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冬下虫の見る夢─7




「ネタ……ですか」


 それを追ってサウズリンドまでやって来たのなら、我が国にも関わることのはずです。思い当たるものはひとつしかありませんでした。


「……病に、関してのことでしょうか」


 マルドゥラ国にも広まっているという灰色の悪夢。使節団がやって来て陛下が病に倒れ、強攻派が開戦を推し進める事態になりました。


 にやりと笑ったアーヴィンさまが、「まあ、それもあるが……」と懐から小さな塊を取り出します。見つめる前で包みから出てきたのは、なんの変哲もない石でした。


「これは……?」

「これは、今うちで産出が追い付かなくなる勢いの鉱石だ。……ラルシェンの土地やノルン国でも取れる、蒸し風呂に使われる火石があるだろう? あれと似た性質で──さらに質がよいと、ここ一年ほどで評判になってな。海の向こうの大陸で金貨の山になって返ってくる」


 まあ、と目をしばたたきました。火石はこの辺りの鉱山で取れる鉱石ですが、ふつうの石をただ熱するより、一度高温まで熱するとほぼ一日中、その温度を保っているのが特徴でした。


 様々な燃料に応用され、最近では航海技術に応用する動きも出てきていると聞きますが、それを上回る性質を持った鉱石──。


 隣のメイベルがわたしに食事を勧めながら、不審そうに眉をひそめました。


「それが我が国となんの関わりがあるのです」

「いえ……待って」


 海の向こうで、という言葉が気にかかりました。サウズリンドでは知られていない。けれど、海の向こうで金貨の山になる──。


 考え込んだわたしはまさか、と思い当たりました。面白そうな表情のアーヴィンさまに目を上げ、答えを確かめようとします。


「わたしが何者かに狙われたのは、立場からではなく──マルドゥラ国との友好を阻止するため……?」


 え、とメイベルが驚いた様子でわたしを見返してきます。

 王太子婚約者という立場から政敵に狙われるのはあり得ることです。しかし、今わたしがいなくなることで婚約者の座以外に得る利益があるのだとしたら──。



「……マルドゥラ国が海に弱いことは知られています。海上貿易も盛んではない。その鉱石の取り引き相手は西の国──いえ。サウズリンド国内に、それを密輸入する者がいる。だから、サウズリンドとマルドゥラの間に国交が結ばれ、正常な取引と関税がかけられたら、不当な手段で得ていた利益はなくなる」


 再度、アーヴィンさまの口元に皮肉げな笑みが浮かびました。


「──だから言っただろう? 今あんたが何者かに暗殺なんてされて、それがうちのせいにされたら……まあ、国交なんて断絶状態に戻るのは目に見えてるな」


 隣のメイベルが驚きを押さえるように胸元に手を置きます。そして襲撃の恐怖を思い出したように、そっと辺りに目をやりました。


 まだ考えに沈んでいたわたしは、アーヴィンさまの続いた言葉に別な疑問を抱きました。この方はなぜ、そんなに物事を斜に見る考えが身についたのだろうと。


「まあ、切っ掛けはあんたにしろ国王にしろ、戦が起こったら今のところうちに勝ち目はないな。なにしろ病人だらけだ。うちを敗戦国に追い込んで、こいつを生みだす鉱山を分捕れたら、黒幕は万々歳──ってところか」


 指先で鉱石をもてあそびながら、アーヴィンさまは酒杯を口に運んでいます。横の従者の方が生真面目に咎める目を投げており、それは違う、とわたしは彼を見返しました。


「それでは、あなた方がここまで来られた理由がわかりません。黒幕……は、おそらく、マルドゥラとの戦が起こっても起こらなくてもどちらでもいい。──国交さえ、阻止できれば」


 見据えられる黒い眸に、わたしも真っすぐ返しました。


「サウズリンドに不当に利益を得ている者がいるように、マルドゥラ国内にも鉱石を流出させている者がいる。──アーヴィンさまたちは、それを探りに来たのですね」


 しばしの間を置いて、フッとその口元に笑いが浮かびました。黒い眸に、誘いかけるようなあやしさも乗せて。


「どうかな。前に宣言した通り……あんたをさらいに来た、と言ったら?」


 音を立てて隣のメイベルが席を立ちかけるのに、わたしは急いで止めました。アランさまの歌声に皆の注意がそちらへ向かっているのに、視線を集めたくはありません。

 この方特有のからかいなのだとなだめかけて、レイという従者のあきれたため息がもれました。


「まったく……毎度のこととは言え、人のものとなると手に入れたくなる、その悪癖はどうにかしていただけませんかね」


 ……あらまあ、とわたしとメイベルの等しく冷たい目が向かいました。アーヴィンさまがちょっと心外そうに言い訳を口にします。


「人聞きの悪いことを言うな。そんな趣味で他国の人間に手を出せるか。しかも、特大級のヤバそうなヤツがついてる相手に」


「そういうお相手ほど燃えるのでは?」

「それは一理あるが──俺だって、遊びとそうじゃない相手ぐらい見極めてる」


 断言するアーヴィンさまに、わたしとメイベルの目がますます冷たくなっているのですが……、アーヴィンさまは気付いていらっしゃるのでしょうか。

 もうひとつ息をついた従者の方が、次いでとんでもない発言を投げてきました。


「そもそも──狙われそうな一番の理由など、その方ご自身にあるじゃないですか」

「…………」


 皆の視線を向けられたわたしは、はて、と首をかしげてしまいます。王太子婚約者、マルドゥラ国との友好を推進する者、それ以外に狙われる理由があったでしょうか。

 従者の方はあきれたように第三の視点を告げてきます。


「あなたが王太子の子を宿している可能性ですよ」

「え……!?」


 声を上げたのはメイベルとジャンで、アーヴィンさまは静かに黒い眸を光らせます。「すでにお手付きか?」と。


 ……わたしは淑女のあるべき矜持として、身の潔白を申し立てるべきでしょうか。

 従者の方は何が問題なのかわからないといった様子で口にしています。これがお国柄の違いというものでしょうか。


「うちではよくあることでしょう。成婚式と子どもの誕生日が合わないことなど。サウズリンドでは古式ゆかしい因習が慮られているようですが……まあ、あいまいにされている部分もあるのでは?」


 ハッとしたようにメイベルがわたしに思い当たった目を向けてきます。


「道中、たしかにそのような話題が……。あぁ、助産婦の家のわたしが侍女に選ばれたのは、そういった理由が……」


 ……誤解です、メイベル。

 ハハハと乾いた笑いを発したのが、従僕のジャンでした。


「ないッスよ、ないない。こんな色気のないお嬢が魔王と一線ならぬ一戦交えてたら、筋肉ムキムキの鉱山夫だって妊娠しちゃうってなもんッスよ」


 ……言っていることが色々おかしいです、ジャン。

 わたしは自身の潔白をどう証明しようかと思案していたのですが、ジャンが一人で、


「勘弁してくださいよ。オレが皮算用ならぬ、狸から生皮はがされかねないじゃないッスか。……お嬢はほぼ書庫室に入り浸りだったッス。お手付きになるヒマなんてナイナイ。色気皆無なところからしてわかるじゃないッスか……自分が昼寝してたせいじゃないッスよ。ええ、はい……」


 まるで言い訳の予習をしているつぶやきに、彼のお代わり分を激辛にするぐらいでとりあえず腹を収めようと決めました。

 コホン、とおかしな空気をあらためます。


「つまり、わたしが狙われるのは、そういった理由も考えられると。留意はしますが……立場上、狙われるのは仕方のないことです。それよりも、早くアレクセイさまと連絡を取らないと……」


 為すべきことが中途なままです。暴動も、病人の保護も、感染の広がりを把握するのも。

 なにより──、と考えていたわたしの隣で、落ち着きを取り戻したメイベルが疑心の声を紡ぎました。


「黒幕とやらの存在も考慮すべきなのはわかりました。ですが、今は一番に疑ってかかるべき者たちがいるのでは?」


 え、と上げた目の先で、きつい視線をアーヴィンさまたちに向けたメイベルがいました。


「エリ……エルは人が好すぎますわ。この方たちの正体と立場を考えれば、あなたを人質にとって殿下と交渉しようとする可能性だってあるじゃないですか」


 ハッとわたしもその可能性に思い当たりました。軍部の強攻派に拘束されたという、マルドゥラ使節団。その代表者は、アーヴィンさまの兄君だと聞きました。


 緊張を覚えながら、いえ、でもと思い直すわたしに、アーヴィンさまは楽しそうに笑っています。「そういう手もあるな」とどこまで本気かわからない口調で。


 従者の方がもう一度ため息をつき、わたしが思い直した内容をメイベルに告げました。


「疑われるのは勝手ですが。今両国の関係を悪化させて喜ぶのは、あなたがお守りするそちらの方を狙う者だけだと思いますがね」


 メイベルが眉をひそめて押し黙り、わたしも小さくはない息をつきました。殿下はいつも、このように様々な方向からの考え方を強いられているのだと、その大変さを実感した思いで。


 小さく笑ったアーヴィンさまが鉱石をしまって軽い口調で続けます。「疑いなら、こっちにもあるな」と面白そうな様子で。


「身の安全を図るなら、真っすぐ伯爵邸に戻るべきだ。もしくは、町の実力者のもとへ向かうとかな。それをせず、この町までやって来て身分を隠してる。──それはなぜだ?」


 メイベルの動揺がわたしにも伝染したようでした。追手から逃げ、確実に身の安全が確定される場へ着くまで、身分を隠すこと。──そう提案して、道案内をして来たのは。



「……うーん。なんか空気が重かったりします?」


 場の雰囲気を意にしたふうもなく、わたしの背後に現われたアランさまが卓の水差しから空の杯に注いで一息にあおりました。

 どうやら戯曲が一段落ついて、休憩を挟みに来られたようです。椅子を勧めると、いつもと変わらぬ調子で腰掛けました。


「あー、ボクもお腹空いたな。エルの提案したこの料理、見た目も面白くて評判上々だね。宿屋のご亭主、炒ったパンだけ一回お代わり可能にして、別料金でチーズを乗せる手法も取ってる。商売人だねー」


 明るく口にしながら、ちょうど運ばれてきた料理に手をつけます。

 わたしたちの視線を一身に集めているのがわかったように、小さな笑いをもらしました。裏のない、アランさまらしいくったくなさで。


「もしかしてボク、この町に案内してきたことで疑われてたりします?」


 クスクスと笑うと、かるく肩をすくめました。


「ボクじゃないですよー。ちょっと色々、変則的なことは起こってますけど。ここに誘導してきたのは、とある方からの指示があったからです」


 疑惑をあっさり認めたアランさまが、懐から一通の手紙を差し出してきました。見慣れた筆跡で書かれた、その()


 それだけで、ずっとこらえていた、あふれだすような想いがわたしの中から広がっていくのがわかりました。


 たったひとつの宛名。わたしに呼び掛ける、その一言だけで。

 ふるえる手で受け取ったわたしは、その文字をそっと、封筒の上からなでました。まるで、遠く離れた地にいる方に応えるように。


 記された自分の名前──エリアーナへ、と綴られた文字を。






 ~・~・~・~・~





 ──親愛なる、エリアーナ。


 書きだした手を、ふと思うように止めた。

 新年が明け、王太子の成婚の儀へ向けて浮き足立つ気配の中、落とされた歴史的な訪問団の情報。公務で王都を離れるエリアーナの護衛として呼び寄せた黒翼騎士団。


 二日後に、彼女は自分のもとから出立する。今はその準備で忙しないことだろう。想うように視線は彼女の定位置へ向かった。


 王太子である自分の婚約者として王宮に上がるようになってから、その大半の時間をこの執務室で読書する姿を見てきた。

 昔──と、書き綴ろうとした内容とはまったく異なる思いが、一度思考をそちらへ向けると見る間にあの時へ戻った。




 昔──。

 出逢ったばかりの頃は、遊戯のような感覚で彼女の姿を探していた。


 王都サウーラにある王立図書館は、子どもの目にも迷子になりそうなほど広く、約束をしているわけでも、今日はこの書棚にいると教えてくれたわけでもない彼女を探すのは、けっこうな推理と努力がいった。


 一応、この国の唯一の直系王子である自分は、幼少の身といえど自由に許された時間は限られている。その限られた時間内で、この広い図書館の中からたった一人を見付けだす。


 それは当初、難問を出してくる王家付きの教師の鼻を明かしてやる、遊びにも似た心境だった。


 教師の中には、ひたすら王家に心酔しているようで、自分より賢しい能力──それも小さな子どもが相手と見ると、とたんに今の内に世間の厳しさを教えてやろうと笠に出てくる者がいる。そういった者の鼻を明かしてやるのは、遊戯にも似た楽しさだった。


 ──エリィに逢った当初も、そんな思いだったのだ。


 明らかに身分が上の自分に向かって容赦なく手を上げ、叱り飛ばしてきた少女。自らも貴族社会で生きているようなのは、王立図書館に出入りしている身分と身なりからわかった。


 変わった娘だ、と思ったのは確かだ。

 身分社会を理解した上で、たかだか本のために立場をかえりみることなく、本気で怒ってくる。頭では理解していても、身にしみついていない世間知らずか? と思った。


 ともかくその場は驚きもあったが、自分の未熟さや物に八つ当たりする態度を恥じて反省した。


 そうして変わった少女と対話してみようとしたのだが……まあ、会話はままならなかった。読書をはじめたら、どれだけ話しかけても見向きもされない。……この僕が。


 では、女の子や女性が等しく好みな、甘い菓子、可愛らしい花束、王都で人気の話題ならどうだ──と挑んでみれば。


 読書が終わってその読後感に浸っていたのか、勧めた菓子を疑いもなく口に運ぶ少女に、警戒心は大丈夫かと心配を覚え──その次の、とんでもない顔にこちらのほうが面食らった。


 なんだ。僕は甘味と間違えて激渋果実でも持ってきたか。いや、王宮の料理人が用意した菓子だ。……いや。女の子って、こういう顔もするんだ。


 動けない僕に代わって気の利く古参侍従が水を持ってくる。……僕の立場がない。

 水を飲み干した少女がようやく息をつく。


『……甘いものは苦手なんです』

 すみません、と口にしたが、僕に向ける目は警戒心があらわだ。……僕は不審者じゃない。


 王宮庭園の庭師に頼んだ、女の子好みな花束。まあ、どこかで想像した通り興味を惹かれた様子はなく、花の薬効を説明されて終わった。

 これはきみのために用意させたものなんだけれど……僕に持って帰れと。


 そしてやはり、王都で人気の話題より、最近見付かった歴史家の未発表論文などという、ごく一部の研究者しか関心を示さないものに目を輝かせている。

 ……僕の存在ってなんだっけ……?


 古参侍従が何度も後ろで笑いをこらえていたのはわかっていたが、僕もだんだん、後には引けなくなってきた。


 手強い難問。いいだろう。受けて立ってやる。

 興味本位。お遊び感覚。……たぶん、はじめはそんな軽い気持ちだった。



 昨日は、人体模型図や医学書関連の本を読みあさっていた。今日も同じ書棚か? いや、そうと見せかけて人体模型を描写する美術関連の書棚とか……。

 推理力を働かせて書棚をまわったら、怪奇物語を集めた書架にいた。……彼女の思考回路はどうなっているのだろう。


 窓辺の椅子に座って読書している姿はちょっとめずらしかった。なにしろ彼女がいるのは地上にかぎらない。梯子の上を独占していることはしょっちゅうだ。

 視点を変える、という姿勢も教わった気分で、本の題名をのぞき込んでふしぎに思った。女の子が読んで怖くないのかなと。


 すると、そこに開いた窓から一匹の飛蝗(バッタ)が飛び込んできた。飛蝗はあろうことか、少女の頭で翅を休める。


 ……ここは紳士的に、そっと追い払ってやるべきか?


 そう思った僕の前で、開いた(ページ)に降り立った飛蝗と少女の目線が合わさる光景を見た。──よし。女の子は虫が大っきらい。悲鳴を上げたら僕が颯爽と──。


「…………」


 少女は男前に飛蝗をつかむと、窓辺から外へ逃がした。そしてなんでもないことのように読書に戻る。一瞬の出来事。……僕の出番がない。


 勇んで乗りだしかけた僕の動きと空ぶりに、背後の古参侍従が吹きだして笑いをこらえたのがわかる。

 ……うるさいな。僕だって色々想定外なんだ。


 ふてくされた気分で少女の読む本から推理を働かせる。子ども向けに書かれたものだけれど、けっこうおどろおどろしかったよな、と。……あ、でもたしか、この著者は医学も収めた経歴の持ち主だったはず。なるほど、と正解にたどり着いた満足感でうなずく。


 ……いや待て、僕。


 なに推理の正解を得て満足した、少年探偵の気分になっているんだ。そもそも僕は、この手強い難問を攻略してやろうと思い立ったわけで。


「…………」


 そもそも、と僕はほんとうに唐突に我に返った。なぜ、この少女は難問なんだ──?


 めずらしい人間なら、今までにもいた。興味を惹かれる人物も、変わった性格の持ち主も。それは老若男女問わず。

 なのに、なぜ彼女だけが難問なのか。


『医者の図書館があればいいのに』などと変わった発想を持っていたからか。母親との溝を取っ払ってくれたからか。変わった視点を色々と教えてくれるからか。


 解きほぐしたいと思ったのは──、今まで、たいていのことは話して共有する幼馴染のアレクやグレンにも話さず、自分だけの秘密にしているのは。

 毎日、この図書館に通い詰めて彼女を探し求めていたのは。


 僕だけの、宝物だったから。


 興味本位とかお遊び感覚とか、たぶんはじめから認識が間違っていた。大切なもののためなら、我が身をかえりみず真剣に怒れる彼女にはじめから惹かれていた。


 小さく、その名をつぶやいてみる。

 まあ……、やっぱり顔は上げてくれない。でもいい。


 ……なんだ、と肩に張っていた力がぬけた。ずっと、解き明かせない難問に挑んで空ぶって、ムキになる気分だった。自分の知る例題や人物像に収めようとしていた。


 でも、もういい。難問のままでいいんだ。だれにも解けない、難問のままでいて。

 きみが本に向ける眼差しを、僕がきっと、自分にも向けさせてみせるから。


「……エリィ」


 ふわふわと、窓辺からそよぐ風に動く髪を見て、ふれたい思いをこらえて、そっと、ささやきをこぼした。




 そうして自覚した想いとともに急いた僕は、見事に失敗した。


 もう……いつもの図書館に行っても、どこを探しても、少女の姿は見付けられない。推理することも、彼女の気を惹く思案をするのも無意味だ。

 ふわふわと揺れる、日差しに溶けそうな甘い髪の色を目で楽しむこともできない。僕は、自分で自分の宝物を失った。




 だから──、とあの時の喪失感を思い出して、今の自分が羽ペンをにぎりしめる。同じ思いも後悔も、二度としない。


 不審な点は様々あった。

 確定的になったのは、昨年の狩猟祭。マルドゥラの要人とサウズリンドの中心人物を狙って賊が入り込んだ。


 調べを本格的に進めていくうち、ミゼラル公国での動きにも行き当たり……同じく、別方向から調べていたミゼラルのラモンド夫人──ミレーユ元大公女との情報交換に至る結果になった。

 そこから得た情報と、財務室や他部署から上げられてくる情報と過去の事実。それらを照らし合わせて行くと……予測したくない事態が浮かび上がった。


 ──灰色の悪夢が再発する可能性がある。

 いや、すでにその兆候はマルドゥラ国内で起こっている。では、どうする。


「……っ」


 答えはひとつしかなかった。

 エリアーナに、託す。


 予測する事態の中で、自分が動くのはおそらく難しい。いや、自分が動くことで黒幕がまたも隠れて、潜伏するだろう予想は難くない。


 繰り返してはならない。根を、断たなければ。


 ではどうする、と考えた時、確実に信用ができて、なおかつ、この事態を打破することができる可能性のある者──。


 エリアーナ。


 いつもの彼女の定位置に視線を止めて、自責と疑問がせめぎ合う。ほんとうにこれが正しいのか。自分の不甲斐なさを彼女に押し付けてはいないか。もっと他に……。


 クッと、一度固く眸を閉ざした。

 事態はすでに動き出している。今託せる存在と可能性があるのは彼女のみ。この手紙が届かなければいいと思いながら、きっと届くだろうという確信もある。


 だから……、と覚悟を決めた。


 すべての事情と流れをここに記す。もう昔とは違う。自分が一人でお膳立てして、彼女を王太子婚約者として立てた自覚はある。けれど、彼女はそこから自分で考え、顔を上げて応えてくれた。


 私の、将来の王太子妃として。──ともに歩む、隣に立つ者として。


 エリアーナ……、と言葉にならない想いと希望を託す思いで、すべての内情をしたためて彼女に伝える。


 ……あらかじめ、すべてを話しておく道も考えた。しかし、自分とエリアーナの近くにいる裏切り者の可能性も捨てきれない今は、なにが命取りになるかわからない。……自分の考えが、外れていないともかぎらない。


 手紙は保険だ。そして切り札は、エリアーナ、きみだ。


 今は、きみの手を離す。過保護に囲い込んで、危険から遠ざけるだけが愛情じゃないと信じてる。昔──僕は失敗した。


 きみの気持ちも自分の置かれた状況もかえりみず、ただ無闇にきみを求めて、今まで見たこともない古狸たちを相手取る事態になった。父上と宰相が小声で「……ガンバレ、希望の星」なんて、まったく心のこもってない応援をしていたのも知ってる。

 きみを自分の婚約者として王宮に迎えてからも、どこかで自分は、変わらない難問に楽しんでいた節があるのも否めない。


 でも……いつからか、そんな気分はとうに失せて。


 本以外に興味を示す姿も、関わる人々と慣れない風にとまどいながら、関係を構築していくのも──時折、失敗して落ち込み、迷って悩む姿、努力する姿勢もすべて見てきた。


「…………」


 エリィ、と言葉にならない想いを込める。

 きみを危険に巻き込む。今は、自分のどんな感情も押し込めて、この事態にあたる。きみが応えてくれた、その信頼に恥じない、おのれであるために。



 鍵がある──と手掛りを記す。

 灰色の悪夢が再発する可能性を得てから、知り得た情報のすべて。この事態を打開する、唯一とも言える取っ掛かり。


 ──ヒューリアの壺。


 それを持つ人物が、ハーシェの鉱山街にいる。そしてそれは、おそらく。

 エリアーナ、きみにしかひも解けない──。






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