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冬下虫の見る夢─22



 奇襲は思いの外、手応えがあった。


 主街道へ出る手前の気がゆるむ一瞬の襲撃。それは護衛団に狼狽を走らせたようで、統率が乱れた合間を身軽な自分たちは縦横無尽に動き回れた。影と呼ばれた動きそのままに、相手の背後を取る形で。


 だが、そこに響いた遠方の音があった。

 怒号と剣戟が行き交う中でなぜその音が聞き分けられたのか。それは、それが常ならぬ音──爆矢だったからだ。


 緊急煙幕、と一瞬で理解したが、気を散じたのは自分たち襲撃者だけだと次いで理解した。仲間のやられる声と迷いなく振り下ろされた一撃を危うく防いでかわす。


 が、態勢を直そうとしたそこに追う刃があった。


「……っ」


 ヴァトー、と近くの仲間の声にしない気配がある。クソッと痛みによる苛立ちが増した。


 かろうじてかわしはしたが、浅くはない痛手だ。そしてその太刀筋には覚えがあった。自分が物心ついた頃より組み込まれてきた組織。訓練された者の躊躇ない仕留め方。


 王家の影。護衛団の中に紛れ込んでいたのか、と理解と同時に標的が間違いなくそこにいるのを確信する。影と護衛に守られた目的の場所──堅固な馬車の中。


 もう少し、と狙い定めた前で、とうの馬車が自ら扉を開けた。目をみはったそこに、乗降階段に一歩踏み出した人物がいる。まるで辺りを払う貴人さながら、皆の注意を集める存在感で。


 小柄な女性。自分たちの標的。


 狙った先で、だが、その人物が目深にかぶった外套を自ら払った。外套から落ちた特徴的な髪だけを胸に抱き──まるで、勝鬨の名乗りを上げる女将軍さながら。


「かかったわね。マヌケな襲撃者の方々、私はリリア・ストーレフ。エリィ姉さま──サウズリンド王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタインの従妹よ。あなたたちの狙ったエリィ姉さまはここにはいないわ。ご愁傷さま」


 オーホホホと高笑いでもしそうな様に、自分たち襲撃者にも微妙な空気が流れた。しかし、宣言した栗色の髪の少女の背後には、あきれ顔のアレクセイ・シュトラッサーと、虫かぶりに付いていたはずの侍女、メイベルの困ったような顔が見える。


 そして馬車の周りには、飛来する短刀や矢を防ぐための盾を構えた護衛が控えている。そこに──少女らの後ろに、自分たちの標的がいるのではないか。


 一少女のでまかせを信じる道理は自分たちにはない。そう判断し、なおも斬り合って狙い定める自分らに、まだ年若い少女の憐れむような、腹立たしそうな、ないまぜになった目が向けられた。


「私はね、ほんとうに怒ってるのよ。アレクセイさまの作戦で前以て馬車の隠し棚に潜んだのはいいものの、せっまいし、寒いし、苦しいし、寒いし……! もうホント、生きた彫像になるかと思ったわ。そんな我慢をして馬車の隠し棚から地べたにネズミみたいに這って、目的の宿屋に入ったら!」


 いきなり少女の憤慨が爆発した。


「いないじゃない! エリィ姉さまったら、作戦通りに髪の毛一房だけ切ってメイベルに託して、本人いないじゃない! 作戦通りなのはわかってたけど! 私は絶対、エリィ姉さまの無事を確認して両頬と両耳引っ張って、めちゃくちゃに怒るつもりだったのよ! なんなのよ、もうっ!」


 もはや、八つ当たりとしか思えない感情をまき散らす少女に、自分たち襲撃者も毒気を抜かれた。リリア・ストーレフという少女は憤懣やる方ない、というように怒りをぶつけてくる。


「エリィ姉さまに髪の毛まで切らせたのよ。なにより、姉さまの命を狙うなんて……絶対、許さない。クリストファー殿下に代わって、私があなたたち愚か者に天誅を下すわ……!!」


 なんとか裁きのような理路整然……ではなく、感情まかせの状況説明に、なんとか現状を把握した。


 この少女の口先、という可能性は捨てきれない。だが、伝わる空気と標的を察知する自分たちの勘とでもいうものが、否が応にも、今そこにエリアーナ・ベルンシュタインがいないのだという事実を知らせた。


 ヴァトー、と小さく撤退をうながす声の主に腹立たしさがつのる。結局、この男の指摘通りだったということか。エリアーナ・ベルンシュタインは、ラルシェン伯爵率いる荷団のほうに紛れ込んでいる。


「クソ……っ」


 撤退してもう一方の襲撃に加勢だ、と仲間に合図した矢先。「無駄ですよ」と静かに冷えた声が出た。

 見やった先。威勢をふりまいていたリリア・ストーレフが奥に押し込まれ、アレクセイ・シュトラッサーの冷然とした目付きが自分たちを見渡した。


「ラルシェン伯の荷団に襲撃を加えようとしても、無駄です」


 静かに事実だけを告げる言葉。眉をひそめた前で、冷ややかな面にフッとめずらしい印象の微笑が浮かんだ。


「あなた方がエリアーナ嬢を狙うのは当然のこと。だが──治療薬。エリアーナ嬢の暗殺に躍起なあなた方の主人──その人物が、不可能と思われながら出来上がったそれを、見逃すだろうか」


 自身に問いかける口調はそのまま答えを紡ぐ。否、と降り積もった雪よりも冷たく凄味のある声音で。


「ラルシェン伯の荷馬車にも、手は打たせてもらいました。あなた方が狙わなければ、それはそれでいい。彼女の目くらましになる。だがもし──彼女の身を狙って奇襲をかけるのならば」


 思わせぶりなアレクセイの言葉に、どういうことだと考えが錯綜する。冷ややかな眼差しが自分たちをその場に縫い留めていた。


「あなた方襲撃者が二手に分かれて襲撃をかけたのなら。そちらは今頃、荷団内に潜んでいた黒翼騎士団によって、捕らえられているか壊滅状態でしょう。黒翼騎士団も敬愛するバクラ将軍を失って、嘆きの次には憤怒にかられていましたからね」


 血の気の多い脳筋は身近に一人で十分です、とアレクセイ・シュトラッサーの口調は血気盛んな軍人に手を焼いた様子を表している。


 黒翼騎士団、と失念事項を突き付けられた気分だった。バクラ将軍を亡くしたその一団は、亡骸を守ってとうに王都へ舞い戻った考えだった。指揮官を──まして国の英雄を失い、悲しみに暮れていた一団に重きはなかった。


 失念に歯噛みする自分に、アレクセイの言葉は続く。さすがに私も面映ゆい、とまったくそうは思っていない、冷ややかな様で。


「こうも見事にはまってくれるとは」


 その言葉に、罠にかけられたのは自分たちのほうなのだと悟った。どこにも、そんな素振りはなかったはずだ。他領との交渉を装って伯爵邸を出立していた領主夫人一行にも、どこにも自分たちをはめるような素振りは──。


 考えて、ハッと行き当たった。知らせていなかった。仲間にも。馬鹿な、と覆面の内側でつぶやいた声を、アレクセイは地の底でも聞こえたように笑む。


「疑われるのなら、まずはこの馬車の中を隅々まで調べられたらどうです? そして気が済んだら、ラルシェン伯の荷団へ向かえばいい。どちらにもエリアーナ嬢がいないと分かれば、あなた方も気が済むでしょう」


 それは暗に、どちらにもいないのだということを示していた。では、エリアーナ・ベルンシュタインはどこだ。


 疑問と同時に閃いた。

 襲撃間もなく響いた爆矢。遠方で聞こえたそれ。そして、爆矢が鳴った後で虫かぶりの身代わりになった従妹が高らかに名乗りを上げた。護衛たちも躊躇ははじめだけで、爆矢の後は勢いを盛り返した気配だった。そして今、アレクセイ・シュトラッサーのこの余裕。


「まさか……」


 ラルシェン伯爵邸を出立するその前から、二重三重に罠を張っていた。仲間の領主夫人にも知らせず、護衛団と伯爵の荷団、どちらかにエリアーナ・ベルンシュタインが保護されていると思わせ──そして今、虫かぶりは。


 思わず唸った声に、アレクセイ・シュトラッサーの会心の笑みが応えた。まさに、してやったりと言うような。


「エリアーナ嬢はとうに、治療薬を持ってウルマ鉱山に到着。その名を一躍世に知らしめています。もはや、おまえたちの主人がどうあがいても消せぬ、称賛と名誉でもってね」


 一度上がった名声と生存は、どう抑えても人伝に知れ渡る。王都で広まった聖女の評判のように。


 はめられた、と憤りとともに再度の剣戟が起こった。狭隘の道で圧倒的な人数に囲まれた状況。どう考えても、不利なのは誘い込まれた自分たちのほうだった。だが。


 このまま、終わらせてなるものか。

 怨念にも似た強い感情がただ自分を占め、突き動かすのを感じていた。





 ~・~・~・~・~



 沈黙が落ちたのは、数拍の間のこと。


 気圧されたように押し黙った人々から動きが出ます。まずは、わたしエリアーナが対峙した、モッズスの町の住人たち。防御壁の間から聞こえる、困惑の声。


 ……ほんとうか、とか細く頼りないものが数個。鉱山用の器具を構えた、隆々とした体躯の男性が発するものとは思えないような、小さな声。


「……あんたが王太子婚約者だったら……オレの家族を、たすけてくれるのか?」


 どうやって? とその声は絶望の中から一縷の救いを求めるように弱々しいものでした。でも、それをわたしは先に目に、耳にしている。ハーシェの宿場町で、病人を抱えた家族から。


 ほんとうに、とまた一人の声がつるはしを下ろし、一歩を踏み出してきます。


「たすけてくれるのか……?」


 オレの家族を、とまた別の者からつぶやきが出、徐々に波及していくかに見えた、その時。


 固い物を打ち付けるような音が響きました。その場をあらためる、強く勇ましい音。暴動の首謀者とみられる男性が、足元の防御壁に石鎚を叩きつけた音でした。


「あんたが王太子婚約者? ……っは。世間知らずのお嬢さま。勢いよく乗り込んで大言壮語を吐いたのはいいが、ここは病人の巣だ。それをほんとうにわかってんのか?」

「──はい」


 ひるまず返すわたしに、その男性の面もさらに厳ついものになりました。わたしに対する敵意よりもまるで──、なにかの感情をひっしに押し殺している者のような。


「あんた自身が感染するかも知れない。それをわかっての言葉だろうな?」


 灰色の悪夢。その再発が明らかになってから、繰り返し思い出していたのは十六年前のこと。たくさんの人が病に罹り、そして命を落とした。子どもも大人も、兵士も貴族も──そして、わたしの母も。


 皆が大切な人をなくした。そしてきっと、身近な人を亡くした者こそ、自身にも恐怖を覚えた。

 自分が、もしかしたら、大切な人を死に至らしめたのではないか。


 どこかで病の元を拾ってきて、大切な人を感染させてしまったのではないか。もしかしたら自分が。もしかしたら──。そんな負い目と恐怖、罪悪感が、生き残った者たちの口をも重たくした。それは、自身を苛み、責め立てるもの──後悔。


 しかし、とわたしに迷いはありませんでした。


「わたしが感染するかも知れない。その是非を聞いて、何になりますか。わたしが今、ここにいる事実こそが、答えを返してはいませんか」


 後悔ならだれもが持っている。けれどそこに捉われ、とどまり続けてなんになる。この先、そうしてどんな道が開けるのか。


 言葉にしない声を聞いたように、厳しい面にわずかなさざなみが走りました。しかし、それはすぐに凝り固まった疑心で返されます。

 だが、とラルシェンに根付いた溶けない氷のように。


「あんたは、王家側の人間だ。エリアーナ・ベルンシュタイン」


 口にしたその言葉に、彼自身が改めたように言葉を重ねました。彼らが貴族と見、お嬢さまと呼ぶ、生死の境やそこで葛藤する人の苦しみ悲しみも知らない、権力を盾にふるう人間だとその憤りを込めた声で。


「エリアーナ・ベルンシュタイン。王太子婚約者。だったら──あんたがここに来た目的はなんだ。まさか、自分も聖女だからとか言うんじゃないだろうな? 聖女だから病に感染しない。聖女だから病人を見舞う。聖女だから──王太子の妃になるのは自分だと、評判を上げるためにやって来たってのか。ふざけるな!」


 再度響いた鈍い音は地面を伝って、馬上にいるわたしの身もふるわすようでした。


「病人を、あんたら貴族の道具にするんじゃねえ!」


 そうだ、と彼の勢いに釣られたように賛同する声が続きかけて、別の声も出ます。首謀者の男性の横から、こちらは幾分落ち着いた、穏やかな口調で。


「……貴族のお嬢さま。あなたがここに来ても、事態はよい方向に向かわない。むしろ、あなたがここで感染でもしたら、ラルシェンはまた王家に疎まれる。領民も王家を憎んで返す。負の連鎖だ。悪いことは言わない。下がってくれ」


 あなたでは無理なんだ、そう言われたようでした。たったの四人で何ができる、と。


 駆けてきた馬は二頭。騎乗しているのは、わたしを含めて四人。正直、名乗っても信じてもらえるのか、信じてもらえたとして、言葉を彼らに届けるにはどうすべきか。


 わたし自身、迷っていました。彼らが信じられないのは、無理もない。わたしと彼らは初対面であり、いくらわたしが準備をしてきたのだと言っても、鵜呑みにすることはできない。そして、事情を知らない彼らはわたしを王家──権力側の人間であると、排除する可能性のほうが高い。


 では、どうするか。


 ……胸にずっとある、お守り。託された思いと、今鮮やかによみがえる声。──エリィがとても困って、たすけが欲しい時に。ラルシェン地方は、きみに任せる。

 グッとにぎりしめて顔を上げました。


「わたしは、たしかに貴族であるベルンシュタイン家の娘です。けれど、ここへ来たのはその身分ゆえではありません。はじめに名乗ったはずです。王太子婚約者であると」


 権力側の人間。それはまぎれもない事実。その立場で、わたしができること。為すべきこと。

 繰り返される怒りの気配に、それが飛び出すよりも先にかぶせました。これを預かった意味。王家に見捨てられた地と言われる、ラルシェンでこれを見せる行為。


 使うべきは、今この時だと。


 胸元から小さな袋、その中にあったひとつの意匠を掲げました。だれの目にも見えるように。

 瞬くように落ちようとしていた夕日が、きらりとそれに反射したのがわかります。サウズリンド王国、創始にまつわる、太陽とその欠片で鍛えられた宝剣。


 天に掲げる宝剣の意匠を象った、唯一無二のもの。それを彩る、栄光と永遠を支える知恵の象徴、月の輪。サウズリンドに伝わる神話、輝く王とそこに集うもの。この国を象徴する──王家の紋章。


「サウズリンド王国、アッシェラルド王家の名において、わたしはこの地に遣わされました。病人を救うための手段と方策、それをわたしは託されたのです。王家は、ラルシェンの病人を見捨てたりしません。灰色の悪夢──その治療薬が今ここにあります。サウズリンド王家の名においてこれを認め、今ここに病の収束を宣言します……!」


 空気が動きました。どよめいたものは暴動を起こした人々だけでなく、間近の領主夫人たちからも。


 王家に見捨てられた地。王家と隔意のある土地。旅の間中、幾度も感じてきた王家を示す意匠へ向けられた視線。相対した人たちからも向けられるもの──不信感。


 その視線を一身に浴びながら、わたしも今までにない鼓動の高鳴りと恐怖、それを押し込める、退けぬ思い。様々な感情でせめぎ合っていました。


 王家の名で治療薬を認める。治療薬をジーンさまに依頼したのはわたし。けれど、わたし個人の名と責任でそれを広めても意味がない。王家の名でなければ、ラルシェンが真実救われることにはならない。

 王家の名で、すべてを収めてみせる。


「……っ」


 怖い、と正直思いました。

 わたし一人のことならば、自身で責任を取ればいい。どんな非難も、歴史に名を残す大罪人になろうと──たとえ、王太子婚約者の地位を追われようと。


 自分で決めたことならば、受け入れられる。けれど、これはわたし一人の責任では済まされない。たくさんの人の生死が──国の命運が、かかっている。そしてまた、これは他の誰にも肩代わりなどさせられない。させない。


 もう逃げないと、約束した。この立場も想いも、なにもかもすべて。共に背負って立ち向かうと、約束した──。

 もう一度思いを呑み込み、暴動の首謀者と外されない視線を交わしました。


「あなた方が暴動を起こしたのはなぜですか。王家と国に見捨てられると、そう思ったからではないのですか。わたしは今、ここに病人を救う手立てを持ってきました。これ以上、あなた方が望むものはなんだとおっしゃるのですか!」


 感染の危険も承知の上。病人をおためごかしで見舞うのでもない。口先でこの場を凌ぐのでも──彼らが望む、確実なものを携えてきた。あと、何が欲しい。


「あなた方が病人のために奮起した気持ちはわかります。王家への不信がそうさせたというのなら、わたしたちは何度でも謝罪と誠意を見せなければならない。けれど、今は」


 王家の紋章をにぎりしめた手が、強く指に食い込みました。


「病人が待っている。あなた方の家族、友人、隣人、苦しんでいる者は今この一刻を争っている。今ここでの押し問答がそれを長引かせていると、なぜわからないのです……!」


 響いたのは、ひとつの小さな音でした。


 ガラン、と鉱山具を手放したような音に、またひとつ。もうひとつ。……次々と音が重なりました。そして続いた、突き動かすような大きなものを動かす音。

 ラッカ、とつぶやく声は小さく、しかしだれの耳にも届くものでした。


「……オレはあの人を、王家を、信じる」


 一人の決意を秘めた声と、それに続くように防御壁を動かす音。──撤去の動き。オレもだ、と続く声は救いを求めるものでした。


「オレは、王家に家族を救ってもらう。……あの人は、兵士を引き連れて来なかった。自分の言葉で、オレたちに向き合ってくれた」


 権力側なのに、その力をふるうのではなく。強行するのでも、強いるのでもなく。ほぼたった一人で。

 その言葉に、また他の者たちが作業に加わりました。オレもだ、と口にする者には切実な思いがこもっていました。「オレは、薬が欲しい」と。


 そして、それを押すように、今まで沈黙していた一頭の馬上から声が上がります。


「ガーランド先生……! ガーランド先生、無事なら応えて! ジーン・アルマンです。治療薬、持ってきた……! やっと……やっと、灰色の悪夢に効くものができたんだ……!」


 今度こそ、とひっしに叫ぶジーンさまでした。

 どうしても、モッズスの町に一緒に行くと言って譲らなかった、薬師の少女。町の住人と親密でなくても、ヘスター先生の病を診てもらっている、知り合いの医師がいるのだと。それだけ口にしていました。


 幼さの残るその声に、防御壁の向こうで言葉を伝えていく様子があり、ややして答える壮年の男性がいました。


「……ジーンか?」

「先生……!」


 従者のレイと同乗していた馬から転げ落ちる勢いで走り出したジーンさまが、数十歩の距離と境を意にもしません。防御壁の向こうとこちらで夢中で話し出すのと同時に、さらに新たな蹄の音が駆け付けてきました。


 わたしが町に入るのと同時に依頼した、後方で爆矢の手配をしたアランさまと、こちらも同行すると言って聞かなかった、宿屋のご主人ベルント。


「ラッカ、マルコ!」


 馬を繰り、そのままわたしの横で息せき切ったご主人が、勢いのまま声を荒げました。


「この……馬鹿野郎どもが……!」

 少し、驚くような叱声でした。


「マルコ、おまえはいったい何をやってんだ! いくら友人を見捨てられなかったといってな……! おまえの家は、嫁のマーサさんは、たった一人で頑張ってんだぞ。おまえの息子は……おまえは、今自分が気に掛ける、優先する相手を間違ってんだろうが!」


 どういうことだと動揺を見せたのは、首謀者の男性の横にいた、穏やかそうな方でした。その面と動作に現れた驚愕は、身内の状況を知らなかったに違いありません。

 ご主人の叱声は止まりませんでした。しかし、それは内に秘めた感情を抑える声。


「ラッカ。……オレが保証する。この王太子婚約者は、エリアーナ嬢は、信用していい。ハーシェに隠されていた病人の容体がたしかに改善した。症状が上向きになったんだ。……治療薬だ。信じていい」


 大丈夫だ、と荒ぶる者を落ち着かせる声音でした。そして続いた、知り合いだからこそつぶやかれた言葉。……この大馬鹿野郎が、と。


 首謀者の男性から大きな石鎚が手離されたのが、暴動終了の合図でした。





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