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冬下虫の見る夢─2





 会場に面した休憩所に声をかけて入ると、室内のソファに腰掛けていたレグリス王子が顔を上げた。そのまま立ち上がろうとする動きを、「そのままで」と側付きの侍女にも目線を送ってとどめる。


 苦笑気味の息をついて、ソファに背を預けたレグリス王子が微笑を向けてきた。


「──お呼び立てしてしまったようで、申し訳ありません。クリストファー王子」


 いや、と答えて、ともに入室しようとするグレンと文官を入口付近にとどめた。

 会場まわりをしている最中、侍従から状況をもたらされて戻ってきた。レグリス王子が少しお疲れの様子です──と。


「配慮が至らなかったことをお詫びします。ご寛恕いただけるとありがたい」


 盲目の身では、立ちっぱなしの社交は肉体的にも精神的にも疲労が倍だったろう。至らなかった点を詫びると、小さくもれる笑声があった。


「サウズリンドの王太子は存外、素直な性質でいらっしゃる。話に聞いていたお人柄とは、ずいぶんと異なるみたいですね」


 直截な言葉にフッと笑いがもれた。断りを入れてレグリス王子の隣に腰掛ける。


 室内にいたのはマルドゥラの侍女と護衛、二人だけだ。会場に面した休憩所は社交の一部でもある。遮るものなく人々の視線や笑声が入り、およそ密談には向かない場だ。


 だが、構わず呼び出した事実が、彼らの内心の焦燥を表わしているようだった。──悠長に社交している場合ではないのだ、と。


「クリストファー王子。あなたは──我らがこの国へ訪れた目的を、とうにご存じなのではありませんか?」


 かけ引きもない言葉には、反射的に貴族社会を渡ってきた微笑がもれる。見えていないはずなのに、気配で察したらしいレグリス王子が静かな吐息をもらした。


「評判通りでもあるお方なのは、よく分かりました。……弟の言った通りだ。交渉の余地があるのは、エリアーナ嬢のほうだろうと」


 ピクリと片眉が反応し、レグリス王子の微笑には感情をのぞかせたものが浮かぶ。


「我らの目的を承知の上で、エリアーナ嬢を王宮から遠ざけられたのですか?」


 堂々と、訪問の目的はエリアーナへの対面だったと言ってのける。なるほど、と思わずにはいられない。

 あの弟にして、この兄あり、というところか。


「なにか──誤解があるようですが」


 自然とにじませた威圧に、端に控えたマルドゥラの護衛と侍女がかすかに反応するのがわかった。入口付近のグレンが視線に諫言を含めて投げてくるのも。

 だが、自身の態度は変わらなかった。


「先にも申し上げた通り、エリアーナは次期王太子妃としての公務に赴いています。これは、マルドゥラ国使節団の訪問とは異なるもの。彼女への言付けがあるのなら、私が代わりに承りましょう」


 エリアーナを取り引き材料に使うな、と言外に込めると、レグリス王子が少し沈黙した。……なるほど、と小さくこぼした声で雰囲気がまた変わる。

 穏やかな雰囲気とは一変した、ひやりと冷徹さを秘めたものに。


「手の内を明かさずに要求を押し通すのは、確かに交渉にも礼儀にも反する。ゆえに訊ねましょう。──クリストファー王子。あなたの望みは?」


 眸は閉ざされているのに、内面を見据えるような強い視線が向けられている心地だった。

 なるほど、ともう一度彼への印象をあらためる。認識は悪くない。


 ──エリアーナなら交渉の余地がある。マルドゥラに恩ある彼女に対面したかった──。それはすべて、彼らの思惑にエリアーナを利用するためだろう。


 エリアーナなら、救いを求めてきた者たちを見捨てられない。──それが、自身の家族にも関わりある、因縁あるものなら、なおさら。

 サウズリンドへも広まる可能性と考慮して、彼女ならそう判断するだろう。見捨てることはできない、と。

 だが、エリアーナが不在であり、彼女に訴える外交ができないのならばどうするか。


「…………」


 引き出した言葉に気がゆるまないよう、内心配慮する。ゆっくり背をソファに預けて、何気なく入口から見える会場へ視線を投げた。

 人込みにまぎれて一瞬目が合った、茶褐色の双眸。


 ──自分は、あなたとは違う道を選ぶ。それがたとえ、あなたの意とは反していようとも。


 小さな息を落として心は冷静に務めるよう、意識して足を組む。


「私の望み──と貴殿はおっしゃる。しかし、交渉はこちらの望みを叶える術をお持ちの方だからこそ、成立するのでは?」


 フッと、レグリス王子に性急とは異なる微笑が浮かんだ。


「あなたの望みと我々のもう一つの目的が同種のものであるのは、この夜会からも理解しました。あなたが──一度の投網(とあみ)でどれだけの魚を表面上に浮かび上がらせるのかも。だからこそ、あなたの我が国への望みを聞いてみたかった気もしますが……」


 そう言って、見定めるような視線が寄越されるのがわかった。


「クリストファー王子。あなたの宝が遠からず我らの手中に落ちる──。そう申し上げたら、あなたはいかがしますか」


 ビリッと走った殺気に端の二人が明らかに身動(みじろ)ぎし、グレンは視線だけでなく半身をこちらに向き変えた。


 冷静に、と自身に言い聞かせるが、反射的に反応してしまうのは、おのれの未熟さの表れなのだろう。

 そして──認めたくはないが、エリアーナが手の届く範囲にいないことへの苛立ちと焦燥が、日に日につのっていっているがゆえの余裕のなさだろうと。


 心をなだめる前で、レグリス王子の態度は何も変わらない。そこには、嘲るものも憐れむものも、何も浮かんではいなかった。


「…………」

 細く静かに息を吐いた。


 エリアーナに関する事となると、簡単に箍が外れる危険性は、以前から指摘されていた。特に狸たちからは、何度嫌味混じりに言われたかわからない。


 ──王者の執着はすなわち、弱みである、と。

 守り通す力もない若輩者に娘を託すような、馬と鹿も世の中にはいるようですが、と狸が言った。狐につままれたような面持ちだった当時のアレクセイと、カラスの鳴き声がその背後を飛びそうだったグレンの間抜け面を思い出し、……うんと冷静になれた。


 サウズリンドの王宮は、エリィが好んで読んでいた、野生動物たちの宝庫なのだろう。

 培った表面上の微笑はそのままに、ならば、と声と気配だけが地に落ちた。


「こちらも判断するだけですね。以前、弟君と名乗る者から聞いたあなたの評判は、到底信用ならぬものだと」


 その背後に背負っている、マルドゥラ国そのものが。

 そう言葉尻に込めると、レグリス王子にも微笑が戻った。


「そこを突かれると、私も弱い」


 見かけに反して喰えない王子だ、と内心の舌打ちをこらえた。

 焦燥をあらわに感情を見せたかと思うと、煙に巻くように本心を隠す。狸と似ているようで、根本的に抱えているものが違う。


 以前──この第二王子をサウズリンドとの戦を望む者ではない、と言った輩がいた。だが、おのれが守るもののためなら、エリアーナを人質にサウズリンドを敵に回すことも辞さない。──そこまでの覚悟が、この王子にはあるのだろう。


 そしてまた、こちらの反応をつり上げるためだけなのも考慮しながら、チラリと端に控えた侍女に目をやった。


 黒髪で顔を隠すようにし、地味な化粧で目立たぬ風情だが、よくよく注意して見ればその顔立ちには覚えがある。

 以前、いけ好かない男の従者として見かけたものだ。だが、彼ではない。


「レグリス王子。──あなたの目は、どこですか」


 こちらも踏み込んで訊くと、盲目の面にさらに微笑が広がった。


「私の目、ですか……」


 遊ぶように口にしたと思えば、空気を読んで小さく笑うにとどめる。


「あれは、ひとつ所に留められない、気まぐれな風みたいなものです。束縛しようとすれば嫌って逃げる。自由気ままで奔放。そのくせ、芯に根付いた強さで人を動かす力も持つ」


 ああ、とわざとらしく自身の言葉に相づちが打たれる。


「──本の世界しか知らぬ方がそれに触れて、見知らぬ異国の風に惹かれるようなことがないといいですね」


 やわらかく笑う盲目の王子を、この時はっきりと自身の中で確定した。

 この男は、敵だ──。

 にこやかな微笑は崩さぬまま、その後も互いの真意に触れそうでかわす応酬が続いた。




 その二日後。

 日も明けきらぬ未明。私室に飛び込んできた王家の侍従がいた。


「──国王陛下が、お倒れになりました!」


 その後に続く事態の羅列とともに、刹那で自身の血の気が引く音を、直に味わった。


 標的は父上か、と自身の読みの浅さに歯軋りするとともに、やられた、との悔恨も浮かぶ。

 しかし、それよりも言葉にして浮かんだのが──。


「……そこまでやるか」


 相手に向けたものよりも、自身の甘さに向けたものにかも知れなかった。





 ~・~・~・~・~



「──だから私は反対したのだ!」


 サウズリンド王宮内。

 ごく一部の重臣が集まる会議室では声高に主張する者がいる。


「マルドゥラの使節団を迎え入れるなど、言語道断だと! 奴らはサウズリンドの富を狙うしか能のない輩だ。現にこうして、我が国に病を広める要因となった。──この責任を、どう取るおつもりですか、クリストファー殿下!」


 叫ぶ男は、一応貴族席にその名を連ねている軍部の強攻派だ。


 早朝──と言ってもいい時刻。

 国王である父親の異変に、にわかに王宮内がざわめいた。ウィリアム国王陛下の就寝の様子がおかしいことに気付いた侍従が陛下に声をかけたところ、ひどい発熱と発疹で意識が戻らない状態であった──と。


 侍医が早急に診察したところ、ひとつの病の名が宣告された。


 ──“灰色の悪夢”。


 十六年前、サウズリンドを死の恐怖に陥れた悪夢の再来。それが、サウズリンド国王に襲いかかった。


 そして、それを見越していたかのように、マルドゥラ使節団を拘束した軍部の強攻派。計ったような手際のよさでマルドゥラの護衛と貴人たちを包囲し、争うことなくその武器を取り上げて監禁した。


 その理由として──。


 マルドゥラ国内に奇病が広がっている情報を今この時(・・・)に開示し、その病の名を明らかにした。マルドゥラはその病をサウズリンドへも広め、我が国を狙う腹積もりである──と。

 そしてまた間の悪いことに、貴族の一人が家族の病を調べたところ、陛下と同じ病であると青ざめて報告してきたのを皮切りに、王都からも次々に感染者の報告が上がって来た。


 灰色の悪夢──。それが十六年経った今、再びサウズリンド国内、そしてアルス大陸に吹き荒れようとしているのだと。


「クリストファー殿下! 事の重大さを理解しておられるのですか!」


 離れているのに唾がかかってくるような不快さにかるく眉を上げた。

 自分の認識としては、やかましいな、という程度のものだったのだが、隣に座する母親はまた違ったらしい。倒れた国王の代わりとして担わされるものを受け止めながら、息子へ向ける気配は案じるものだった。

 仕方ない、と心中で小さく息をつく。


「──陛下は、マルドゥラの使節団に感染させられたわけではない」


 ザワッと室内に驚きが走った。何を今さら、と叫ぶ強攻派を一睨みで黙らせる。視線を一席に止めてうながした。


「宮廷侍医ハーヴェイ。どうやら、灰色の悪夢に関して無知な者が多いようだ。説明を」


 うながすと、一席に座した銀髪の老医師がふだんの華やかさをひそめて口を開いた。


「──灰色の悪夢は、二、三日で症状が現れるものではありません。元は、風邪の症状から異変が察知されたものです。──風邪は、初期症状から即日悪化するのは人による。潜伏期間があり、一、二日で発症したとしても、発疹と意識不明の高熱まで至るには、数日を要する」


 そう重たく言葉を吐くと、銀髪の老医師は深刻そうな吐息をついた。


「十日ほど前から、陛下の体調は思わしくありませんでした。我らも憂慮していたのですが……、今は事が事ゆえ」


 マルドゥラ使節団がサウズリンド入りをし、国境付近や近隣諸国があわただしくなっている。その対応に追われ、悠長に休養している間もなかったのだと。


 その報告には、気付かれぬよう唇をかむしかなかった。

 母であるアンリエッタ王妃が治める後宮での出来事だったら、こうまで急速に情報が広まり、事態が動くことはなかったかも知れない。だが──、今はたしかに事が事だ。


 ハーヴェイ医師はその後も淡々と風邪の症状を話し、重職にある者たちに誤った認識や偏見を持たぬよう言い聞かせる口調だった。


「──灰色の悪夢は風邪と似通った症状から治りを長引かせ、気付いた時には赤い発疹からその色が変わっていく。肌の色が、灰色に。その症状が現れるのは、十日から二十日前後であると、これまでの症例で証明されている」


 再度室内がざわめいた。

 マルドゥラ使節団が入国したのは六日前。そして、王都サウーラに着き陛下に対面したのが二日前。明らかに日数が合わない。


 ザワザワと、室内の空気が今度は軍部の者たちへ非難する旗色に変わった。追い詰めるように糾弾する声がかかる。


「では、マルドゥラ使節団が陛下を感染させ、宣戦布告をした、と言う軍部の主張は成り立ちませんな。かえって、勇み足で国境付近に緊張をもたらし、使節団を拘束という、マルドゥラに格好の付け入る隙を与えた。──この責任を、軍部の方々はどう取られるのか」


 低く、厳かな声音で追及したのは、王家に忠実な家として名高いカスール伯爵だ。

 彼は王家に忠実であるがゆえに、軍部と反する立場を取る。軍部が強攻派となったその前身が、先の王太后アマーリアが築いたものだったゆえに。


 だが! と語気強く言いつのる軍部の強攻派が推すのは、テオドール叔父上──王弟殿下だ。彼らはおそらく、マルドゥラ使節団がやって来る大事、これを好機と捉えたのだろう。


 マルドゥラ国と友好の道を探る、軍部の意にならぬ王太子よりも、アマーリア王太后亡き後、率いる求心力のなくなった王弟派。それなら彼らの傀儡たり得ると。


 マルドゥラ使節団を迎え入れた王太子と王権派に病が広がった責任を取らせ、その座から引きずり降ろし──、王弟であるテオドール叔父上をその座に据える。

 疫病の流行で弱っている長年の敵国、マルドゥラと一戦交えて叩いておけば、疫病を広めた敵国に報復した英雄として諸手を上げて迎え入れられるに違いない──。


 そんなところか。


 あいにくと、その軍部が担ぐテオドール叔父上はエリアーナが出立するのと時を同じくして、陛下よりの密命のため王宮を留守にしている。

 担ぐ玉が不在であるのに、よくもここまで先走れるものだ、と内心あきれながら、これを動かしている黒幕の陰に胸内に落ちる嘆息がまたひとつ増える。



 強攻派の声はやかましく飛び交っていた。

 マルドゥラ国が自国に蔓延していた病を伏せてサウズリンド入りをしたのは事実である! それは我が国に病を広め、我が国の富を奪い取る策略に他ならぬ! と。

 それに、と強攻派は強気な語調から一転して、触れてはならぬことを示唆してきた。


「もし──陛下の病がマルドゥラよりもたらされたものでないとしたら」


 そう口にした男の顔が、貴族席にある者とは思えぬいやらしさで国の代理たる王妃へ向かう。


「疑わしきは、身近に侍る者かも知れませんな」


 ──感染した経歴を持つ者が、そのそばにいるのだから。

 ザワリ、と室内が動いた。


「エヴァン伯爵! それは、王妃さまへの不敬に処される発言ですぞ!」


 王権派の一人が声を荒立てたが、それに続く声は少数だ。皆、灰色の悪夢の暗黒の時代を知っている。そして、それに侵された、国の代表たる人物──。


「………」

 小さく息をついた。

 老害はこれだから、と口を開きかけた前で、黙していた隣の母が、確かに、と声を発した。


「マルドゥラの使節団に陛下が感染させられたのではないとしたら」


 そう──思わせぶりに口にする。母の茶褐色の双眸は室内を静かに見渡し、身に備わった威厳とともに口さがない者を無言で諌めるようだった。

 そうして、自らの禁忌を口にする。


「十六年前──。灰色の悪夢に感染した私が再度発症し、陛下を感染させたのではないか。そう、怪しむ声があるのは当然のことです。私が一度はその病を克服したのだといっても、疑いが残るのは臣下として当たり前の考えでしょう。この先、私が克服したように陛下の病は回復に向かうのか──それとも、国内に蔓延する事態になるのか」


 室内を見据える眼差しと気配は、息を呑む威厳に満ちたそれだった。

 浸透したのを見計らって母は口にする。それは確かに、国の頂点に立ってきたものならではの言葉だった。


「もしくは──それ以外の道があるのか。今、サウズリンドの行く末はこの三つでしょう。これに関して異論のある者はいますか」


 だれもが王妃の迫力に呑まれたように言葉もない。それを見渡した上で、母は宣言した。


「病に関して疑いの残る私がこの事態を指揮するのは、貴族のみならず、サウズリンドの民にも不安を与えることでしょう。ゆえに、私はその権利を一時、移譲したく思います」


 ザワリ、と動く室内の気配と視線が、いっせいに動いた。

 母の言葉よりもそれは早く。


「──王太子、クリストファーへ」






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