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冬下虫の見る夢─12




 はじめ、わたしは当たり前のようにその行為を疑っていませんでした。狩りを終えてやって来た彼が火事に気付いて、書物を避難させてくれようとしたのだと。


 それで火の粉が舞いはじめた室内に急いで踏み込みかけて、ハッとした様子のレイに制されます。疑問を覚えるのと同時に視野が変わり、片腕を押さえてうずくまった人影を認めました。


「……アランさま!」


 やはり踏み込みかけたわたしはレイに留められ、意味がわからずにその光景を視界に入れるだけでした。

 なぜ……彼の、本を手にしたのとは反対の手に、短剣がにぎられているのか。そして、それが血にぬれているのか──。


「ジャン……?」


 お嬢、と当たり前のように返されると思っていました。お嬢の大事な本が灰になるところッスよ、といつもの口調で。


 しかし、呼び掛けに答えもせず、反応もせず──ジャンの片手は目前の炎の中にそれを投じました。


 灰色の悪夢。その治療薬に繋がるであろう研究書。ヘスター先生の父親、ファーネス博士が残した書物。──たとえ、人格に問題のある方だったのだとしても。娘のヘスター先生との間に消えない確執があったとしても。


 一人の研究者が心血をそそいで残したに違いない、その集大成。──ヒューリアの壺。


「……っ!」


 声にならない悲鳴を上げたわたしと反対に、近くにいたアランさまがとっさに手を伸ばしかけて、ジャンの刃に危うく退きました。


 ……ジャン、とつぶやくアランさまの表情にもいつもの楽しげなものがかき消えて、怒るような、どこか悔しそうな色があります。


「やっぱり、おまえが裏切り者……」


 言葉が、まるでわたしの前を通り過ぎていくようでした。言葉としての意味を成さないもの。


 そして、炎は見る間に研究書を燃やし尽くし、その火の手もあっという間に室内に広がります。それはあらかじめ、油がまかれていたのだろうという勢いでした。

 ジャンの今まで見たこともない冷たい目と、その刃がアランさまに無情にふり下ろされかけ、あらたな物音が響きました。


 ガラスの割れる音とメイベルの叫ぶ声。わたしの名を呼ぶ声も聞こえます。どこかで剣戟の音もかすかにしました。


 再度突き動かされたようなレイが炎の中に飛び込み、アランさまをかばってジャンに腰の剣を抜き放ちます。二、三度の応戦が交わされ、レイが炎にたたらを踏んだのを機にジャンが距離を取りました。


 ひょろりとした体躯。常に眠たそうな、やる気のなさを表わした、気の抜けた風貌。


 それが今は、まったくの別人としか思えない鋭利な様でした。そこに現われたのは、わたしの見知らぬ人です。


「ジャン……?」


 それでもわたしの口から出たのは、馬鹿みたいに彼の名を呼ぶ声でした。そして、それに対してようやく視線が返されます。


 炎を移したような、強い意志のこもった眸。わたしと分かたれる決意。

 それが言葉と行動となって表れました。


「夢が、覚めたんですよ。──お嬢」と。


 ゆるやかな動きで短剣を手にわたしに向かってくる彼を、ただ視界に入れていました。アランさまの、「やめろ、ジャン!」と叫ぶ声もしましたが、身動きひとつできず、視界いっぱいに彼を映し──目前に落ちてきた、焼けた(はり)がわたしと彼を阻みました。


 同時に、あさってからわたしたちを呼ぶ声がします。「レイ、どこだ!?」というアーヴィンさまの声で。

 答えるレイがアランさまに手を貸して炎を回避し、ジャンはわたしが見つめる前で、静かに炎の向こうへ姿を消していきました。



 背後からは、焼け崩れる建物の中をかいくぐってきたらしいアーヴィンさまの叫びがあります。


「レイ、何があった!?」

「裏切り者が出ました。お姫さまの従僕が敵方についていたようです。そちらは」


 チッ、と鋭い舌打ちと忌々しそうな声が返されます。


「はぐれて姿が見えなくなったから、おかしいと思ったんだ。こっちは外から火矢を打ち込む連中とやり合った。とにかく逃げるぞ」


 メイベルとおばあさんは、とたずねるアランさまに、先に逃がしたと手早く言葉が交わされます。おい、とアーヴィンさまの呼ぶ声と、アランさまの急かす声も出ます。


 しかしわたしは、燃え盛る室内の光景から目を離すことができませんでした。


 燃えてしまったヒューリアの壺。治療薬の完成に近付けるはずだった希望の書。


 わたしと決別し、さらには敵対する意志でもって剣を向けてきたジャン。


 その衝撃に心が捉われて、頭のどこかが麻痺したようになにも考えられず、炎が眸をなめる勢いで迫ってきていても、棒のように立ち尽くしていました。


「おい、虫かぶり姫!」

 レイとアランさまを先に誘導したアーヴィンさまの声が聞こえます。なおも動かないわたしに焦れたように──。


「エリアーナ……!」


 と突き動かす声がありました。

 ビクリと反応したわたしの腕を取って引き寄せると、()き付くような強さでのぞき込んでくる黒い眸があります。


「しっかりしろ。まだ何も終わっちゃいない」


 その眸が、わたしの芯を動かすような強さでした。ようやく身に迫る命の危険と、むせ返る空気に身体が反応します。


 アーヴィンさまはわたしの頭を抱え込むようにして崩れる建物と降る火の粉からかばい、燃え盛る家屋から命からがら──どうにか、脱出させてくれました。



 吹雪は止んでいた外に出て、思わず積もった雪の中に手と膝をつきます。喉が焼けそうな熱い空気から夕暮れの冷え込んだ冷気に、反射的に咳き込んでいました。


「エリアーナさま……!」


 かけ寄ってきたメイベルが急いで背をなでてくれ、わたしも息を整えながら互いの無事を確認し合います。


 ところどころ煤にまみれ、軽い火傷を負ってはいましたが、無事であることにホッと安堵の思いがわきます。視野の中には案内人の方に支えられたヘスター先生と、その傍にお孫さんのジーンさま、近くではレイに手早く止血されるアランさまの様子がありました。


 火矢を打ち込んだという敵の姿も気配もなく、皆が無事だと安堵する思いの中で、欠けた顔ぶれに衝撃は残ったままです。


 チラチラと雪が舞い、手のほどこしようもなく燃え上がった一軒の家に、だれもがぼうぜんとその光景を見守るばかりでした。


 そして、わたしに分厚い外套がバサリと落とされます。炎の中にかけ込む前に脱いだらしい、アーヴィンさまのものでした。


「──いったん、町に戻ろう」


 彼の言葉に皆がようやく次の行動に移りはじめ、しかしそれは、とても空虚なものがただよう気配でした。

 ──すべての苦労が台無しになってしまったという、徒労感で。





 ~・~・~・~・~




 火事で逃げだした馬は仕方なくあきらめ、興奮しながらも残った馬と近場に避難していた馬に病人と怪我人を乗せて、わたしたちは山を下ります。


 ハーシェの町に戻ってきた時には日はとっぷりと暮れ、定宿にした食事処の客人たちも引き上げはじめているところでした。

 お宿のご主人は戻ってきたわたしたちの有様にまず仰天し、お山から下りてきた魔女の姿に二度ビックリします。


 手早く障りのない説明をするアーヴィンさまにすぐに真剣な顔でうなずき、自警団に連絡をとって火事の後始末等、山の様子を見に行く手配も引き受けてくれました。


 そうしてヘスター先生はお宿の一室で横になり、孫のジーンさまが付き添います。案内人の方は薬を手に入れにどこかへ消え、怪我人のアランさまをのぞいて、わたしたちは優先的に蒸し風呂とお湯を使わせていただく恩恵に預かりました。


 一通り事情を聞いたメイベルは少なからずショックを受けたようでしたが、気持ちを切り替えてわたしの世話に気を遣ってくれます。

 彼女だって充分大変な目に遭っているのに、おくびにも出さない気丈さに、わたしも胸を打たれる思いでした。


 そして、なんとか心を奮い立たせます。まだ何も解決していない。しっかりしなければ、と。


 煤と煙に巻かれた身をあらため、しばしの休息と喉を通らない食事を無理にでも取り、わたしはメイベルとヘスター先生のお加減をうかがいに部屋を訪れました。


 戸口で出迎えてくれたのは、孫のジーンさまです。ジーンさまは先に逢った時とは異なる、きつい目付きでわたしたちを一瞥しました。


「──ばあちゃんは眠ってる」


 近寄るなと言わんばかりの態度は、当たり前のものでしょう。

 わたしたちが訪れたことで、祖母君のヘスター先生の心臓に負担をかけて病状を悪化させ、さらにはその棲む家まで失わせる結果となってしまったのですから。


 わたしは覚悟を呑んで頭を下げました。山から下りて町に戻るまでの間に、アランさまから隠された事情を聞きました。


 ──クリストファー殿下は、わたしの近くに情報を敵方に流している、裏切り者がいると考えられていたのだと。


「……だれなのかは分からなかった。エリアーナさまの従妹のリリア嬢、ご親戚、アレクの妹のテレーゼさま、ロザリアさま──アレクセイも、クリスさまは対象に入れて調べていた」


 わたしは小さく息を呑みました。

 殿下の腹心であり、右腕でもあるアレクセイ・シュトラッサーさま。その方までも疑いの対象に入れられていた──。


 胸の詰まるような思いで、わたしも自分で考えたことを思い直しました。

 アレクセイさまは現在、王位継承権第三位の立場にある方だと。殿下はきっと、あらゆる想定の元、私情は後回しに調べて可能性をつぶしていった。──それが、王の座につく者に課せられた考え方なのだと。


 そこに皮肉げな問いが向けられます。

「おまえは疑いの対象から外れてたってのか? 宮廷楽士」


 アーヴィンさまの声とは裏腹な鋭い視線に、アランさまはかるい苦笑で返しました。


「ボクはクリスさまに拾われるまで、港町でスリやかっぱらいをしてた孤児だからね。もちろん、クリスさまにお仕えするにあたって色々と調べられはしたけど。貴族との関わりは無縁だし、小さい頃から訓練されて育った、王家の生粋の影とは違うんだよ」


「……王家の影……」


 つぶやいたわたしに、アランさまが説明をしてくれます。表向き、王家の人間を守る近衛兵とは別に、秘密裏に駒となって動き、その身を護衛する影と呼ばれる者たちがいるのだと。


 殿下はご自分がそばにいられない時には、常にそれをわたしにつけてくれていた。


 それでわたしも、思い当たる光景と抱いていた疑問を思い出しました。昨年の狩猟祭の際、賊を倒した影のような存在。そして今回、あわやの所を救ってくれた影のような人たち。


 彼らは文字通り、影だったのだと。

 でも、とアランさまの口が重たくなります。


「なんかちょっと、変な感じがしてたんだ。クリスさまからの連絡が届かなかったり、……聞かされてた話よりも、影の人数が少なかったり……」


 ふん、と今度はアーヴィンさまが鼻を鳴らして応じました。だろうな、と。


「エリアーナ嬢の馬車が襲われた時、こっちも別の道からついて様子をうかがってたんだが……。どうも、黒翼騎士団から引き離して襲撃者の中に引き出した感じがした。その後に現われた影の人数も、いやに少なかったしな」


 胸に残る衝撃のまま、わたしも苦しい息を紡ぎました。


 王家の影の一員だったジャン。彼は殿下の命で我が家に従僕として入り、ひそかにわたしの身を守ってくれていました。


 それなのに──なぜ、今。


 ぎゅっと胸元を押さえたわたしに、アランさまの申し訳なさそうな言葉が続きます。ボクがもっと早く、疑いを向けていれば……と。


 アランさまはわたしが王宮に上がるようになってから、ずっとわたしの身辺に注意を払ってくれていた方です。その中で、彼もジャンと交流を持っていたはず。今回ジャンに疑いを向けるのは、彼にとってもつらい判断だったに違いありません。


 それに──研究書を守ろうとしてジャンと争い、手傷まで負わされたのですから。


 わたしは静かに首をふって、アランさまのせいではないと伝えるのが精一杯でした。



 ──そして。

 わたしたちの事情に巻き込み、命の危険にさらしてしまったことを、あらためてジーンさまに謝罪します。


 王家に因縁を持つ方々を、再度王家の事情で傷付けてしまった。


「……ほんとうに、申し訳ありません」


 頭を下げるわたしにメイベルがうろたえる様子がありましたが、申し訳なさでどうしても頭を下げずにはいられませんでした。

 ジーンさまが口を開きかけて、部屋の中からヘスター先生の咳き込む声がします。ふり返ったジーンさまがすぐにメイベルに目を止めました。


「医学の知識があるんだよね。ばあちゃんを診て」


 表情をあらためたメイベルがうなずいて入室し、心配で続こうとしたわたしはジーンさまにさえぎられました。

 まるで、わたしが災いを運ぶ使者のような目付きです。ジーンさまの目が雄弁に語っていました。


 おまえが来なければ、こんなことにはならなかった──と。


 メイベルが急いでアーヴィンさまたちと一緒にいてくださいと告げ、扉はわたしの目の前で閉められました。

 トボトボとわたしは言われた通り、皆のいる食堂へ戻りかけます。そして、聞こえてきた声でした。


「──黒翼騎士団の、バクラ将軍が亡くなった!?」


 ホントか!? と言う声にシッとひそめる会話は、鉱山夫たちのものでした。

 警邏のやつらが話してるのを聞いたんだ、と低い声で話すのは、さすがに内容が憚れるものだったからでしょうか。


「二三日前に、ロクサスの山道で大規模な捜索が行われてただろ。どうも……王太子婚約者のお嬢さまが何者かに襲われて、それを守るためにバクラ将軍は命を落としたらしい。お嬢さまは行方不明だってんで、警邏の連中も捜索に駆りだされたそうだ」


 ……間違いないのか、と息を呑む問いは、セオデン・バクラ将軍がどれだけラルシェン地方の人々にとって浸透した存在なのかをうかがわせました。


 四十年前の大陸公路戦争の際、国を守った英雄。ラルシェンで行われる慰霊祭には毎年必ず出席し、この地に接した場所に騎士団を構えて、東の国境を守り続ける存在。──その英雄の死。

 ああ、と答える声も低く重たいものでした。


「正式発表は控えられているそうだが……警邏の連中もかなり沈んでショックを受けてた」


 静かな沈黙が満ちて、次いで怒りを秘めた声が続きました。犯人は、と。

「……やっぱり、マルドゥラか?」


 わからない、と声が返されましたが、男性たちの間にマルドゥラ国に対する怒りと敵意がつのっていく様が、目にしなくてもわかりました。


 そもそも、と一人の声が怒気を秘めて紡がれます。


「王太子婚約者のお嬢さまは、そんな山道で何をしようとしてたんだ」

「……ウソかホントかわからんが、ウルマ鉱山に薬を届けに行こうとしてたらしい。そこを襲われたって話だ」


 落ちた沈黙には困惑の色がありました。王家の人間が? というような雰囲気は、この地に染み込んだ王家への不信をあらためて思わせます。

 どうなのかね、と言う声にも信じた様子はありませんでした。


「バクラ将軍が命をかけてまで守ったんだろ。生きてそうなのに行方不明ってことは、逃げだしたんじゃないのか。王太子婚約者になるような貴族のお嬢さまだ。ほんとうは病が怖くて、逃げだしたって可能性もあるな」


 あ、とそこで思いだしたような一人の声がします。


「貴族のお嬢さまで思いだしたが、最近王都に向かう連中がいるだろ。なんでも、今王都にいる貴族のお嬢さまが灰色の悪夢におびえもせず、庶民に分け隔てなく予防の元を配ってるって話だぜ。聖女さまだって評判になってるらしい」


 へえ、と感心したような声が返されます。

「同じ貴族のお嬢さまでも、ずいぶんと違うもんだな」


 なんて名前の貴族だ? という問いと続いた言葉に、食堂の手前で立ち尽くしてわたしは、目の前が真っ暗になる思いでした。


「たしか……オーディン公爵家のご令嬢とかって話だな。なんでも、病が広まってる国の危機にあたって、そのご令嬢はすでに王太子の子を身籠る仲だって話もある」

「ハッ。王家の血は尊いってやつか」


 あざけるような調子でその後も会話は続きましたが、わたしはフラフラと割り当てられた部屋へ戻っていました。


 扉を閉めて表の気配が遮断されると、くずれるように膝が落ちます。様々な情報と衝撃が頭の中をかけまわって、心が追い付きませんでした。


 王都を発った日。

 わたしの胸にあったのは、託された使命感と思いでした。王太子婚約者として、この先も殿下と共に歩む者として、立派に公務を務めあげるのだと。


 しかし、立て続けに事態が動いて、わたしは自身の判断によってウルマ鉱山に向かうことを決めました。──けれど。


「…………」


 わたしの判断は、間違っていたのでしょうか。


 あの時──、わたしが取るべきだったのは、アレクセイさまの言う通り急ぎ王都へ戻り、国難にあたる殿下をそばで支えることで、自分で自分の身を守れもしない人間が暴動を鎮めようだなんて、その考え自体がそもそもの間違いだったのでは。


 わたしが大人しく王都へ帰っていれば、セオデンおじいさまが命を落とすようなことはなかったかも知れない。……ジャンが、わたしを裏切ることもなかったかも知れない。


 ──殿下が、ファーミアさまを迎える事態には、ならなかったかも知れない……!


「……っ」


 声にならない嗚咽がこぼれそうでした。人伝の話だけを信用してはいけない。


 わたしはいつも、人の噂にふりまわされて自分の気持ちを見失ってしまいます。王都を発つ前に、殿下と約束しました。

 殿下の妃はわたしだけだと──。


 でも、と思う気持ちはどうしても消せません。陛下が倒れ、王家の存続が危ぶまれた時、血を残すために取られる手段は、わたしも歴史で学んできました。


 それが今この時、クリストファー殿下に当てはまらないとは限らない。


 一人、国難に対峙し、腹心のアレクセイさまでさえ疑ってかかる殿下の心労はいかばかりでしょう。そしてきっと──ファーミアさまは、そんな殿下に心を砕いてそばで支えることができる。そういう女性だと、わたしは知っていました。


 殿下のお気持ちを疑うことはありません。約束も胸にあります。


 しかし──殿下から託された使命も果たせず、ヒューリアの壺も失って、治療薬の完成への手掛りもなくしてしまった今、わたしは殿下の隣にふさわしいのでしょうか。


 なにも果たせていない、ただの虫かぶりのわたしが──。


 たかぶった感情が涙になってこぼれそうになった時でした。背後の扉をノックする音と、わたしを呼ぶ声もします。


「エル、いるのか?」とアーヴィンさまの声で。


 急いで浮かんだものをぬぐい、それに反応しようとしてアーヴィンさまの行動のほうが早く、わたしは開かれた扉とふり返った額を対面させていました。……いい音がした気がしました。


「あ、悪い。……っつか、なんでこんなところにしゃがみ込んでんだ」


 扉を閉めたアーヴィンさまが膝を折ってわたしの顔をのぞき込んできます。それで何かを察したのか、あー、と言葉をにごすようにしました。


 同じようにその場に座り込むと、おもむろに手を伸ばしてきます。わたしの頭にふわりと置かれたそれは、思いがけないやさしさでした。


「痛かったな」


 よしよし、とぶつけた箇所をいたわるようで、もっと違う部分をなぐさめられている気分でした。


 ジャンの裏切りや、様々な情報に傷付いているわたしの痛みを、この方は察してくれている。ふだんは皮肉げな、人をからかう態度なのに、と思うと、わたしもふっと気がゆるむのを感じました。


 今、口を開けば、一緒に感情もこぼれてしまいそうで、ただその手になぐさめられるに任せます。一生懸命視界をまばたいていると、少しからかうような声がかけられました。


「王子には内緒にしておいてやる。……泣いてもいいぜ」


 ドキリとするようなセリフでした。

 鼓動も一瞬跳ねて、ふだん鈍いわたしでも危険な感じを覚え、身を引こうとします。そこを反対に強く引き寄せられました。


「……っ!」


 殿下以外の見知らぬにおいと強さに反射的に反発を覚え、抗おうとしたところを彼の言葉に止められました。


「あんたはよく頑張ってる。世間のやつらがなんて言おうと気にするな。あんたが頑張ってるのを、オレはちゃんと見てきた。だから、少しは寄りかかれ」


 まるで、一人で頑張りすぎるな、と言われているようでした。


 マルドゥラ国との開戦。病の発生や鉱山での暴動。この地にいる、王太子婚約者のわたしがなんとかしなければ、とひっしでした。でも、実際にはこの有様で……。


 そんななさけないわたしでも、アーヴィンさまは頑張りを認めてくれているのだと思うと、再度こらえていたものがこぼれそうでした。

 しかし、懸命にこらえるわたしに、笑うような声が頭上から降ります。


「あんたけっこう強情だな」


 見かけに反して、という声でわたしを引き寄せた力が解け、身を起こしたのが間違いでした。

 わたしの中に強く踏み込んでくる、黒い眸がそこにありました。


「エリアーナ。オレの国に来いよ」


 今度跳ねた鼓動は、自分でも意識しました。わたしの名を呼び捨てにするのは、家族と、親戚と、あと──。


 アーヴィンさまの手がわたしの頬にふれ、灼きついた時を思わせる熱さで心を捕らえました。怖いような気もする野性味ある顔立ちが、フッと甘くやわらかくなります。

 息をのむような瞬間でした。


「オレなら、あんたを一人にしたりしない。一人で泣かせるようなことも、絶対にしない。エリアーナ。オレは、あんたをさらって行きたい」


 強い力に引きずられるように、その眸から目を離すことができませんでした。


 その時、気付きました。

 わたしが困った時、窮地に追い込まれた時、聞こえていた声が聞こえない。わたしを呼ぶ、殿下の声が塗り変えられてしまう──。


「エリアーナ」


 異国の香りただよう青年の声で。


 またも吹雪きだした表の風が室内に響くのを感じながら、わたし自身、見えない吹雪の中に取り残されたような気分でした。


 このままもう二度と、あの晴れ渡った青空──それを写し取った眸を見られない思いで。

 冷たい冬の下に押し込められた、虫のように。






~こんな展開の時になんですが、お知らせ~


『虫かぶり姫』コミック1巻が重版されました。作画の喜久田先生がエリィとクリスをとても素敵に描いてくれています。

活動報告に書影も載せていますので、ぜひご覧になってみて下さい。

これからもどうぞ、『虫かぶり姫』をよろしくお願いします。(*^^*)


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