<< 前へ次へ >>  更新
76/77

冬下虫の見る夢─26



 いやな予感はしていた。


 はじまりから、常と異なっていたために。重臣会議の場に、異例の存在が端に認められていたために。


 冷汗が背中に伝うのを感じながら、王太子付き近衛兵である自分、グレン・アイゼナッハは感情を表に出さないようひっしだった。


 サウズリンド王宮、中枢部。

 王と大臣たちが国の大事を決める重臣会議。国難にあたり、王の座に就いた若き王太子。その背をながめて、表には出さずとも、焦燥感とにぎりしめた拳で息が詰まる気がした。


 口火を切ったのは、保守派であるオーディン公爵、その派閥に連なるブラント伯爵からだ。


「昨今の情勢をご存じですか。クリストファー殿下」


 それは言葉ほどの重みを感じない。というのも、隠しきれない優越感がその声と表情に見られるからだ。


 改めて言われなくても、この国難の第一責任者は王太子であるクリスだ。情勢を知らないはずがない。表向き、王太子派であるブラント伯爵が口にしたからには、何かある、と警戒するのが当たり前だった。



 王都や近隣所領、そして、民の間にも浸透しつつある事実。短期間で移り変わった情勢。灰色の悪夢、十六年前の死の病。その数は日増しにふくれ上がっている。


 民の、王に対する声は日々高まっている。助けを求める声、情勢に対する不安の声。──この先どうなるのか、未来を確かめたい声。


「陛下がお倒れになったのは、公的に伏せていますが……人の口に戸は立てられません。病が広まっている現状、民が不安になるのはもっともでしょう。なにしろ、我が国の若き王太子殿下は、未婚の独身者ゆえ」


 なるほど、と持って行きたい方向が見えて、無言で拳をにぎった。ここ最近、重臣会議の間はずっと拳をにぎっている気がする。


 ブラント伯爵は切々と王都の状況を訴える。民が求めているものは何か。


 もちろん、ブラント伯爵の独壇場ではない。軍部の強攻派はクリスの対策に否を唱え、それに対して保守派が反論し、中枢会議は時として、対立派閥の応酬だけになることもある。互いの主張に反論する場のような──現実に、病に苦しんでいる者たちを置き去りに。



 どんなに繁栄して見える国だろうと、内実はこんなものなのかも知れない。厭世的になりかける気持ちを、いつもその存在がおのれをもしゃんとさせる。


 まず、と発した声に室内のだれもがハッとした。王の座にいる王太子は会議がはじまってからこっち、一言も発していなかったと、その時気付いた。

 ──それはまるで、決定事項を下す王のように。


「議題を整理させる」


 声音は静かに室内を圧する。本来なら、それは中立の宰相が発するはずのものだが、黙したままだ。


「民の間に広まっている不安。第一は、病に関するものだ。これに対しては、今最大限の措置を取っている。感染の拡大をとどめ、感染者には症状の進行を遅らせる薬の処方で手を打つ」


 そして、と進展のない議論を繰り返す重臣たちをひと睨みする。


「病に関して、有益であると判断した対処は議題に上げるよう、はじめから命じていた。しかし現状、その案が上がってきたのは各役所、現場の者たちからだ。各部署をまとめるはずの大臣たちは、いったい何をしているのか」


 反論に夢中だった者たちもグッと押し黙る様子があった。第二、とクリスの口調は常よりも容赦なく手厳しい。


「民の不安のもと。それはマルドゥラとの開戦だろう。それを広めているのはだれか。自覚すべき者たちがいるのではないか」


 一部の者たちによる強攻的な行動。──戦が起こるのではないか。先行きへの不安。イーディア辺境領の睨み合い。さらに──その行為を進めようとしている者がいる。



 王子の言外の示唆に、一部の者である軍部の強攻派も押し黙った。

 今現在、国の決定権を持つのは王太子だ。その人物から、開戦はしない、とはっきり口にされている。その理由もまた。

 それでも開戦を唱えるのは、国を思ってのことではなく、自分たちの利益を優先しているからではないのか。


 第三、とクリスが口にしかけた時だった。


 静かに挙手した人物がクリスの言を止め、発言を求めた。それは重きを持ったものだった。中枢会議の場で主要な問題以外、自ら発言することの少ない人物と知られていたからこそ。


 保守派の最大人物、王妃の兄であり、クリスの伯父である、オーディン公爵。王座のクリスと一瞬の鋭い視線がぶつかり、それに了承されて公爵は口を開く。


 決してクリスに心やすいものではない、それを。


「クリストファー殿下。根本をすり替えられるのは、いかがなものかと存じる。軍部の方々がこうまで強硬的な姿勢を持つに至った経緯。それは──そも、マルドゥラの使節団を迎え入れたのがはじまりであったはず。マルドゥラが入国することによって、民の間にも緊張と不安が芽吹いた。その原因を作られたのはだれか。そこを追求されないのは、公平性にもとるのではありませんか」


 歴史的な敵国、マルドゥラ。その国がサウズリンドにやって来るに至ったはじまり。


 愚かな……! と、とっさに出かけた声をかろうじて呑み込んだ。

 マルドゥラがサウズリンドを訪れた目的は、自国に広まっている灰色の悪夢への対処、治療薬だ。確かに、マルドゥラは歴史的な敵国。民が不安がるのもわかる。だが──。


 それはあくまで、背景である。灰色の悪夢は、過去にも猛威をふるった、大陸史上最大の疫病であると認識されている。その被害に遭い、救援を求めてやって来た国をあくまで脅威の対象にする。そして、勝手な行動を取った軍部の強攻派ですら、その存在の責任にしようとする。



 いや──本当の目的は。


「しかし、王太子婚約者どのに責任を取っていただくにしても、そのお方はもう十四、五日、行方知れずのままです。いくらなんでも、これだけ音沙汰がないというのは……」


 ああ、いや失礼、と保守派の一人が儀礼的に言葉を濁す。それを受ける王太子婚約者の父親であるベルンシュタイン侯爵は、静かに黙したままだ。


 一報が入ってから、見る間にエリアーナ嬢の生存は絶望的になった。国の英雄、バクラ将軍でさえ亡くなった事態だ。一令嬢の安否を問う声はすでに絶えている。


 そして最近の流れは、エリアーナ嬢の責任をその父親、ベルンシュタイン侯爵へ科せる流れになっていた。もちろん、そこに追随する保守派と軍部の強攻派。


 血がにじむほどの力が拳に込められていても、その行為と同じく、なんの意味もないことは理解していた。王都も世情も、室内の流れも、すべて分が悪い。エリアーナ嬢生死不明の報よりこちら、彼らは勢い付いている。



 クソッと、思わず反応のない背中を睨み付けていた。何をしている、と。


 他に打つ手はないのか。このまま、オーディン公爵らに押し切られ、傀儡(かいらい)の王座につく気なのか。それが、おまえの思い描いた未来の国の姿か。そんなはずはないだろう。おまえなら。


 おまえなら、と自分でも、無茶な要望と期待をその背にかけているのはわかっていた。クリスだって追い詰められている。連日の対策会議。オーディン公爵ら保守派の攻勢。それとは別に、マルドゥラ使節団へ危害を加えないか、強攻派の動きにも細心の注意を払う日々。


 すべてと、逃げずに相対している。どれだけの賛辞を与えられる優秀な王子と言えど、限界はある。自分のこれも、クリスへの負担にしかならない。──しかし、それでも。


「殿下」


 口火を切ったのはやはりと言うか、オーディン公爵派のブラント伯爵だった。


「進言申し上げます」


 堂々と言い放つその態度は立派だったが、隠しきれない優越感でベルンシュタイン侯爵を一瞥したところが、人品を表していた。


「見切りをつけられてください、殿下。国は今、このような状態です。今この時、民が求めているものは何か。──おそれながら申し上げます。民には、希望が必要です。未来のサウズリンドを率いていく存在。その、象徴たるお方です」


 はじめて、クリスの肩がピクリと反応したのがわかった。その面は、こちらからは見えない。ブラント伯爵はただそれを受けて口元を上げ、言葉を発した。

 決定的なものを。


「サウズリンド王国、第一継承者、クリストファー殿下の正妃として、オーディン公爵家のご息女、ファーミア・オーディン嬢を王太子妃として推薦させていただきます」


 ざわり、とさすがに室内に動揺が走った。婚約者を通り越した王太子妃。それは、なぜなら──。


「ファーミア嬢はこの病が発生してより、病人が集められた王都のカルロ神殿、施療院、他にも様々、その功績と名が知れ渡っておられます。この国難の最中、サウズリンドの聖女として民に周知され、称賛と後押しも受けている。王太子妃として申し分ありません。なにより──」


 意味深に言葉を止めたブラント伯爵は王座のクリスと視線を交わし、いえ、といやらしく言葉を濁した。そこに込められた言外の意味は室内の誰もが知っていた。


 そろりと、視線が異例の列席者へ集まる。


 オーディン公爵の隣、重臣会議の場に異例の女性。王妃アンリエッタさまでもない、列席記録のある王太子婚約者エリアーナ嬢でもない、一介の──いや。


 その身に、未来の王の血を受け継いだと、もっぱらの噂である女性。

 赤味がかった金髪。静かに視線を落としたままの、泣きぼくろが印象的なおとなしい女性。ファーミア・オーディン公爵家令嬢。



 王都、近隣所領に広まっている理由。

 病にも臆しない聖女のような振る舞い。予防の元を無償で配る、慈愛あふれる行動。なによりも──その身に未来の王の子を宿した女性であると、存在が広まった。それはなぜか。


「はじめにも申し上げました、殿下。民が今、求めているものはなにか。仮とは言え王の座にある者として、民にそれを与えるのが、王たる者の役目なのではないですか」


 ここまで民の間に広まった理由。それは何より、皆が次代の存在、そこに希望をかけているから。暗い今の世に、希望の象徴たる存在を。


 だれよりそれにふさわしいのは、将来を嘱望された自国の王太子だ。そして、その隣に立つ存在。二人の間に生まれる子は、暗い今の世にもたらされた、唯一の希望に映るだろう。

 今、民の不安や不満は高まり、沸点に到達するのも時間の問題ではないかという危惧もある。そうなる前に、打てる手を打つべきではないのか。



 ブラント伯爵の言には、一片の真実があった。今この時、民の不安を一時でも解消する手立て。打開策。ファーミア嬢がこの場に列席した意味を知った。


 王太子妃としての儀式やお披露目は病が落ち着いた後でいい。陛下が倒れた今は、とにかく確固たる存在が必要なのだと。

 ──しかし。それがほんとうに真実、民の不安を解消する手立てになるのか。


「殿下。──ご決断を」


 最終宣告のような声に、クリスの近くの宰相が声にしない息をついたのがわかった。ここまで。後はもう、決を採るしかない。


「……っ」


 思わず、声を発しかけた。発言は許されない、近衛の一人であるのに。そして一瞬、視界に映した。オーディン公爵の隣、ファーミア嬢の動かなかった眸の色がふっと一変した。

 誇ったような、強い意志の色で。


 目を疑い、動転したそこで、宰相が立ち上がる。議題の決を採る、いつもの姿勢で。

 では、と発した言葉に王座のクリスの手がグッとにぎられ、自身も大きく態勢を崩しかけた。有事の際以外、動くことは許されていない立場で、大きな一歩を。



 その時だった。

 扉の外で騒がしい気配が起こった。言い争い、押し問答するような混乱したもの。


 瞬時に気配を戦闘時のそれに変え、平素でいながらいつでも剣を抜ける動きで備える。室内の数人の近衛も同様の状態なのを目線で確認した。


 そこへ、かけ込んできた一人の兵士がいた。いや──。

 身形と徽章、片手に示したヘンナで刺青された紋章。旅装を解いてもいない人物は、緊急時の使者だった。

 雪の中をひたすら駆け続けてきたのだろう使者は、貴賓が集まる場には不似合いな、外のにおいと薄汚れてくたびれた様子がある。しかし。


 その目と表情には、強い意志があった。


「緊急時発令使者の特権にて、失礼仕ります! ラルシェン地方、アレクセイ・シュトラッサー様より、王太子クリストファー殿下へ。報告は三点。一つ。ラルシェン地方ウルマ鉱山麓モッズス。先日起きた暴動は鎮静、封鎖は解除されました!」


 使者の勢いに反して、室内には何事かという緊張感から、ゆるんだ気配があった。なんだ、そんなことかと。しかし、続け様の言葉が室内を一変させた。


「二つ。灰色の悪夢、その治療薬が発見、作成されました! 臨床実験、効果は確認済、すでにラルシェン地方の病人へ投与が開始されているとのこと!」


 重臣のだれもがどよめいた。

 灰色の悪夢。死の病。民をもっとも不安にさせている、その根源。


 三つ! とかぶせるように使者の声は続く。今までで一番、大きく興奮した様子で。

 室内もさらなる報告に使者を見つめ返し、そこで高らかに告げられる言葉を聞いた。希望という名の、光に満ちた事実を。



「暴動の鎮静化、病の治療薬を発見、作成、それらを成し遂げた方の名を申し上げます。──王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタイン嬢。ご生存、確認!」


 おぉ! と歓声のような声が上がった。自制していても漏れた近衛と、一部のエリアーナ嬢を推す重臣たちからだった。

 自分も思わず興奮のまま拳をにぎった。今度は、悔しさや歯痒さではない、愉快な興奮からくる思いのままに。


 それゆえ、彼の様子を数瞬、見逃していた。

 一瞬で塗り替わる、王者の絶対的な気配。その背中だけでもわかる、いつもの彼らしい、不敵で不遜な笑みを。






 ~・~・~・~・~




 暖炉の爆ぜる音を聞きながら、ふと、顔を上げた。


 薪が贅沢に燃やされ、快適に暖められた室内。換気設備は自国にはないものが整えられており、室内が漏れた煤で薄暗くなることもない。明るい色彩と、調度品、すべてが行き届いた賓客室。


 それが、見えずとも分かる。

 視覚がなくとも、朝と夜のまぶたにあたる明かりはきちんと理解できる。そして、肌と空気で感じる気配は常人のそれよりも鋭いと自負している。


 自分たちが押し込められた室内は、最上客のそれに対するものだろう。──監禁中、という物騒な名がついてはいるが。


 兵士たちはまた違う待遇を受けているかも知れないな……と思ったそこで、そばの人物が香り高いお茶を一旦卓に置いた音がした。


「レグリスさま」


 監禁中という事態でも、自分に唯一残された自国の侍女。いつものように視覚のない自分の手を静かに取り、茶器を手に取らせる。

 この為に彼女だけが残された。それが、自分たちには何よりの武器とは知らずに。


「ニーナ。……そろそろだね」


 控えめに装った暗色の、至って目立つところのない、マルドゥラ国の侍女。自身の手足のように世話をしてくれる彼女が、ふっと微笑を閃かせた。はい、と小さな返答で。


「あの子も……レイも、珍しく頑張っているようです」


 まあ、もっとも、と辛辣なつぶやきももれた。まだまだ──あと、百年ほど修業が足りませんが、と若い娘の声で。

 思わず声にしない笑いがもれた。


 室内には見張りの兵士がいる。自分たちの会話はもちろん聞き取られ、報告の対象だろう。だが、監禁されてよりこちら、報告するものは名を呼ぶもの以外ほぼないことに、兵士たちも報告される者も、困惑しているかも知れない。


 マルドゥラ国の秘であり、自身がその名で呼ばれる理由。だが──。


「うーん。あの王子はなぜ、私の呼び名を知っていたのかねぇ」


 神に愛でられた王子。そう呼ばれる、国で秘された呼び名を。


 茶器に自分の手が触れると同時に、ニーナの手も離れる。会話も絶えたが、ほほ笑みと返される声がわかった。さあ……? と、どこか楽しそうな様子で。


 やれやれ、と自国とは異なるお茶の香りを楽しんだ。これを味わえるのも、あと少しのことかな、と動く時を感じて。






 邸宅に戻り、執事らが何かを言うのもかまわず書斎に突き進み、背中で扉を閉めた。重厚な扉は、ちょっとやそっとのことでは音をもらさない。


 そうしてようやく、怒りを爆発させた。


「……っ!」


 手近の花瓶を張り倒すと、派手な音と中身が散らばった。幾何学模様で織られた外来渡りの敷布、選び抜かれた小物、すべてを台無しにしてその上を踏み付け、書斎机の上に整頓された小物もふり払う。


 鳴り響いた音の中、樫でできた重厚な書斎机を叩き付けた。


「あの……王子……!」


 もう少し──あと、もう少しのところだった。

 王都の評判、王宮内での認識、貴族たちの承認、逃れようもないものを積み上げ、声を上げて外堀を固めた。


 これでもう、どんなに小賢しい王子とは言え、逃げも誤魔化しもできないところまで追い詰めた。


 あとは、王子の口から婚約者を通り越した王太子妃の認定、次代の子を産むのはファーミアと言葉にさせるだけだった。無理やりにでも。でなければ、軍部の強攻派に同調し、開戦に流れを持って行くだけだった。

 無言の威圧を、王子も宰相も理解していただろう。ゆえに、王子側にこれ以上の打つ手なし、と宰相が可決しかけたのだ。なのに。


「……っ!」


 すべてが覆された。たったの一手で。まるで、盤上の目があざやかに翻されるように。

 重臣会議は見る間に、エリアーナ嬢生存の報に沸いた。



 逃げだしたなんてとんでもない。暴動を鎮めた、女性の身でどうやって──しかも病の治療薬! とんでもない発見だ、すぐに迎えの部隊編成と治療薬を、効果の確認、陛下へ投与するか──いやまずは、王宮薬学室に確認させてからだ。民への周知はどうする、在庫は確保できるのか──。


 興奮と期待で盛り上がる室内と、ブラント伯爵たち派閥の者たちとの温度差は激しかった。軍部の者たちもこちらの顔色と出方をうかがう様子だったが、薬の信憑性を問ういつもの反対派に回った。


 しかし、すべてが少数だった。派閥の中にも家族が病に侵された者がいる。または、その不安感ゆえに強者に付こうとひよってきた者たちが。


 流れは変わった。

 歯軋りする思いで、ふと記憶が昔にさかのぼった。


 はじめて目にした時から、いやな予感はあったのだ。生まれたての赤ん坊に対してのものではなく、物心ついて礼儀を覚えた、自我が芽生えはじめた頃のもの。当初は、そんなものは気のせいだ、これからの教育次第でどうにでもなると思っていた。


 だが、あの王子は見る間にこちらの思惑と真逆の方向に育っていった。それは小憎たらしいほど、見事に。

 どこで間違ったのか。


 妹のアンリエッタとは、もともと兄妹仲もよくなかった。そりが合わないというのか、家の発展を一番に考える自分と、個の意志を重んじる妹とは度々衝突していた。それでも、妹が王妃となった時には大いに祝福した。これで我が家も益々発展すると。


 だが、あの妹の考え方による王子の育ち方──すべてがこちらの思惑から外れていった。



 なにより、誤算が生じはじめたのは……エリアーナ・ベルンシュタイン。

 あの存在が王子の前に現れてからだ。あの者が現れなければ、王子はこちらの思惑と多少掛け違っていようと、思った通りの道を歩んでいたはず。


 多少傲慢さが見えようと、自国の利と貴族を尊重し、他国を圧するサウズリンド王国、歴代の名立たる君主に。


 クッ、ともう一度樫机を叩き、まだだ、と逆転の可能性を考えていた。


 あの存在が王子の前に現れてしまったのは、もう仕方がない。だが、まだ矯正は効く。あの者がいなくなれば、王子はマルドゥラへの対応と、軍部との調整を取るため、こちらに譲歩の姿勢を見せる。それしか手がないからだ。


 ──その可能性ごと消せ、と命じたにも関わらず、出てきた病の治療薬。そんなものがあっては、ファーミアの予防薬の意味がなくなってしまう。そこに付随する、自家と商家の利益も。それは、不要なものだ。


 万が一──あり得ないだろうが、万万が一にも治療薬が出来上がった場合、それごと奪えと命じてあった。しかし、こうして王子のもとに急使が来たということは、命じた者たちは皆、無能だったということだ。


「ヴァトー……」


 王家の影には、もとより付け入る隙があった。先の王太后、アマーリエ妃の時より生じていた隙が。自分はただ、それを利用したに過ぎない。隙を放置していた相手が愚かなのだ。


 その中でも特に腕の立つ、見所のある者を選んだと確信していたのに、この有様。エリアーナ・ベルンシュタインを葬ったという報告がなかなか上がらず、それ無しに寄越すな! と命じたのが間違いだったのか。


 いや……、と自身の行動も省みる。

 バクラ将軍死亡と婚約者行方不明の報以来、王子の顔色と覇気のなさは目に見えるようだった。ファーミアの打診にも反論なく、ただ沈黙していただけだったと言うのだから。さすがにあの王子も心身の疲労が限界に達しているのだろうと。


 ……今は、些細なことにも神経を尖らせる、大事な時であったのに! 口汚い罵りが口をついて出そうになるのを、サウズリンドの大貴族の矜持でこらえる。


「まだ、手はある……」


 薬の偽情報を流すか? 治療薬は紛い物で病人は亡くなっている……エリアーナ・ベルンシュタインの名を貶めることもできる。いや。王宮に届けられた情報──それはすなわち、確たるものだ。民の間に広まるのも時間の問題だろう。


 そうではない、と考えをまとめながら口にした。この勝負、それは……。


「時間……」


 そうだ、と思考が組み立てられていくのを感じていた。盤上が反転された。それはなぜか。鍵があるからだ。すべてを覆す切り札。それを手に入れれば、勝機はある。

 それは──。


「二つだ……」


 今の状況になった存在二つ。それはまだ、ラルシェンで留まっている。あの王子のことだ。別の手段ですでに手にしている可能性は大いにあるが、公にはまだしないだろう。


 なぜなら、あの者が婚約者の立場を復権するために、──ファーミアに奪われた支持層を取り戻すために、それが最大の武器だからだ。

 肝心なのは、最終的にそれを手にしている者が誰か。


「……そうだ」


 それでいい、と久しくなかった腹の底からの愉悦がこみ上げてきた。

 それでこそ、すべてが終わった後の幕引きが素晴らしいものに仕上がる。我が娘、ファーミアが、サウズリンド王国の聖女として、華々しく歴史に残る。王太子、クリストファーの唯一の正妃として。


 込み上げる愉悦に気分をゆだねながら、頭の半分は冷静に指示を出す作業にかかっていた。いつものように自身の存在をきれいに隠す、幾通りもの手配で。


 時間が勝敗を決める。


 ──王子。今の時点でおのれの窮状を受け容れられなかった、あなたの負けだ。あなたの傲慢さが、今度こそ、あなたのもっとも大切な者を死に追いやる。


 怨念にも似た、愉悦に突き動かされていた。






<< 前へ次へ >>目次  更新