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冬下虫の見る夢─21




 クソッ、と何度目か分からない舌打ちがもれた。


 幾班かに分かれて見張りと情報収集に徹した五日間。ハーシェの宿場町では昼夜を問わず灯りがともり、雪が降ろうと人の往来も途絶えない。近隣から荷駄が頻繁に運び込まれているため、紛れ込むのは容易だったが、その人の動きが活発で標的が定められない。


 一つ所で狙いをつけた端から騒ぎが起こったり、住人たちが大鍋で煮た布地を道端で大きく広げだして標的を見失ったりと、とにかく邪魔が多い。チョロチョロと動く標的に、隠密行動とその生業が自分でも、何度町ごと焼き払ってしまいたい衝動にかられたか。だが、それも今日で終わりだ。


「……ヴァトー」


 仲間の合図に視線で了承する。ハーシェの込み入った宿場町では狙いを定めるのが難しかった。しかし、ラルシェン伯爵邸についていた見張りからは有益な情報が入っている。


 王太子の側近、アレクセイ・シュトラッサーが護衛を率いてこの町に向かっている。そしてもうひとつ──ラルシェン伯爵が率いた物資の荷馬車も後続でこの町に向かっている。


 推測し得ることは二つ。


 アレクセイ・シュトラッサーの護衛団の目的は、王太子婚約者の確保と保護が目的。そしてラルシェン伯爵率いる荷団は、灰色の悪夢の治療薬を持ってウルマ鉱山麓へ向かう。


 標的たちも当然、自分たちが狙われていることは承知しているだろう。その上で取った行動ならば──そう思ったところに、そばに置いて目を光らせている、いけすかない男の発言があった。


 お嬢はきっと、暴動の現場に行くッスよ、と。


 忌々しい思いを抱えながら、ならば、と考えた。アレクセイ・シュトラッサーの護衛団が囮で、ラルシェン伯爵の荷団が本命か。どちらだ、と判断を問われ、決を下す自分が選んだのは、


「目視して確かめる」


 一番の標的は王太子婚約者、エリアーナ・ベルシュタイン。その存在を始末することが、自分たちに与えられた最優先事項。それだけは揺るがない。

 しかし……。


「虫かぶりが荷団とウルマ鉱山に向かうのなら、アレクセイ・シュトラッサーの護衛団は治療薬を持って王都に向かうんじゃないのか。それはまずいだろ、ヴァトー」


 仲間の指摘にわかってる、と苛立ち混じりに答える。


 ここに来て、自分たちに新たに与えられた指令。治療薬が確実に出来上がるのならば、それが世に広まる前に奪取せよ、と。


 灰色の悪夢。だれもが恐れる死の病。その治療薬ができるとは、いかに主と言えど想像だにしなかったのだろう。ゆえに、当初は手掛かりを消すことを命じ、王都に注目を集めた。──聖女の人気を高めるために。


 だが、それがここに来て覆されそうになっている。自分たちを動かす主の新たな指令はもっともだ。治療薬を奪い、王都に届けて聖女の立場を確実なものにする。

 救国の英雄──まさに、物語の聖女譚そのままに。だが。


「二手に分けるしかないッスね。多少手薄になっても、仕方ないっしょ」

「おまえは黙ってろ、ジャン!」


 ひょろりとした冴えない風貌の男が、はぁ、と気の抜けた返答で押し黙る。その様子にさらに舌打ちがもれる。


 反発するでも肩をすくめたりするでもなく、ただ通り抜けただけのような空気。自分がどんな感情をぶつけようと、この男は昔からこうだ。


 何を考えているのか、飄々としたやる気のなさと執着心のなさ。淡々と任務をこなす態度はある意味、王家の影としてふさわしかったのかも知れないが、人間味のない薄っぺらな印象だ。そんな男が影の中では自分と同等の腕前として比較され続けた。そして一人──、日の当たる表へ出された。


 いけ好かないこの男が、昔から目障りで仕方ない。見ているだけで苛立ちがつのる。腹に渦巻くしこりはもはや、どうやっても消せぬ憎悪で凝り固まっている。


 だがそれも、今回の任務が最後の機会だ。こいつが今度、失敗をしたら──標的にとどめを刺せなかったら。

 任務の失敗。背信行為。俺が、苛立つこの男を始末できる。胸のすく瞬間を思い浮かべて、男の行動を毛先ほども見逃さない思いで仲間に合図した。


 護衛と馬車が通れる道筋にはすでに目星をつけている。ジャンの発言通りになるのは業腹だが、それしか手段がないのも事実だ。仲間を配置に付け、自分たち主流部隊は狙いを確実にするため潜伏していた。


 ハーシェの町は雪がちらつく昼下がりだというのに、相変わらず人の行き来がせわしない。その中で奇襲をかけられないか、何度も隙をうかがった宿屋。町の住人、皆が注視している場所。標的はそこを拠点に行動している。


 そして今。

 アレクセイ・シュトラッサー率いる護衛団がそこに到着し、当の宿屋から女性が出てきた。質素な身なりに押さえてはいたが、年頃十七、八。人目をはばかるように風貌を隠し、そばにメイベルと呼ばれた侍女が付き従っている。


「……間違いない」


 見張りから、アレクセイ・シュトラッサーは一人で馬車に乗り込んだと報告を受けている。身代わりになるような女性は同乗していなかったと。目視する前で馬車に乗り込む際、フードを目深にかぶった人物から特徴的な髪が一房こぼれた。クセのある、白金色の髪。


 二人がアレクセイ・シュトラッサーと共に護衛で固められた馬車に乗り込むのを確認し、フンと思わず嘲る笑いが出た。


「おまえのお嬢さまはどうやら、暴動や病人よりも我が身と命の可愛さを取ったらしいな」


 世間知らずなお嬢さまなら当たり前だったな、ともうひとつ嘲笑する。反応しない男に、この時だけはわずかに胸のすく思いだった。


 考えてみれば当然のことなのだ。深窓の令嬢が王都から遠く離れた地でだれもが恐怖する病魔に遭遇し、さらに襲撃の危険にまで遭って、どうしておびえずにいられよう。当初は王太子婚約者としての責任にかられたようだが、貴族令嬢の心境を踏まえれば、宿屋の一室で迎えが来るまでふるえていてもなんらおかしくない。


「時間を無駄にさせやがって」


 苛立ちを込めた舌打ちをジャンに向け、他の者に合図を出した。万が一にも、標的が途中で離脱などしないよう並行する見張りを残し、自分たち主流部隊は襲撃の場所へ先回りする。


 少し遅れて出立したラルシェン伯爵率いる荷団にも抜かりなく、薬の奪取と襲撃の合図を出して。


 ──今度こそ仕留める。人数に多少の不安があっても、彼らの標的はただ一人。護衛団全員を相手取る必要も、追加されたであろう王家の影、すべてとやり合う必要もないのだ。目的はただひとつ。


 エリアーナ・ベルンシュタイン。その始末。


 ハーシェの町から主街道へ至る山道。雪深く、近隣の町からも離れた山間。馬車も騎馬も反転がしにくく、自由な動きが取りづらい狭隘(きょうあい)の道。


 まさに、自分たちにおあつらえ向きである。今回は騎乗していない自分たちにこそ、利がある。


 よし、と胸中で任務の達成を確信し、襲撃の合図を出した。自分だけは近くの男の行動を見逃さないよう──躊躇したその一瞬で始末する、その時の昂揚感を胸に秘めて。





 ~・~・~・~・~



 お願いします、と何度目になるかわからない声を張り上げた。ウルマ鉱山、モッズスの町。北方の地ラルシェンで主要な産業であるウルマ鉱山。


 神殿を含めた集会場がある場所──病人や住人が立てこもっている建物は町の端にある。そのため、そこへ至る主要な道をふさがれてしまうと、たどり着く術はなくなる。様々な物でふさがれた防御の壁を前に、押し問答はもはや一昼夜に近い。


「防御壁を解いて役人たちを解放してください。病人の保護は必ず行うと約束します。どうか……どうか、お願いします」


 帰れ! とやはり同じ言葉が防御壁の向こうから投げられる。嘲りよりも怒りに満ちたものが。


「伯爵夫人だかなんだか知らねえが、あんた一人が来たところで病人はだれも救われねえ。食料は受け取る。オレたちが求めてるのは口約束なんかじゃねえ。病人を救う確実なものだ。それがなきゃ、役人もみんな道連れだ!」


 息を呑むような押し殺した悲鳴が周囲からもれる。泣きだしそうな思いをどうにかこらえて、もう一度説得にかかろうとあらため、背後の護衛に制された。


「奥さま。今朝からほとんどお休みになられていません。少し間を開けましょう」


 言われて見返した周囲は、北の地の特徴を表して、早くも日が傾きはじめていた。


 伯爵邸を発ったのが昨日の早朝。雪が止んだ一時を縫うように、他領との交渉を装って屋敷を出立した。遠回りにはなったが、少数の護衛と、別街道に待機させていた物資隊と合流し、先触れとして駆け付けた。ハーシェの町回りではなく、直接鉱山麓へ向かう道回りで。


 途中の天候のためにようよう到着した昨夜はなにもできず、朝から押し問答を繰り返している。隣から続いたのは、伯爵邸から付き添ってきた侍女だ。


「レイチェルさま……奥さま。もうずっと、お声がかすれています。どうかもう……あとは、旦那さまの到着をお待ちしましょう」


 すがるように懇願してくるのは、実家から付き添ってきた侍女だ。私を幼い頃から知る彼女はきっと、何度も思ってきたのだろう。──お嬢さまは、なんてところに嫁いでしまったのだろうと。


 口にこそしないが、嫁いだ頃より幾度も抑えた態度、雰囲気に現れていた。今はもう隠しもしない、表情が雄弁に語っている。ラルシェン伯と、この土地が抱えた問題のせいで、お嬢さまが──と。


 そうじゃないの、と侍女と護衛に首をふってみせる。付き従ってくれている侍女や、自分の身を守ってくれている護衛は、私が何もできない人間だから守らなければ、と思うのだろう。でも、私はあの時、自分があるべき姿を見た。


「聞いて。私はもう、ハベリー家の人間じゃないの。ラルシェン家の、カールさまの妻なのよ。ラルシェンのために私は今ここにいるの。この土地に住む、領民のために」


 あの時──サウズリンド王家はラルシェンの民を見捨てたりしない、そう宣言したエリアーナさまのように。王太子婚約者として、その重責をしぜんと請け負っていた方のように。

 今は未熟でも、少しでも憧れた信念に近付けるように。


「私は、ラルシェン領を治める伯爵夫人なの。私は、私の責務を果たすわ」


 それが、あの方と約束したことだから。

 私に付いてきた侍女や護衛たちは作戦を知らない。様々な情報を精査し、密に至るまで練った方の作戦。王太子の右腕、と呼ばれる方の頭脳と手腕。


 それを聞いたのは、伯爵邸でもほんの片手ほど。この作戦が当たれば、あの方は──カールさまは、この場に来られないかも知れない。


 レイチェル、と出立の際に交わした約束。『民を頼む』、とこの危機的状況にあって、領主として強い覚悟を見せた思い。私は、彼に答えて約束したのだ。


 にぎりしめた手にさらなる力を込め、覚悟を改めた。なんとしてでも、彼らを説得してみせる。すべてを解放してもらうのは無理でも、せめて、この防御壁だけでも──。


 思って声を張り上げた視線の先。昨夜、到着した際に一度対面した、暴動の統率者である男性が姿を見せた。


 ラッカ・アルクト。鉱山夫たちの中でも大小様々な集団をまとめる、まさにウルマ鉱山の顔役でもある人物。町の有力者にも影響力があり、彼の決定に逆らえる者もまた少ない。それゆえに、今回の首謀者となった男性。


 息を呑んだのは、彼だけはどうあっても説得に応じないのではないかと直感していたからだった。最悪──力で押し切るしかないのでは、と。


 印象通り、真っ向から拒絶の言葉が落とされる。声を荒げるわけではない、秘めた怒りをうかがわせる静けさで。


「レイチェル・ラルシェン……伯爵夫人か。あんたたち貴族、上の人間は、いつだって下の人間の命なんて取るに足らない雑草程度にしか思ってないんだな。オレは……忘れてやしない。四十年前の戦場の地を……十六年前の、死のにおいが充満した、オレたちが暮らした町の光景を」


 ドキリと胸を突く言葉でした。私は知らない、先の大戦、死の町、死の光景を二度も見た眸──。


「四十年前のあの時もそうだった。オレは十にも満たない子どもだったが、はっきりと覚えてる。王家から遣わされた使者と軍人はオレたち領民を言葉巧みに煽てて、この地を国の防衛という名の侵略と略奪の地にさらした。国が見捨てたんだ。オレはあの時、亡くした兄妹の声を忘れてない。破壊されつくした町の姿を、忘れていない」


 抑えた声音からもわかる、怒りと悲しみに満ちた感情。他所から嫁いできた自分に、この地の歴史は教養として教わっただけのもの。その自分に──そう、ひるみそうになりましたが、今は領民の命がかかっている。


 ひるんではならないと気持ちを改めた前で、私の名が再度呼ばれました。ラルシェン伯爵夫人、と口先だけでなく──身近のだれより私の立場を認めた声で。


「オレたちが求めているのは、王都だけに配布されているポメロの実──そして、その存在がいれば病には罹らないと言われている聖女だ! 聖女を連れて来い! 王家がこの地に聖女を遣わしたんなら、オレたちも防御壁を解く。あんたたちの言葉が口約束だけじゃないことを信じられる」


 防御壁の上に立ったラッカ・アルクトの声は、暴動を収めに来た自分たちをただ拒絶するのではなく、別の側面から追い詰めるようでした。


 王都で噂の聖女。王家縁の公爵家令嬢であるという存在。一地方の領主夫人である自分にだって、雲の上と同じような存在。


「そんな……」


 思わずもれた声に、ラッカ・アルクトの声は容赦なく事実を知らしめるようでした。


「それができなきゃ、役人たちは今すぐ病人の中にぶち込む。伯爵夫人。今この時、あんたがこの現場の責任者なら、口約束だけでも言ってみろ。聖女を連れて来ると」

「…………」


 愕然と、言葉を失いました。


 ラッカ・アルクトは、彼は、聖女がこの場に来られるわけがないことを知っている。それは物理的な問題──例えば、王都で評判の公爵家令嬢を何日もかかる北の鉱山地に連れて来る──例えば、もしそんなことが可能だったとして、聖女の力は本物なのか。


 聖女は王都から動かない。貴族や裕福な者が多く住む、王都サウーラ。聖女は……王族専用の存在だから、王都だけに恩恵を与える。──そんな都合のいい存在が、ほんとうに聖女と呼べるのか。


 その存在がいれば病には罹らない──では、今病に罹った者は。今生死の境にいる病人は、だれが救ってくれるのだ。


 私にも浮かんだ思いと疑心を、目前の男性が口にします。誤魔化しのきかない、真実を見据えた眼差しで。


「王家は……上の人間は、いつだってオレたち民をだまして操る。自分たちに従順じゃないやつらは見捨ててもいいと思ってんだろ。代わりの人間なら、すぐに生まれてくると。オレたちの命はそんなに軽いのか。あんたたち上の人間から見たら、そんなに取るに足りない、ちっぽけなものか」


 違う、と言葉にしたくても出てきませんでした。彼らは、もう灰色の悪夢という絶望的な病から考えまでもが同じところに捉われてしまったよう──いえ。


 それはきっと、心の片隅にあった。表に噴出していなかっただけで、ラルシェンの民の心には、いつだって王家と国への不信があった。

 自分は今、それと対峙しているだけ。


「オレたちに不信を抱かせたのは、王家と国だってことを忘れるな。オレたちは妥協なんか求めてねえ。病人を救う確実なものがなきゃ、このまま皆、道連れだ」


 追い詰められた者だけが持つ、切羽詰まった覚悟と形相がそこに見て取れました。もっとも、と続く嘲る言葉で。


「あんたら上の人間は、今ここでオレたち暴動と病人が一緒くたにくたばったほうが、よっぽど都合がいいんだろうがな」

「違います……!」


 反射的に返したが、これ以上、どうしたらいいのかもわからなかった。ラッカたち先の大戦や病の経験者は、凝り固まった負の思想に捉われている。

 これ以上自分に何が、と思った横で、護衛の兵士たちが気色ばむ声を発した。


「奥さま。もうあいつらに何を言ったって無駄です。捕えられている役人は、国から派遣されて来てる者もいる。暴動から解放して身の安全を確保しないと、ラルシェンの地、全体が国の反逆地と見なされるおそれもある」


 一か所の暴動ではなく、領地全体が反逆の意志を持っているのだと。


「待って……みんな冷静に!」


 あわてて兵士を押さえても、ほとんどの者が剣の柄に手をかけた臨戦状態だ。その視線の先──モッズスの町の住人たちも、手に手に鉱山用の器具を構えている。


 睨み合う気配に、こんなの、どうしたら、とまだ覚悟も自覚も浅い自分はこらえていても泣きだしそうになった。……カールさまから、任されたのに。私一人の裁量でなんとかすると。それを受け入れて、やってきたのに……!


「お願い、みんな落ち着いて……!」


 兵士が領民に向かって剣を抜いてしまったらおしまいだ。あの人は、それをなんとしてでも止めようと奮闘していたのに。


 ひっしに抑える自分の目に、兵士の手が剣を鞘走らせる光を見た。絶望的な思いにかられながら、立ちふさがった様々な感情の合間。


 なぜだか、引かれるように夕暮れの空を見上げた。雪曇りと夕日の色。ない交ぜになった、なんだかとてもふしぎな色合い。何かに引かれたのだとわかった。


 響いた音。

 見上げたそこに広がった──爆矢。


 町や国の緊急信号時に使われるそれ。近隣の町程度に行き渡る音と瞬発力、そして煙幕の色で離れた場所へも緊急性を知らせる。

 上がったそれは、ここしばらく、目にしていない快晴の青。


「え……」


 つぶやいた自分と同じく、周囲の人々が目を奪われたのがわかった。


「緊急煙幕……なんだ。だれが……」


 緊急時のそれは赤い色。だが、今上がったのは危機的事案が収まった、と近隣、遠方に知らせる青の煙幕。だれがそれを打ち上げたのか。困惑が広がったそこに蹄の音と、馬の高いいななきが響いた。


 幾頭かの騎馬が道の向こうから迷いもなく、真っすぐに駆け付けてくる。それを目にしたと思ったら、蹄は瞬く間に眼前に迫っていた。とっさに目をつぶった自分のすぐ隣に、馬の上気した体温と気配、荒れた息遣いがわかる。


 凛とした声はそこに降った。


「お鎮まりを。ウルマ鉱山麓、モッズスの町民の皆さま」


 駆けてきた息遣いそのまま、忙しない呼吸がわかる。それでも降る声は静かで落ち着いていた。


 見上げた視線の先、逆光になった馬上の影は大小ふたつ。しかし、声の主は明らかに小柄な人影からだとわかる、まぎれもない存在感。


「だれだ、おまえは」


 ラッカ・アルクトの不審な声にもひるまない、芯に萌した強さ。続く声に驚いたのは、おそらくだれより自分たち伯爵家側の人間だったろう。凛と響き渡る声。


「わたしは、エリアーナ・ベルンシュタインです」


 数瞬の間、気を呑まれていた者たちから、はぁ? ととまどうような少し気の抜けた声が出る。だれだ? と合致しない民の声から、王太子婚約者、とその名に行き着く。


 私や護衛たちはもちろん、驚いて見上げるばかりでした。あまりに静かに口にされたその名。その人物。その方は、今この時、単独で王都の陛下へ病の治療薬を届けに向かっているはず。少なくとも、自分はそう聞いている。


 今この時、この場に──暴動と病人だけが押し込まれた閉塞した場所にいるはずが──。


「嘘をつくな」


 だれより低い声を這わせたのが、ラッカ・アルクトでした。防御壁の上にいるために馬上の人物と合った目線で、感情を秘めた糾弾の声を上げます。あり得ない、と。


「オレたちはだまされない。王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタインは逃げだしたと聞いてる。灰色の悪夢が怖くて逃げだしたんだとな。ラルシェンや病人を見捨てた、これまでの奴らとなんら変わりねえ! だれが信じるか!」


 身をふるわせる怒声でした。彼に合わせたように鉱山夫たちからも同調の声が上がります。信じられるか、証拠を見せろ、と。


 それはまさに、私自身が思っていたことでした。この方は王都へ向かうと、そのためにカールさまやアレクセイさまたちが囮になる。だから、この地の暴動は領主夫人である自分が収めなければならないのだと、そう──。


 見つめ返した先で、馬上の小柄な人影が頭部に巻いた布を取り払いました。


 北の地の短い日暮れ。雪の止んだ合間に、奇跡のように差し込んだ夕日。編み込んだ髪がほどけて、勢いのままもつれるようになびく。色素の薄い髪色。夕日をそのままに受け止める、波打つあかがね。


 まるで命が息衝く、鼓動のように。


 そして響き渡る、凍て付いた者をふるわす声音。固く閉じこもった者を揺り動かすような──冷たい地べたの奥底に凝り固まった、眠る者を起こすような。


 空気をふるわす、揺るぎない声。


「わたしはサウズリンド王国、王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタインです。サウズリンド王家の名に置いて、ラルシェン地方ウルマ鉱山、モッズス。この地の病人を救いに来ました。暴動を起こした者は、今すぐ、武装を解いて私たちにこの場を明け渡しなさい……!」


 冬の日暮れの、はじまりのような一声でした。






虫かぶり姫コミック4巻の表紙を活動報告にUPしています。

喜久田先生のとても素敵なカラー絵です。ぜひ、ご覧になってみてください。

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