冬下虫の見る夢─20
悲鳴が響き渡りました。女性の甲高い、恐怖に満ちた悲鳴が。
ラルシェン地方、鉱山街へ至る宿場町ハーシェ。
ここ数日、この辺りには降ったり止んだりの雪が続いています。短時間で吹雪になる天候は積雪量を増やし、主街道だけはどうにか確保する作業に追われます。寒空の中、行き交う人々は誰もが急ぎ足で用事を済ませる。冬の日の見慣れた光景でした。
本日、ハーシェの宿場町に広がっているのは、常と異なるものです。ベルントの宿屋を中心に両隣はもちろん、周辺の宿屋、食事処、雑貨を売る店、その他一般のお宅からも、暖かな煙が絶え間なく立ち上っています。
それはまるで、冬の雪空を染め変えるような蒸気の数。その中のひとつのお宅で、わたしエリアーナは恐怖の声音と対峙していました。そう。それはまるで、暗殺者と対峙した時のような、命の危機に直面したかのような、恐怖の色。
「あ、あんた……」
一軒のお宅の賄い場所で手伝いを申し出ていたわたしは、指し示された樽にえ? と顔を上げました。
病人を看て症状を確認する経験と知識の乏しいわたしはそこから外され、微力ながら賄いの手伝いにまわっています。そこで指示された保存食の開封にうんうん言いながら、固い樽の蓋と格闘していた時でした。
非難される声に目を上げ、力が抜けた一瞬です。パカン、と少しあっけないような音と反した勢いで飛んだ樽の蓋。
一瞬後──、恐怖に満ちた絶叫がその場にいた人々から上がりました。賄い場にいた女性たちの、甲高い悲鳴。
一目散に逃げ出した皆さま同様、わたしも一刻も早く退散すべきだと頭では理解したのですが、はじめて嗅ぐその臭いと思い当たった北方地域限定の腐臭保存食に、これがラルシェンの郷土史とダン・エドルド氏の旅行記で読んだ名物料理かと、頭の中でしみじみと感心し……すぐに気が遠くなって、そばについていた人物に猫の子のように連れ出されました。
ちらちらと舞い散る雪の中、地べたに座り込んで、寒さよりもわたしは新鮮な空気を吸うのにひっしでした。
さすが……『目の上のたんこぶに贈る最適な郷土品一覧本』の中で、上位に位置する食材です。臭気からくるめまいをこらえていると、「なんの騒ぎだ」と駆けつけてくるアーヴィンさまがいました。
「エリ、エル……!」とかけ寄ってきたのは、病人の介護にあたっていたメイベルです。
アーヴィンさまはジーンさまの警護に付いていたはず、と申し訳なさにようよう立ち上がり応えかけて、数歩手前で二人が足を止めました。その表情は顔の下半分を覆う布地越しにもわかります。
はい。はっきりと、その目と態度が──クサイ、と。
「…………」
仮にも、王太子婚約者、侯爵令嬢、なにより年頃の娘であるわたくしがこのような視線を浴びるのは、さすがにいかがなものかと……。
「エル……今度はいったい、何をしたのです?」
メイベルの疑いの眼差しと口ぶりが悲しいです。否定できないところがまた……。
いたずらを見付かった子どものような気分でわたしが小さく目をそらすと、アーヴィンさまの従者、レイが主君に説明をしていました。アズール地方から運ばれる魚を保存した、有名な塩漬け保存食をわたしが間違えて開封したのだと。すると、めずらしくアーヴィンさまも大きく下がりました。
「まさか……うちでも有名なアレか?」
「ええ。保存食とは名ばかりの嫌がらせとしか思えない、貴族贈呈品のアレです」
……マルドゥラ国でも似通った風土の地域では、存在する保存食なのでしょうか。
興味を覚えたわたしですが、それよりもまずご迷惑をおかけした方々に謝らなければ、と周囲をふり返ったところで、もう一人の声がはさまれました。
「ちょっと、ちょっとちょっとー!」
あきれまじりの制止は忙しく行き交う人の中から顔をのぞかせた一人です。別の作業に携わっていた蜂蜜色の髪の楽師、アランさまでした。
「なに遊んでんのさ。こっちはエル考案の感染防止布を作るのにひっしなのに」
そう言ったアランさまもわたしに近付いた数歩手前でピタっと足を止めます。あからさまに表情にすることはありませんでしたが、え、なに……と疑問形の声がすべてを物語っていました。
「新手の男除け……?」
それとも、襲撃者除け? それにしては斬新、と思ってもみない予想を告げられ、わたしも我が身をかえりみます。襲撃者も躊躇するほどの臭いなのかと。もはや麻痺しているのか、よくわからなかったのですが。
ともかく、とアランさまがテキパキと場を仕切ります。
「猫の手も借りたいぐらいなんだから、エルも今こんな時に新しい実験始めないでよ。泥棒退治か不埒な男撃退用の香水なら、今度またヒマな時に手伝うからさ」
……そういうわけではなかったのですが。
鼻を押さえて見守っていたおかみさんたちにアランさまが明るく謝罪して周囲を動かしていきます。アーヴィンさまやメイベルは持ち場に戻り、わたしも申し訳なさで後始末に向かったのですが、おかみさんたちに問答無用で風呂場へ追いやられました。さらには、あんたは賄い場には不向き、ときっぱり言い渡され、塩をふられたナメクジのような気分でした。
ともかく身を改め、表で待ってくれていたレイと合流します。彼だけは女性に間違われそうな細い外見のために力仕事にはまわされず、わたしのそばで護衛の任を言いつけられていました。
アーヴィンさまの従者なのに申し訳なく思いながら、わたしが道端で一息つくと、レイがめずらしくぽつりと口にします。
「サウズリンドは、蒸し風呂の蒸気を様々に利用しているんですね……」
ラルシェン地方にある蒸し風呂の蒸気は、ふだんからそれを活用する仕組みが取られています。宿屋には上段の部屋を暖める通風孔が通っていたり、裕福なお宅でも賄い場へ蒸気を通して、その熱源で料理ができる仕組みになっていたりします。
本日、その設備が整っている家はすべて蒸気の煙が上がっていました。宿屋のご主人の口利きで、町をあげて治療薬の作成とわたしが考案した染料のための熱源が必要だったからです。火石は宿屋の蒸し風呂が有料だったように、決して安価なものではありません。しかし、今は火急の時。最終的な責任と支払いはわたしが請け負うと話して、ご主人や町の有力者に指揮を取ってもらいました。
雪曇りの中、上がる蒸気の光景はどこか暖かく、今が国難のただ中であるという事実をしばし忘れさせます。わたしも同じように、ぽつりとたずねました。
「マルドゥラでは、蒸気熱を利用はされないのですか?」
蒸し風呂の文化は旧帝国にもあったと書物で読みました。影響を強く受けているマルドゥラなら、風習も似通っているでしょう。レイは自国のことを話すのに少しためらったようですが、ハーシェの町をながめて口を開きました。
「蒸気熱で燻製や保存食を作ったりはします。ですが……建物が古臭いままで、通風孔や配管を通すのに適していない。現王は、若い頃から諸国を周り、その知識や技術を手に入れて、王城にも手を入れました。改築です。歴代の王で城を増築した方はいましたが、壊して建て直した者はいなかった。今のマルドゥラでは、革命的な王として知られています。しかし……反発も、もちろん大きい」
閉鎖的なお国柄として知られるマルドゥラ国。他を排する意識は、多神教を認めないライザ教に発するものでしょう。その中でできる限り、自国を豊かなものにしようとした。そして、そのためにまず、象徴である王城に手を入れ──民衆にもそれを広めようとした。
けれど……、とレイは続けます。
「貴族たちは……陛下に自分の娘を差し出した者たちは、その技術を民に広めようとはしませんでした。富は自分たちの元にとどめ、民は貧しく、寒さに凍え、飢えさせるまま……」
蒸気熱の利用法がいい例ですと、レイの示唆にわたしも歴史書にあるような状況を連想しました。
一部の特権階級が国の中枢を占める、けっして豊かとはいえない国。貴族、王族は資源を贅沢に使い、寒さにふるえることも、その日の食べ物に困ることもない。しかし、民たちは身を寄せ合って寒さをしのぎ、苦役に喘いでどうにかその冬を越す。来年もまたこの冬を越えられるのか、その希望を持つことも叶わぬまま。
アーヴィンさまが黒幕の証拠を見付けに来た現状を考えると、資源を活用して民に還元するのではなく、私腹を肥やす特権階級がいることは容易に想像つきます。
しかし。
それはけっして、マルドゥラに限ったことではないのです。死の病が広がる状況にあってもなお、おのれの欲と私腹だけを考え、治療薬の可能性もろとも消し去ろうとする人間がいる。──サウズリンドの、中枢部に。
町民の生活から自国に思いをはせるレイにわたしも言葉を重ねました。
「ハーシェの町、ラルシェン地方も、昔からこのような建物だったわけではないのです」
眸を投げてくるレイにそっとほほ笑み、再度宿場町に目を投げました。
「ラルシェンは四十年前の大陸公路戦争の際、多大な被害を受けました。象徴的な建物はもちろん、民家のほとんども大きな被害を受けて、修復するよりは一から建て直すことを計画し推し進めたのが、先の王太后、アマーリエさまです。ゆえにアマーリエさまは、今もラルシェンの復興に尽力した賢妃として名高い──」
そして、その方を晩年、不遇の存在として追いやったサウズリンド王家への不信がさらに増した。先の大戦で王家に見捨てられた地、という観念が根付いた領民には特に。
歴史の掛け金。わたしはいつも、こういう時に強く思わざるを得ません。
鉱山以外、特色のないラルシェン地方。火石による活用法が注目されだしたのも近年のことで、今もけっして豊かとは言えません。しかし、宿屋に施されている技術は王都の貴族邸にも劣らないもの。
戦を容認するようなことは決してしない。しかし、今のラルシェンがあるのも、先の大戦があったからこそである。それは、まぎれもない事実だと。
だからこそ、考えてしまいます。もしもあの時──。この掛け金ひとつ、違っていたら。
ラルシェンは大戦に巻き込まれず、人の命も、建物も失われず、領民が王家に隔意を抱くこともなかったかも知れない。……アマーリエさまと先王陛下が気持ちを違えさせることも、なかったかも知れない。
しかし。それはきっと、いくら考えても答えの出ない、もしもなのです。わたしたちは今この時、先人たちが紡いできた歴史の上で生きている、現代の人間なのですから。
歴史はいつでも、最善と最悪、ふたつの上で成り立っている。──昔、祖父に言われたその言葉をかみしめます。今を生きているわたしたちがすべきこと。この状況下で、次代に残していくことができること。幼い頃父から渡された、『ライザの道標』のように。
「レイ。わたしたちは、わたしたちにできることをしましょう」
実はレイの言う、古めかしい建物でも配管を通す技術はあるのです。ラルシェン地方ではなく、別の地域の歴史的な建造物に関してですが。昔、その地方の領主が歴史的建物を好んだために、今に通じる最新の設備を整えました。
マルドゥラには今、資源がある。そして、サウズリンドには知識と技術がある。未来はきっと──明るくなる。
思いを込めて返すと、銀灰色のふしぎな眸がじっとわたしにそそがれました。そこにさらに声がかかります。
「エル、レイ。今度はこっち手伝ってー」
と、アランさまの明るい声で。
実は、護衛の足りていない現状とアランさまの言う猫の手も借りたい状況。その中で取られたのが、わたしを一つ所にとどまらせない、というものでした。
薬師のジーンさまと、医術の知識経験のあるメイベルは病人のもとから動かせない。なので、そこには確実な護衛、アーヴィンさまを配置し、護衛が手薄なわたしは町中のあちこちに移って狙いを一か所に定められないようにする。
これは、わたしが提案したことでもありました。暗殺者たちもおそらく、わたしの暗殺を何度も失敗し、焦れはじめているでしょう。わたしとジーンさまが固まっていたら、確実にそこが狙われる。
今、なによりも守らなければならないのは、治療薬を完成に近付けることができるジーンさまだと。
そのために危険も不安もない状況下で臨床実験にあたり、治療薬の完成にかかってもらう。そう話して、反論したい表情のメイベルにもきっぱりと命じました。
『今、各々が最善だと思うことをしましょう』と。
そして、わたしのそばにはレイがつけられました。再会してより、個人的に言葉を交わす機会はなかったのですが、彼のことやマルドゥラ国のことを少しでも知ることができてよかったと、アランさまのもとへ向かいました。
銀灰色のふしぎな眸が、わたしに静かな狙いを置きはじめたことには気付かず──。
~・~・~・~・~
サウズリンド王歴、冬の一の月。
北の地の日の出は遅い。ここ数日、ラルシェン地方では猛烈な吹雪が続くと束の間の曇天が広がったりと、安定しない天候続きだ。しかし、土地の者には慣れたことなのか、雪が止んだ短時間に手早く用事を済ませている。それを自分も見習うことにした。
早朝、まだ夜と変わらぬ暗がりが頭上を占める時刻。準備された二台の馬車のうち、ひとつに向かう背に声をかける。呼びかけてから、今さら何を言うのだとあらためた。
報せが届いてから入念に打ち合わせ、手筈を整えて今朝を迎えた。自分が声をかけた彼の馬車は荷馬車を連ねたもので、兵士は護衛以外伴っていない。むしろ、自分が乗る馬車のほうにこそ、迎えに行く人物を保護するための厳重な警護兵で固めてある。
そうだ、と凍て付く白い息の中、唇をかみしめる。
──はじめの一報は七日前。
負傷した状態で戻ってきた黒翼騎士団の一人が事態を報せた。暴動を鎮めるために赴いた馬車が襲撃され、負傷者多数、王太子婚約者を乗せた馬車の行方が知れないと。
急いで領兵を引き連れ、自分が実際に現場へ赴いた。王太子婚約者の補佐役として共にこの地へ派遣された自分、アレクセイ・シュトラッサーが。
バクラ将軍の状況にも愕然としたが、急ぎ負傷者の搬送や周辺の探索にあたり、そして出てきたのが──どう見ても、襲撃された痕跡があらわな踏み荒らされた雪と血の跡、そして空の馬車だった。
「エリアーナ嬢……」
舞い散る雪の冷たさよりも戦慄が走った。
一瞬で様々な思考が頭をよぎる。彼女にもしものことがあったら、この国はどうなる。殿下は……鉱山の暴動は、マルドゥラ国との開戦は、陛下と母の病……灰色の悪夢の治療薬、その手掛かりは──。
ひとつ頭をふって、その日一日は周辺の捜索に費やし、空振りの事実に腹をくくって王都の殿下のもとへ急使を走らせた。以降の探索は配下と現地の者に任せ、いったん伯爵邸へ戻って対策を練り直す必要があった。
が、戻るや否や、自分に突っかかってきた人物がいた。
「エリィ姉さまは……!? エリィ姉さまはどうなったんですか!?」
王家縁の公爵家の人間である自分に真っ向から食ってかかってきたのは、エリアーナ嬢の従妹であるリリア嬢だった。今は王宮侍女の職についており、その身分で同行しているので令嬢としての扱いはできない。もとより、そこまで会話らしいものを交わしたことはなかったが。
今は事態が事態なために、身分や礼儀もすっ飛んでいるのだろう。不安と心配で怒りだすような気色も見える。ひとつ息をついて落ち着くように声をかけ、集まった者たちの顔触れを確かめた。
伯爵邸玄関先に駆けつけてきたのは、この館の主であり領主でもある若い夫妻と、リリア嬢を筆頭とした王宮侍女二名、そして公爵家の幾人かだ。
皆が案じているその人物の安否には応えられなかったが、ひとまず一室に移って事実のみを話した。黒翼騎士団の状態と、馬車が襲撃された事実。そして、一日中捜索したが、エリアーナ嬢は行方不明のままだという事実。
唇をかんで聞いていたリリア嬢が次に言うセリフもわかっていた。それを先んじた。
「現地に疎いあなた一人が探しに行ったところで、進展があるとは思えません。今はおとなしく、報告が上がるのを待っていてください」
「でも……!」
反射的に返してくる感情的な性質は、少し妹のテレーゼを思い出す。新しい命を抱えた身重の状態と王都で広がる病──そちらも気懸りではあったが、今はこの地のことに集中すべきだった。
なだめようとした自分に向かって、くやしそうな感情がぶつけられる。
「今この時! どこかでエリィ姉さまが怪我していたり、たすけを求めて困っているかも知れないのに……!」
その言葉はそのまま、自分が抱えている負い目をも指していた。もしも、あの時──。
ぐっとこらえ、おのれに強いた冷静さゆえに、少し配慮を欠いた言葉を口にしていた。
「襲撃した者は、エリアーナ嬢を害すことが目的なら、その場で事をなしていたはず。しかし、それはありませんでした。エリアーナ嬢の身柄を押さえて殿下や我々に何かの要求をするのが目的なら、連絡が来るでしょう。また、逃げ延びて無事なら、その旨の連絡も来るはず。エリアーナ嬢についていたアランたちも姿がないのです。今は──報せを待つしか、ありません」
寒さと疲労、そして心配で、自分も気が立っていたのかも知れない。青ざめて押し黙ったリリア嬢が他の侍女に気遣われるのを見、大人げない、と様々な感情を内でこらえた。
が、年若い伯爵は真っすぐにそれを口にしてくる。
「アレクセイ……。暴動を鎮めに行く一団を、何者かが阻止したかった。そういう可能性はないか?」
ハッとしたように顔を上げるリリア嬢に苦い思いを抱きながら、冷静に返した。
「皆無ではないでしょう。しかしその場合、カール、あなたや伯爵家に関係があると見るのが妥当です。ですが……黒翼騎士団の話によると、襲撃者は同行していた医師たちではなく、エリアーナ嬢の馬車を狙っていたそうなので、やはり狙いはそちらでしょう」
しかし、となおもおのれを責める口調は自分にもわかった。抱えている負い目は同じものだ。それを直情的なカールは口にする。
「……俺が、行っていれば」
エリアーナ嬢ではなく、自分が。
カールにはラルシェンの地を治める伯爵として、各地の状況を把握し、他領との交渉等、指示を出すこの地の最高責任者としての役目がある。一か所の暴動のために、それを放り出すわけにはいかない。
あの時──。顔を上げて芯に萌した力強さで国の英雄に返した彼女に、おそらく皆が見惚れていた。この女性が将来、この国の王妃になるのだと。自分たちが仕える存在だと。
その彼女に託した判断が間違っていたとは思わない。だがどうしても……あの時、彼女ではなく自分が向かっていれば──そう考えてしまう。そして、リリア嬢の泣き出しそうな責める空気も感じて罪悪感は増した。
しかし、そこに新たな声が上がる。小さくか細く、揺るがない静けさで。
「エリアーナさまのことは、今はとにかく待つしかないと思います。私たちは、私たちのできることをしましょう。……ウルマ鉱山に使者を送るべきではないでしょうか」
そう口にしたのは、現ラルシェン伯爵夫人だった。この地の領民を守る意志、託した存在が行方知れずでも、今を見据える強さ。
女性は強い。──気丈にふるまった母のように。国の英雄に敢然と対峙したエリアーナ嬢のように。
それに自分も気を取り直した。
「手筈を整え直す必要があります。襲撃された、もう一つの馬車も無傷ではありません。医療班を新たに編成して、薬と食料等、物資の手配、各地の感染の広がりを……」
口にしたそばから、近くの窓に叩きつける吹雪の音があった。皆の視線もそちらに集まる。自分は雪を払って暖かい邸内に入ったが、先よりも天候が悪化しはじめているのが、だれの目にも明らかだった。
当初の予定では、第一陣のエリアーナ嬢に暴動を鎮めてもらい、現場の状況の確認等、間に合わせでは足りない第二陣の補給部隊としてリリア嬢たちが続く予定だった。
だが、この天候では……。
気懸りをいくつも表の吹雪の中に残したまま、はやる気持ちだけを置き去りに、灰色の悪夢の病人とともに屋敷内に閉じ込められた気分だった。
それでも気持ちを奮い立たせ、今取れる手配に奔走し、病人の容体に逐一神経を尖らせ──そしてまた、自分たちも感染しないよう、さらなる神経を使う日が続いた。
──事態が動いたのは、襲撃の一報が入ってから四日目のことである。
王家の影を通じて寄越されたアランからの報せ。驚愕しなかったといったら嘘になる。正直……ここまで連絡がないということは、最悪の事態を覚悟していた。一日が経つごとに、押しつぶされる濃厚な絶望色で。
そんな中、もたらされた報せ。息を呑んだ次には、奥歯をかみしめていた。──エリアーナ嬢の生存。皆無事で怪我もない。マルドゥラ王子による救出と合流。黒幕の狙い。王家の影、ジャンの裏切り。ヒューリアの壺。灰色の悪夢──その治療薬の作成に取り掛かる旨。
「……っ」
治療薬。
とっさに、詳細を記した報告書がゆがむほど力が入った。ほんとうに、それができるのか。いや──伝説の書物、それに例えられる知識を有した人物が見付かった。見付けられた。託されたのだ。他の誰でもない、エリアーナ嬢に。
らしくなく、胸に熱い感情がこみ上げるのを感じた。他の誰でも──おそらく、自分などでは不可能だったろう。あの時、殿下が託した手掛かり。エリアーナ嬢以外の、誰が……!
彼女は見事、この短期間でそれを手にしてみせた。殿下が託したものを、この上ない、最高の成果で示してみせた。やってくれた、と言葉にしない微笑が浮かぶのを感じた。側仕えの者が息を呑むのも。
興奮した思考を、いつもの自分が冷静に、と強いる。まだ、結果には至っていない。そして、灰色の悪夢の治療薬、それを得た彼女を何がなんでも失うわけにはいかない。この数日間の悪夢のような時間はもう、まっぴらごめんだ。
エリアーナ・ベルンシュタイン嬢の絶対的な確保が最優先。殿下のためにも──この国の未来のためにも。
すぐさま駆け付け保護したい性急さで、護衛団の手配に急いだ。今度は情報の洩れなど決して許さない鉄壁さで。サウズリンド王太子、側近の名にかけて。
周囲の者がふるえ上がるぐらいの凄味をまとっていたことには、まったく気が付かなかった。
そうして得た報告と密談を重ね、今朝を迎えた。
ラルシェン伯爵邸からハーシェの町まで、雪深さを考慮して半日ほど。刻々と届く情報と現状を考慮して、これしかないと対策を練った。提案した時点で、自分の覚悟は決まっている。それを飲んで受け入れた、彼の意志も。だから、今さら何かを口にする必要はないのだ。
日が昇る前の暗がり。
松明にさらされた彼の眸は静かだ。覚悟と気持ちをあらためた前で、なぜか彼のほうが口を開いた。自分が呼び止めた思いを、彼が口にした。
「アレクセイ。気を付けて行け」
この地に着いた当初、むきだしの敵意と憎しみをぶつけてきた彼が。驚愕の思いが面に出たのだろう。癇の強そうな顔立ちが、ムッとしたように憎まれ口に変わった。
「おまえにはまだ、言い足りないこともあるんだ。あれで済んだと思うなよ。おまえは俺の恨み言を聞く義務がある。だから――生きて、必ず無事に戻れ。アレクセイ・シュトラッサー」
フッと、裏のない笑みが久方ぶりに浮かんだ。この地に来てもう一度笑える日が来るとは、出立前には思ってもみなかった。彼に対して、普通に言葉を返せるとは。
「あなたも気を付けて、カール。あなたの領主経営には、まだまだ改良すべき点がありますよ」
戻ったらしごきます、と告げてカールの顔がさらに嫌そうになる。互いにこれから危険の中に向かう身であるのに、ふしぎと気分は晴れやかだった。
互いの無事を祈って背を向け、用意された馬車の扉を開ける。乗り込みかけて一瞬の躊躇がよぎったが、見られていることを意識して平素を装う。
一時的に雪の止んだ暗闇の残る早朝、出立の合図が伯爵邸前に響いた。
11/30 改稿済み
(手直ししないままupしてしまいました…。はじめにお読みいただいた方、申し訳ありませんでした)