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冬下虫の見る夢─15




 静かな沈黙が室内を占めました。


 『ヒューリアの壺』。医学の神アスクレイアの娘、ヒューリアが肩に担いだ壺には万能薬が秘められている──。それが記された伝説の書物、ヒューリアの壺。


 今はヘスター先生の父、薬草学に関していまだ優る者はいないとされているファーネス博士。その方が残した研究書がヒューリアの壺と呼ばれていました。


 しかし、わたしはこの目でそれが燃やされてしまったのを見たのです。希望の書が灰になっていくところを。


 それが、まだある──?


 紡ぐ言葉もなく、息が喉を上下する音を聞き、ヘスター先生に詰め寄りかけました。しかし、またも小さな鼻息で返されます。

 それはとても冷たい、隔絶する色で。


「アタシは一度、あんたを信じて『ヒューリアの壺』を渡した。でもそれは、あっさりなくしたね。アタシはこれ以上、あんたを信じて大切なものを預けるわけにはいかないよ」


 目の前が言い難いもので塗りつぶされた気がしました。


 あの時、たしかにわたしは、ヘスター先生から預けられた大切なものを灰にしてしまった。信頼も、──希望も。それをもう一度、というのは、あまりにも身勝手がすぎる。


 どうしたら、と息苦しいほどの思いに責め立てられて、衝動的に膝を折りかけました。なりふりなど、構っていられないと。

 しかし、そこをまたもヘスター先生の続く言葉で遮られます。


「と、言いたいところだけどね」という軽い口調で。


 めまぐるしさと切羽詰まった息苦しさのあまり、わたしはフラリとよろけそうになりました。そのわたしに鳴らされた鼻息は、もしかするとヘスター先生なりの、もめ事に巻き込んだ意趣返しだったのかも知れません。

 変わらずそっけない声である方向を示しました。


「残ってるのは、本のようにアタシが自由にできるものじゃないからね。本人の意思を確認しな」


 言葉が示された先、部屋の隅に控えた人物に皆の視線が集まります。ジーンという、──無愛想を体現したような小さな子どもに。

 再び降りた沈黙を破る第一声は、アーヴィンさまのものでした。「はぁ?」とあからさまに気の抜けた声音で。


「ばあさん、冗談が過ぎる。『ヒューリアの壺』ってのは、伝説の書物と同等の価値があんだろ。いくらなんでも、こんなちびっこがそれだってのは笑えない冗談だ。……虫かぶり姫をなぐさめたいのはわかるが」


 苦笑混じりのアーヴィンさまとは別に、アランさまも、うーんと思案する口ぶりです。


「そう言えば、気になってたんですよね。ジーンくんはどう見ても十二、三歳だし、灰色の悪夢の発生は十六年前。娘夫婦が亡くなられたのは、翌年って聞いてたし……養子、なのかなーって」


 いえ、この件には全然関係ないんですけどー、と手をふるアランさまの横で、従者のレイが信心深い顔で神妙につぶやきました。


「……魔女は拾った子どもを太らせてから食べると、童話の中でも……」


 耳ざとく聞きとがめたヘスター先生が、人嫌いの魔女と言われる目を彼らに向けます。


「無駄口叩くあんたらを(かまど)の鍋でコトコト煮て新薬の材料にしてやろうか。それとも、今までだれにも試したことがない、劇薬の実験体にしてやろうか」


 ヒヒヒ、と笑いも聞こえてきそうな様相に男性陣は一様に口を閉ざし、メイベルは迷いなくうなずいていました。まるで、どうぞそうしてくださいませ、と強く同意するように。


 わたしはなんだか、毒気を抜かれた気分で小さく息をつきました。そして、フッと全身に息が吹き込まれたのを感じました。

 はやる気持ちはあるけれど、焦らず、落ち着いて、と。


 そして、栗色の髪を顎先で切り揃えた、吊り目がちな子どもに呼びかけます。真実を問うために、「──ジーンくん」と。

 すると、我慢の限界のように驚きの声が彼から飛びだしました。


「ボクは女だ……!」


 え、と発したのがだれの声だったのか、へ? と間の抜けた声はだれのものか、ヘスター先生をのぞくわたしたち全員に、等しく怒りの眼差しが向けられました。


「ボクがチビで女らしくないのは事実だから黙ってたさ。だけど、それとボクが『ヒューリアの壺』を継承していないことと、なんの関わりがあるのさ。外見と能力が関係あるのか? とんだ頭でっかちのかぼちゃだね。それにボクは、れっきとしたファーネス・アルケミルの、血の繋がった曾孫だ!」


 えぇ……、と驚きのアランさまと、ムムと懐疑的な様子のアーヴィンさま。測るような沈黙を漂わせたレイ。三人の男性に、ジーンさまの眸が覚悟を持って据えられました。


「なんだったら、今ここで脱いで証明してやろうか。それであんたらの気が済むんだったらね」


 まあ、とわたしとメイベルの非難の目が男性陣へ向けられ、三人がそろって同じ動作と表情で首と手をふりました。

 ヘスター先生の笑うような鼻息に場の空気が和みます。わたしはあらためて、ジーンさまに向き合いました。


「失礼しました、ジーンさま。……お年を、うかがってもよろしいでしょうか」


 そっぽを向く彼──いえ、彼女の横顔からは、幼さの残った輪郭と性格がうかがえます。その様子のまま、そっけない態度で答えてくれました。


「十六になったとこ。……別に信じなくてもいいよ」


 いえ、とわたしはその言葉を受け入れ、歩み寄って間近から彼女に対峙しました。この方には一度、はげしく拒絶されている。おまえが来なければ、こんなことにはならなかったのだ、と。

 否定されるのは怖い。けれど、──退けない。


「ジーンさま。あなたは、『ヒューリアの壺』を継承されているのですね?」

「だったら何」


 信じなくていいよ、と同じセリフが紡ぎかけられて、わたしが重ねました。


「あなたをください」と。


 は? と驚きの顔が返され、わたしと対峙したジーンさまは、次いでたじろぐように背後の壁にすがりつきます。


「な、なに。ボクは女だって言っただろ。ボクって言ってるのは、薬草の取引の時になめられないためで、ほんとうにボクは女だって……おい! 舌なめずりしそうな目はやめろよ! あんたこそ人食いのお姫さまか!」


 まあ、心外です。

 ただ、わたしはもう読めない、永遠に失われてしまったと思った伝説の書物、『ヒューリアの壺』が目の前にあると思うと、どうしてもそこにある未知の知識を知りたくて、──読みたくて。


 故ファーネス博士が残した、疫病と治療薬の集大成。未知の可能性が秘められているかもしれない研究書。……一度失われたものが今、目の前に。


「手をワキワキさせるのはやめろってば! ボクをくすぐっても(ページ)はめくれないぞ!」


 少し試してみるだけでもダメでしょうか。

 わたしが半ば真剣に考慮した時、背後から咳払いが聞こえました。「エリアーナさま」、とメイベルの静かに諫める声で。


 ハッとわたしもあらためて、コホンと前のめりの姿勢を正しました。……ジーンさまの、身を守る子ヤギのようなおびえ方が少々心外ですね。わたしはオオカミではありません。


 背後からはアランさまの、

「ウサギのふりしたオオカミ……いや、ウサギも意外に肉食だっけ」というつぶやきに、アーヴィンさまのつぶやきが続きます。


「うらやましいようで、絶対的に何かが違う」と、真理を見た口調で。



 外野はさておき。わたしは再度、『ヒューリアの壺』を継承したと口にされたジーンさまに向き合いました。そしてもう一度、同じ言葉を口にしかけます。


 しかし、それは寸前で拒絶されました。「絶対にイヤだ」という、ジーンさまのおびえとは違う意思のこもった眸で。


「だれが、ボクらをこんな目に遭わせたやつらに協力なんてするか」


 わたしが少しひるんだ隙を逃さず、糾弾の目と声がわたしを貫きます。


「あんた、なに調子こいてんの? 自分がやったことわかってんのかよ。ばあちゃんがあんたを責めなかったからって許されたとでも思ったのか? あんたたちが来たせいで、ばあちゃんはもう少しで死ぬところだったんだぞ。その意味をわかってんのかよ。あんたが来なければこんな目には遭わなかったんだ。ボクたちの家を……父さんと母さんがいた家を、返せよ……!」


 メイベルが反論しかけたのを空気で悟りました。それに手をやってとどめると、その行為がさらにジーンさまを苛立たせたようです。


「偉そうに……! おきれいな貴族さまがこんな山奥まで来たって、なんの役にも立ちゃしないんだ! せいぜい苦しんでる人間を見て憐れみをふりまいて帰れよ。そうしたら、そのおきれいな心は安心するんだろ。偽善者が……!」


 第一印象の、無口を絵に描いたような人柄とは思えない罵詈雑言が飛びだしました。しかし、それはすぐに別の部屋からの罵声で止まります。「うるせえぞ!」と夜の睡眠を妨げる苛立ちで。


 それが少し離れた部屋からであり、ヘスター先生たちにあてがわれた部屋が奥まっているのは、宿屋のご主人が詳細を知らずとも事情を慮ってくれたからに他なりません。


 憤りを小柄な身体におさめるジーンさまを見て、わたしも告げました。今までの流れからわたしの中にもある、ゆずれないものを確かめて。


「ジーンさま。あなた方を危険に巻き込み、そのご自宅を失わせる事態になってしまったこと、幾度お詫びしても足りません。わたしにできる限りの償いをさせていただきたいと思っています」


 型通りの謝辞にジーンさまのきつい目がさらに強くなります。それでもわたしは告げました。でも、と。


「こうなることがわかっていても、わたしはきっと同じことをします。あなた方を危険に巻き込み、その棲家を失わせる結果になろうと──何度でも」


 カッと、ジーンさまの眸に火が宿って飛びだしてくるそこに、わたしは静かに続けました。


「そこに、ヒューリアの壺があるのなら」

 何度でも。


 氷の矢に貫かれたように、栗色の眸が凝固しました。


 この方々を命の危険にさらし、大切なものを失わせる結果になった。……でもきっと、時間を巻き戻されても、わたしは同じ道を選ぶ。


 病を克服するための手掛かり、『ヒューリアの壺』を手に入れるためならば。


 わたしのその意志を見て取ったように、栗色の眸が固まっていました。そしてふいに、直感するものがありました。この方は何かを抱えている。わたしに向けた怒りと憤りの中に、別の秘めたものを。


「ジーンさま。あなたが継承したファーネス博士の研究書、『ヒューリアの壺』。その知恵を、どうかお貸しいただけませんか」


 かすかなさざなみが眸に見られます。しかしそれ以上は動かない凪に、祖母であるヘスター先生の言葉が追いかけました。


「ジーン。私情ではなく、あんたはあんたの、薬師としての判断をするんだよ」


 肉親の情とは違う、師匠が弟子に向ける静かな厳しさを込めたもの。それに大きく揺らいだ眸が、迷いと不安と、あふれだしそうなものを映してそらされます。


 幾多の感情を抱えた幼さの残った面立ちが、ややして、かすかな隙間からもれるような声を発しました。強固な壁に入ったヒビのようにもろいものを。


「ムリなんだ」と。

 一度入ったヒビは、次いでポロポロと抱えていたものを吐露しました。抱えていた苦悩や辛苦を。


「……冬の中頃に、薬草を卸してる医者の先生が、町で流行ってる風邪は灰色の悪夢の可能性があるって言ったんだ。それを聞いてから、ボクも研究を進めてた。ひいじいから受け継いだ『ヒューリアの壺』の知識があれば、きっと治療薬は見付けられるって。でも、ダメだった。町で出た病人に症状を和らげる薬を処方はできても、それは治療薬じゃない。数日もすれば容体は悪化していく。病人を見てどんなに試薬を作っても、これじゃないってわかる。ボクじゃムリなんだ。だって、だって……」


 こぼれた言葉は、わたしの胸も貫くものでした。

 ボクは、灰色の悪夢を知らない──と。


「…………」


 灰色の悪夢は十六年前に発生し、三年ほど猛威をふるって収束していった。ジーンさまは現在十六。その脅威を直に体験してはいない。


 わたしとて、記憶は幼い頃のものに限られていますが、王太子婚約者として王宮に上がるようになってから、その研究を続ける人たちと知り合い、実態や現状を把握することができました。しかし、それは今のわたしの立場があったからこそ。


 巷に広がっている知識が同じものでないのは、この旅の間に思い知らされてきました。


 病が収束しつつあると思われたのは、発生から三年目。ナイジェル薬室長が発見した、灰色の悪夢は風邪と似た症状である。しかし、風邪とは根本から異なる病である。──その法則をもとに選別薬が作られましたが、それが冬場に義務付けられることはなかった。


 病が収束したと思われてから数年は人々の間にも警戒心が根付いていました。ですが、時の流れとともにそれは薄れていき……暗い時の思い出は静かに疎んじられていった。経験した人々の口もつぐませて。


 あの時……自分たちが取った行動が正しかったのかわからない。もしかしたら、自分の判断で家族を、大切な人を死に至らしめたのかも知れない。


 もしかしたら……。


 そんな疑心が、経験した人たちの心に根差し、病についても口を閉ざさせる結果になった。そして以前と変わらぬ状態に戻した。病に関しての判断は個々の村で共有する、閉鎖した風習に。


 わたしはあらためて実感していました。たとえ、ヒューリアの壺の知識があっても、知らない病の薬は作れないのだと。


 そしてわたしは、『ヒューリアの壺』さえ見付かれば、それさえあれば、治療薬は作り出せると思っていた。まるで、それがすべての免罪符でもあるかのように。


 でも、病人が出た町でいち早く気付いていた医師は憂慮を抱いていた。病への危機感を。そして、『ヒューリアの壺』を継承した若き薬師はすでに研究をはじめ、行き詰まっていた。

 ……本来なら、国が為すべきことだったのに。


 彼女が内に抱えていたのは、病に苦しむ人々をたすけたいのに治療薬を作りだせない、自分への葛藤と未熟さでしょう。わたしが『ヒューリアの壺』を求めるほど、彼女はきっと追い詰められていた。


 町の人々から敬遠される人嫌いの魔女、その孫。町の人たちともけっして仲がいいというわけではない。この国を、身命を賭してでも救いたい思い入れがあるわけでもない。それでも、病の治療薬を見付けるために努力をはじめていた。


 それは彼女が、薬師だから。


「ジーンさま」


 小さな身体に秘められた誇りと信念に感動を覚えながら、わたしはにぎりしめられたその手を取りました。最上の敬意を払って。


「わたしにも、手伝わせてください。あなたに足りないものは、わたしが用意します。あなたが見付けようとしている薬。一人では不可能でも、わたしが必ずあなたを補佐します」


 揺らぐ眸の中に不信と迷いと、もう片側に傾きそうな秤を見て、わたしはうなずきました。後押しするように。


「もしもそれで、──たとえ、治療薬が見付からなくても。それはわたしの責任です。あなたのせいじゃない」


 この選択をしたのはわたしなのだから。ヒューリアの壺を求めたのはわたし。それがあれば治療薬ができると思い込んだのもわたし。

 ジーンさまのせいではない。


 大きく揺らいだ眸がいっぱいに感情をたたえて、こぼれそうになる前にそらされました。彼女の意地っ張りな性根で危うくこらえたように。


 そしてやはり悪態をつきます。「あんた、無責任だろ」と、祖母と同じ言葉を。


「たすけを待ってる人たちがいるのに、治療薬は見付かりませんでした、すみません、で済むのかよ」

「いいえ」


 返した言葉に、幼さを残した頬が強張ります。まるで、わたしに押し付けられる期待の言葉に身構えるように。

 薬師の方特有の、指先だけが少しざらついた手をにぎり、わたしは答えました。


「はじめ、わたしは伝説の書物だと割り切っていました。現実にあるものではないと。でも、それは実在した。そして一度……目の前で失ったと思った。けれど、あなたはここにいる」


 指先のあたたかさに力付けられる思いで続けます。


「あなたが生きているのなら、もし今治療薬が見付からなくても──この世のどこかには必ずある。人があきらめない限り、絶対に」


 それが、今は廃れてしまった古い医学書を書き綴った方の思いを汲む答えだと。


 ヒューリアの壺を継承したジーンさま。この方が生きていてくれたことも希望への道しるべだと感謝の思いを込めたわたしに、思いがけない顔が返されました。


 小柄な身体の中に秘めた苦悩や葛藤ではなく、どこか突き抜けたようにぽかんとしたものを。それがなぜか、見る間に火を付けられた感情で満ちあふれだします。


 ふざけんな、と先にあらわにした怒りとは違う、女性らしからぬ言葉遣いと迫力で。


「この世のどこかには必ずある? なんだよ、それ。ふざけんな」


 わたしが重ねた手を反対につかみ返すと、挑むようにわたしの胸に押し返しました。強く、宣言するように。


「ボクはヒューリアの壺を継承した、ヘスター・バッサスの弟子、ジーン・アルマンだ。あきらめたなんて一言も言ってない。治療薬はボクが見付ける。あんたはさっさと、灰色の悪夢の資料を寄越せ!」


 はい、と直立不動になったわたしとは別に、アーヴィンさまの感心したようなつぶやきがもれました。

「これが天然の発破方法か」と。




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