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冬下虫の見る夢─8




 呼ばれた名前にふりかえると、十歳ぐらいの男の子が紅潮した頬に輝く眸で見つめてくる姿に逢った。

 少し訛りのある言葉と満面の笑顔で、子どもは気持ちを伝えてくる。


「これでボクの父さんも母さんも、妹も──みんな、安心して旅が続けられます。ほんとうにありがとうございます。聖女さま」


 薄汚れた身なりと浅黒い肌から、その身分はそれと知れたが、にこりと笑んでかがみ込み、ごわついた髪に手を伸ばした。自分の周囲にいた者が眉をひそめるのはわかったが、他の者へ向けるのと変わらない笑顔で応える。


「あなたたちの家族に、女神サウーラの加護がありますように」


 サウズリンドの慈愛と癒しの女神の名を出すと、子どもは当たり前のように自分たちの信仰する名を出してくる。


「聖女さまにも、ロマの星の導きがありますように」と、アルス大陸を渡る流浪の民の決まり文句で。

 子どもと別れて周囲からかけられる声に応え、次の場所へ移動するため用意された馬車へ乗り込む。


 王都サウーラには、灰色の悪夢の発生が国によって認められてから、薬と救いを求める人々が押し寄せてきている。サウズリンドの各領地──それこそ、国中から人が集まる勢い──それを想定していたのだけれど……。


「予想より……下火ね」


 馬車の中という隔離された空間で、ようやく一息がつける。「ファーミアさま」と専属侍女が差し出してきた洗浄用の布で手や肌を何度もぬぐい、うがいをして簡易的に身を清める。


 これは、十六年前の灰色の悪夢が流行した時に貴族間で取られてきた措置だ。外に蔓延している病の元は知らぬ間に身につく。それをできるかぎり排除して感染を防ぐ。


 差し出された飲み物は、真冬の今の時期、金よりも高値がつくポメロの果汁。

 貴族向けに改良された、それでもけっして飲みやすいものではないそれを、薬効と言い聞かせて飲み干す。


 今、私が病に罹るわけにはいかない。

 水で口直しをした私に、側付きの侍女が気遣う気配から怒りを見せた。


「いくらなんでも……あり得ませんわ。サウズリンドの庶民の子ならともかく、ロマの民など。我が国の貴族をなんと心得ているのでしょう。しかも、ファーミアさまは王家縁の、由緒正しい古き血筋を受け継ぐ姫君ですよ。その方に対して、事態が事態とはいえ……なんと無礼な」


 侍女が二人がかりで私の髪を拭き、目前の侍女も手の皮がむけそうな勢いで布でこすってくるのに、小さく苦笑した。


 血統が確かで育ちもよろしい、深窓のお姫さま。このような事態にでもならなければ、庶民にその姿を見せることもなく、まして触れ合い、会話することなどあり得なかっただろう存在。──それが私、ファーミア・オーディン。


 灰色の悪夢が広がった不安定な世相の今、その深窓のご令嬢が自ら、庶民の施療院や下町に降り立ち、人々に救いの手を差し伸べている。噂になるのは当たり前というもの。


 王都の端──貧民向けに設置された施療院での評判は、当初はまずまずだった。あの人が私を皆に紹介してくれていたおかげで、私がそこで采配をふるうことに疑問を抱く者はいなかった。

 けれど、病の発生とともに、私がそこでポメロの実を乾燥させたものをふるまうと──。


 施設の関係者はとたんに私に懐疑を抱き、一線を置くようになった。

 ……それはそうだろう。灰色の悪夢に効くポメロの実。それは生の果実、果汁でしか効果はない。乾燥させたものではほぼその効果がないことは、この十六年の間に医学関係者の間で研究されてきた。


 しかし、それは世間一般に浸透しておらず、十六年前と同じく、ポメロの実は珍重されている。冬の時期は実りではないために、海の向こうから渡るその果実を求めて、その主要産地と取り引き相手が再注目されている。


 乾燥させたそれを人々に無償で配る私に、必然のように聖女の呼び名がつく。ロマの民などと、貴族には忌避される者たちにまで配る事態になったのは少し予定外だったけれど……名を広めてくれるのなら、別にかまわない。


 思ったところで、昨日自分のもとを訪れてきた友人の呼び掛けが耳によみがえった。ミア──、とごくわずかな者が呼ぶ愛称。


『ミア。あなたがしていることは、正しいの?』


 友人は同じ王家縁の深窓の令嬢という立場にありながら、突飛な行動をする人物として認識されていた。侍女も連れずに家をぬけだして街中を散策したり、前触れなく突撃訪問してきたり──電撃的に結婚してしまったり。

 いつだって、それにふりまわされてきた私たち。



 昨日も施療院にいた私のところへ、突然訪れてきた。初夏には出産を控えた身重の身で、病人が蔓延している場所だというのにかまわず。


 ファーミア、と真っすぐに変わらぬ鳶色の眸を向けてきた。


『ポメロの実を乾燥させたものを配るのは、やめて』


 彼女の言葉に少し笑んで首をかたむけた私に、友人はなぜか、一瞬で苦しそうな表情を見せた。まるで自分のことのように。


 なぜ……? と私は問うた。


 ポメロの実は灰色の悪夢に効果のある唯一の実。病を判別する薬や、その進行を遅らせる薬の存在が知らされたって、人々の不安は消えない。なぜなら──病そのものが消えるわけではないから。


 ならば、少しでも人々の不安が解消されるもので心の平安を取り戻すのは、そんなに悪いこと……?

 そう言う私に、黒髪の友人はゆるやかに首をふった。はっきりした否定の眼差しで。


『それをもらったから──それを食べたから、自分たちは安全だと、病の保持者、もしくは健康体な人が外へ出て行くわ。警戒心がゆるんで、感染を広げる原因にもなりかねない。ファーミア。施設の医師たちは皆、あなたを止めたでしょう?』


 その言葉に、彼女がここへやって来た意味を知る。彼女もまた、あの人の味方なのだと。


 はじめ、『それを配るのはまやかしに過ぎない』と私を止める声もあった。『今は反対されても、正しい知識を広めなければ』──と、あの人の理念に沿った考えの職員たち。けれど、王家縁の公爵家令嬢の私に面と向かって行動を制止できる者はいない。


 それで彼女──テレーゼが来たのだろう。


 黒髪の友人は立て続けに言葉を重ねる。殿下や医師たちが予防と対策を広めているのに、あなたがそれを阻んではならない。エリアーナさまと張り合うのなら、もっと他に方法が──。


 テレーゼ、とめずらしく私のほうから友人の言葉を止めた。


 自分が他者からどう見られているのかなんて知っている。常に出しゃばらず、人の後ろでほほ笑んでいるような人間。

 そんな人物が突然、表舞台に立って聖女と祭り上げられるようになった。それに少なからず驚き、行動の裏を考えている者はいるだろう。


 でも、と私はそれに反する。──それは、私に限ったことではない。


『私の行動が誤っているのなら、殿下はそれを国の公布として出せばいい。ポメロの実を乾燥させたものは灰色の悪夢に効かない。──そう、皆に教えればいいわ』

『ミア……』


 テレーゼの苦しそうな表情が現状を物語っていた。

 今、灰色の悪夢の感染者が次々に現われ、国中が恐怖と混乱に陥りはじめている。正式に発表はされていないけれど、陛下もその病に倒れたと噂されている。そして──その原因は、マルドゥラ国にあるのだと。


 戦がはじまる──。そんな不安定な世相の中、病に効くとされてきたポメロの実。それを乾燥させたものが効かないと伝えられたらどうなるか。配布を止めたら、どうなるか。


 ……人々はきっと、絶望に陥る。そして考えられる可能性として──。


 貴族や、一部の富裕層、特権階級にいる者たちが自分たちだけたすかろうと、ポメロの実を独占しているのではないか。だから、そんな話で民から希望を取り上げようとして──。

 そんな騒ぎが起こるのは、北の地の例を見れば明らかだ。


 殿下や国も正式に触れを出せない。私の行為が、けっして間違っているものではないから。

 だから、と私はゆずらない眼差しで彼女に返す。


『──私はやめないわ。テレーゼ』


 そして彼女に最後の通告を告げる。すでに事態は取り返しがつかないところまで進み、また、私自身引き返す気はないのだと。その覚悟をおのれにも告げるように。


『テレーゼ。もう二度と──、私に逢いに来ないで』


 私は、私の道を進む。それはもう、あなたの道と交わることはない。

 物心つく前から、私とあなたは同じ道を歩む者だった。王家縁の正しい血統を受け継ぐ人間。民にも貴族にも認められた、輝かしい未来を約束された者。


 ──近い将来、王太子殿下に嫁ぐ、もっとも有力な娘。


 血が近い、と敬遠する者たちは確かにいた。けれど、隣国の大公女も断った殿下のお妃候補として、だれより血筋と家柄、教養を備えた娘として可能性が高かったのは、私とあなただった。


 他のどんなご令嬢より、近くにいるのは私たちだと思っていた。幼い頃からあの方々と歳が近く、また王家に近しい者として、思い出も共通の秘密事も交わしてきた。


 覆されたのは──、あの人が現われてから。


 テレーゼ。私とあなたの道は、おそらくあの時に分かたれた。あなたは王太子の婚約者候補という(くびき)から解き放たれて、自分の道を探して切り開いて行った。

 そして、そこにとどまったのは、私の意志。


 だから、と彼女に告げる。物心つく前からそばにいて、置かれた環境から常に競い合い比較され、時にははげまし合う、同じような立場に置かれた唯一の仲間。


 テレーゼ、ともう一度その名を呼ぶ。私の言葉にどこか愕然とした表情の彼女に向かって、今までの感謝と好意を。

 こんなところまで乗り込んできてくれた、その友情に。


『今までありがとう。そして──さようなら』


 私はもう、引き返さない。

 幼いあの時に、私の心は決まった。あの方をそばで支え、その心を癒し守り、安らげる存在でありたいと──そう願った。


 そしてこれは、今の私に残された、最初で最後の好機。あの人よりもそばに近付ける、私の唯一の機会。


 だから、邪魔をしないで。テレーゼ。私には、もうこの手しか残っていない。どんな形でもいい。あの方の──クリストファー殿下の、唯一の女性になれるのなら。



 だから、と思い出をふり切り、止まった馬車から病の蔓延した表へ出る。


 王都サウーラにある、王城と等しく人々の尊敬と注目を集める場所。英雄王が祀られた神殿、カルロ。


 ここは今、灰色の悪夢、その病に感染した者たちの病床の施設となっている。殿下と中枢部が決定して、そして開け放たれた。英雄王の亡骸が眠る、国の象徴と言っても過言ではない場所なのに。


 同じくして、各領地に設置されている神殿各所も、病人を受け容れる施設になった。それゆえに……十六年前とは異なり、感染者を忌避する風潮も、また害する空気もなく、病人は優先的に神殿へ受け容れられている。


 王都へ押し寄せる人々が少ないのも道理だ。殿下はひっしに対策を講じられている。私の行為は、その意に反したものだろう。


 馬車から降りた私に、「聖女さまが来られた!」と、歓喜の声が出迎える。


 貴族たちは皆、灰色の悪夢の感染をおそれて家から出てこない。令嬢たちなんてもっての他だ。でも、病人がいる場所へおそれず慰問し、声をかけてまわる私の人気は高まるばかり。

 私がいれば病には罹らない、なんて、そんな噂まで広まっている。


 その私が、神殿を訪問した後には必ず王宮へ上がる。感染者数の報告と現状を伝えるためだが、民衆はそうは見ない。


 ──私が、次期王太子妃になるのだろうと。


 病の広がりや開戦がささやかれている今、王太子殿下の成婚に向けてのにぎわいや準備は、見る間に消えた。「虫かぶり姫」の人気も。


 私こそが王太子妃にふさわしい──。そんな声は真実味を帯びて広まっていってる。国の危機を受けて、すでにお二方の仲は世継ぎをもうけるまでだ──との声も。


「…………」


 出所は言わずと知れている。でもかまわない。

 今まで目立たない存在だった令嬢が突然、人々に注目され、祭り上げられる存在になった。でもそれは、あの人だって一緒だ。


 私と彼女の違い。

 それは──クリストファー殿下に選ばれた者と、選ばれなかった者。ただそれだけ。


 ミア──、と彼女の声がなぜかよみがえる。決別を告げて背を向けた私に、かけられた声。


『あなたのしていることは、ほんとうに正しいの──?』と、彼女らしい凛然とした声音で。


 答えず去る私に、その声音が感情をあらわにふるえて乱れた。


『馬鹿よ……あなたは、大馬鹿者よ……』


 神殿の奥、英雄王カルロの像が立つそれを見上げて思う。

 生涯ただ一人、泉の乙女セイシェーラを心から愛したとされる英雄王。でも、と問いかける。その血統を残すために、あなたに嫁いだ姫君たち。その人たちに、心がなかったと思いますか。


 あなたと泉の乙女の純愛ばかりが後世には残っている。でも、他にあなたを愛し、愛されたいと願った者がいなかったとでも──?


 ぎゅっと両手をにぎって、拝礼の下で自身の答えをおのれに刻む。


 あなたたちだけの純愛が、世の中のすべてではない──。





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