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冬下虫の見る夢─4




 黒翼騎士団、セオデン・バクラ将軍死亡──。


 その衝撃は重臣のみが集められた早朝の室内に、凍り付いたような沈黙と恐怖をもたらした。

 先王陛下の時代に圧倒的な力と勝利でもって、サウズリンドを守った国の英雄。その死──。


 ここ最近、会議がはじまると真っ先に口を開いていた軍部の強攻派。その彼らでさえも、衝撃そのままに静まり返っている。

 王太子、クリストファーの声は冷ややかなほどの静けさで響いた。


「バクラ将軍の訃報は事態が落ち着くまで、伏せることとする」


 ザワリと室内には動揺が広がる。しかし! とすぐさま反応したのは、何にでも反発したい強攻派だ。それも一瞬で、クリスの投げた視線に封じられる。


「疫病の広がりに加え、マルドゥラ国との戦もはじまるのではないかと、民の間には不安とおびえが広まっている。そんなところに、正体不明の襲撃者によって国の英雄が害された報せまで与えるわけにはいかない」


 至極もっともな言葉に強攻派も黙り込んだ。開戦を推しているこの時に、国の英雄の死は彼らにとっても痛手だろう。


「──グリマ・ボウエン」


 次にクリスが名指ししたのは、二手に分かれた黒翼騎士団のうち、王都に残ってマルドゥラ使節団を護衛していた分隊長だった。四十代半ばほどの男に引き継ぎを命じ、その他、襲撃者の割り出し等指示を出していくクリスの様子は、いやに淡々としている。


 それはいっそ、寒気を覚えるほど──。


 護衛する王太子の背後、室内の一角で息を静めながら、俺グレン・アイゼナッハは胸にわだかまる嫌な気分を感じていた。


 通常、王太子付きの護衛とはいえ、重臣の会議の場に帯剣した者が控えることはできない。それが許されている唯一の人物は、国王陛下よりその位を下賜された、近衛大将軍である父のみ。だが今、自分たち王太子付きの近衛三名も室内に控えることが許されている。


 それは、王家の人間に危機的状況がせまっているという、その証しに他ならない。


 国の要たる王が倒れ、その姉であるシュトラッサー公爵夫人も同じ病で倒れた。王家の人間が立て続けに二人。これを王家の危機と見ずに何をそれと言う。


 冷静に重臣たちと討議する幼馴染を見て、……危ういのではないか、と今までにない感覚を覚えていた。


 これまでのクリスは、どんなに追い詰められた場面であろうと、余裕をもった態度を崩さなかった。それは、クリスを支える揺るぎないものがあったからなのだと、改めて思い知らされる。


 多少奔放な行動をとっても、その背後には父親である国王がいた。保守派が眉をひそめる政策に着手するにあたっても、その基盤や評判を得ている婚約者の存在と、遺漏なく根回しをしていくアレクセイの手腕があった。


 なにより──心の拠り所の存在があったからこそ、クリスはこれまでの難事にも真の意味で追い詰められることはなく、余裕をもって乗り越えて来られたのではないか。


 一番に守りたい者がそばにいた。それゆえの、余裕と不敵さ──。


 そして、その存在に対する議論が上がり、切られた口火にさらに息も止まる思いだった。



「──逃げだしたのではありませんか」


 王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタイン侯爵令嬢、生死不明。その報に対して、一番に声を上げたのが予想通りというか、王権派オーフェン公爵系統のブラント伯爵だった。


 少なくはない驚きと反発の空気が走ったそこに、賛同の声が続く。やはり公爵家の派閥から。


「あり得ますな。暴動を鎮めるとは口先だけで、その実、おそろしくて逃げだした。なにしろ、本の世界しか知らぬ虫かぶり姫だ。現実の病人や感染の恐怖におそれをなして逃げだした。その可能性は充分にありますな」


 あからさまな非難と愚弄に反する声は少ない。クリスとエリアーナ嬢を支持する層は中堅どころの貴族、若手の役人、なにより民のほうに多い。重臣たちの考えはどちらかと言えば、保守的なオーディン公爵よりだ。


 そして──。


「なるほど。王太子婚約者殿はそもそも、マルドゥラ国との友誼を唱えたお方でしたな。使節団を招き入れたことで病が広まる要因にもなった。その責任を取ることにおそれ慄いて、逃げだした──と」


 いやはや、とわざとらしく嘲笑をあらわにしたのはもちろん、軍部の強攻派だ。その視線は明らかに、中立派で黙する話題の人物の父親へ向けられる。

 責任を問うような、もっともらしいいやらしさで。


「これは、王太子婚約者の資質が問われる、由々しき事態ではありませんかな」


 まるで、エリアーナ嬢が逃げだしたのは事実であると言わんばかりの口ぶり。

 同意する強攻派と王権派の主立った面々はこんな時ばかり、意見を同じくしている。──双方の目的は、軍部を縮小させるベルンシュタイン侯爵を失脚させ、同じく従来の考えとは異なる思考の持ち主、エリアーナ・ベルンシュタイン嬢を追い落とす。そうして──。


 ああ、とわざとらしく上がった声は、人一人──それも自国の王太子婚約者が生死不明であると、それを知らされ、議論している者とは思えない明るさだった。


「今王都で上がっている、良い評判もあるではないですか」


 おお、と賛同するあざとい声に、にぎりしめた拳に痛みが走ったほどだった。今ここで上げる話題ではないだろうが……!

 誇らしげにその説明をし出したのが、ブラント伯爵だ。


「灰色の悪夢の発生で民の間には不安が広まっています。王都の施療院は、感染の予防を求める者たちで大混雑ですよ。そして、病に効くというポメロの実。予防にも効き目があると大評判で、十六年前の発生時から、もしもの時に備えて乾燥させたものをディアナ商会は保管していました。そして、それを分け隔てなく、貧しい民や子どもたちに配るファーミア公爵令嬢は、今や、聖女さまの呼び声が高くていらっしゃる……! まさに、サウズリンドの救い主といっても過言ではありませんな!」


 絶賛する声に続く、色めく声。反射的に出かかった声を、奥歯を噛みしめることでどうにかこらえた。


 ふざけるな、と。


 エリアーナ嬢の性格や、これまでの功績からして、自ら暴動を鎮めに向かったのは間違いない。そして、いつか再び、起こるやも知れない病に対し、治療薬の研究を地道に支援し続けてきたのも、エリアーナ嬢だ。


 さらに──王都に設立された施療院と医療の学び舎。

 それは、クリスがエリアーナ嬢と知り合った十年前のその時会話した発案を切っ掛けに、クリスが十年近くかけて手配を進め、ようやく設立されたものと聞き及ぶ。設立者にも、エリアーナ嬢の名前がある。そこで民の評判を取っているファーミア公爵令嬢。


 言葉が悪いのは承知で思う。──それは、乗っ取りではないのか。


 こんな事態なのに、嬉々として公爵家の功績を口にし、それを声高にうたい上げるブラント伯爵。


「エリアーナ嬢のこれまでの功績は存じ上げているが……しかし、このような事態になると、さて。今のサウズリンドにとって最も重要な方──。それを考え直す必要があるのではないですかな」


 それはつまり、王太子婚約者を交替させるという示唆に他ならない。


 賛同する者たちは「逃げだされるような方よりも……」と、すでにエリアーナ嬢の罪を確定した口ぶりだ。それに対して、王の座にいるクリスは一言も発しない。


 気配すら動かさない様子を見て、さらに胸にわだかまる思いが強くなる。

 そこに響いた、厳しい声だった。


「──大概にされたら如何か」


 王権派の中でも重鎮として名高いカスール伯爵だった。声音のままの面持ちで、同じ王権派の者たちへ視線を投げる。


「エリアーナ嬢は国が正式に成婚の日取りを決めた、妃殿下となられる予定のお方だ。むしろ、その方がバクラ将軍同様、正体不明の襲撃者によって生死不明になられた。この事態を国の有事と捉えず邪推に走る者たちは、国の決定に対して思うところがあってか」


 今さら、という言外の響きに、ブラント伯爵らにもひるむ色が走った。

 代々の忠義の家系、カスール伯爵の言は重い。そして、王権派も一枚岩ではない。軍部が中立よりの近衛大将軍である父親と、強攻派に分かれているように。



 その強攻派はやはりと言うか、今度は違う角度からエリアーナ嬢の失態を責め立ててくる。──そもそも、女の身で暴動を鎮めようなどと、でしゃばった真似をするからこのような事態になったのではないか。そのために巻き込まれたバクラ将軍こそ被害者だ。この責任は──等々、飽きずに繰り返される議論。


 大きく吐きそうになった息を喉の奥でこらえた。

 これに毎回辛抱強く付き合っているクリスと父親を、あらためて尊敬する。自分だったら、早々に倦厭して地方の実部隊を志願していただろう。だが──、と自分のように逃げ場のない背中を見て、気持ちをあらためる。


 その背を預けられる場所を守ると、自身で決めた。それはたぶん──、とうの昔に。


 そこに、「お静かに」とひどく冷静に響く声があった。少し瞬く思いになったのは、それが中立派の代表、サウズリンドの宰相だったからだ。

 常には影の薄そうな宰相が場の調停を保つ様子ながら、めずらしく独断的な口調で流れを定めた。


「カスール伯爵の言に正統性がありましょう。エリアーナ・ベルンシュタイン嬢は、次期王太子妃と定められたお方です。その方を襲撃した行為。これは、王家と国への反逆に等しい。バクラ将軍の件同様、国の最有事と捉えるべきでしょう」


 それはどう捉えるべきか、室内の三派閥をとまどわせる方針だったようだ。

 額面通り、国が定めた事項に忠実であるようで、襲撃された、と過去形であるのは次を見据えた言葉にも受け取れ──、どちらにもやさしくはない流れだった。


 ……さすが、宰相位にあるだけの人物だと苦い感心を覚え、そこに指示を出していくクリスの言葉に、嫌な思いの正体を知った。


「王都の施療院だが、あの施設は民のために建てられている。そこで施される行為がその目的に準じているならば、私に否むところはない」


 小さくはない驚きが走ったようだった。王太子クリストファーがエリアーナ嬢と共同して建てた施設。そこでの行為を認める発言。


 それは、王子としては公平な言葉だろう。だが……クリスらしくない。

 エリアーナ嬢に関することとなると、簡単に感情をあらわにしていたこれまでと比べると、まるで、別の人間を見ているような気がする。


 それがおそらく、他の者にも伝わっているのだろう。とまどうような空気と、王太子の考えを見定めようとする思惑とで、交錯する気配だった。


 知らず、拳にこもる力に先の光景を思い出していた。クリスを呪縛したのではないかという、あの言葉も。


 ──クリス。きみはこの国の王子だ。


 自らが手にかけた命。友人でもあるその男が残した言葉。それに捉われて、クリスは変わろうとしているのではないか──。

 自らが執着したエリアーナ嬢より、自身が手にかけた命の重み。それを、おのれの咎として。


「…………」

 会議の間中、にぎりしめた拳の力が解かれることはついぞなかった。









 ~・~・~・~・~




 サウズリンド王国、北東に位置する鉱山の多い土地ラルシェン。隣のアズール地方とを結ぶ街道沿いは、冬場でもにぎわう。


 アズールからの出稼ぎの者たちで往来が途切れないからだ。しかし、ここ数日はその往来もパッタリ途絶えた。


 かつてサウズリンドを席巻した病、灰色の悪夢。その発生が確認されたために。


 街道沿いの一軒の宿屋で、ドッとわいた笑声があった。病の広がりで暗い雰囲気と閑散としがちだった昨今では、めずらしい光景だ。

 弦楽器を片手に、地方の片田舎では聞いたこともない華やかな声が音に乗って響く。



「──そこで、一人の男が名乗り上げた。『自分──生まれも育ちも王都サウーラ下町、英雄王の神殿で産湯を使い、姓はカー、名をトラオウと申します。人呼んで、転がしの猛獣使いとは自分のことです。そのじゃじゃ馬なる姫君、自分が見事乗りこなしてみせましょう』──そう宣言した男に、ご令嬢はもちろん怒り狂う。愛用の鞭を片手に、『なんて生意気な! いいわ、私が反対に躾けて差し上げてよ!』と高らかに笑う。さあさあ──、ここに猛獣使いとじゃじゃ馬姫の対決がはじまった。二人の行く末は如何に!」



 効果的にかき鳴らされたリュートの音に、やんややんやの喝采。オヤジ! と催促された空の杯に、やれやれと代わりを注いでまわった。


 しがない宿屋兼、食事処の亭主である自分だが、どうも妙な客を引き入れた感が否めない。


 ふだんは鉱山夫や人夫、行商人がもっぱらの客を占めるために、ここらの街道沿いはけっしてお行儀がよろしいとは言い難い。自分の店はよけいなもめ事を避けるために商売女を置いたりはせず、食事と寝泊まりだけが目的の、良心的な中堅どころ──と思っていたが。


 今夜のにぎわいはどうだろう。


 病の広がりでだれもが自粛して家に閉じこもる風潮だったのに、めったにない笑声と明るさに近隣からも人が集まって来ているようだ。

 商売繁盛は喜ばしい。……が、この歌い手。旅芸人にしては、やはりどうも妙だと思わざるを得ない。


 蜂蜜色の髪に抜け目のなさそうな翆緑色の眸。少年と青年の狭間のような年頃と人の警戒心をすり抜ける、無邪気な雰囲気。それを活かして見事にお足を稼いでいる。

 それが王都の歌劇場にいてもおかしくはなさそうな腕前と容姿に反して、油断のならない人物だと自分の直感が知らせていた。


 そして、実は一番に気になっているのが──。


 視線をめぐらせかけた先で、店の奥、裏口から出て行く小さな背に気付いた。あわてて給仕を賄いの者に任せ、戸口で追い付く。


「──ジーン」


 顎先で切りそろえた栗色の髪の子どもがふり向いた。

 釣り目の同色の眸に、無口と無愛想を絵に描いたような顔。十二、三歳頃の小柄な体躯は頼りないほどで、チラチラと舞う雪の中に送りだすのは、いかな悪党と言えどためらう様だ。


 子どものことはよく知っていたが、決まり文句のように宿泊を勧めて首をふられる。だろうな、と苦笑で懐からいつもの金額に色を付けて渡した。

 ──大事になりかねなかった礼も含めてだ。


 少しみはられた目に女房が急いで包んできた食事を手土産に持たせ、夜の街道に送りだす。いつも通り、送迎を請け負う男が馬を引いて待っているのを見て、


「──魔女によろしくな」と声をかけた。


 礼を言うように無言で頭を下げた子どもが気にかかるものを残した目を宿内に投げた。


 それは、サウズリンド国内で有名な喜劇を歌い上げる青年にではなく、自分も気にかかっていた人物──下手したら、凄惨な出来事に発展していたやも知れない一件をおさめた人物へ向けるものだった。


 一角で食事をする、従者見習いのような細っこい風情の少年へ──。





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