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冬下虫の見る夢─11




 何度も繰り返される会議と、各地から上がってくる感染者の報告。それらへの対処や指示、軍部の動きに逐一目を光らせ──。


 執務室へ戻った時には、すでに日はとっぷりと暮れていた。


 目の前に立ちはだかった国難への対処に手を取られているが、国政とはそればかりではない。各所から上がってくる様々な行政も疎かにはできない。大半は宰相が裁可しているが、最終的な判断は、今は王太子である自分に課せられている。


 さすがに、真っすぐ執務机へ向かう気にはなれず、応接室の一角、彼女の定位置の隣に音を立てて身体を投げだした。


 自分以外の姿は見えない場だからこそ、大きなため息が全身からあふれでる。

 片腕で視界を覆い、しばしの休息とも言えない間を置いて、陰にひそむ護衛に言葉を投げる。


「……アランからの報告は」


 ふだんは感情の色を見せない影の護衛たちが、一瞬だがためらう間を置いた。まだ何も、と返してくる声はいつも通りのようでいて、どこか異なる。


 それを私も察知していた。影の護衛に、異変が起きている──。静かに息を吐いて、投げだした手が固く拳をにぎるのを感じた。


 ──エリアーナ・ベルンシュタイン侯爵令嬢、生死不明。


 彼女を自身の手の届かない地へ送りだす以上、予測し得るあらゆる対策を立てたところで、予想外の出来事が起こることは理解していた。


 以前──、自分が選んでそばに置いた人間を信用しろと言われたことがある。だが、友人だと思い、信を置いたイアンは自分を裏切った。──そうせざるを得ない、事情があったのだとしても。


 そして、エリィを守る最終的な護衛として付けた者たちの中にも、今、異変が見て取れる。


「……っ」


 ギリ、と奥歯が鳴るほどの暴れだす感情が室内を染め変えるのがわかった。存在感を見せない影たちが反応するのも。


 灰色の悪夢。その病が再発する情報を得てから、あらゆる事態を想定して手掛りをかき集め、そしてそれをエリアーナへ託した。


 だが──。


 同じように情報を得て動いていた存在。その人物が、病の治療薬を得ようとするエリアーナの存在を見逃すとは思えない。政治的な意味からも。


 エリィが行方不明というその報がもたらされてから、身内ではずっと暴れだす感情が渦巻いている。


 エリアーナは無事だと、信じている。王宮から離れれば、彼女を狙うであろう一派の動きはわかっていた。彼女を守る手段のひとつとして、万が一の時には生存を隠すよう指示したのも──他ならぬ自分だ。


 彼女を危険に巻き込むのはわかっていた。そのために幾通りの想定をし、手筈を整えた。王家の影と呼ばれる絶対的な護衛も複数付けている。だが──。


 なぜ、そこで異変が起きている……!


 疲労のためにふだんは抑えている凶悪的なまでの感情が、彼女を傷付けたかも知れない輩に対して、どす黒い衝動で込み上げる。


 エリアーナに、もしも──。


 思考が暗く染まりかけたその時、見計らったような頃合いでノックと同時に扉の開く音があった。返事を待たずに入室した人物は、次いであきれた声を投げてくる。


「横になってろって言っただろうが」


 このところ、ほぼ交替する間もなく自分の護衛についていた近衛騎士、グレンだった。今そばにいないアレクセイ並の小姑ぶりで、あれこれと口出しをしてくる。


 暗い思考から切り替えられた気分で声にならない息をつくと、鼻孔をくすぐる香りが卓に差し出されるのがわかった。それは、古参侍従しか淹れられない、特製の滋養ある飲み物だ。


 片腕を外して身を起こし、湯気の立つそれを口に運んだ。そして、一息つく。


「──不味い」


 おまえな、とグレンのあきれた声と、慣れているように肩をすくめる侍従。


「前にエリアーナ嬢が一度だけ淹れた、しっっぶい紅茶は平然と飲み干してただろうが。俺とアレクはあれのせいで、丸一日味覚が戻らなかったんだぞ」


 恨みがましい口調にやれやれと息をつく。グレン、と思わず諭す声になった。


「好きな女性が手ずから供してくれたものは、天上の美酒にも勝る。おまえはまだ、それを知らないだけなんだ」


 ドキリとしたようにグレンが胸に手を当て、「……真理かも知れない」とつぶやくと、現実的な侍従が「十人分の茶葉を入れたら、だれが飲んでも不味いでしょう」、とあっさり断じた。


 変わらぬやり取りにどこかで心をなだめられ、気がゆるみかけたその時だった。


 お待ちください、と衛兵の制止をふり切る気配と、次いで断りもなく開かれた扉。それは気をゆるした者とは異なる、慇懃無礼が身に備わった者の態度だった。


「ご歓談中のところを失礼する。クリストファー殿下」


 悪びれた様子もなく、戸口に姿を見せた人物。赤味がかった茶髪に茶褐色の眸。サウズリンドの王妃に少しだけ似通った風貌は、だが、厳格さをおのれに課した者と他者に強いる者との違いが明確に表れている。


 国内きっての最大貴族。サウズリンド王妃の実兄であり、次期国王である自分──王太子、クリストファーの伯父であるグレイグ・オーフェン。


 不躾な様に、さすがに古参侍従が「殿下の執務室に無礼では」と口にするが、それすらもやわらかに、逆らうことをよしとしない風格で黙らせる。


「こうでもしなければ、殿下との面談は叶わないようだと思ったのでな。強引に失礼させていただいた」


 悪びれているようで、まったくそうは思っていない口調。……テオドール叔父のような、不躾の中に感じる親愛と一線を画したもの。


 大貴族たらん、威風堂々とした様とそれに見合った、下の者を威圧する空気。それが無言で侍従を室外へ追いやり、かろうじて留まったグレンさえも視野に入れた様子はなかった。


 内心の舌打ちをこらえながら、椅子に腰かけたまま、強いて鷹揚に訪問者を見やる。


「多忙な伯父上にわざわざご足労いただくとは、恐縮の限りです。急ぎの案件とあれば、先の会議でお話いただければ皆で議論できたのですが」


 繰り返される会議の間でも、この伯父は最低限の発言に留まり、自ら議題を呈してくることはなかった。声高に主張していたのは、もっぱらその派閥にいる下の者たちだ。


 伯父の意図は、それと知れる。

 自分をとことんまで追い詰めて、エリアーナの危機すら材料に、──私が音を上げて取り引きを申し出るのを待っていたのだろう。


 が──。私がそんなに可愛い性格でないのは、この伯父も重々承知のはず。


 幼い頃から、それこそ幾度となく折につけて、王太后一派に狙われる身の安全と引き換えに、自身の娘か、縁戚関係にあるミゼラル公国の大公女との婚約をちらつかせてきた。しかし、国内情勢と貴族間の力関係を考慮した父である国王がそれによい顔をせず、また私自身、情勢のわかる年頃になってからは自身の婚約話は裏でひそかにつぶしてきた。


 その頃にはすでに彼女、──エリアーナと出逢っていたからだ。


 意のままにならぬ甥っ子に忌々しい思いを抱いているであろう伯父と、上っ面の笑顔で対峙するのが、もう何年にも渡って築かれてきた関係だ。


 今もまた、椅子を勧めるでもない私に内心の心情をきれいに隠して堂々と対面に腰掛ける。

 まるで自身こそが部屋の主のような貫録ぶりは、互いに苦々しく思いながらもさすがだと思わざるをえない。


「閣議の中でお話するのは、避けたほうがよろしいかと思いましてな。クリストファー殿下」


 傲然とした態度すら様になる微笑。こちらに恩を着せてくる会話は貴族ならでは。

 反射的に浮かんだ微笑にあらためて思う。今の自分を作ったのも、間違いなくこの伯父なのだと。


「皆の前で話せない内容とは穏やかではありませんね。私のほうにそういった心当たりはないのですが……伯父上は何か、内密に打ち明けられたいお話でも?」


 サウズリンドの西の玄関口、ケルク港を治める領主であり、ミゼラル公国とも結び付きの深い、海上貿易に精通した人物。


 海上貿易の流れに以前からそれとなく目を光らせていた所、昨年の狩猟祭で起きた一件。マルドゥラとの国交を快く思わず、阻む動き──実力行使も厭わないのだという意志。


 そして、海上貿易の主要地点である、ミゼラル公国での動き。探っていたところ、同じく自身の夫の事故死に疑問を抱いていたミレーユ元大公女の探索とぶつかった。そして、情報交換をするに至ったのが、年末までの経緯だ。


 簡単に切り崩せる相手ではないと、わかっている。一連の流れ、すべての大元であろう人物──サウズリンド王妃の実兄であり、自身の伯父でもあるオーディン公爵。


 少しだけ踏み込んだ私に、あっさりと首肯で返してきた。人前では避けると言ったのですから、内談に決まっていますな、と。

 かるく眉をひそめた前で、続いた伯父の言葉にはとっさに拳をにぎりかけた。


「クリストファー殿下。国の大事であるこの時に、()()()あなたが王宮にとどまり、責務を果たしていらっしゃるのは、まことに素晴らしい。なにやら……あなたをわずらわせる報せも来ていたようだが」


 今回は、というところに伯父の嫌味が見える。昨秋、自分は彼女の危機に公務を切り上げて駆け付けた。しかし……国王が倒れ、仮の王座についている今、先般と同じ真似はできない。


 ──どれだけ、暴れだすような思いで、今すぐにでも彼女の無事をこの手に確かめたいと願っても。


 そして、エリアーナの件をわずらわせる報せと言うあたりが、こちらの感情を逆撫でしてくる。直情型のグレンは明らかに気分を害した気配を見せたし、私自身、眸が冷たくなるのを感じた。


 彼女の身を狙っている人物。実行も厭わない相手──。


 気配すら落ちていく中で、伯父は平然と言葉を続ける。それは、おのれの世界観が絶対であり、疑いも抱いていない人間の言葉。


「しかし、クリストファー殿下。あなたはこの国の大事に、もっとも果たすべき義務を失念してはいませんか」


 思わず寄せた眉根に、伯父のわざとらしいつぶやきももれる。いや……失念ではなく、あえて見過ごされているのか、と。


「なにをおっしゃりたいのでしょうか。伯父上」


 殿下、と伯父の声音は厳格そのものだ。そこにあるのは相手を思っての厳しさではなく、おのれの考えに沿うことを強いる者の声。


 こんな時なのに、ふと思った。この伯父は覚えているかぎり、自分を常に敬称で呼んできた。テオドール叔父のように愛称で呼ぶことはなかったのだと。

 そして続いた言葉は、その呼称からわかる通りの内容だった。


「サウズリンドは今──国王陛下がお倒れになり、王家の存続も危ぶまれる状態だ。クリストファー殿下。あなたはこの国の、唯一の直系王子。あなたには王家の人間として、国を背負う王太子として、その血を残す義務がある。違いますか?」


 スッと血の気が引くのがわかった。巷に広がっている、その噂──。


 伯父の言葉に合わせたように開かれた扉は、前以て打ち合わせていたかのような周到さだった。


 昼に身に付ける華やかなドレスではなく、下町に降りる時の簡素な服装でもなく、夜に合わせた淑やかさを引き立たせる装い。


 赤味がかった金髪にふだんのおとなしい印象を覆すかのような、──覚悟を決めた、どこか挑むような榛色の眸。緊張に面を強張らせた私の従妹、ファーミア・オーディンだった。


 王家を第一に考える、国内有数の保守派の言葉が室内に響く。


「クリストファー殿下。王家の血を残すのは、あなたの義務です」──と。





 ~・~・~・~・~




 静かに走った緊張の空気が、一拍して解かれました。


「ハンターイ!」


 と、場の空気を無視した明るさで。

 わたし、エリアーナは目をしばたたき、目前の老婆の方も不可解な目を投げました。わたしの後ろに控えた、従者の格好をした宮廷楽士へ。


「やだなー。天地がひっくり返っても無理なこと言わないでくださいよ。ボクがまお……クリスさまに、世にもおそろしい目に遭わされるじゃないですか」


 ……はい?


 緊迫した空気が逃げた思いでアランさまを見返すと、蜂蜜色の髪の青年は変わらぬ態度でにこりと微笑を見せました。


「エリアーナさまは、サウズリンド王国とその民にとって、なくてはならないお方なんです。王太子婚約者の座を降りるなんて、とんでもない」


 にこやかな微笑ながらも断言したアランさまは、次いで老婆の方に言葉を重ねます。


「人嫌いの魔女さまが、王家や国に恨みがあるのはわかりました。でも、その個人的な感情で今この時、大勢の人間を救えるかも知れない可能性をつぶしちゃうんですか? 人の病や怪我を治す、医師と同じ志を抱いた薬師の方が?」


 アランさまの言葉は、老婆の方の痛いところを突いたようです。しかめられた顔つきに、さらに別の声も上がりました。


「薬師の方。あなたさまの苦難と心痛は、私もサウズリンドの一民(いちたみ)として、心に刻まされる思いです。……ですが、どうか」


 わたしの横から、跪かんばかりの懇願を訴えたのは、メイベルでした。


「どうか、エリアーナさまにあなたの知恵をお貸しください。エリアーナさまなら、きっと必ず、あなた方の知識を人を救うために役立ててくださいます。エリアーナさまは──『虫かぶり姫』です。先人の知恵を疎かにする方でも、その努力を踏みにじるような方でもありません」


 どうか、と訴えるメイベルに、わたしのほうが胸を打たれる思いでした。


 世間一般的に、あまりよい印象ではない『虫かぶり姫』。その名も、今では殿下が愛情を込めて口にしてくれるので、わたしも肯定的に受け止められていました。……どこかで、消せない引け目を覚えながら。


 けれど、その呼び名が他の人にも好意的に受け止められているのなら。本の虫であるわたしだから、先人の知恵の守護者のように思われているのなら。

 それはなんと、誉れなことでしょう。


 感動にふるえたわたしの前で、やはり鼻を鳴らす方がいました。


「結局、ベルンシュタインの人間も王家の一味かい」と、どこか憤懣やる方ない口調で。それに疑問を抱いたのが、アランさまです。


「あー、魔女の方。ってか……本名をうかがっていませんでした。すみません。お名前をうかがっても?」


 いまさらな質問に、わたしも恥じ入る思いでした。いくら、気持ちが急いていたとは言え──。

 ふん、と声にした方が名を告げます。


「アタシは、ヘスター・バッサスってんだよ」

「え……」


 今度、声をなくしたのはわたしでした。


 ヘスター・バッサス。著書、『食べられる野草の見分け方』や『家庭の薬草百科』、『野草──それは名のある植物』等々、薬草に関して様々な著書を記してきた方です。

 わたしが先日、ケネス草の効能を皆に説明できたのも、この方の著書が基でした。


 当時の情勢から、女性が知識を収め、男性と同じ分野に進んで活躍するのは、並大抵ではない努力と苦労、辛苦があったことでしょう。


 それを成し遂げ、自身が得た知識をわかりやすく、学にとぼしいとされた下町や農村の女性に広め──また、その食生活に伝わってきた代々の知恵を書き留めて、女性の存在をあらためて見直させた人物。

 ケネス草を発見したのは学者ですが、その効能を証明したのは、名もない一人の主婦だったのです。


 それをしかと記した筆者。


「その方ですか……」とふるえる声でたずねたわたしに、やはり老婆の方は可愛げなくそっぽを向きます。だったらなんだい、と。


 とんでもない。

 なんて素晴らしい方なのかと、今までの態度のすべてが翻るような新鮮さで、わたしの胸も感動にふるえていました。


 そしてその思いのまま、声にならないつぶやきを発しました。それに一瞬、皆の目が集まります。なにを言ったのかと。

 わたしは気に留めることもできず、両手を胸に、あふれだす思いのまま衝動を言葉にしていました。


「サインください」


 一種、静かな沈黙が落ちました。

 それがしみ渡って、わたしもあら、と思います。ちょっと間違えました。なんだか、従者のレイだけではなく、メイベルの目までもが少し冷たく感じます。


 アランさまは声なく笑っていらっしゃいましたが、わたしも時と場合をわきまえなければ、と小さく咳払いをしました。

 すると、ヘスター先生がやはり鼻を鳴らします。しかし、今度はどこか笑うような色がそこににじんでいました。


「まったく、これだからベルンシュタインの人間は……」


 そう言って大仰そうに腰を上げると、戸棚に歩み寄って薬草の束の中から、一冊の本を取りだしました。


「アタシの父親ファーネスはね、それはすごい男尊女卑の男だったんだよ」


 え、と耳を疑うわたしたちに、ヘスター先生は皮肉げな目を戻します。


「『ヒューリアの壺』なんて言われる、ご大層な研究書を書いた人間は、立派な人格者だと思ったかい? 研究者の能力と性質は別物だよ」


 元の椅子に歩み寄ると、ため息のような息遣いで腰掛けます。

 やはり、あまりお加減がよくないようだと案じる言葉を紡ぎかけたわたしに、ヘスター先生の静かな目が向けられました。


「父はね、ナイジェルや男の弟子は取っても、アタシら女には読み書きのひとつも教えちゃくれなかった。女は家の中のことだけやってりゃいい、嫁に行って子どもを産んでりゃあいいってね。アタシが薬草学を学びたいって、どれだけ頼んでも耳も貸しちゃくれなかった。だから、アタシは家を出て、薬草学を教えてくれるところを求めて行ったんだよ。でも……」


 世間は、厳しかったことでしょう。


 貴族の女性が読み書きを習うのは当然の教養ですが、庶民の方がその教育を受け、さらに専門分野に進むのは、よほど裕福なご家庭で家族の理解がなければ難しいことです。


 今でこそ、サウズリンドの民の識字率は上がってきていますが、生活の厳しい僻村などでは、いまだに学ぶことよりも働くことを強いられる子どもがいるのも事実です。


 そして、ヘスター先生の時代なら戦が起きたり等、国内の情勢は不安定で、なおさら女性が学ぶことは厳しかったのではないかと想像つきました。


 その苦労を、ヘスター先生は鼻息ひとつで終わらせます。そしてわたしに、ところが、とはじめてやわらいだ顔を見せました。


「とある領地にたどり着いたら、まあ、変わった所だったさね。子どもから大人まで、読み書きはもちろん、貴重な書物のある立派な図書館で頼み込めば学ぶこともできた。さらには、アタシが独自に集めた資料を本にまでしてくれた。ホントに……変わったお貴族さまだよ。あんたの祖父や父親はね。──ベルンシュタインのお嬢さん」


 わたしは思わず、驚きのまま口を開けそうになり、急いで片手で押さえました。背後からは、あー、なるほど、と合点のいったアランさまの声が出ます。


「だから、おばあさんはエリアーナさまが王子の婚約者なのがいやなんですね。恩ある家のお嬢さまが、恨みのある王家に嫁ぐなんて、それはたしかに邪魔したくなるかも」


 大きく息をつくように鼻を鳴らしたヘスター先生が忌々しげな、けれど物思うような表情で書物に目を落としました。


「父は、最後までアタシを認めようとはしなかったよ。凝り固まった考えの弊害は、アタシが身を以て知ってる──」


 だから、とヘスター先生は手にした書物をわたしに差し出してくれます。同じ轍は踏まないさ、と薬学者らしい顔つきで。


「虫かぶり姫。アタシは、王太子婚約者のあんたにこれを渡すのは抵抗がある。でも──虫かぶり姫のあんたになら、預けてもいいさ。あんたがこの研究書をどう役立てるのか、アタシもそれを見せてもらうよ」


 やっと笑顔を浮かべたヘスター先生から、わたしはふるえる手でそれを受け取ります。まるで、大切なものを託されたような、わたし自身をどこかで認められたような思いで、はいとうなずきました。


「ありがとうございます。ヘスター先生」


 ──『ヒューリアの壺』。とうとう手に入れた。


 これで、灰色の悪夢を治す薬──その完成に近付くことができる。病に苦しんでいる人々を救うことも──そしてきっと、戦を止めることもできる。


 うれしさと希望にあふれる思いで書物を胸に抱きしめたわたしに、ふん、とヘスター先生の今度はどこか照れくさそうな鼻息が返されます。そして、戸口から別の部屋を指し示すようにしました。


「娘婿が残した資料はそっちにあるよ。好きに漁りな」


 はい、と元気よく返事をしてお礼を告げると、メイベルたちからも好意的な笑いがもれます。

 ヘスター先生は照れくささを誤魔化すように、「ジーンは遅いね」と口にし、次いで数度、急いで呼吸を繰り返しました。


 先生? と不安が忍び込んだわたしに、ヘスター先生は胸元を押さえて苦しそうな表情を見せます。そこの薬を、と示されたものをメイベルが急いで手にし、一瞬においをかいで思い当たった顔つきで差し出しました。


「心臓が、お悪いのですか……?」と。


 液体状の薬を飲み込んだヘスター先生が、やはりつらそうな息遣いを繰り返します。

 少し横になって休みましょう、というメイベルの勧めに顔をしかめたものの、逆らうことはしませんでした。


 ヘスター先生を支えるように寝室へ向かうメイベルに、わたしも心配のあまり一緒に付き添います。お湯をわかしてくださいと依頼をするメイベルにアランさまが従い、従者のレイは無言で資料のある部屋へ向かいました。



 そうして──ヘスター先生を寝室に寝かせ、メイベルに指示されるまま、あれこれと動きまわっていた時でした。


 ふと、なにかの焦げる臭いに気付いて、わたしはそちらへ向かいます。同じく焦げくさい臭いに気付いたらしい従者のレイと、薬草の詰まった部屋の扉を開け──。


 その光景に息を呑みました。


「なん……」


 赤い炎が広がりはじめた室内に、従者のレイが言葉を失います。爆ぜる音と火の粉が舞いはじめた室内に、わたしが置きっぱなしにしてしまった、『ヒューリアの壺』を手にする人物の姿がありました。


 何が起こっているのか理解が追い付かないまま、わたしはその人物の名を呼びました。





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