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冬下虫の見る夢─25

 


 朝焼けが落ち着いて、北方地域特有の曇った薄い日差しが広がる。


 ここ十数日余りの移り変わり。暴動に関わっていないモッズスの住人は、だれもが固唾を呑んで情勢を見守っていたのだろう。明るい兆しを感じ取ったように、そろそろと表に出始めてきたのがわかった。


「食料配給はしばらく止めなくていい。だが、何度も薬を求めてくる住人だけは注意しておけ。本人や家族のためだけじゃない可能性がある」


 周囲の役人にだけ聞こえる声で指示を出し、届いてくる情報を精査してさらに声を出す。はじめはこの程度の判断は本来、現場で下すべきだろうと眉が逆立ちかけたが、エリアーナ嬢のこまやかな対応を思い出した。


 おそらく、些細な対応でも自身の判断で下してよいのか迷いが出ている。そして、それは今この状況では正しいのだ。自身で判断せず、些細なことでも責任者に判断と指示を仰ぐ。そうしてこそ、的確な病への理解と予防が根付いていく。


 自分には不釣り合いな場所だ、という思いと、主君の采配に歯噛みを覚えたそこに、明るい声がかかった。


「──アレク! そのしかめっ面、目元だけでもわかるよ!」


 さらに腹立つ声がかけられる。苛立つ目を投げると、馬に乗った数人が仮役所近くに着いたのがわかった。どうやら町の後方、鉱山入り口付近を調査してきた一行らしい。馬を周囲の人間に預け、身を清め、口元を覆う布を取り換えてから高台に上がってきた人物。


 くったくない眸は、十日ほど前にラルシェン伯爵邸で見たものと大差ない。どこか油断のならない翠緑色の眸。蜂蜜色の髪の宮廷楽士、アラン・フェレーラ。

 軽いあきらめで返した。


「まったく。その口に鈍りがなくてなによりです」

「やだなー。ボクだって、魔王退治の桃色舞曲とか、氷の魔人に挑む炎の聖戦とか、音楽で盛り上げる時はさすがに状況を選ぶよ。……さすがにね」


 軽口の中に隠された深刻さに眸を静かにすると、翠緑色の眸も陰りを見せた。彼が調査に出ていたのは……と確かめながら問う。


「鉱山入り口付近の住人は」


 アランの答えは静かな首振りと記した紙束だった。それをめくって目を通し、自ら地図上に書き込んでいく。


 この数字と名前の重み。彼女が起きてきてこれを目にしたら、傷付くのは間違いないだろう。しかし──。きっと、彼女はこのひとつひとつの命を忘れない。刻み込んで、そして、そこからまた進んでいく。

 ウルマ鉱山、その周辺の封鎖。彼女が立てた仮説。


『灰色の悪夢は、もとは皮膚病である。そしてそれは、北方連山の鉱山、そのどこからか発生する。

 第一。北方連山内部には空洞が多数あり、そこには地層や環境によって生まれた、独自の空気の層がある。それらは鉱山の歴史の中で都度対処されてきたが、その年の積雪量によって、例年外に排出されていた未知のものが蓄積される。

 ※これが、灰色の悪夢の源であると思われる。


 第二。鉱山夫でも、灰色の悪夢に罹った者と罹らなかった者がいる。それはなぜか。灰色の悪夢は、空気だけでは病に罹らない。病の源を蓄積した──一部の鉱石。それを手にした者、その皮膚に染み付いた病の源。それが感染の始まりであると思われる。


 病の源に触れ、その空気を吸い込んだ者。二つの条件を満たしたはじめの者が、アルス大陸、北方連山の鉱山街で多数いた。


 第三。病の源を蓄積したと思われるその鉱石は、地上の空気に触れていくうちに無害なものへと変化した。ゆえに、鉱石は時間が経てば有害なものではなくなる。鉱山の空気もまた然りである──』



 そして。

 はじめの病の保持者が他の者と接触して病の源が広がる。それは、仕事道具として手にするものだったり、露店に並べられていた果物や野菜だったり、家の中の様々なものだったり──北方地域特有の、手でちぎった固いパンをスープに浸して食べる風習だったり。


 はじめの保持者から第二の感染者、第三、第四を生み出し、商人や流通を担う者たちによって他の地域──爆発的に国中に広まった。


 しかし。その年に膨大な死者を出しても、この病は熱に弱い。二年目、三年目と病は弱毒化していく。感染者も減り、積雪量も通常で病の源である鉱石も無害なものになって──、はじまりの者もいなくなる。そして、何事もなかったような一年が始まる。


 それが、十六年前の灰色の悪夢の収束の流れである。彼女の説はそう論じていた。


 肝要なのは、始まりの一年目で食い止めること。そのために、まず根本であるサウズリンド国内、すべての鉱山を封鎖する。病の(もと)を、止める。国布として。


 王太子補佐官の自分では権限が足りなかった。カールの権限もラルシェン領のみだ。それも、まだ年若く、領主として軽んじられがちなカールでは、反発を招く恐れもあった。決定的なものが必要だった。


 国の発布。サウズリンド国王が決定した、意志あるもの。

 ゆえに、殿下から預かったという王家の紋章、それを押印した発布──彼女のもとで作成されたそれでもって封鎖に踏み切った。ラルシェン、アズール、トール、北方連山に位置する鉱山すべて。王家の名で封鎖するという証。


 それを記した彼女の覚悟は、如何ほどのものだったろうか。王太子の右腕と言われる自分でも、自身の判断でそれを下せと言われたら躊躇する。越権行為──責任を問われる可能性もある。己の馘だけでは済まない、身内や様々な者への影響──しかし、彼女は踏み切った。民の命を最優先に。


 それを下した彼女の決断に改めて敬意を抱きながら、同様の言葉を紡いだのがアランだった。それは感嘆の息とあらためたように。


「……すごいよね。エリアーナさまって」


 白い息が赤い布の下から漏れる。


「ハーシェの町で話し合ってたんだけどさ、鉱山を封鎖したらモッズスはまだしも、別の場所で暴動が起こるって意見が出たんだ。そしたら──」




 では、と彼女の言葉には迷いがなかったという。

『別の産業を押し立てます』


 サウズリンドの北方地域の地図を元に、町の有力者らと話し合ったらしい。


『トール地方には、予防対策用の布地が大量に必要になります。この薄い布地、織り方は、トール地方独自のもの。これを国として買い上げます。それから、アズール。アズールはもともと、鉱山より冬場の出稼ぎ鉱山夫が多い。その人たちを、人夫として雇い直します。流通役です。今は必要な商人の保護でも、物資の荷運びでもいい。閉ざされた雪山の多い地に、必要な人手です』


 その他、隣接する地方の特色に目を付け、今必要なものを選び取っていく。それにアランは感心したという。でさ、と続ける言葉は底に愉快さを含んでいる。


「ミルル貝から治療薬の源が作られた。ミルル貝はこれから高騰する。ポメロの実のように。そうなる前に、──一部の特権階級しか手に入れられないものに押し上げられる前に、民に落とし込む。高価だから、貴族が使用しているから効果があるのではなく」


 もとは、コルバ村の人々が細工物や遊び道具にしていたものだ。病に罹らなかった住人の現状が治療薬と予防対策に結び付いた。これは、民間から出たものである、と。


「貴族王族が使うものだから価値が出る──そういった効果はエリアーナさまもわかってたと思う。スイラン織みたいにね。でも、今価値を高める目的が違うって現実を見てた。ミルル貝も、すべて薬の材料にできるわけじゃない。変色したものとか破損したものとかね」


 治療薬のもとになる貝殻は厳選した。傷も腐食もないものを。しかし、その他のもののほうが圧倒的に多い。では、それをどうするか。

 アランはふいに笑いだした。くったくないものを。


「エリアーナさまは無駄にしなかったよ。自身の仮説をもとに、予防対策を考えた。空気なんて、目に見えないものを防ぐことは今の技術ではできない。ならば──抵抗の源を吸い込む、ってね」


 貝の色から皮膚に伝わり、そこから病の抵抗が生まれたのなら。その貝の色で染めた布、それを通して空気を吸い込む。ミルル貝で染めた布で口元を覆うことを提案した。もちろん、異論もあった。乱暴ではないか、と。そんなものでほんとうに病への抵抗になるのか──。


 感染のもとは二つです、とエリアーナ嬢は言い切ったという。


『空気だけで感染していたのなら、北方地域の民は全滅していてもおかしくない。病が広がる(もと)があるんです。そのひとつ、鉱山は封鎖します。もうひとつ──。はじまりの感染者から、第二、第三の感染者が広がった。病を運んでしまったのは、おそらく商人と出稼ぎの労働者たちです。ラルシェンは鉱石を運搬する商人、アズールは川船での広がりが最も早かった。それを防ぐためには──』


 商人も労働者も止めることはできない。流通や仕事を止めると、生死に関わる地域が出てくる。


 だからそのために、身を清めることを徹底した。火石の利用方法、手洗いうがい、素手の食事、固いパンをスープに浸して食べる、骨付き肉の素手での食事方法等は、絶対禁止。経口摂取の例を事細かに記した。そして蒸気。人が集まる場所では、換気と蒸気を定期的に行うよう徹底した。


 そうして、鉱山街から病の源を防いでいき、第二第三の感染者を防いでいく。知識を、広めていく。病はこの一年目で収束してみせると、強い意志がそこには確かにあった。


 アランの声は、まるで歌いだしそうな愉快さだ。この状況下でさすがに自重はしていたが。「エリアーナさまがそう唱えても、ミルル貝も予防用の布も、圧倒的に物が足りない。そうしたらさ──」


 こらえきれないように笑いだした。


「なんでだか、ミルル貝にトール地方の布に他にも色々、必要な物資や薬草類が届くじゃん。ボク、エリアーナさまってもしかしたら、魔法の杖を持ってるんじゃないかと思ったよ」


 なるほど、とそこであらためて一月近く前のやり取りを思い出した。


「ベルンシュタイン一族ですか」


 うん、とうなずいたアランがやはり笑って話す。ボクもはじめは、王家の影か、殿下の指示が飛んできていて、物資が届いているんだと思ったと。


 いよいよモッズスの町に乗り込むために、彼らは荷駄の中に隠れ潜んだ。途中で騎馬に乗り換え、一気に駆けていく手筈で。その時、様々な物資の手配を請け負ってくれていた男性にエリアーナ嬢があらためたように訊ねたのだと。


『あらためて、お礼に参ります。お名前をうかがってもいいですか……?』


「ってさ。さすがのボクも、この人の名前聞いてなかったって、うっかりしちゃって。そしたらあの人──」


 ヘスター薬師宅への案内係兼、雑用を請け負っていた男性は静かに名乗ったという。ダン・エドルドです、と。


『我々は、ベルンシュタイン家ご当主の命で、この地に遣わされています。ご入用なものがあれば、なんなりと──虫かぶり姫』


 情報でも物資でも、必要なものとあれば如何様にでも、そう聞こえた。そこには、一族の姫へ向ける敬愛と忠誠の意志が見えたのだと。

 エリアーナ嬢が驚いていたのはもちろんだが、アランは、もしかしてさ、と推測も立てていた。


「ダン・エドルドって売れない旅行記出してる人の名前でしょ。それってもしかしたら、個人名じゃなくて、ベルンシュタイン一族配下の総称なんじゃないのかな」


 確かに、と思わされるところはあった。以前、自分はその旅行記を読んで著者に王宮の諜報部へ入らないかと勧誘したことがあったが、あっさり断られた。その際、売れない旅行記を出版しているのはベルンシュタイン一族ではないかと推察した。


 こうして様々な物資の伝達手配を鑑みるに、一族の手の者が各地にいて、その者たちと連携を取って物資の手配にこぎつけた。そう見るのが順当だ。

 もれ出たのは、自身でも苦々しさが混じったものだと思った。


「あの一族はほんとうに、やる気を見せるのが遅過ぎます。能力と実力がありながらそれを隠しているなど、時間と資源の無駄遣いでしかありません。そんなことをして、いったいなんの益があるというのか」


 アランの返答は変わらずくったくない。うん、まあ、とこちらの性格を理解した上での言葉だった。


「人によって、重きを置く価値基準は異なるからなあ。ベルンシュタイン家の人間も別に隠しているつもりはなくて、それより大事にしたいものがあるんだなって思ったよ」


 それが、現実との差異に繋がっているのではないか。


 アランの言外の言葉に、何度目かわからない自身を改めた。自分は確かに、能力第一主義だ。それゆえに、その能力がありながらそれを隠し、無駄遣いしている者たちに腹が立ってしまう。だが──能力を持っている者たちも、自分のような価値観を持っているわけではない。


「ままなりませんね……」


 腹立たしさを逃がすように息をつき、何かに触れた気がした。能力を持っていながら、それを活かさない──。それは、と引っ掛かりを覚えたそこで、アランのため息のような息遣いがもれた。


 ボクさ、とつぶやくような声には疲弊が見え、彼にもまた休息が必要だと思い至る。


「なんか……ちょっと、どこかで気楽に構えてたと思う。治療薬さえできれば、暴動も戦争も、──今起こっている事態、すべてが丸く収まるんだって。そんな、楽観的な思い」


 自嘲するような声音から、でも、と続く。


「そうじゃないよね。治療薬を今苦しんでる病人に投与したって、みんなが確実に治るわけじゃない。間に合わなかった例だって……たくさんある」


 その言葉には、たった今しがた見てきた現状、失われた命の重みがあった。名も知らない──その人物の眸も、生きてしゃべっていた時の表情も声の色も、一人一人の営んできた歴史も知らない。他者の目に見えるのは、ただ、灰色の悪夢の死者、それだけだ。


 とっさに、現実的な言葉が口をついて出た。


「治療薬──これが出来上がらなければ、何もはじまりませんでした。それは確かです」


 うん、とアランの声はふだんの明るさをひそめて何かを見つめたように真摯だった。


「でも、それだけじゃダメなんだ。治療薬ができることによって起こる様々なこと。死んだ人は生き返らない。薬を求めて、さらなる暴動だって起こるかも知れない。でも──そうならないために」


 エリアーナ嬢はまず、現実的に人々の生活を見つめた。今必要なものは何か。そしてこれから──この先も、生きていくために。アランは言う。


「ボク、あの人は理想論者だと思った」


 だれも死なせないなんて、理想郷だ。そんな世界、どこにもありはしない。同時に、でも、と言う。


「現実者だ」


 予防対策として、ミルル貝で染めた通気性のよいトール地方の布を考えた時。次に発したのが、偽物が出回るでしょう、という言葉だった。


 ただ、赤く染めればいいのだから。何も知らぬ者なら、評判と名前に踊らされて高価でも購入してしまう。鉱山街で有効だと言っても、これさえあればいいのだと。しかし、それでは感染が広がる要因にもなってしまう。ポメロの実を乾燥させたもののように。


 だから、そのための対策も考えた。アランはそして言う。

 あの人は、自分が救いたい人が持つ、悪意も善意も、両方理解している。人が持つ、いやな面も善なる部分も、──どうしようもなく、愛おしくなる部分も。


 例えば。


「アレクセイさま……!」


 午前の日差しの中で駆け寄ってきた一人の少女がいた。口元を覆った布越しでもわかる、その色と同色の憤り。


「あの岩男、なんなの……! 私がエリィ姉さまの様子見に行ったら、宿屋の扉の前にガンとして居座って動かないのよ。私はエリィ姉さまの身内だって言っても、うるさいからあっち行ってろって……なんなのよ!」


 怒りの声を上げるリリア嬢の言葉にアランも小さな笑いをもらした。岩男の正体、聞いた? と。それには思わず、自分も憮然とした声音を取り繕うことができなかった。


「ラッカ・アルクト。暴動の首謀者ですか……。まったく、あり得ませんね。領主と王家に楯突いた重要人物を、牢に放り込みもせず、あまつさえ護衛役に付かせるなど」


 それは別に、エリアーナさまが頼んだことじゃないけど、とアランはリリア嬢をなだめる役人を面白そうにながめている。ボクらも一応、はじめは警戒してたよ、と少し言い訳がましい。


 しかし、エリアーナ嬢が時間の無駄だと拘束を止めたらしい。それよりも人手が欲しいと。彼らが刑罰を恐れて逃亡することより、町の状況を把握することを最優先とした。その判断に、彼らが進んで請け合った。刑罰を軽くするためとかおそらく、そんな計算も余裕もなく。自分たちの町のために。


「エリアーナさまは、わかっていたのかな」


 彼らの取った手段は決して許容されるものではない。彼らの行為が容認されてしまえば、それは法と秩序の崩壊だ。しかし、その行動の裏にある思いを、彼女は汲み取った。その結果がこれだ。


「…………」


 王宮の役人である自分は、苦々しいため息しか出てこない。四角四面な自分が暴動を収めに来ても、間違いなくこうはならなかっただろう結果と、それを面白がるアランに。


「エリアーナさまは、罪人も味方に付けちゃった。彼らの根底にあるものがどうあれ、あの方は──エリアーナさまはきっと、本と同じくらい、人が好きなんだね」


 罵声を浴びせられても。非難、批判を受けても。自分を害そうとする人もいる。民のために考えた予防も、私腹を肥やすために利用される可能性もある。それでも。

 ──慈しむ。


 それは、悪意を持つ人でも、罪に踏み込む人でも、根底にはきっとだれかのために、自分の信念に添って──時には本能に突き動かされて、自分以外のもののために動く時があるから。それを信じているから。


 フフ、とアランは声に出して笑った。ボクさ、とその声はどこか泣きだしそうななつかしむ色を帯びた。


「クリスさまに出逢うまで、港町の裏側、ほんとうに汚いことして生きてきた孤児で、スリや詐欺、かなり危ない橋も渡ってきた。今日と明日、とりあえず生き延びればいい。その先のことなんて、考えてもいなかった。クリスさまが自分に仕えて罪を償えって引き立ててくれたんだけどさ……」


 その眸に映しているのは、モッズスの町ではなく、彼が育ってきた港町の裏側だったろう。今、罪に踏み込んだ人々と自分を重ね合わせているのかも知れなかった。


「ジーンくんが言ってたんだ。だれだって、本心では諦めたくなんかないはずだって。ボクもそうだったって、思い出した。どんな境遇にいる人間だって、本心では明日も明後日も──その先の自分のことも考えたい。十年後の自分は何をしているんだろうって、ワクワクするようなものをね」


 返された眸の色に、小さな嘆息がもれた。


「殿下もエリアーナ嬢も、あなたの好奇心を刺激して増すだけの存在ではありませんよ」


 もちろん、と返す声はどこまで理解しているのか怪しい。アランの声はくったくなく、この現状でも明るい先を見通していた。


「サウズリンドの王宮が魔王城になる前に、勇者を遣わさないと」


 わかっていないと眉間に皺を寄せたが、アランの表情は顔半分を覆う布越しでもわかった。それはとても明るく、晴れやかなもの。真冬の曇天でも日差しが差し込んだような。

 ボクさ、と歌うような口調。


「あの二人になら、ついて行きたい。あの人たちがいれば、ボクみたいな人間だって居場所も楽しさも見付けられるんだ。だからさ、アレク──」


 眸に宿る光は、まるで暗く閉ざされた中でも芽吹く萌しのようだった。やわらかな緑で覆っていた下にもあった、人知れぬ影。その中にも顔を出す、芽のように。


「エリアーナさまは、なにがなんでも、クリスさまの隣に帰らせないと」


 それは、この先を考えた者の言葉。今の事態から次の手、そしてさらに、その先に繋がる明日へ。


 油断のならない翠緑色の眸に、小さな嘆息で自身も口角を上げた。布地の下で、彼に言われるまでもない──もとより、考えた手を。





 ~・~・~・~・~




 雑多な喧騒が行き交う昼下がり。


 活気あふれる声は野太い船乗りのものから、その間をかけまわる雑用と小遣い稼ぎの少年たちのものまで様々。サウズリンドの西の玄関口、ケルク港は冬場の時期でもにぎわう。


 昨今の情勢など、まるでなかったようなにぎわいだ。そんな中、他国の商船から降り立った一人の女性が人目を引いた。

 暗色の外套を目深にかぶり風貌を隠してはいたが、匂い立つような雰囲気に隠しきれない身体つき。案の定、その正体につられたコバエが数人。


 よくある港町の裏通り、人目につかない場所でちょっかいをかけようとしたコバエは、あざやかな体術でたたまれた。埃を払う見事さに、通りの角、影に徹していたはずなのに失笑がもれた。さすが、と。


「ミゼラルの名立たる女騎士殿。男の出番など、鼻先で笑われるあざやかさだ」


 ふりかえる外套の下からは、冷ややかな視線が向けられる。裏通りの角から、見計らったように姿を現わした自分たちへ、それは冷たいものが。思わず、苦笑とともに両手を上げてみせた。


「女性が危地に陥っているのにたすけに入らなかったのは、男として恥ずべき行為だ。心よりお詫びする」


 そして、目深にかぶった外套をわずかに持ち上げてみせた。


「しかし、きみに助力は不要に見えてね。──エレン」


 返されたのは、かすかな舌打ちだった。その意味するところを察して、さらに笑みが深まる。


「すまない。きみが一人でやって来るのも予想外だったし、早々に絡まれていたりするとね……こちらも用心深くなる」


 護衛の一人が戻ってきて周辺に異常はなし、と報告するのにうなずき、冷ややかな気配を見せる女騎士をうながした。場所を移そう、と。




 そして移った一室。


 港町の喧騒を表に、客の身元を確認される上流宿屋でもなく、かといって、怪しげな者が出入りする下流の宿屋でもない中堅どころ。その一室で人払いをし、かぶった外套を互いに払った。


 自身の視界に映るのは、艶やかな黒髪をひとつに結った、隙のない身のこなしと顔立ちの女性。推定二十代半ば。深緑の眸は相も変わらず、辛辣な目をこちらへ向けている。


 苦笑を覚えながら整えられた卓へうながし、席についた。立場上、自身の護衛が給仕した香り立つお茶を自ら口に運んでみせる。しかし、彼女は静かな態度を変えようとしない。

 ふと、笑みがこぼれた。


「実直な様は相変わらずだ。私が声をかけた、あの時もそうだったね。しかし……あの時のきみは、毛を逆立てた猫のようだったが」


 小さな昔話に彼女が反応した。あでやかに刻まれた口元の笑みと冷ややかな眼差しで。


「あなたがその昔、気まぐれにちょっかいをかけた猫の一匹、爪を立てたところで、痛くもかゆくもなかったでしょう。記憶に残るひっかき傷ならば、それはまた違う猫なのでは?」


 おや、と片眉が面白くはねたのがわかった。


「私に残っているのは、騎士に成り立ての一人を手助けしたものだったが……それ以外のものというと」


 意味ありげに言葉を濁すと、目前の女性、エレンが嫌そうに口元を引きつらせた。


 出逢ったのは、彼女が騎士の身分を得て、その職分範囲の時。自分は他国の身分ある立場だった。訪れた先で暴漢騒ぎに遭い、その中でとっさに騎士である彼女を庇った。客分である、自分が。


 それは引いては、彼女が庇っていた母子を守ったのだが、騎士職に就いたばかりの彼女には受け容れがたいことだったのだろう。あらためて謝罪にやって来たそこで、つい、自身の悪癖が出た。実直な人間をからかってしまう性分が。


 潔癖な彼女は毛を逆立てた猫のようだったとなつかしむが、彼女にとってはまた異なるものらしい。これは、馴染み深い赤髪の騎士のことを言えないと自戒する。


 次手を打とうとしたところで、口調を変えた声が自身を差した。


「あなたがやって来るとは思わなかった。──それは私のセリフです。あなたがここにやって来た。それは、我々……ミゼラル公国を思う一派──ミレーユさまを後押しする確たる情報だと思ってよいのか。あなたが、それをもたらすに足る、信用できる人物だと」


 海洋国家、ミゼラル公国も今揺れ動いている。前大公派であるミレーユ元大公女と、現大公の親族である側室派。その中で、勢力を動かすであろう情報を持ってきた自分は、信用に足り得るのか。


 問われる理由はわかっていた。


 サウズリンド王家、その血筋が濃い継承者第二位である自分。おのれが王冠を得るために邪魔なもの。第一継承者、クリストファー。そして今、病に伏したと噂のサウズリンド王。


 二人の基盤を大きく揺るがす勢力、王妃の生家、オーディン公爵家。自分はそこと正反対の位置にいながら、おのれの利のために繋がっているのではないか。


 彼女はそう疑っているのだろう。そして、彼女らが欲する証拠もまた、オーディン公爵から繋がる貿易と利益。ミゼラル公国の利益に関わってくるのだ。


 海洋国家として名を馳せたミゼラルを介さず、独自にやり取りをする海上貿易。国益を損なう存在として見逃せないのはもちろん──、それを探っていた人物を事故死に見せかけて殺害したかも知れない。その疑いすらある。


 それゆえに、ミレーユ元大公女はオーディン公爵家と手を結ぶことはない。そして、現大公の派閥は己が利益のためにオーディン公爵家と繋がっている可能性がある。


 だれもが、己が利益を考えて動いている。自分もそうではないかと、彼女は問うているのだろう。冷ややかな深緑の眸が昔と変わらず、真っすぐに向けられる。


 わずらわしいものから隔離された、不変的で揺るがない、静謐な王宮書庫室。そこから踏み出してきた自分を呼ぶ声。


「どうなのですか。サウズリンド王国、第二王位継承者──テオドール王弟殿下」


 深緑の眸に映る自分が、静かに色を消した微笑を浮かべた。それはとても深く、──暗く。固い地の底に眠っていた本性が顔をのぞかせたような。


 感情のないものが。





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