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冬下虫の見る夢─17




 夢を見た。


 ()えたにおい。食べ物の腐臭と下水と体臭と、きつい香水。建物に染み付いた汚穢。時おり、自分を殴りにくる大きなものが、さらに饐えたにおいをまき散らした。

 記憶にあるかぎり、自分の世界を占めていたのは臭いだった。


 ある日。

 自分と一緒にいた小さなものがピクリとも動かなくなり、ひどいにおいを放ちはじめた。しかし、それもまた世界に加わったにおいのひとつだった。


 大きなものから痛め付けられる回数がそれから増えた。身体が動かなくなる時間も増えて、たくさんの錆びたにおいと、動かなくなった小さなものと同じにおいが自分の身体からも出るようになった。


 その時悟った。

 自分は大きいものとは比べものにならないくらい小さいけれど、大きいものが小さいものを踏み付ける。力をふるう。それは、自分が足元を這いずる小さな虫にそうしたように。


 これが世界なのだと。

 饐えたにおい。罵倒と嘲笑う声。真夏の太陽とは正反対の、見る者を威嚇するギラギラとした光。そこから逃れた影は底無しを思わせる暗さなのに、同じくらい、腐臭をただよわせた。


 生まれ落ちた時からずっと嗅いでいたにおい。自分はそこから生まれたから、きっとそこに帰っていくのだろう。そう生まれ付いたのだろう。


 覆されたのは、別の大きなものが現れた時。


 それは腐臭を放っていた自分に手を伸ばした。汚泥にまみれ、だれもが見ないフリをしていた命に。皆が関わりたくなかっただろう出来事に手を出した。


 ふしぎな言葉を放った。自分には、よくわからない言葉を。

 世界はうっすら開けていった。


 大きいものと、力を持つ者。それは同じようでいて、異なるものなのだと知った。自分では適わない物力を持つ者も、別の力を持つ者には適わなかった。力にも種類があるのだと知った。だがそれは結局、自分が踏みにじった、地べたを這いずる虫を踏み潰す行為とどう違うのだろう。


 自分を拾った大きなものが、何か言葉を投げた。力をふりかざす者が好きか嫌いか、そんな問いだったように思う。別にどちらでもなかった。大きなものは力をふるう。小さなものはそれに踏み付けられる。


 世の中はそれだけだ。好きか嫌いかを答えても、意味はないだろう。それが世界なのだから。


 そうか、と答えた大きなものが自分を拾った時と同じ笑みを浮かべた。その時……なぜだろう。ふいに自分の心が動いた。今までたいして動くこともなかった、自分の鼓動が。


『…………』


 あの時、何かを口にした。

 それが今に繋がっている。



 その一刹那──。空気を切る音に首が動いたのは訓練された反射的なもので、それが自分を害するものだと認識したわけではなかった。


 おのれの首を掻き切る鋭さで投げられた短刀が、背後の壁に突き刺さる。射貫くような殺気混じりの目が向けられていたことにも、遅まきに気付いた。


「……ふざけんなよ。てめえ、ジャン」


 瞬くごとに現実に立ち返っていくようだった。


 火を熾されもしない雪の山小屋。地べたから這い上る冷気はジッとしていられるのがふしぎなほどの底冷えで、しかし、周囲にいた数人は身動ぎもしない気配だった。


 殺気もあらわに自分を睨み付けていたのは、同じ年頃の男。鍛えられた体躯と、一般の者が目にしたらまず避けて通るであろう、険しい目付きに風貌。

 瞬く自分に殺気がむき出しなのは、隠密行動を生業とする人間には不適格ではないかと、呑気な自分を棚上げにして思う。


「てめえがあの時邪魔さえしなかったら、オレたちの任務はとうに終わってたんだ。それをわかってんだろうな」


 あの時、と示唆されるものに記憶をたどり、ああ、と思い至った。この男が投げる刃物に、覚えている鋭さがなかった理由。簡素だが防寒に適した厚手の衣服。おそらく、その服の下に隠された痛手。

 あの時はそうする理由があったのだが、とりあえず頭を下げておいた。


「すんません」


 しかしそれは、なおさら男の怒りをあおったようだった。剣呑な気配が自分のほうに足を踏み出しかけて、室内からのため息が重なる。必要最低限の言葉しか交わさない者たちだが、さすがに諫める声が上がった。


 ──あの時。


 暴動を鎮めに向かった王太子婚約者の馬車を彼らが襲撃し、標的に刃を向けた。覆面をし、剣をふりかざしたこの男。それが今回のリーダーである王家の影、ヴァトー。自分と似たり寄ったりの身の上でありながら、その身体的特徴のため影に据え置かれた。


 覆面を取ったその下にあるのは、口元を覆う大きな火傷痕。


 影に据え置かれた男と、身体的特徴がないために表へ出された自分。同じ年頃。同程度の実力。王家の影でありながら、立場は明確に分かたれた。ヴァトーが自分個人に執拗に絡むようになったのは、その辺りからだったと思い至る。


 舌打ちする彼に言葉足らずだったらしいと気付いて、それを足した。


「あの時はまだ、お嬢を始末するわけにはいかなかったんッスよ」

「……それで、オレの腕に短剣を突き刺したってのか」


 はあ、とどうしても気の抜けた返答が出た。必要だったんで、と。


 言葉なく、本気の色が宿るどす黒い気配に、やはり口を開かなければよかったと後悔した。ヴァトーからは低い声がもれる。お嬢ね、と底冷えする憎しみで。


「てめえがそう呼ぶお嬢さまを仕留めるのが、今回のオレたちの任務だ。なのに、てめえは確実に仕留めるどころか、火を付けた家の中に放置しやがった。ずいぶん、中途半端な仕事しやがったな。ジャン」


 その口調にこそ、含みがあった。

 手抜きをした──手心を加えたのではないか。もし、自分たちに下された命に反した場合、それは仲間内での制裁も容認される。


 緊迫した空気にもれたのは、やはり変わらぬ相づちだった。


「はあ。でも、マルドゥラの王子を仕留め損なったのは、そっちも一緒ッスよね」


 王家の影を離反する用意のあった自分たちに、下された命はふたつ。


 サウズリンドの王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタインを殺めること。そしてそれを、あわよくば国内に潜伏しているマルドゥラ王子の仕業に見せかけ、彼もまた殺害すること。


 しかし、馬車の襲撃時点でエリアーナを殺める予定は自分にはなかったのだ。あの人から個別に指示されたものがあり、黒翼騎士団というやっかいなものを引き離したかったがために情報を流した。


 離反者は自分を含めて数人。やっかいな護衛を引き離したのに、降ってわいた短刀の雨に狼狽したのは、外から引き入れた数名。


 王家の影であるヴァトーらは元々、別の任務に就いていたはずだった。それが突然、襲撃者として現れた。エリアーナ付きの影の狼狽と動揺は推して知れる。実際、自分が彼に短剣を投げるまで、知らされていない命令かと逡巡していたようなのだ。


「目的のためなら、手段は厭わない。オレらの信条ッスよね」


 互いの立場を理解しながら、考え方と手段の相違。


 ジャンは治療薬の手掛かり、それを可能性諸共消し去るために、あの時点でエリアーナを殺める予定はなく、ヴァトーらと敵対する立場を取った。

 ヴァトーは、エリアーナを殺害すれば手掛かりと可能性、どちらも考える必要はないと考えた。


 目的を果たすために間違ってはいない。たとえ、どんな犠牲を払おうとも。それが自分たちの生きてきた世界、刻み込まれた生業だ。


 そして、次に訪れた好機が、先の件。

 吹雪いてきた山の天候を幸い、自分をそれとなく見張るマルドゥラの王子をヴァトーらに任せ、ジャン自身は当初の目的を完遂させるつもりだった。手掛かりも可能性も何も残さず──、すべてを終わりにするために。


 それで任務は終了なはずだった。


 誤算は互いにある。エリアーナを仕留め切れなかった自分。マルドゥラの王子を仕留め切れなかったヴァトーたち、影の離反者。互いに引け目を負った者。


 ……火種は、三十数年前から仕込まれていた。アマーリエ王太后が王家に翻意を抱いたその時から、徐々に。そして、それを引き継いだ者がいた。仕込まれた火種は、同じように王都の王子の近くにもある──。


 チッと再度舌打ちしたヴァトーが、憎しみを込めて自分に言葉を投げた。わかってんだろうな、とあらためて念を押すように。


「オレたちの任務はサウズリンドの王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタインの始末だ。マルドゥラの王子は……なんだったら、生かしておいたっていい」


 そうすると、王都で拘束しているもう一人の王子への取引材料にもできる。言外の言葉は、暗に自分たちへ命を下した黒幕の意図もにおわせる。


 静かな沈黙と緊迫で満ちる空気。それは底冷えした雪山の冷たさにも似て、しかし、熾火のように見え隠れする感情が一線を画していた。

 自分に告げられた、ヴァトーの最終宣告のような言葉。


「エリアーナ・ベルンシュタインはここで必ず始末する。ジャン。おまえがやれ」


 確実に、と眸と空気が物語っていた。

 標的のだれよりそばにいながら、仕留め切れなかった人物。ヴァトーが自分を疑っているのは、だれの目にも明らかだった。


 彼はおそらく、自分が標的に心を移したのではないか。仕留め切れなかったのは、手心を加えたからではないのか。そしてあわよくば──彼らの主を裏切って、寝返る気なのではないか。


 そんな疑いを立てているのかも知れない。またも気の抜けた反応が出そうになったが、危うくこらえてうなずく。強い視線に数拍据え置かれて、話は現状確認と今後の行動に移っていった。


 実は、エリアーナの周辺は本人がそれと知らずとも警備が厳重だ。王子も王家の影も愚鈍ではない。内部の異変を察知した時点で、裏切者の洗い出しと次の手も打たれている。


 ゆえに、ヴァトーら離反者と当初、敵対した自分は魔女の家にいた時点で警戒が薄れており、だれよりその機会があったのだ。


「…………」


 ぼんやりと、底冷えする冷気にも無頓着に話の動きをながめる。


 町の人間に目撃されるのを避けていったん退いたが、標的は生きて町に戻っている。宿を襲撃するか。しかし、確実に仕留められなければ噂が立つ。目的はエリアーナの評判を貶め、マルドゥラ国の仕業だとだれの目にもわかる痕跡を残すこと。


 自分たちが影から離反したからといって、確実に残っている者はいる。そして離反が確実になった今、新手が補充されているのも確実だ。さらに、ここまで手こずっている以上、マルドゥラの王子もたやすくはない。


 どうする──? やはり、護衛が手薄な今のうちに再襲撃するか、と話が進んで、再度の時がまたすぐそこなのを他人事のように知る。


 ──瞼の裏に焼き付く、赤い色。


 燃え盛る炎の中で、自分は「夢が覚めた」と言った。自分で自分の言葉がふしぎだった。夢とはなんだ。自分はいつから夢を見ていたのか。

 世界の在り方を知った自分が、今さら? それなら、自分が見た夢はなんだ。ヴァトーが疑心を抱いている心変わり──自分の変節か?


 『虫かぶり姫』。

 そう呼ばれる彼女が、ひっしになって追い求めたものを自分は灰にした。おそらく──彼女が一番、許さない行為で。

 なのに、ヴァトーは自分があそこへ戻れると思っている。それは、ヴァトーがエリアーナという人間を知らないからだ。王家の影という立場を裏切り、彼女へ剣を向けた行為より何より。


 彼女が自身の信念に従って追い求めたもの。戦を止める手掛かり。その治療薬に繋がる可能性があった研究書。本の虫である彼女と決別したあの行為を、そんなに軽く見られていたとは。


 浅い笑いがもれそうになったそこに、行動が定まった気配で集まった者たちが動き出す。影の離反者が六名、外から招集されたその筋の者が、宿に張り付いている者や情報係と合わせて十六名。国の守護、黒翼騎士団とやり合って残っているのがこの人数なら、十分だ。


 ヴァトーの言葉にも、その自信と覚悟が見える。次だ、と居合わせた者たちに言い聞かせるように。


「次で、確実に終わりにする。──確実にだ」


 静かな念押しは、他者にもその覚悟と決意を強いる。無言で答える者たちにならって、自分もまた、冷えた気配に心が戻っていくのを感じた。


 冷たい地べた。底冷えする冷気。そこで生きることを強いられたものは、ただ身を固めるだけだ。

 固く、硬く──身を守るように。





 ~・~・~・~・~




 どうしよう。どうしたらいいんだろう。


 灯りの落ちた家の中では、近くに置いた手燭と先から凝視している(かまど)の小さな熾火が唯一の光源だ。冬の厳しい北の地の山間部。冬場の時期は、一般的な平民家庭では竈の火は完全に絶やさない。朝起きて、すぐに火を熾すためだ。


 もちろん、火事など起こさないために熾火のまま火種を保つ方法を小さな頃から教わる。小さな頃、自分にそれを教えてくれたのは……。

 思い出しかけて、奥の部屋から響く声にビクリと身体がふるえた。


『──マーサ』


 そうやさしく呼んでくれた声の主は、今はもうほとんどしゃべる気力がない。ひっしになって世話をする自分に、かろうじて申し訳なさそうな目を向けてくるだけだ。


 もうずっと、手と身体が小刻みにふるえているのは、けして寒さゆえではない。昔──小さな頃に味わった思いが今また、身近に迫っているのを感じているからだ。


 あかぎれが刻まれた両手を何度もにぎり込んで、あの時もそうだった、と記憶が昔に戻る。


 自分は幼い、十歳の子どもだった。町で流行りだした病に突然、両親と兄が倒れた。何が起こっているのかわからなかった。昨日まで親しくしていた隣人たちが手のひらを返したように、自分たち一家から遠ざかった。たすけを求めた親戚の人たちははっきりと、『あれは自分たちと無関係だ』と言った。血縁者ではない、と。


 とにかくひっしに両親と兄の面倒を見ていたが、十歳の子どもに当然のように限界はあっという間だった。そして、近所の人や町の人からも見捨てられつつあった自分にも噂が入ってきた。


 これは、『灰色の悪夢』という、新しい病なのだと。

 病は人から人へ移る。治療薬はない。死を待つばかりの、恐ろしい病なのだと。


 絶望と限界の中でぼうぜんとしていた自分を救ってくれたのが、父親の鉱山夫仲間の家族だった。気のいい一家は病に難しい顔をしながらも、手を差し伸べてくれた。


 ……結局、両親も兄もたすからなかったけれど、一人ぼっちになった自分を引き取ってその後も面倒を見てくれたのが、今一緒になった、やさしい彼の両親だ。家族は失ったけれど、自分はおそらく、運がよいほうだった。あの時、たすけを求めてもだれにも見向きもされず、ろくな対処もされずに亡くなった人は多い。


 自分は少なくとも、最後まで手を尽くして家族を看取ることができた。国の方針で埋葬ではなく火葬という悲しい方法で見送ることにはなったけれど、両親や兄が最後まで託した思いは叶えていると思う。


 ──マーサ。おまえだけは、どうか無事で、と。


 両親や兄の思いが、今身に染みてわかる。あの人と一緒になって、授かった幼い子ども二人は、あの人の実家に預けた。

 少なくとも、ここよりは安全だから、と。


 再度、咳き込む声が奥の部屋から響いて、ぎゅうっと心臓をつかまれるように両手をにぎり込んだ。……咳が出るうちは、まだ気力がある。水を飲むことも、流動食を口にすることも、意志を伝えることもできる。怖いのは……今出てる斑点が広がって、咳もしなくなって。


 ──ただ、眠るだけの意識のない状態になること。

 そうしたら、打てる手はもう何もない。


「……っ」


 どうして、と声にならない声がもれる。

 十歳の時に自分はもう、これ以上ないというほどの苦しみと悲しみ、二度と味わいたくない別れに襲われた。あんな目に遭った自分は、もうこんな思いをすることはないと思ったのに。

 悪夢は、また再び襲ってきた。


「……どうしたらいいの……っ」


 あの人の体調がおかしいようだと、数日前に気付いた。今年は風邪が流行るようだ──そんな町の噂も聞いていた。けれど、それがまさか、十六年前の死の病だなんて……!


 とっさに、自分は彼の病を隠した。ハーシェの町で病人が出た一家は、健康な者もまとめてウルマ鉱山麓へ移送された。有無を言わせず。

 ──たとえそこが、死に満ちた場所であろうと。


 十六年前のあの時も、自分の家は対処が遅れただけで、病が浸透した後は、すぐさま一家まとめて隔離地へ送られるようになった。選別薬ができるまで、病人と一緒くたにされた。

 だから……。


 自分の子どもたちは、その日のうちに彼の実家へ預けた。彼の父親は数日前からウルマ鉱山での不穏な騒動に関わっていて、連絡が取れなかった。


 自分にできるのは、彼の病を隠すことだけだった。近所の住人も、病の発生を受けてとたんに外出を控えた。彼の病は、きっと気付かれていない。


 あの時──、十六年前のあの時。


 自分たちの家族は見知った町の人に見捨てられた。忌まわしい者として疎んじられた。一人たすかった自分にもその後、『病人の娘だ。病が移るぞ』と、心ない言葉がぶつけられた。


 自分の子どもたちに、そんな思いはさせられない。内密に医者を呼ぼうにも、その医者もすべてウルマ鉱山麓へかりだされていて、だれにも頼れない。


 絶望に暮れる思いで涙がこぼれそうになった時、ふと、井戸端で聞いた噂話を思い出した。


 ベルントの店に、めずらしい歌い手が来ている。それは、王都の歌劇場にもいそうな見事な歌い手なのだと。そして、その歌い手一行は病に罹った子どもをたすけた。


 もしかしたら、灰色の悪夢の対処法を知っているのかも知れない──。






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