぎなく言葉を紡いだのは、遅れてモッズスの町にやって来たカール・ラルシェン、若き伯爵でした。
「ラルシェンは二度、王家に見捨てられた。だが──再び起こった、死の病、灰色の悪夢。その発生を聞いても立ち向かってくれた彼女がいたから、今治療薬に繋がり、この町の状態がある。病の源と目される鉱山も王家の名で封鎖してもらった。あとは、この地に住む我々の仕事だ」
それに、と伯爵は現実的なことも指摘しました。エリアーナ嬢が王都に戻ってもらうことで我々にも益がある、と。
どういうことかと瞬くわたしに、伯爵がすぐには変わらぬ癇の強そうな様で答えました。
「あなたが王都に戻り、その立場を復権してもらうことで、ラルシェンへの救援の手が厚くなるのを見越しているんです」
なるほど、と合理的な考えにわたしも新鮮な思いでした。たしかにこの地で見聞きし、実体験したわたしの言葉は重く受け止められるでしょう。
声を上げた有力者たちも納得したのか、顔を見合わせていました。そこに、「オレたちも賛成だ」、と賛同する人たちがいます。
ラッカ・アルクト。そして、町の代表者たち。暴動を起こした責任者であり、罪人でもありましたが、今、町の状況を知り意見を取りまとめられる有力な人材でもありました。
「町には今、様々な援助が入っている。すでに危機的状況からは脱していると言っていい。お姫さんをここに留めれば、それは町のやつらは安心するだろうが……あんたが救いたいのは、オレたちの町だけじゃないんだろう」
やさしさの中にも厳しさの見える視線でした。それがわたしに改めて現状を伝えます。
「今は、王太子婚約者より聖女の評判のほうがこの地にまで伝わって来てるくらいだ。あんたが王都に戻ったって、必ずしも立場を取り戻せるわけじゃない。それは、わかってるんだろう?」
このままラルシェンに留まって、復興に尽力する道もある。そうして名と信頼を高めるのもひとつの手だと、彼の眼差しは語っていました。
でもきっと──、それではいけない。
今、わたしが為すべきこと。セオデンおじいさまと交わした約束。
ひとつは、病への手掛かりを見付けること。それは治療薬の発見、作成という形で成し遂げました。そして今は、次を考えるべき時だと。
次に、わたしが為すべきこと。
「エリアーナ・ベルンシュタイン嬢」
ラッカさんの呼び掛けに、わたしも改めて気持ちを引き締められました。
「オレたちの町を救ってくれたように、今度は、他の町の人間を救って欲しい。オレは、サウズリンドに住む民の一人として、あんたにそれを望む。救ってもらうなら、あんたがいい。エリアーナ嬢」
うなずいたのはラルシェン伯爵ら、他の有力者たちでした。あなたがこの地を救ってくれた。今度は、微力でも自分たちがあなたを支援する、と。
それは、何よりの後押しでした。王家と国に見捨てられたとされる地からの支援と信頼。こんなにも勇気付けられるものはありません。
覚悟と約束を改め、「はい」と返したわたしは、次の密談に移りました。それが、メイベルたちとの話し合いです。
王都へ帰るまでの最短の道のり、最小の同行者。取り逃がした暗殺者もまた現れるかも知れない。護衛の人数。目立たぬようにしなければならない。
そして、あちらが新たな手を打ってくる前に戻らねばならない。
馬車では時間がかかりすぎる。騎馬で駆けて行くしかない。そのためにわたし以外の女性の同行者は却下され、この場には同席していたリリアが不満の声を上げました。
しかし、レイの容赦ない、足手まといですね、という一言でくやしそうに口をつぐみました。
手順を進める中、取り逃がした暗殺者、という言葉にわたしは先の決意を告げました。それに真っ先に否を唱えたのがメイベルです。
「なりません、エリアーナさま」
わたしが王都へ戻る作戦を考える室内は、モッズスの町の役場の一角でした。
町の広場に設けた、だれの目にも見える開けた役場が本所になりつつありましたが、やはり会議や内談、書類手続き等はこちらが主です。そこに集まっていたのは、宿屋で治療薬の考案をしていた顔ぶれでした。
さすがにジーンさまは今も治療薬作りに寝る間も惜しんでおり、ここにはいません。代わりにそろっていたのが、アレクセイさまとリリアでした。
メイベルは医師としての使命とわたしの侍女としての使命と、どちらも疎かにはしていないようです。
「あの者は、エリアーナさまが追い求めた手掛かりを灰にし、さらにはお命まで狙おうとしました。あの者にどのような事情があろうと──起こした行動は、決して許されるものではありません」
きっぱりと言い切った次には、もし、と言葉を詰まらせます。そこにあったのは、はげしい感情を抑えたもので、わたしも少々たじろぐほどでした。
「エリアーナさまを裏切る時は、その命もないものとするのは、当然のことです。そこまでの覚悟なしに、長年仕えた方を裏切る行為は、ナメクジのごとき信念のなさです」
うん、とアランさまの茶々が入ります。塩を振ったら溶けちゃうもんね、と。
「メイベル……」
こんな事態になってから、常にそばについてくれている彼女の思いや信念にあらためて感謝の念を抱き、しかし、そこで歯軋りにも似た言葉がもれ出ました。
「なにより、あり得ません。エリアーナさまのそばに長年仕えていたのに、お考えを理解していなかったの? あり得ないわ。愚鈍な上に今も気にかけられる男なんて……そんなの、私が一番に抹殺してやりたい」
わぁ、ボク手助けしちゃうかも、と合いの手を入れるアランさまは、もしかしたらけっこう……ジャンに怒っているのでしょうか。
そんなやり取りにため息をついたのがアレクセイさまです。まったく、と言った様子で卓上に広げた地図に指先で音を立て、注目を戻しました。
「エリアーナ嬢がジャンを取り戻したい。それはわかりました。とにかく、今はエリアーナ嬢が王都へ戻るための作戦立案を進めましょう。時間がないんです」
その言葉で、皆が道程と行程へ思考を切り替えました。そして、様々な折衷案の末──。
わたしは、試作した煙幕をこの場で使いました。
ジャンとリーダー格の者が逃げ延びたのなら、ラルシェン地方から騎馬で駆けて戻る途中、最後の機会、と狙ってくるのではないか。そう思って。
そしてそれは、わたしに残された最後の機会でもある。
しかし、この煙幕は少々辛味が効きすぎたようです。ケホッと咳き込みながら雪に手をついたそこで、目前に迫った刃を見ました。
ジャンを取り戻す。それはわたし個人のわがままでした。だから、アーヴィンさまや同行者のだれにも手を出さないでとお願いをした。
迫った刃とその持ち主は、わたしを何がなんでも仕留めるのだという、殺意よりも決意と執念の気迫。それが自分の命を奪い、──殿下との再会、すべてを奪うものだと理解しながら、恐怖もどこかあさっての出来事。
あらかじめ考えていたものも役に立たない。実践と、机上の空論と。わたしはいつも、頭でっかちの「虫かぶり姫」だから──。
響いたのは、金属の打ち合う音でした。眼前のそれに、とっさにはじかれるほどの衝撃。後ろ手に倒れ込んで雪に埋もれ、目を上げた先にふさがる影を見ました。
あらかじめお願いしていた者たちではない。アーヴィンさまたちには、ギリギリまで手を出さないでほしいと、お願いしていました。
だから、それはわたしが見慣れた、ひょろりとした背中。
「ジャン──」