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冬下虫の見る夢─16

お詫び。m(_ _)m

前話の途中を加筆修正しています。流れは変えていません。




 移った部屋は、わたしとメイベルに割り当てられていた元の部屋でした。


 ヘスター先生はこれ以上無理をさせられないという判断でレイ一人を万が一の時に備えて残し、別室へ移った次第です。


 両隣はアーヴィンさまたちの部屋とアランさまの部屋で挟まれています。中級宿屋のそれで壁は薄く、異変があればすぐに察知できるために配置された部屋割りでした。


 時刻は深夜をまわっていたのですが、だれもが眠りにつくことなく、いやに冴えた思考を共有する思いで話し合いが続いています。


 わたしはそこで、小さな書き物机に向かってひたすら羽ペンを動かしていました。目の前には隣室から運び込まれた椅子に座って紙片を手に、次から次に試薬の調合をつぶやくジーンさまの姿があります。


 まず、ラルシェン伯爵邸に連絡を取ってそちらにいる医師や薬師を呼び寄せようとしたわたしですが、ジーンさまにあっさりと否定されました。

 この土地にいる医者や薬師の知識なら、もう目新しいものはない、と見知った者の冷徹な判断で。


 わたしも少し迷いました。当初、治療薬の手掛かりを見付けたら早急に王宮のナイジェル薬室長のもとへ届けるか報せを飛ばす、もしくは、そちらから人手を手配してもらう考えでした。


 研究資料と知識が王都に偏っているのは事実です。伯爵邸に連絡を取っても意味はないのか考えながらアランさまに手筈を依頼し、反対に思いがけないものが手渡されました。


「ナイジェルさまから、『肌身離してはいかん。手離したら……わかっておるじゃろうな。ヒッヒッヒ』って脅され……念押しされたんですよー」


 と渡されたのは、少し前にも見た処方箋でした。灰色の悪夢の症状を抑える薬。そして風邪の症状と見分ける薬。


「見せて……!」


 飛び付いたジーンさまは、たった二枚の紙片に食い入るような目を走らせていました。そして伯爵邸にもいた医師と同じように薬草の組み合わせをつぶやきだします。


 そうか、とわたしも悔いる思いがこみ上げました。殿下の名で症状を抑える処方箋が発布されましたが、それは主要な町に限られており、ハーシェのような街道沿いの小さな町にはまだ行き届いていない。


 では、もしも……と別の思考にふけったわたしに、考えがまとまらない苛立った様子で、「書記してよ。人食いの姫さま」と、新たな不名誉な名が冠せられました。



 そして別室に移って今に至ります。

 ジーンさまが頭の中で試していく調合を速記もかくやの勢いで書き留めながら、ヒューリアの壺の知識にわたしも感嘆する思いでした。


 わたしは薬師として専門的に学んだわけではありませんが、多少なりとも王宮薬学室で研究員の方々と触れ合い、その助手を務めたこともあります。だからこそ、この方の持つ知識の豊富さ、独創性を思い知らされて感心することしきりでした。


 これなら……と、ジーンさまに押し付けないように抑えた希望がどうしても顔をのぞかせます。


 抑え込みながらペンを動かす近くでは、寝台に腰かけたアランさまと壁にもたれたアーヴィンさま、わたしの横で紙片を素早く取り換えるメイベルが小声で会話を交わしていました。


 深夜、人々が寝入った時間帯に薬草を手に入れ調合作業に入るのはさすがにはばかられ、まずは試薬の案を考え続けるジーンさまにわたしは付き合っています。そして、そんなわたしたちを置いてメイベルたちが先に休めるはずもなく──。


 交わされる声は時間帯を考慮して抑えたものです。ジーンさまが、「灰色の悪夢の情報が欲しい。現在の状況や昔のこと、他国のことでも──あんたたちが知っていることは、なんでも」と要請し、会話がはじまりました。


 外見は幼く見える小柄な少女は、調合の思案をしながら横の会話にも耳を傾けているようです。感心しながらとにかく羽ペンを動かすわたしの横で、ふいにメイベルが口をはさみました。


 アランさまが昔いた港町で病に罹った者とそうでない者の比率を話していた時です。


「──そういえば」と、思い当たった口調にジーンさまのつぶやきが止まりメイベルはあせったようですが、今はどんな情報でも、という言葉を思い返したようです。

 詫びるような目を一度わたしに向けて、気付いたことを口にしました。


「あの……王都からこの地方へ来るまで、奥様──ロザリアさまとエリアーナさまは、ほぼ一緒でした。道中の馬車移動も、お食事も、逢われた方も。別れたのはお休みになられる時ぐらいで……。でも、その」


 言いにくいことをアーヴィンさまがあっさり口にします。


「そういや、公爵夫人は病に罹ったのに、虫かぶり姫はピンピンしてるな」

「でもそれは、侍女や護衛たちだって一緒じゃない?」


 そばに仕える者たちでも、病に罹った者とそうでない者がいる。ボクだってそうだし、とアランさまが返し、年齢的なものかなあ、と推理を働かせます。


 たしかに、ロザリアさまとわたしは食べるものも見るもの、道中関わった人々、過ごした時間もほぼ一緒でした。メイベルやリリアたち侍女とは食事が異なる時があったため、その是非ではありません。けれどロザリアさまは病に罹って、わたしは罹っていない。潜伏──という恐怖の可能性はありますが、現状問題ない。


 ……これには何か、差があるのでしょうか。


 考え込むジーンさまと思案にふけると、アーヴィンさまが別の推測を口にします。あっさり言葉にする軽さとは裏腹な、深刻なものを。


「裏切者が何かしてたって、可能性はないのか?」


 え? と目を上げたわたしに、黒い眸は静かな辛辣さを秘めます。言葉とともにわたしを現実に向き合わせる厳しさを込めて。


「あんたのそばにいた人間が、故意に灰色の悪夢に感染させたって可能性もあるんじゃないのか?」

「まさか……!」


 反射的に返したのはメイベルです。侍女としての職を侮辱された様子であり得ない、とアーヴィンさまに反していましたが、わたしも思うところがありました。


「えーでも……」と、アランさまもその可能性に気付いたように口ごもっています。逃げてはいけない、とわたしもあらためて事実を見据えました。けれど。


「…………」


 名を口にしようとすると、すぐに目の前に燃え盛る光景と短剣が迫って思考が止まります。事実を理解はしていても、まだ受け止めきれてはいないのだと、自分の心を知りました。

 一度目を閉じて呼吸を正し、抱いていた疑問点にのみ集中して口を開きました。


「ジャンが、敵側についていたのは間違いありません。アーヴィンさまの言う通り、その上で想定できること、仮定できることがあります。まず──王都の陛下が、病に感染したこと」


 え、と返すメイベルにわたしは思っていたことを静かに口にしました。ラルシェン伯爵邸に情報がもたらされた時から、気になっていたことはあるのだと。


「……灰色の悪夢は北の地から広まるのが定説ですが、今回、多少の日数差はあれど病はラルシェンと王都、両方から同時期に発生しました。それは、なぜなのか。──答えは殿下の手紙にありました。敵側は、病の発生をあらかじめつかんでいた節があると」


 ハッとメイベルがその事実に気付いて、蒼白な顔色でおそろしい事実を口にしました。サウズリンドの民にとっては、大罪であるその事実を。


「では……陛下は、サウズリンドの民に、感染した者を近付けられて倒れられた、と……?」


 皆の視線に息苦しさを覚えながら、わたしはもうひとつ、と想定を告げます。


「ジャンがもし、ロザリアさまを感染させたのなら、彼は……敵側は、灰色の悪夢その感染元を持っている可能性も考えられる」


 陛下やロザリアさまが感染したのが、病人か感染元を近付けられた、と考えるのなら。


 マルドゥラ国の使節団が拘束され開戦の流れになったのは、陛下が病に感染し、王都から病が発生し、それがマルドゥラの仕業とされたから。


 マルドゥラを敵視してはばからない軍部の強攻派。そしておのれの利益から、マルドゥラとサウズリンドの友好を阻止したい者。殿下の手紙にもあった、数年前からの海上貿易の動き。明記はされていなかった黒幕。


 浮かぶ人々から王都に思いをはせそうになって、わたしはひとつ首をふりました。今は病のことだと。


「けれど、彼がロザリアさまを感染させたかは疑問が残ります。なぜなら、わたしが感染していないからです」


 困惑するメイベルに、わたしは静かに事実を見据えて告げました。


「わたしを消すことは、敵側の目的のひとつのはず。でも、それはなかった。ここでも考えられることはふたつ。──ひとつ。感染させようとしても、わたし自身がロザリアさまと異なった抵抗力を持っていた。もうひとつ」


 目を上げて、静かにわたしたちの会話を聞いている栗色の眸を見つめました。


「相手も、治療薬の手掛かりだけはつかんでいなかった」


 そうか、とアランさまが合点がいったように指を鳴らしました。


「敵側は、病を発生したままにしたい。だって、マルドゥラを叩いてサウズリンドの軍力を知らしめる、またとない機会だもの。加えて国交も阻止できる。けれどそのためには、治療薬は不要である──」


 灰色の悪夢の対処法を求めて、長年の敵対国であったサウズリンドを訪れたマルドゥラ。そのマルドゥラを軍力で屈服させるためには、治療薬が邪魔になる。そして、それを手に入れようとする者も。


 うん……? とアランさまは自分で口にしながら疑問点に気付いたようでした。


「治療薬の手掛かりも手に入れたほうが、敵側には都合がいいんじゃないですか? それで陛下をたすければ名実ともに国の救世主だし、マルドゥラに対しても大きな武器を手に入れることになりますよね?」


 それは、とためらったわたしに代わって、ふんと鼻を鳴らした人物がいました。マルドゥラの王子、アーヴィンさまです。


「うちをつぶしたいサウズリンドの一派が治療薬の手掛かりを手に入れて国王をたすけて──それを、うちにも分けると思うか? 先にマルドゥラを支援した人道的な看板を保持したいなら、そりゃ交渉の余地はあるだろうが。敵は、国交を断絶させたままにしたいんだぜ?」


 もし──灰色の悪夢の治療薬、もしくはその手掛かりが見付かったのだと国内外に知れ渡れば。


 だれもが、それを手に入れたがるでしょう。そして、サウズリンドは先にマルドゥラの災害援助をした実績がある。今度もたすけざるを得ないのではないか。──国交を断絶させたい敵側は、否、と言うでしょう。


 建前は作れる。陛下を感染させ、国内に病を広げた歴史的な敵国。たすける義理も道理もない。そう突っぱねられる。──しかし。


 歴史的な敵国を先はたすけたのに、今度は見捨てるのか。治療薬という、絶対的優位を所持した上で、病が蔓延した国と結果が見えている戦をするのか。


 そしてそれを周辺諸国は、国民は、どう見るのか。

 静かな沈黙の後、そっか……と、アランさまの納得した重たいため息が出ました。


「治療薬の手掛かりをつかんだって公言するより、人知れず消し去ったほうが敵側には利点が多いんだね。で、それを手に入れる可能性があった時点で、エリアーナさまに手出しはできなかった」


 フッと、そこでアーヴィンさまが小さな笑いをもらします。わたしに向けた辛辣さと苦笑を込めたもので、「甘いな、あんた」と。

 意味がわからないように首をかしげたメイベルが、でも、と疑問点を口にします。


「ジャンが感染元を持っていたとして、感染していないのは彼も同じです。彼は──敵側は、すでに治療薬か予防薬を持っていた可能性は考えられませんか?」


 だから、感染しなかったのではないか。

 わたしが答えるより先に、いや、とアランさまの否定の声が出ました。


「もしそうなら、相手はとっくにエリアーナさまに手を下してたでしょ。手掛かりを見付けるために動き回らせる必要なんてない。……まあ、だから敵側が感染元を持っている可能性は考えにくい。よって、ロザリアさまは自然感染。ジャンはシロ、ってことだね」


 ジャンが感染元と治療薬、両方を持っていたのなら。わたしとロザリアさま、両方を感染させてしまえばいい。わたしに効かなければ直接手を下せばいい。


 しかし、それはせずに治療薬の手掛かり探しに奔走させた。それは彼が、感染元を持っていなかったから。治療薬は持っていなかったから。


 自分を消そうと刃を向けてきた相手の無実を証明するなど、愚かなことでしょう。でも今は、治療薬に近付くためのどんな情報も見落とせない。


 静かな気配の中で、わたしはまだ解けない疑問を抱いていました。


 灰色の悪夢はだれでもおそろしい病のはず。けれど、その発生源を知っていれば感染は防げるのか。手掛かりを燃やしたジャンの真意は、と考え続けるわたしに、アーヴィンさまの切り替えるような嘆息が落ちました。まったく、と。



「あんたもとんだ獅子身中の虫を飼ってたもんだな。ま、うちも人のことは言えんが。にしても……符号が合いすぎるな。やはり、病の元は鉱山と鉱石に関わりがあると見るのが妥当か」


 いやでも、海の向こうでは病は広がってない、潮に関係があるのか? と思いつく可能性を上げるアーヴィンさまに、わたしは思わずポカンと彼を見上げました。今、なんと……? と。


「は? だから、病の元は鉱山と鉱石を調べ直したほうがいい、って話だろ」

「いえ……」


 それじゃない、と声にならず、わたしは思い当たったものからかけめぐる思考に、急激に酔っ払ったような思いでした。「コルバ村……ミルル貝……」とつぶやくわたしに、皆が不可解な案じる目を向けてきます。


 わたしはただ、気付いたそれから思考が離れず、浮かされた気分で口にしました。


「宗教と花──獅子身中の虫です。ショーン先生が著書の、『信仰と絵画』という、宗教画から民の生活を見る哲学本を書かれました。その中に、獅子身中の虫の話が出てくるのです」


 昔に読んだその描写を思い出しながら、視線はジーンさまに向かっていました。彼女の中にあるヒューリアの壺をめくるように。


「獅子身中の虫は内部で害を為す者を比喩する言葉ですが、もとは東の国の宗教が由来です。どんなに強い獅子でも、体内に巣食う害虫に蝕まれ、倒れることがある。獅子はそのため、身内に巣食う虫を退治する方法を知っています。それが、百花の王の下で身体を休めることです。そこからしたたる夜露が、身中の虫を退治するのだと。ゆえに、東の国では獅子と百花の王がともに描かれることが多い──」


 ショーン・マウルケルドという宗教学の著書を多く残した方の本を思い起こし、ずっと抱いていた疑問が解けて正答に結び付いていく思いでした。


「隣のアズール地方、コルバ村の住人は病の感染率がとても低かった。病人を……隔離して葬ったのだという話もささやかれましたが、住人の数は確認されています。生き残った方々から聞いた話は、他の人たちが取った対処となんら変わらなかった。違いは何か」


 公爵夫人ロザリアさまが病に罹り、わたしが罹らなかった違い。昨秋からわたしが試作を繰り返していたもの。コルバ村でのみ取れるもの。


「アズール地方のテッセン川と北方連山から流れ込む、ミル川。二つが交わる支流でのみ取れる、ミルル貝です。この貝は食用としては適さないのですが、細工物として利用される。でも、貧しい村の住人にとっては貴重な食糧であり、売り物にならない貝は子どもたちの遊び道具です」


 それが……、とまだ不明なように困惑がちなメイベルを驚かせるような声が上がりました。「あー!」と、他部屋からまた怒られそうなアランさまの声で。


「インクだ! そうだ、ボクも手伝ったんだ。あの貝殻インク、紙に落とすと薄いのに、手に付くとしばらく赤い色が落ちなかったんだ。そうだよ、公爵夫人が病に罹ってエリアーナさまが罹らなかった。…………え。でも、それで?」


 興奮から一転、アランさまは自分で自分の言葉に疑問を抱いたようでした。性急なその様にわたしも同じように興奮がありましたが、強いて冷静さを自身に言い聞かせました。

 捉われてはいけない。強制してはいけない。視野を柔軟に、──ジーンさまの知識に結び付くように。


「当時、研究者によってコルバ村の他と異なるものはつぶさに調べられました。ミルル貝もそのひとつでしたが、調べられたのは貝の身で貝殻ではありません。わたしは、あの貝殻からインクを作りました。手に付いたそれから経口摂取――もしくは、傷口などから体内に取り込んでいた可能性もある。調べるべきだったのは、貝殻のほうだったのではないでしょうか」


 薬は、体内に宿った病の元を倒す助力をする。獅子は、百花の王の夜露で体内の虫を退治する。連想するのは、赤い色。

 わたしやコルバ村の人々は、同じように赤い色の貝殻から摂取したもので、体内の病を退治していたのではないか。


 栗色の眸が瞬きもせずにわたしを見返していました。さらにわたしは自分が知り得ている知識をありったけ出す思いで言葉を重ねます。


「薬草風呂に浸かって病を治す方法は古来からあると、医学書で読みました。皮膚の疾患に作用するものや腰痛、関節痛に作用するもの。治癒に関するものではありませんが、急使の人物にほどこされているヘンナ、刺青は人の肌を染めるものです。さらには、南大陸で眠る古代の木乃伊(ミイラ)は肌に特殊な油を塗って腐敗を防ぐのだそうです。人の肌は、外から摂取するものに影響されます。それに、神話の中にもあります。顔に大きな痣を持った乙女が女神の花の咲く泉で顔を洗うと、たちどころに痣が消え、それは奇跡の泉だとユールの花の名が広まった。それから」


 続けるわたしにジーンさまが片手を上げて制しました。まじまじとわたしを見る目が答えにたどり着くようで、でもあり得ないと語っています。けれど、結び付いていく様々なものが、彼女の中で形作られていくようでした。

 幼さを残した口元が疑いだらけの様子で、しかし、それしかない答えを導きます。


「……灰色の悪夢は、皮膚病だって言うのか?」


 皆の仰天した目がわたしたちに向かったのがわかりました。息を呑む思いで、わたしはその問いに答えます。可能性はありませんか――と。


 灰色の悪夢は風邪と同じ症状からはじまる。そのため、だれもがまずは風邪の対策と同じことからはじめる。けれど、それが根本から異なるものであるのなら。ナイジェル薬室長が着目したように。


 栗色の眸が凝固したまま、様々な可能性と想定を瞬時にヒューリアの壺の中で組み立てていくのが、だれの目にも見て取れるようでした。


「皮膚病は……いや。病は、外的要因と内的要因とふたつだ。灰色の悪夢は肌が灰色に変色する。それは、体内に入り込んだ病の元に人が負けるからだ。灰色の悪夢は経口摂取が元であるとあんたも警告してた。病は知らず身体につき、体内に入るんだ。人や食べ物、外との接触によって。でも……それが実は皮膚病によるもので……それを退治、または予防するものも皮膚から摂取されていた……?」


 そうだ、と幼さの残った声がなおも紡ぎます。


「ばあちゃんも言ってた。病は生きている。病が生きのびるために進化するように、世の中には、それに対抗するものも必ず生まれるんだって。ケネス草がきっとそうだ。そして……ミルル貝も、それなら? 外側から病を退治する……塗り薬、皮膚摂取治療、いや違う。灰色の悪夢に抵抗できるものが、その貝から取り込まれて、身体の中で作られたんだ。そうだ。それなら――」


 音を立てて手にしていた処方箋を卓の上に広げると、感情をあまり見せない面にも興奮の血色が広がっていくのがわかりました。


「病を見分けて、症状を抑える。……そうだよ。ボクはバカだ。元はもう、ここに記されてる。病に対抗するものがその貝、予防薬……待って。予防に効くというポメロの実から治療薬を作る試みは、もうずっと行われていた。でもそれは成し得なかった。なぜなら、それが予防としては絶対ではなかったからだ」


 では、と研究者のギラギラとした目付きが処方箋から答えを紡ぎだしていきます。


「ケネス草は……ハーシェと周辺の町なら――いやダメだ。材料が圧倒的に足りない。臨床もだ。……知名度が低いからだ。人食いの姫さまが取るに足りない地方の、生活史に書かれた薬草を知ってたのが驚きだよ。ケネス草じゃダメだ。じゃあ、ミルル貝なら? ミルル貝なら、コルバ村の住人が被験者だ。それを摂取しても、人体に害はないとあんたが証明している。そう……そうだよ」


 今度浮かされたような様相に染まるのは、ジーンさまでした。


「薬草学で予防と抵抗は似て非なるものだ。健康体な者が病をはじくのと、抵抗力の弱いものが病をはじくのとは異なるんだ。ポメロの実やケネス草は、だから今、病に罹った者を治す薬の素にはなり得ない……。でも、閉ざされた村でミルル貝に触れていたのは老人や子ども、抵抗力の弱い者だ。弱い者が取り込んでも問題はない。それなら………」


 栗色の眸が確たるものを見付けたように、聡明な輝きで満ちていきます。素人目にも、急速に何かを組み立てていくのがわかりました。立ち上がった小柄な身体が今にも表に飛びだしていきそうな、のめり込む形相でわたしを見つめます。


「作れる。治療薬、作れる。――ミルル貝が、欲しい」


 まさしく、それはとり憑かれた研究者の目でした。その目と勢いが、目の前のわたしを解剖して病の抵抗力を見付けたいような手付きで動き、さすがのわたしもたじろいでうなずきます。


 深夜ではありますが、皆が急いで動き出そうとしたその時。


 アーヴィンさまが鋭い声でわたしたちを制止しました。壁から身を起こした片手が剣の柄にかかっており、わたしたちの呼吸も一瞬で緊張に変わります。

 すぐさまメイベルがわたしを隠すように眼前に立ち、誰しもの意識がそこへ向かいました。


 深夜、寝静まった宿屋の廊下。ヒタヒタと足音を忍ばせ近付いてくる、その気配に。




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