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冬下虫の見る夢─19




 コポコポと目の前で音を立てる小さな鍋と火をながめながら、わたしエリアーナは、悶々とした思いを抱えていました。先ほどから、わたしが何かをしようとするたびに、


「あんたは、手先をそよ風ほども動かすな! いいから黙って、薬草が煮詰まる色合いとにおいだけを報告しろ!」


 と、ヘスター先生の弟子、『ヒューリアの壺』を継承した若き薬師の方に目ざとく厳しく言いつかり、鬼気迫るその様子にただ従うしかありませんでした。


 なぜでしょう……。

 滋養成分のある薬草なら少し増したほうが効果が強く現れると思いますし、弱った方に栄養成分を補給するのなら、やはり多少増したほうが効果があるのではないかと……。


「あー! なにを足そうとしてんだよ! このうすらとんちき! 試薬一号は、今はとにかく煮詰める時間だって言っただろ! 試薬二号! 居眠りしてんな! 火加減誤ったら、おまえを切り刻んで(かまど)の燃料にしてやるからな!」


 試薬三号、砂時計が落ち切ってる、調合を足せ、試薬四号、火から降ろして冷ませ──等々、ジーンさまは異国の書物で読んだ三面六臂(さんめんろっぴ)のような有様です。


 さらには、火を使う区画と別に、調合のみを行う区画にも目を走らせ、ミルル貝のすり方にも細かく指示を出しています。


 今、この方に逆らってはいけないと、試薬一号であるわたしは冷や汗を覚えながら目の前の鍋とにらめっこを続けました。おそらく……次にわたしが何かをしたら、まず間違いなく、両手足を縛られ、口もふさがれて自由にできるのは視界だけになるでしょう。


 この鬼気迫った状況で、さすがのわたしも何かをしようとは思えなかったのですが。

 隣で大きなあくびとともに目をシパシパさせ、火加減を見る方に、わたしも口元を覆った布越しに言葉をかけました。「大丈夫ですか」と。



 ──昨夜。


 扉の前で止まった足音に、皆の呼吸が凍り付きました。


 今にも剣を鞘走らせる様子のアーヴィンさまと、音を立てないよう腰を浮かせたアランさま。予断を許さない気配の二人に、わたしの前から頑としてどかない意志を見せるメイベル。


 その様子に緊張と焦燥がつのった時。

「──あ」と、気の抜けた声が出ました。


 同時に、扉がごく控えめに訪う音を立てます。それに立ち上がって応えたのが、ジーンさまでした。


 大丈夫、と見知った様子で皆に告げると、止められるより先に取っ手に手をかけます。アーヴィンさまがとっさに踏み出した先で、平素な声が出ました。


「……やっぱりあんたか」


 目をしばたたいたわたしたちの視界に映ったのは、宿のご主人に紹介された、ヘスター先生宅への案内人でした。四十半ばの寡黙そうな男性。ジーンさまとはもちろん顔見知りで、ふだんから無口な二人は気配でそれとわかるようです。


 ホッと大きな息をついたわたしたちの前で、どこから手に入れてきたのか、薬草一式を手渡す男性にジーンさまが新たな頼み事をしていました。


 ミルル貝が欲しいんだ、と。

 簡単に事情を説明し、他の薬草類も依頼するジーンさまにわたしたちは不安を覚えましたが、男性はあっさりうなずくとそのまま踵を返します。


 思わず、わたしはそこに制止の声をかけていました。待ってください、と。


 衝動のままかけよって、自身を暖めていた毛織の肩掛けをはずして差し出します。室内はさほど広くない間取りゆえに、火を落とした深夜でも人いきれでわずかに温かいのですが、この方は外から戻られたばかりです。近付いただけで、雪のにおいと表の冷気を感じました。


 今晩は休まられたら、と口にしたわたしに、フッと表情を見せない面にかすかな笑みが浮かびました。


「必要なものは、必ずご用意します。今はその時のために休まれてください」


 反対に返されてわたしが瞬くと、ジーンさまが慣れた仕草で服の隠しを探って小さな包みを彼に渡します。記憶にある光景に胸が痛むと、ジーンさまより三倍ほど年長に見える男性の口元が、なんとも言えないように曲がりました。……東方見聞書で読んだ、への字という表情のように。


 ジーンさまのあきれた声が続きます。


「あんた、ほんとにこの地方の防寒薬きらいだな。いいから持って行けよ。ボクだって、あんたが途中で雪像にでもなられたら、寝覚めが悪い」


 ……雪像の前に命の心配をすべきでは。


 案内人の男性は大きな嘆息をつくと、受け取ったものに黙礼し、そのまま灯りの落ちた廊下へ踏み出しました。あの、とやはり止めかけたわたしに一度目を向けると、もう一度同じ言葉を紡ぎます。


「明日には戻ります。今は休まれてください。あなたは、すべての要だ。──虫かぶり姫」


 ハッと鋭いもので打たれたように、わたしは息を呑みました。この方は、わたしを知っている。サウズリンドの王太子婚約者であるエリアーナではなく、別の……おそらく、領地の図書館にこもっていた、ただの『虫かぶり』であるわたしを。


 あなたは、とたずねかけたわたしより早く、案内人の方は毛織の肩掛けを自身にまとわせ、足早に回廊の先に消えていきました。ジーンさまの「気を付けて」という言葉と望みを託されて。


 その夜は、それ以上議論を重ねても机上の空論になると、切り上げて就寝につくことになりました。いまだ試案を重ねたかったわたしとジーンさまも皆になだめられ、興奮した思考を抱えて従います。


 今晩は一つ所に固まったほうがいいという判断で、ヘスター先生が休む一室に集まり、わたしとジーンさまが同じ寝台、メイベルが近くに布を敷き詰め、アーヴィンさまとレイ、アランさまが交代で見張りにつく手筈でその晩を終えました。


 正直、思考が冴え渡った状態で休めるのか疑問だったのですが、思いに反して肉体の疲労はかなりなものだったようで、横になると見る間に深い眠りに落ちていました。



 そうして本日。


 わたしたちは朝からジーン隊長の指揮下、改めてお宿の再改革に乗り出しています。「なぜだ……」と、ぼうぜんとしていた宿のご主人にはほんとうに申し訳なかったのですが、今は一刻の猶予も惜しかったのです。


 アズール地方はラルシェンの隣。行き来も頻繁で街道も整備されていますが、コルバ村はさらに山間部。案内人の方がどんなに急いだとて、ミルル貝が運ばれてくるのは明日か明後日。


 しかし、その時に調合の準備をはじめるのでは遅すぎる。なぜなら、処方するジーンさまがミルル貝をはじめて手にするのだから。


 はじめて試す、治療薬の切り札になるかもしれないもの。


 ジーンさまもできるかぎり、ミルル貝のありとあらゆる性質、変化、効能を調べて試し尽くし、その上で試薬の調合に取り掛かりたいでしょう。人の生死に関わるのだから、それは当然のことです。


 しかし、今は時間がない。そしてなにより、調合するための場所と道具、そして人材が必要である。……と、わたしは当初、そのように思っていました。


 宿屋のご主人に試薬を作るための場所の提供と人材の交渉に入った際、ジーンさまが告げた言葉はこうでした。


『必要なのは、材料と人手だ』と。

 え、と瞬いたわたしに、ジーンさまの眸は迷いのない決然としたものでした。


『場所ももちろん欲しい。でも、あとはいかに大量生産できるかどうか。──ボクが作りたい薬は、二種類だ』


 処方箋はもう、頭にある。


 確固たる言葉と面持ちでした。もしかすると、一睡もしていなかったのではないかと思えるような、爛々と深く燃えた眸。付き合いの長い宿屋のご主人のほうが引き気味だったのは、はじめて見る迫力に気圧されたからでしょうか。


 わたしも少し息を呑む思いでした。


 はじめて手にする薬剤の素なら、まずはその成分や効能を確かめることからはじめるはず。しかし、ジーンさまの思考はそこを飛び越えて治療薬に取り掛かっています。


 さらに、二種類の薬……。


 この方の頭の中では、確固たる処方箋の案が確立されていて、薬剤の素を試すのではなく、すでに調合に取り掛かっている。ならば、わたしにできることは、とそこでさらに議論を重ね、方針は決まりました。


 まず今。わたしがすべきことは、治療薬を作るための人材と材料の確保。


 宿屋のご主人に懇切丁寧に事情を話し、宿屋の食堂はその時から治療薬製作現場へ早変わりしました。まず、宿泊客の出入りを全面的に禁止し、食堂の中にあったすべてのものを排除、天井に至るまで徹底的に掃除と酒類による消毒を施し……数刻、宿屋の食堂は何人たりとも立ち入れない空間になりました。


 その間、わたしたちは手分けして周辺の食事処の料理人に協力を依頼し、またその料理道具もかき集めました。薬草を煮詰めるための専用器具は、今この時必須ではありません。代用でも十分その機能を発揮できるもの。


 料理器具を同じように念入りに煮沸を繰り返し、ジーンさまのお眼鏡にかなったものが運び込まれます。冬の早い日差しが山の嶺に差し掛かった頃。そこに急使と同じような荷が届きました。


 ジーンさまへ、──依頼した治療薬の素となるもの。そして他の薬草類、数種。


「まさか……」と口にしたのは、昼夜の警護を承っていたアーヴィンさまです。いくらなんでも早すぎる、と驚愕の様子でしたが、ジーンさまは当然のように受け取り皆に号令を出しました。


「これより、灰色の悪夢、その治療薬の調合に入る。この先、ボクが許可した人間、関係者以外の者はこの宿に立ち入るな!」


 朝から常にない清掃や近隣の料理処を巻き込んだ騒ぎで注目が集まっていた宿屋です。幼い薬師の決然とした迫力に、町の住人皆が呑まれた空気でした。


 ただ一人──。


「……こ、この宿の主人は私で……私はただ、鉱山夫向けの安定した、良心的な、街道沿いの細々とした宿屋を営めれば、ただそれだけで……」


 改造されていく自身の城に、もはやどう抗ったらよいのかもわからず、悲壮な様子のご主人が印象的でした。





 そうして宿屋のご主人の悲哀と商売の補填については話し合わせてもらい、折り合いをつけて今に至ります。


 さすがに疲労がたまっているのでしょう。行儀も気にせず口元を覆う布越しに大あくびを見せたアーヴィンさまは、いい手だ、とつぶやきました。


「ジーンが灰色の悪夢の治療薬を作る、と町の住人の前で公言した。この宿屋は、その本拠地だとな。あんたを狙う集団がいても、襲撃には躊躇するだろ」


 確かに、とわたしも思いました。


 今、この宿屋は朝からの改革に加え、ジーンさまの発言によって町中の注目の的です。食堂は本来の業務を停止し、治療薬作成場へ様変わりしています。昼夜を問わず人と物資が行き交い、作業場を好奇心混じりにのぞく人々がいる。もし、そこにわたしを狙う者が混じっていたとしても、──先のようにジャンが火を付けて葬ろうとしても、必ずだれかの目に触れる。


 灰色の悪夢。だれもが恐れるその病。その治療薬に携わる者を襲撃する行為。──それはきっと、いかなる理由があろうと歴史的な大罪、それに比する行為と見なされる。


 アーヴィンさまとレイ、そしてアランさま、メイベル、皆の注意はわたしとジーンさまにあるのが自身でもわかります。その重みをかみしめながら、同時に動きを制されているのも感じていました。次の段階、そのための手を打たなければならない。しかし、その手掛かり、探索ができない。けれど……。


「調合三! 貝殻のすり方が違う。骨付き肉をブツ切りするのとは違うんだ。ただすればいいってもんじゃない。素材の味をちゃんと引き出せ。すり方によってなめらかさと舌触りが違う」


 まるで、ミルル貝の神様か熟練の料理人のような発言でジーンさまは細かく指示を与えています。わたしはきっと、この方が心血注いで作り上げる薬、その効果をきちんと正しくこの世に知らしめなければならない。ぶっつけ本番ではいけない。そのためには……。


 考えながら次の試薬に取り掛かり、冬の一日は見る間に更けました。そうした張り詰めた緊張感が続いた、あくる日の深夜。一人、また一人と倒れる者が出ます。ジーンさまの地の底の番人のようなしごきと徹底した管理のもと、生き残ったのは二つの鍋と光源。


 ジーンさまが宣言した通りの、二つの薬を煮詰める鍋。


 周囲に屍のような人々が見えるのもまた、地の底のような光景です。おそらく、なにも知らぬ者が今この場に踏み込めば、悪の魔王召喚の図、そのものだったでしょう。


「これか……?」


 地の底を這うような声音でたずねるアーヴィンさま。


「これですよね……これじゃなきゃヤだ。ヤダったらヤダ」と、疲労のあまり駄々っ子のようなアランさま。


「これでなければ、また一からやり直しですか……。ふふ。魔女のしごきよりも過酷なこの試練、いいでしょう。受けて立ってみせようじゃないですか」


 なにやら、危ない方向に目覚めかけたレイ。


 光源のまわりに集まった者たちの様子は光の加減のせいか、目元にたまったクマと疲労の度合が過剰に反映されて、怪しげな集団に見えること間違いなしでした。


 わたしとメイベル、ジーンさま、そして残った宿屋のご主人もまた、似たり寄ったりな状態なのは容易に想像がつきます。わたしが寝不足と疲労でフラフラなように、皆もその状態だろうと。


 しかし。どんなに疲労困憊な状態でも、今わたしたちの注意は目前のそれにそそがれています。決定打を出すのは、やはり指揮官であるジーン隊長でした。


「……思ったより試行錯誤した」とつぶやく表情には、疲労の跡が色濃く、しかしそれにも増して興奮の気色があります。なにより、そこから紡がれる言葉が皆の努力と苦労を報いました。


 みなぎる、確たる強さで。


「でも、ちゃんと考案したものになった。今のボクに、これ以上のものは作れない。──灰色の悪夢、治療薬の第一段階だ」


 ワッと、わたしたちの間から歓声が上がります。やり遂げた達成感と疲労、安堵と希望の思い。人を死に至らしめる恐怖の病。今、生死の境にいる人々と、その家族への一筋の希望。


 第一段階とは? とたずねるレイにジーンさまが説明しかけて、よし、と勇んだ声が出ました。


「一刻も早く、これをウルマ鉱山の連中に届けてやろう」


 深夜にも関わらず、張り切って周囲の寝入った人たちを起こしにかかるのは、宿屋のご主人でした。この辺りは鉱山で成り立つ宿場町であり、町の人にも顔が利く人物ならばウルマ鉱山での騒動は他人事ではなく、気懸りの元でもあったのでしょう。


 でもきっと──。人の好いご主人ゆえに、なにか自分にできることはないのか、心に抱えているものがあったのかも知れません。たぶん……灰色の悪夢で亡くしたお子さんを忘れずにいるからこそ。一人でも、同じ思いをする人が出ないように。


 わたしの依頼に色々渋る様子を見せながら、結局は協力の姿勢を見せてくれた。それは根底にその思いがあったからではないか。そう思えました。


 しかし、そこに待ったをかけた人物がいます。指揮官のジーンさまでした。


「先走るな。ボクは今、これをウルマ鉱山に届ける気はない」


 え、と驚く声で返されます。なんでだ、と目的と意志の相違にご主人の顔色が一瞬で変わります。が、ジーンさまはすぐさまその杞憂に首を振って答えました。


「今はまだ」──と。

 とまどう周囲を置いて、わたしがその想いに答えてうなずきます。


「依頼はしてあります。病人がいるご家族の方々に説明をして、被験体になってもらう了承は得ています」

「なんだって……!?」


 仰天したご主人に、わたしが説明をしました。


 実は、奥さまを通じて女性同士の繋がりで、秘密裏にメイベルに相談をしてくる住人が数人いたのだと。はじめは病の予防法や情報を聞いていたのだけれど、どうも様子がおかしい。顔色も悪く何かを隠しているようで、しかし救いを求めてくるひっしな様子に、メイベルはもしかして、と思ったそうです。


「灰色の悪夢の感染者を、隠してたってのか……」


 わたしも考えていた可能性でした。国から病の症状を抑える処方箋が発布されても、この町にいたジーンさまもまだ手に入れていなかった。それなら、その薬の存在を知らず、病人を家に匿っている人もいるのではないか。


 病人が大量発生したがゆえに、感染者の隔離場となったウルマ鉱山。そこへ送られたら、終わりだと思ってしまった人もいるのでは……。


「ご主人。あなたはこの町の有力者です。感染者を見逃せないのも、町の規律を破った者を見過ごせないのもわかります。一人を見逃せば、それは町の住人、全員の命の危険に繋がる。わたしも、感染者は見逃すべきではないと思っています。──けれど」


 病人が隠される原因になったのは、なぜなのか。王太子婚約者であるわたしが考えるのは、まずそこでしょう。


「一人が感染したら、その家族も疑ってかかられる。確かに、家族の中の発症率は多い。でも、罹らなかった人も確実にいる。ご主人、あなたと奥さまのように。それでも……偏見の目で見られることがあったのではないですか」

「…………」


 十六年前。病に罹った人は様々いました。サウズリンドの民たちはもちろん、鍛えた軍人や貴族──果ては王妃さま。しかし、国の頂点にいる王妃さまが感染した当時、陛下や殿下が忌避されるような事態にはなったか。


 答えは否です。王妃アンリエッタさまは別場所へ隔離され、陛下や殿下は病と無縁の存在として扱われた。……扱いが異なるという考え方もあるでしょう。歴史的に王家の人間は神格化して扱われる。そういった面があるのも理解しています。しかし、あの時苦しんだのは、だれも同じなはず。


 払拭できなかった病への印象が、今も国を支えている民を苦しめる。それは、国が抱えている病のひとつではないのか。


「病に罹っても、治す方法──打ち勝つ道はあるのです。しかしそれは、本人の努力だけではなく、周囲の助力なしにはあり得ない。──忌避する者もいる。けれど、病は克服できる。それは忌まれるものではなく、誇るべき事実です。人が病に罹った事実を隠蔽するのではなく、打ち勝つこともできるのだと、その事実を公に誇るべきです」


 病による風評被害を広めるのではなく。王妃さまだって、病に打ち勝つことができた。


 病を侮るのでも、甘く見るのでもなく。正しく恐れて、感染にも重々気を付け、それでも負けない意志を持つこと。病を克服した人間は確実に存在する。そして今は、症状を抑える薬もできている。


 その事実が広く浸透されていれば、感染者を家族が隠すような事態にはならなかったでしょう。


「これは、情報の徹底がされていなかった、国の責任です。病人を抱えたご家族を責めても、詮無いことです」


 宿の改革に乗り出す際、ご主人にだけはわたしの正体を明かしていました。それを思い出したように、ご主人の顔も迷うものになります。


 王家への疑心は根深く残っている。わたしのような頼りない娘に託してもいいのか。そういった葛藤が浮かんでいるのも見てとれます。


 でも今、わたしに迷いはありませんでした。

 やっと、この閉塞した事態を打開できる、その切れ端をつかんだのです。ここでひるむわけにはいきません。


「相談に来られた方々も、ジーンさまが治療薬を作りだした話を聞いていました。臨床の説明は前以てしてあります。まだ試験段階であり、確実なものかどうかは保証できない。副作用の可能性も。それでも──欲しいと言われました」


 メイベルから話を聞き、相談に来られた方々にわたしも直に逢い、話を聞きました。だれにも言えなかった。救いを求める場所もわからなかった。でも今、少しでも可能性があるのなら、それにすがりたい、と。


「この町にいる感染者の方に、まずジーンさまの薬を処方します。その経過で薬の改良をし、第二段階に入ってもらいます。それを待って、ウルマ鉱山へはわたしが向かいます。暴動は、必ず収めてみせます」


 ジーンさまと薬作りの途中、相談していたことでした。


 ウルマ鉱山へ直接持ち込んで臨床試験を依頼するかどうか。しかし、ジーンさまは町の住人と親しくしているわけでも、名が知れ渡っているわけでもない。見ず知らずの子どもが突然そんなことを言ってきても、鼻先で追い払われるだけだろうと。


 では、わたしが王太子婚約者の名で持ち込むか。……これは、当然のように叩き返されるのが落ちでしょう。王家へ根付いた不信感と、暴動を起こすまでに発展した感情を思えば。


 そして、宿屋のご主人や町の有力者に依頼することはできない。命を左右する案件です。そこまでの責任を押し付けることはできません。ならば。


「確実なものでなければ、暴動を起こした人々は納得しないでしょう。臨床試験を依頼すれば、よけいに反発を招くことも予想できます。実験体にするつもりかと。暴動を収め、あちらの病人を救う一番の近道がこれなのです。もう少し、ご協力していただけませんか」


 だれも見捨てない。

 固い決意で告げたわたしに、ジーンさまが賛同しました。


「臨床試験なしに治療薬とは言えない。薬師として、今の状態の薬をウルマ鉱山の病人に渡すことはできない」


 それが決定打だったようでした。ご主人はあきらめと了承の、ほろ苦い笑みでわたしに返します。


「あんたたちには、散々協力してきたからな。今さら増えたところで、どうってことないな」


 町の住人の中に隠されていた、灰色の悪夢の病人。その方々へ薬を処方し、経過を見るための段階に入ることとなりました。








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よろしくお願いします。

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