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冬下虫の見る夢─3





 ふわりとした感触に、少しとまどいを覚えた。


 王宮内、最奥に近い開けた庭園の一画。降り続いた雪は音を立てずに足元で消える。


 夜も明けきらぬ未明。雪は音を立てるものだという認識があったために、思いがけない感触を無心になって味わった。


 幼い子どものようだとどこかで思いながら、四方を歩きまわって身体を暖める。

 とぼしい灯りの中でふり返ると、その足跡は無心のつもりでも、しぜんと訓練されたそれであるのが見て取れた。


 白い息が暗闇に溶けて消える。


 足跡はこれからの動きを想定したものであり、また足場を確かめるように重複もしていた。片手にした真剣の重みが、ずしりとその存在感を知らしめる。


 現われた気配に目を上げた。

 彼と向き合うのは、これがはじめてのことではない。


 幼い頃から幾度も対峙した。三つ年が上の、身分的にも能力的にも性質的にも、王子たる自分にちょうど釣り合う相手。


 彼の本能とも言うべき直感に萌した動きには、内心、幾度も感嘆させられた。かけ引きも嘘も、彼には見破られる。獣のような嗅覚で本質を見抜いてくる。

 ──嘘のない、実直なその心根。


「…………」


 自分は今、どんな表情を浮かべているのだろう。目の前に対峙した彼と同じものか。それとも、この場にふさわしい、王者の冷徹なものか。


 静かな呼気が夜明け前の未明に流れる。それを数えることなく、口にした。定められたように。昔から、あるべきことのように。


「──父上を感染させたのは、おまえだな」


 父親である国王に近付けた、ごくわずかな者。厳選された、その一握り──。


 王族と一部の関係者しか踏み込めない、最奥の庭。そこに緊迫に満ちた気配が流れた。


 夜明け前の凍て付く空気のように。

 真剣が抜き放たれる、その時を待つように。





 ~・~・~・~・~



 時間は会議のその時にさかのぼる。

 侃々諤々(かんかんがくがく)と議論が交わされたが、結局は母であるアンリエッタ王妃の言と、人々への影響が重視され、仮初めの主権が渡された。


 王太子である自分、クリストファーに。


 引き継がれた仮の王座に座り、その重みを束の間、身にしみ込ませる。のしかかるそれに静かに息を継ぎ、室内を見渡した。



 王妃が退室し、王権派の主流である伯父のオーディン公爵家とその派閥は苦虫をかみつぶしたようになっている。王妃が主権の座にいれば、彼らの発言は大きくなった。


 が、甥である王太子の自分が公爵家におもねる考えではないのは、かねてより知られている。王太子が主権の座にあるほうが、彼らにはやりにくい向きだろう。

 これはあらかじめ、母と交わしていた流れでもあるが──。


「無責任、極まりありませんな」


 軍部の強攻派は結局のところ、王権派がなにをしても気に入らないのだ。


 陛下を感染させたのは王妃ではないかと匂わせながら、実際に王妃がその疑惑を認めて主権から退くと、今度は重責を担う立場にありながら無責任極まりないと言い立てる。単純でよい、といささかうらやましく思いながら、思考は別の所にあった。


 ──まず、と発した声に室内にあった落ち着かない空気が影をひそめる。強攻派でさえ、王太子の第一声にかまえるように。


「灰色の悪夢。これに対する対策を、国の最優先事項とする」

「なにを馬鹿なことを……!」


 案の定、強攻派からは反発の声が上がる。

 長年の敵国、マルドゥラに一矢報いることができる、絶好の機会。ここでサウズリンドの軍力と威光を見せ付けておけば、我が国を狙う近隣諸国への牽制にもなる──。



 声高に主張する者たちを不敬罪で罰するよりも、彼らが望む戦の最前線に送ってやろうかと、剣呑な考えが思考をかすめる。

 静かに息を吐いて留めた。


「マルドゥラ国をこの機に叩いておく、とそなたらは口にするが。“灰色の悪夢”は過去サウズリンドのみならず、アルス大陸をも席巻した病だ。その病に侵され、救援を求めてきた国と戦を起こす。しかもつい最近、我が国は災害援助を行った相手だ。歴史的に因縁ある国といえど……さて、近隣諸国はどう見るのか」


 武力に頼る者は目先のことしか想像できない。マルドゥラを武力で圧し、近隣諸国にその力を見せ付けた後、大陸の情勢はどうなるか。


 一時は静かになるだろう。サウズリンドに逆らうのは得策ではないと、内に秘めた警戒心を強くして。サウズリンドがその後も軍力国家の道を進むのならば、あり得る選択肢なのかも知れない。


 だが、それが果たして民と国の未来を考えたものなのか。


 自国の利しか考えず、軍力拡大の道を突き進んだ国がどうなったのか。それはサウズリンドの過去や旧帝国の歴史を見るまでもなく、明らかな史実だ。


 だが! と言いつのる強攻派はあくまで強気な姿勢を崩さない。

 近隣の顔色をうかがって、またとない機会を逃すおつもりか、と病の対応よりも開戦を優先する。さらには嘲笑を隠そうとして隠せていない、「これだから、血を見るのが苦手な王子は……」と、小声がはっきりと聞こえる。


 フッと、口元に微笑が浮かぶのが自身でもわかった。


 陰口ほど本人の耳によく届くという実例を知らないらしい。さて、どう料理してやろうかと思いながら、ちらりと近くの重席にある顔ぶれを視界に収めた。


 自身の隣で会議の調停役を担っているのが、サウズリンドの宰相だ。常に胃の痛そうな影の薄い人物だが、王権派と強攻派と双方の主張を冷静に抑え、かつ中立の立場を保っている。


 ──これは、英雄王の時代に定められた、サウズリンドの法でもある。王のそばに侍り、政治の要を担う宰相は、王族の近親者から出してはならない──。


 権力が偏らないために。歴史にある、王族の近親者による権力の占有、それによって引き起こされた政争を防ぐために。


 よって、将来の大臣候補と見なされているエリアーナの兄、アルフレッドが宰相位に就くことはあり得ないし、その父親もまた然り。


 その二人はいつもの定位置で、常と変わらぬ風情だ。王太子の婚家であるベルンシュタイン侯爵家。彼らが王権派であり、娘の婚約相手である王子を擁護するのは、当然の理である──。


 なわけがない。


 ベルンシュタイン家は重職に就いた四年前と変わらず、中立派のままだ。王権派になることもなく、表立って王子を擁護することも一切ない。

 黙してくれている状態こそが、自分にとってはなによりの援助だ。


 肘掛けに置いた指が思案するように数度それを叩き、決して室内の者に告げる。


「開戦、開戦と、そなたらは口にするが──」

 抑えても眼差しは冷徹なものになった。


「今、我が国に戦をする余裕はない」


 はぁ!? と嘲りにも似た声が返された。

「愚かなことをおっしゃる。サウズリンドは一昨年の豊作に続き、良作に恵まれて備蓄は有り余っている。兵士を養うには充分な好機ですぞ!」


 まったく、とそこには明らかな嘲笑が浮かぶ。これだから情勢に不慣れなお方は、と続く声に、王の座にはまだ早いのではありませんかな、と話をふりだしに戻そうとする声。それに対して、不敬であるぞ! と返す王権派。


 どいつもこいつも、と込み上げる苛立ちを寸前でとどめた。今は一刻の猶予も惜しい。父親や国内の感染者は、刻一刻とその身を病に蝕まれているのだ。


 静かに息を吐いて、はやる感情をなだめた。言葉は冷静に紡ぐ。


「今冬──」と発した低い声音に言い合う声が止まる。

 室内を静かに見渡した。


 ──今冬、サウズリンドには雪が多い。


 聖夜の祝宴までは日中の晴れ間が目立ってあまり感じなかったが、夜間に降り積もった雪は徐々に各地へも影響を及ぼした。地方領主からは積雪対策に追われ、早々に国事に領軍を割くのは難しいと連絡が来ている。


 この国事とは、災害や疫病など、予測し得ない事態を指している。そして、最有事である、開戦に関わる兵力──。


「今のサウズリンド国内に、戦に兵を割く余力はない。各領主は自治に手一杯だ。そして、良作で蓄えた備蓄は積雪で苦しむ民への支援に回さずになんとする。疫病の発生が確定された今、国の第一の有事として、“灰色の悪夢”への対処を最優先事項とする──」


 まだ反する言葉があるか、と見やると、軍部の強攻派もたじろいだように勢いを弱めた。


 兵士がいなければ、戦はできない。


 例年にない積雪に見舞われたサウズリンド各領地。そこから兵士を出そうとしても、まずは自領の対策に追われる。

 そして、積雪による流通の遅延も踏まえると、各領で備えていた備蓄はまず領民へほどこされる。戦へ赴く兵士へ回す余剰など、あるはずがない。


 さらに、そこに“灰色の悪夢”の発症者が増える予測も踏まえると、蓄えた備蓄では補えない可能性もある。

 そんな時に、戦などしている余裕があるか。


「……しかし」と、しぶとくうなるような声が出される。──イーディア辺境領を見捨てるおつもりか、と。


 かすかに眉尻が上がるのと同時に、再度王権派が反論しかけ、ダンッ──と、強く鋭い音が響いた。軍部の中で黙していた一人、アイゼナッハ近衛大将軍だ。


 拳で大卓を叩いたが威圧する風ではなく、ただ沈黙をもたらすためだけの所作だったようだ。ふだんは豪放磊落な人物として知られているが、さすがに繰り返される議論に苛立ったような色が見える。


「そろそろ、具体的な行動に移りたく存ずるが。仮とはいえ、王座の身にある方に対して言葉が過ぎる者も、また、その意に沿うよりも反論に夢中な者も多いようだ」


 シン、とようやく各々の身分をかえりみた沈黙が落ちる。

 宰相が咳払いで場を仕切り直し、王太子の決定に対しての最終決を取り、具体的な話へ進む。



 薬学室長からの灰色の悪夢に対する治療薬の状況、臨床されていない薬の話──早急にその結果と感染者の把握、施設の手配。各領地の被害状況、また、むやみに感染者や病人を害したり隠蔽したりすることのないよう、混乱や風評に惑わされることのないよう、周知の徹底。


 そして──。


「事態が収まるまで、マルドゥラ国使節団は拘束させていただく。これに関しては、殿下方にもご了承いただく。よろしいですかな」


 宰相の言葉にかるく嘆息がもれた。


 まあ、ここが落とし所だろう。なにより、マルドゥラ国にも灰色の悪夢が広まっている事態と国王が倒れた事実。これが公になれば、使節団の身こそ危うい。

 一般の手の届かない王宮の奥に拘束しているほうが、かえって安全かも知れない。


 そして軍部が退かないかぎり、国境の膠着状態も解けない。開戦には踏み切らせずにとどめるのが、現状での妥協点だろう。


 首肯して話が進む室内を見やりながら、ふと昨年末のエリィの様子を思い返していた。


 あの時、彼女は自分が母上のように後宮を統べていく能力がない、と自信をなくしていたが、自分だって似たようなものだ、と胸中で自嘲が浮かぶ。


 強攻派と王権派。個別に対処することはできても、大局を動かす場での自身の発言は、まだまだ軽んじられる。


 父のように場を圧することができるようになるまで、どれだけ時間と経験がいることか。そして今。

 その父は倒れて生死も危うい。


「…………」


 自身の心に兆した不安の芽をむしり取るように、今はこの国難に集中するよう、意識をかたむけた。





 ~・~・~・~・~




 そんな対処と手配に追われて、瞬く間に数日が過ぎた。


 灰色の悪夢の感染者は徐々にその数を増やしていき、王都のみならず、近隣の領地からも感染者の報告が上がって来ている。

 民の間からは不安と疑心の声がつのりはじめているようだ。そんな中、王都で上がりはじめた評判もあるが……。


 やるべきことも対処すべきことも、山のように滞積している。だが今、その王都の評判よりも早急な事案があった。


 ──身近から洩れている情報。父であるサウズリンド国王を感染させた者。


 赤髪の近衛騎士、グレン・アイゼナッハ。三つ年上の幼馴染。

 ふだんの人の好い表情や雰囲気が、今は嘘のようにかき消えている。彼がこういう気配をただよわせる時は決まっていた。


 王太子である、自分を害す者が現われた時──。


 静かな厳格さと、張り詰めた緊張をただよわせて身を引いた。彼が連れてきた背後の人物、投げた言葉の相手と向き合わせるように。



「……クリス──」


 白い息を吐いた人物がビックリしたように目をみはっている。一人呼び出された事実、人払いがされた王宮の最奥。


 夜に溶け込む黒い騎士服をまとった、イアン・ブレナン。


 明るい日だまりのような髪の色も今は暗がりに沈み、やさしげな顔立ちが驚きととまどいから……ふうっと、静かになった。

 言い訳も誤魔化しも通じない空気を感じ取ったように。


「なぜ……?」


 彼らしい言葉に、張り詰めた緊張はそのままに、自分にも表情が戻るのがわかった。ため息のような軽さで。


「単なる勘だ」


 ふわりと、笑うような息がイアンからもれる。固まる前の新雪のやわらかさで。


「よく言うよ。きみは徹底的に調べつくしてからでないと、断定はしない。僕が犯人だと、確定できるものが出たんだろう? ……って、イヤだな。なんで僕がきみの肯定をしてるんだよ」


 明るさは変わらない。くったくなく、人の警戒心を解かせるような声の調子も──はじめて逢ったその時から。


 うん、とこんな時なのにイアンは笑みを浮かべた。すべてを受け容れた眸で。


「クリス。きみはこの国の王子だ。はじめて逢ったあの時──僕が認めた、ただ一人の君主だ」


 すべるように、彼の腰から真剣が抜き放たれた。切れ味を思わせるように。

 王宮内で帯剣できる者は、近衛と衛兵──そして、黒翼騎士団の者。


「……っ」


 抑えていたはずの感情がせり上がったのがわかった。

 ここまで来て、自分はまだどこかで引き返せるのではないか──他の手立てがあるのではないか。そんな考えがあったのを知った。


 サウズリンド国王を疫病に感染させた大罪人。そこにはどんな理由も情状も通用しない。──極刑。それのみ。


 彼は、それをなにもかも承知の上で、大罪に踏み込んだ。──そう、せざるを得ない状態で。


 そして今。言い訳も取り引きもなにも示さず、ただ剣を抜いた。断罪を肯定する形で。


 こみ上げる様々な感情が、とぼしい灯りの中で()()を見て取り、自身の手にした剣の柄に手をかけさせた。


 イアンの真剣を抜き放ったその手。袖口から見える赤い発疹。再会した時にはなかった、その症状。国王に近付ける一握りの者が、灰色の悪夢の感染者であった。


 イアンは大罪に踏み込んだその時から、自分に断罪される覚悟を決めていたのだと、静かなその様子から理解した。まるで、おのれの足りない部分を見せ付けるように。


「…………」


 ──きみはこの国の王子だ。


 彼が昔に出逢った一人の少年ではなく、それを自分に求めるのならば。応えてやることしか、もう彼に返せるものはないのだろう。


 スラリと抜いた真剣が離れた位置にある篝火の光をはじく。


 数歩距離を置いたグレンと、人払いをして場の手配をした自分付きの小部隊、副隊長のザック。彼の面にだけ、やや不安げな色があるのをいやに見て取った。

 先の模擬戦で、先読みし負けた相手。今度は真剣での勝負。不安を覚えるのは当然だろう。


 だが──。

 こんな時なのに、イアンの面からは微笑が消えなかった。彼は知っている。自分の剣が訓練で鍛えられたものではないことを。


 クリス、と語りかけてくる声は、知り合ったその時から変わらない、彼の芯に萌したやわらかく揺るぎないもの。


「僕は別に、投げているわけでも、倦んでいるわけでもないんだ。ゆずれないものがある。だから──足掻くよ」


 一瞬で踏み込んできた剣を受け止めて、小さな火花が散る。


 間近から見つめ返してきた眸をのぞき込んで、ためらっていた最後の一歩を踏み越えた。片手の鞘を捨て、力を受け流して返す身体の動きと合わせて、一度距離を置く。


 間を置かずに踏み込んだのは、イアンと同時だった。


 鋭い音と鈍い手応え。

 新雪に広がった、刹那の音。とぼしい灯りの中でもわかる、生命の色。


 勝敗を分けたのは、おそらく決定的な違い。自分の剣が相手を確実に殺めるものだったのに対して、イアンの剣にはどこか迷いがあった。


 それは、足掻くという言葉通り、この場から脱するための次を考えたからかも知れないし──言葉とは裏腹に、彼の中には絶望と諦観があったのかも知れなかった。


 静かに白い息を吐き、自分が手にかけた命をふり返る。


 歩み寄ると、雪は足元で小さな音を立てた。それがまるで、悪夢に迷い込んだようにどこか麻痺した思考を立ち返らせた。

 手に残った感触とともに、まぎれもない現実だと。


 鮮血を広げて倒れた友人のもとに膝をつく。わずかな喘鳴と、生命が消えていくその時でも変わらない、やわらかな眼差し。


「イアン──。おまえをはめたのは、誰だ」

「…………」


 すきま風のような声がもれる。言葉にならない、ふりしぼるようなその最後。


 静かにそれが絶えていくのを見守り、音と光が消えて、時が止まったような沈黙の後──。そっと、その瞼を下ろした。


 もう二度と、目にすることができない、やわらかな日だまり。


 立ち上がる自分の動きにつれて、音もなく現われた王家の影がイアンの遺体に覆いをかけ、運びだして痕跡を消していく。

 白々と明けていく夜の気配とともに、まるではじめから、何もなかったように。



 凍て付く早朝の中で立ち尽くしていると、背後に近付く気配があった。ほら、といつも通りの口調と軽さで鞘が差し出されてくる。


「おまえが抜き身をさらして突っ立ってたら、何事かと思われるぞ。さっさと仕舞え」


 特になんの感慨も浮かばずにそれを見た。それは一度、捨てたものだ。


 すると、その鞘が前触れない軽さで自分の眼前にせまった。避ける──という考えが浮かばなかった自分は、どうかしていたとしか思えない。

 ゴン、という鈍い音と小さな火花が目裏に散って、グレンのあわてた声もした。


「あ、悪い! いや、絶対避けると思ったんだ! こんな千載一遇の機会──いや違う。悪い。ホントにすまん」


 痛みの走った額を押さえて、口角がゆっくりと持ち上げられていくのがわかった。


 ……この私に、正面切って物力行動に出るとは、いい度胸だ。エリィが以前に読んでいた、異国の後宮に仕えるという、男の機能を切除された人生を歩ませてやろうか。


「クリス! 本気で謝る。すまん! だからその、物騒な目付きをやめろ!」


 ひっしな様子に忌々しく息をついて、その手から鞘を奪った。剣を払って収めかけて──ふと、剣身に映る自分に手が止まる。

 と、頭上にせまった手をさっと避けた。


「──なんの真似だ」


 おそらく自分の頭に手を置こうとしたグレンの動きがそのまま止まる。いや、とその顔にはいつもの表情があった。


「たまには、年下を可愛がる年長らしさも見せようかな、と」


 気持ち悪い、と顔にもそのまま出してやると、麗しの王子の評判はどうした、とグレンが苦笑を浮かべる。


 冬の遅い朝日が差し込むのに目を上げ、同じようにふり返ったグレンの背に回り込んだ。彼が身動ぎするよりも早く、その背に背を預ける。


 小さくはない息がもれた。


 動かしようのない事実と、その調査結果。それをもとにこの断罪を決めた。


 マルドゥラ国との膠着状態。死の病と不安が広がっている国内。王が倒れて病床の身に伏した現状。そんなところに、国の英雄が率いた黒翼騎士団から大罪人を出すわけにはいかなかった。


 それで、自分一人の判断で処理をした。

 公にしたほうが、イアンを大罪に踏み込ませた黒幕の存在も明らかにできる可能性もあった。だが──今はできなかった。


「…………」


 自分の判断が正しかったのかどうか、わからない。迷いは何度も浮かび上がる。

 しかし──後戻りはせずに踏み出したのだ。


 グレン、と呼びかけるよりも先に、その背から声が出た。


「クリス。俺はおまえをけっして裏切らない」


 朝日に宣言するように、それは揺るぎない強さとあざやかな声だった。


「たとえこの先──、親兄弟に剣を向ける日が来ようとも。俺は、おまえにだけは剣は向けない」


 力強いあたたかさが背中から伝わる。イアンの日だまりのようなやわらかさとは違う。けれど、それは確実に自分に残されているものだった。


 静かな沈黙の後、グレン、と呼びかける。反応した気配にそっと身を起こした。


「……おまえ、ちょっと気持ち悪いな」

「はぁ!?」


 小さく、笑うような息をこぼして剣を鞘に収めた。やるべきことは、まだこれからだ。

 剣をグレンに預け、気持ちをあらためて王宮へ戻りかけた、その時だった。


「殿下……!」


 後始末のためにいったん場を離れたザックが、一人の兵士を伴って駆け戻ってくる。その身なりと徽章から、急使なのはわかった。


 ざわり、と全身の毛が逆立つようなものを感じた。予感、というものなのかも知れなかった。


 膝をついた急使が書状とその中身を口頭で説明してくる。ラルシェン地方のアレクセイ・シュトラッサーから自分へ宛てた、火急の報せ。


 ──黒翼騎士団、セオデン・バクラ将軍、正体不明の襲撃者によって死亡。


 背後のグレンが戦慄したように気配を乱す。衝撃はその一報にとどまらなかった。急使の口が鉛を呑んだように重く、低くなる。


「……王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタイン侯爵令嬢──」

 生死不明、と。







後で活動報告に虫かぶり姫の小話を掲載します。

……が、こちらの雰囲気を壊しかねないので、閲覧注意……かも、です。

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