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冬下虫の見る夢─13

(毎度)

大変、遅くなりました……m(_ _)m




 日が落ちた宵闇の中。


 低く咳き込む声が四方から聞こえる。それは軽いものから、ふりしぼるように重たく響くものまで様々。

 苦しげな息遣いと、広い集会場を占める陰鬱な空気。ここに占められた空気は重たく閉ざされている。だれもが分かっている。ここに入れられた者に先はない。


 サウズリンド王国、ラルシェン地方。


 ウルマ鉱山はこの土地の主要な産業だ。麓には鉱山夫と家族たちの住む町があり、鉱石を運ぶ人足や商人たちも行き交う。町の名はモッズスというが、その名で呼ぶ者は少ない。ウルマ鉱山の名がこの辺りでは有名なため、その麓町というだけで土地の者には通じるからだ。


 主要な町にはそれなりに大きな役場がある。そして産業の要があるために、領主と国から遣わされた正式な役人もいる。今、その役人たちは決起した町の住人たちの手によって、一つ所に押し込められていた。



 夜が更けても咳き込む声は絶え間なく、少しでもそれをやわらげようと動く人の姿も、介助しようとする者の手も足りていない。


 目視できるのは、医師という使命をおのれに課した者と、その志に準じるわずかな者。しかし、その姿も日を追うごとに減っていく。


 患者を診ていた医師が灰色の悪夢に罹り、その手伝いをしていた者までもが症状を発する。次は自分の番ではないか──そう思うのも無理はない。

 よって、夜陰に紛れて逃げだす者も多く、まして、それを咎める者などいようはずもない。


 迎えの集会場。

 町の役場は瞬く間にそう呼ばれるようになった。意味は、死する者を死の国へ迎えに来る場、そのままだ。ライザ教が根付いたこの地では、神が与えた試練に抗ってはならない。あるがままを受け容れ、神の思し召しにならうべし──という思想の持ち主もいる。


 ゆえに、迎えられる者は神の意志に従った敬虔な信者だと肯定する考えもある。しかし、たすけられる命があるのなら、救いたいと思うのもまた人の心だ。


 止まない雪に降り込められ、決起した数人の者と話し合いは続く。日一日と病人は増え、健康な者は逃げ出していくのに、まったくもって明るい先行きもなければ、そういった報告ももたらされない。

 重苦しさがつのるばかりの状況に、どうしても非難は代表格である自分に向く。


「……ラッカ。やっぱり、領主さまの使者を追い返したのはまずかったんじゃ……」


 一人がそう言えば、別の者も「立てこもってもう七日以上だ。そろそろ食料も厳しくなるぞ」と暗い情報を添える。雪で道がふさがってるしな、とささやき交わす声には、やはりこんなことをしても無駄だったのでは……と言外の響きが見える。

 それに対してきつい声を上げる者もまたいた。


「今さらだろう。領主の使者なんて口先だけの言葉でもめ事を収めて口を拭おうって腹だ。薬や医者を連れてきたわけでもない。ここを解放させて何もなかったことにしたいだけだ」


 そうだ、と続く声もある。


「ラルシェンがいつも見捨てられてきたのは、みんなわかってるだろ。今度だって事を起こさなきゃ、そのまま見捨てられてたに決まってる。ここは、そういう土地なんだ」


 語気強く口にする者たちは家族が病に侵されて焦燥と怒りがつのっている。それに消極的な意見を述べていた者たちも口をつぐんだ。いつ自分たちがその立場になるかも知れないからだ。


 年が明ける前から、ウルマ山麓の町では風邪を引いた者が多かった。そういう年もある。その時はだれもが楽観視していた。しかし、それが死の病──灰色の悪夢だと判明し、状況は一変した。


 十六年前の光景は、ある程度の年齢にある者ならだれもが記憶にとどめている。病が蔓延し、次々に人が倒れ、見知った近所の住人、商店の亭主、女房、昨日遊んだ子どもが明くる日には姿が見えない。顔ぶれがどんどんと減り、生者の気配が絶え、死の臭いに満ちた町になった。


 ──あんな光景はもう二度とごめんだ。


 暴動はしぜんな成り行きだったかも知れない。周辺から医者や薬師をつのっても先は見えていた。王都から遠く、主要街道からも外れた国の奥地。早急なたすけがなければあの時と同じ──死の土地になる。


 王都には、病に効くポメロの実があると聞く。全部とは言わずとも、それを取り寄せてもらわなければ病に罹った者に希望はない。乱暴な手段なのはわかっていた。しかし、あの時も後手後手の対応が大量の死者を招いた。自分たちには時間がなかったのだ。


 病の恐怖に捉われた一部の者たちを鼓舞して決起したのは、鉱山夫たちの中でも代表格である自分、ラッカ・アルクトと仲間の鉱山夫たちだ。町の役場を占拠、役人たちを拘束という乱暴な手段に出たが、事態は決起したこちらが拍子抜けするくらい、あっさりと制圧できた。


 おそらく……町の役人たちも取るべき手段がわからずにうろたえていたのだろう。乱暴な手段を取るくらい鬼気迫った自分たちに、憐れんだ者もいたかも知れない。

 拳をにぎりしめた前で、息を荒げた者たちは今度は自分に向かって語気を強める。決起した者たちは鉱山夫の気質ゆえか、ふだんから力任せで短気な者が多い。


「ラッカ。あの使者じゃ話にならねえ。こっちから直接王都にだれかを向かわせたほうがいいんじゃねえのか」

「いやでも、王都は今(いくさ)の準備の真っ最中だろ。こんな国の端っこの、たいした価値もない土地にかまってられるとは思えねえ。やっぱり領主の館にだれかを向かわせるべきだ」


 いやしかし、と言い合う者たちの思いは自分にもわかった。


 王都サウーラは国王陛下までもが病に倒れ、それがマルドゥラ国の仕業だともっぱらの評判だ。そして、開戦が秒読みの状態であると。そんな所に一地方の被害状況を訴え出たところで見向きもされないのは、国政に疎い彼らにだって容易に想像がつく。


 だから。

 領主の館には先々代の伯爵さまがいる。今の領主が頼りにならなくても、ラルシェンの地を守るため、先の大戦をともに戦った先々代伯爵さまへの信頼は厚い。領主の館へ赴き、直に訴え出るべきだという声もある。それに、と。


 領主の館には今、王家の関係者──王姉の公爵夫人と王位継承権を持つ者、そして王太子婚約者が来ているはずだ。彼らに訴え出れば、あるいは……そういった考えもあった。


 だが、暴動という乱暴な手段に出てもすでに七日以上。医者も介助の手も足りていなければ、薬も食料も危うい。そして、王家の人間に動きはない。これが現実。


 やはり……と自分たちの胸に失望が広がったのは確かだ。王家の人間に期待するだけ無駄だったのだ、と。

 だから、と心を決めて口を開いた自分に皆の目が向く。


「雪のせいで物資が遅れてる──その可能性も踏まえて今日まで待ってきた。だが、病人は増え続けるばかりなのに、やってきた使者は煮え切らねえ口上ばかりだ。それでよくわかった。領主も王家も、オレたちを救う気なんかこれっぽっちもねえんだってな」


 そうだ、と低く怒気のこもった声がいくつも唱和する。皆の顔を見渡して、決意を伝えた。


「領主側が煮え切らねえのは、オレたちが本気だってことをわかってないからだ。吹雪が止んだら、国の役人を盾に領主と交渉する。いざとなれば──町長と役人たちを病人の中に放り込む」


 一部の消極的な者たちが息を呑んだ。それは、今健康な者たちを故意に感染させるという意味に他ならない。反論したそうな友人の顔を見て、後戻りはしない決意と腹を据えた目で見返した。


「こっちが本気だってことを、王家と国に思い知らせてやる」


 おう、と語気強い声がいくつも賛同して気炎を上げた。それらを見渡して、自分の中の覚悟を改める。


 あの時と同じ思いはさせない。あの時のような光景は二度とごめんだ。だから、いざという時には──。


 にぎりしめた自分の拳の強さに、表の吹雪が呼応するかのように逆巻く唸り声を上げた。





 ~・~・~・~・~



 雪鳴り。

 ごうごうと大きなものが吠え立てて騒ぐ様は、北の地を旅する者を惑わす、魔物にも例えられるのだとか。


 それは、目的の地を目指して歩んでいたはずなのに、いつの間にか耳元で吠え猛る声に方角を見失い、身体をゆさぶる強風と、視界を覆う白、道行きを阻む重たい足元に力を奪われ、いつしか白い魔物の腹の中に収まってしまう。


 目指す道しるべを失い、身体の芯を凍てつかせる寒さに震え、旅人はゆるやかに心をくじけさせるのだとか。


 ……もう、いいだろう。

 もう充分、自分はがんばった。様々な困難に立ち向かい、襲い来る試練を乗り越え、限界ぎりぎりでもなんとかやって来た。自身を幼い頃から知る人、──その人との対峙や結び直した信頼、なのに、自分のために失う事態になってしまった。気が置けない従者、その裏切り。燃えてしまった、希望の書。


 だれより心の支えにしてきた、かけがえのないただ一人の人。……その人の心も、この白い魔物の中では何も見えない。


 なぜ、と考える力も、逆巻く吹雪の前に奪われてしまう。旅人はそうして、くじけた心の中、おそろしくも甘美な幻想に捉われる。


 それはとても美しくて、生命をかけた極限の中でしか出逢えないと噂されている、雪国の幻。この世のものとは思われない美貌と、やさしく甘く、誘いかけるような氷の眸。その先にあるのが凍り付く絶望だとわかっていても、人はその甘美な誘惑に抗えない。


 旅人を惑わす、雪国の伝説──。


「…………」


 小さなつぶやきに、目前の青年が目をしばたたきました。

 射抜いた相手を絡め取る黒の双眸が、瞬きで勢いを弱め、その眸に映るわたしはもう一度、その言葉を口にしました。


「アレクセイさまに連絡を取らないと」


 パチパチと音を立てそうに瞬いた黒い眸が、次いでまじまじとわたしをのぞき込んできます。異国の香りただよう風貌も素の彼を見せたように、我の強さをなくしていました。

 その口元が何かを確かめるように、わたしの名を口にします。


「エリアーナ・ベルンシュタイン」

「はい」


 答えたわたしの眸をもう一度のぞき込んで、触れたままだった手がムニ、と頬をつまむのを感じます。

 それでも黒い眸を見つめ返すわたしに、目前の男性が心底ふしぎそうな声を紡ぎました。


「なぜ、ここで王子以外の男の名を出す……」


 大きなため息を吐き出したのは、ただ今開戦も秒読みと噂されるマルドゥラ国の第五王子、アーヴィン・オランザさまです。


 日に焼けた肌に、皮肉気な性質を写し取ったように斜にかまえた姿勢。精悍な顔立ちは王宮の貴族令息とは一線を画すようでいて、粗野になりすぎない品を保っています。

 夜に溶け込む黒い髪と、感情を乗せると熱くなる黒い双眸。異国の香りただよう青年。


 皮肉気な色を形作る口元が、再度のため息で少しヒヤリとする言葉を紡ぎました。


「王子の名を口にしていれば、今すぐにでも奪ってやったのにな」と。


 かすかに息を呑んだわたしに、ニヤリといつもの彼らしい笑みを刻むと、またもムニムニとわたしの頬をつまみだしました。


「あんた、実は今、すげー混乱してるんだろ。男に口説かれ慣れてない理由は……まあ、それと見当つくが。初心な相手を一から染め変えるのも、それはそれで楽しそうだ。やっぱり、このままさらっていくか」


 あの、と紡いだ声が頬をつままれているために変な言葉になりました。わかっていたようにアーヴィンさまは低く笑います。


 わたしは自分でもふしぎなのですが、実際に耳に届く家屋の家鳴りに雪国の話を思い出し、思考が冷静さを取り戻していくのを感じていました。……あるいは、雪国の話から連想した雪女にアレクセイさまを思い出し、冷たく凍り付く眼差しに我に返ったのかも知れません。

 手を上げてそっとアーヴィンさまの手をはずし、眸をそらさずにたずねました。


「なぜですか?」


 かるく眉を上げた仕草の青年に、あらためてふしぎに思います。


 サウズリンド王国と幾度も多岐に渡って干戈を交えてきた歴史的な敵国、マルドゥラ。彼の母親は、サウズリンドの高位貴族でした。しかし、父親と一族の国を揺るがす(はかりごと)に巻き込まれ、名も家も失い、故郷からも追い出され──その行末を気にかける者もいない終わりだった。


 昨秋、とある件によって彼の母親の功績を明らかにしたのはわたしですが、しかし、それだけで彼がわたしに固執したとは思えません。

 それで、もっとも可能性のありそうな点を挙げてみました。


「わたしの家が、サウズリンドの頭脳と、そう呼ばれているからですか?」


 ベルンシュタイン家の人間が仕えた王の御代は、歴史に名を残す繁栄を迎える。そう言い伝えられてきた隠し名を、彼も既知の事実であるのはわたしも知っています。

 家族や一族の名に驕るつもりはありませんが、他者の目から見た有益性はしぜんと頭に浮かびました。彼は、マルドゥラ国のためにそれを持ち帰りたいのではないかと。


 さらに黒い眸が瞬きます。次いでクッと、小さな笑いがもれました。


「なるほど。たしかにマルドゥラはアルス大陸の中でも貧しい国だ。オレがあんたを口説いてるのは、それが目的だと思われているわけか」


 うなずくことはできずにためらっていると、アーヴィンさまはそうだな、と何かを思うように口にします。


「……あんた今、王子の側近の名を出したな。それはなぜだ?」


 アレクセイ・シュトラッサーさまの名は、サウズリンドの王位継承権を持つ者というだけではなく、殿下の側近としても知られているようです。わたしも少しためらいながら考えを口にしました。アレクセイさまに連絡を取らねば、と思ったのは──。


「人手が──わたしの探索に割かれていると聞きました。今はそれよりも、病人の保護とウルマ鉱山麓の町へ人員を向かわせるべきです。病人が大量発生し、困窮している場所には、なによりも助力の手が必要なはずです」


 ふうんと、アーヴィンさまの目はいつもの面白がる色を帯びます。


「王太子婚約者のあんたを探すために人員が割かれるのは、当然じゃないのか? それに、あんたは今、命を狙われてる。その危険性があるから、身を隠すことにしたんだろ?」


 どこからか、情報が洩れている──。

 それを指摘したのは、セオデン・バクラ将軍でした。その犯人はジャンで間違いなさそうですが、依然としてわたしが狙われる身なのに変わりはありません。アレクセイさまに連絡を取るのは、自らの生存と居場所を教えることでもある。


 小さく唇をかみました。


 一度は、狙われている立場を考慮して身を隠すことを決めました。わたしを案じる人たちがいるのもわかっていましたが、わたしの中にも襲撃の恐怖と、おのれの立場への責任があります。


 アーヴィンさまの言う通り、今ここでわたしが害されるようなことがあれば、──そしてそれがマルドゥラ国の仕業にされたら、開戦を後押しする一因にもなりかねない。そして、わたしを守る使命をメイベルやアランさまが負っているように、わたしも主人として彼らを危険にさらす真似はできない。


 アーヴィンさまの目はまるで、自身の立場を侮るなと叱責するようでもあり、──民のためなら自分の命は省みないなどと、浅薄(せんぱく)な言葉を吐くのかと、わたしの根底を見据えるようでもありました。


 今、この眸から逃げてはいけないと、わたしも真っすぐに突き付けられる問いに向き合います。


「優先すべきものがあります。今、病に罹って苦しみ、たすけを待つ人たちがいる。今、王太子婚約者のわたしは生きて無事で、……暗殺者に狙われても、自分の足で逃げることができる。捜索に手間をかけている場合ではありません」


「あんたが無事だと明らかにしたところで、今あんたに集まってる不信と悪評が挽回できるわけじゃないぜ?」


 ほんとうは病が怖くて、逃げだしたんじゃないか──。耳にした言葉がよみがえります。けれど。


「問題ありません。優先すべきは、たすけを求めている人々のところへ人手を向かわせることです。希望を、失わせないことです」


 救いの手は必ず差し伸べられる。見捨てられることは決してない──そう、人々に希望を持たせる。今、何も持たない自分にできる、唯一のこと。

 さらにアーヴィンさまの目が鋭い光を帯び、口元には揶揄が浮かびます。


「あんたは今のままじゃ、王都で評判になってる聖女さまとかいうのに、王太子妃の座を奪われるぜ。それでもいいのか?」


 この言葉には、反射的に反発が出ていました。感情のままの、怒りにも似たものが。


「わたしの評判と民の命と、なんの関係があるのです。今病に罹り、苦しんでいる人とその家族がいるのに、彼らに王太子妃などという問題が、いったいどれほどの価値があるというのです」


 思いのまま、手に力がこもっていました。


 十六年前、灰色の悪夢というおそろしい病の存在が明らかになり、それが蔓延してサウズリンドは大混乱に陥りました。幼かったわたしは外へ出ることを禁じられ、世の中の情勢を直に見ることはなかった。けれど、幼いなりに肌で感じるものはあったのです。


 昨日まで世話をしてくれていた侍女の顔ぶれが変わる。庭園の手入れをする庭師や下男の姿が消える。邸宅内にただよう空気。そこかしこでささやかれる不安がにじんだ声。……一日の楽しみだった、母が本を読んでくれる時間は、唐突に奪われました。


 あの時、恐怖と不安だらけの毎日で、わたしの胸にあったのは母の本復を願う思いだけです。もし、そんなところに次期王太子妃の評判がどうの、候補がどうのと言われても、聞く耳を持たなかったでしょう。むしろ、反発や反感を抱いたに違いありません。


「ファーミアさまと王太子妃の問題は、わたしが個人的に対峙すべき問題です。今、ここで取り沙汰することではありません」


 たすけを求めて待っている人がいる。今この瞬間にも、死の恐怖におびえて苦しむ人がいる。


 言葉を実際口にすると、肚の底からわいてくる力を感じました。くじけている場合ではない。泣いている場合ではない。先も見えない吹雪の中、閉ざされた場所でたすけを待つ人たちがいる。


 立ち上がろうと足に力を込め、中腰になった瞬間、目の前の青年がクッともらした声から、明るい笑声を上げました。

 虚を突かれてわたしは少し身を引きます。アーヴィンさまは笑いを収めながら、わたしの片手を反対につかみました。


「そういうところ」


 首をかしげるわたしに、笑いを残した眸が真っすぐ見つめてきます。


「あんた、見かけは弱っちくて頼りないのに──その外見通り打たれ弱く萎れたかと思ったら、いつもちゃんと、自分の力で立ち上がる。サウズリンドの頭脳の利用価値は否定しないが、……オレがあんたを気に入ってるのは、そういう不屈の根性」


 ……なんだかちょっと心外です。淑女に対する誉め言葉とも思えません。

 なんとも言えない顔になったわたしに、鋭さを含んだ顔立ちがフッと甘くなりました。


「オレにしとけよ、エリアーナ」


 ドキリと、何度目かわからない鼓動がはねます。にぎられた手はわたしのよく知る人のそれとは違って、剣蛸を何度も重ねて厚くなったもので、そしてそれは、懐かしい人のものとよく似通った力強さでした。


「あんたが今やるべきことはわかった。だが、あんたが対峙するそっちは投げ出したって別にかまわないだろう? そうしたら、あんたが置かれている問題はひとつ解決する」


 瞬くわたしに、アーヴィンさまの黒い眸は真白な雪をやわらかな(しとね)と誘いかける甘さでした。


「あんたがサウズリンドの王太子と婚約を解消し、マルドゥラの王子であるオレと婚約すると言えば、あんたを狙う暗殺者はとりあえず手を引かずにはおれない。マルドゥラ王子の婚約者を狙えば、それはサウズリンド側の落ち度になるからだ。そして、王太子婚約者であるあんたを狙う理由も消える。──そもそも、次期サウズリンド王妃がマルドゥラとの友好を唱えているから狙われるんだからな」


 たしかに……と、わたしもその言葉には一考せざるを得ませんでした。


 今、サウズリンドの王太子婚約者という肩書を外せば、わたしは一介の貴族令嬢です。困窮している場へ救助の手を向けるには肩書の権威が足りないでしょうが、少なくとも、わたしを狙う暗殺者の手はゆるめることができる。


 そしてそれは、わたしが主人として責任を持っているメイベルやアランさまの命を守ることでもあり、──遠回りにはなるけれど、マルドゥラとの友好の道を絶やさないことにも繋がる。

 いつかわたしが唱えた、──夢の形。


 膝を立てた中腰のため、アーヴィンさまを若干見下ろす形でわたしは口にしました。アーヴィンさま、と覚悟を決めた声で。


 皮肉さと不敵さを備えた面が無言で応えてきます。それにわたしも、真正面から問いかけました。


 今この時、わたしが取れる最善の手立て。それに、彼の覚悟も伴っているのかと、今度はわたしが彼の根底を見据える思いで。


 あなたは──と。






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