湖底の虫─8
仕立てられた馬車はこれまでの行程で乗ってきた重厚な造りの王家の馬車とは異なり、速度と小回りを重視した簡素なものでした。
激しく揺れる身体を押さえるのと、互いの体温を分かつために、わたしは同乗した侍女と身体を寄せ合っています。
彼女の名前は、メイベル・カーター。シュトラッサー公爵家の侍女で、先に助産婦が医師の役割を求められる件について発言をしてくれた、医療の知識ある女性です。
立て続けに急使がかけ込み、情報の精査がなされて二日後──。
ナイジェル薬室長から渡されたものが“灰色の悪夢”に関する処方箋で間違いないこと、そして、その進行を抑える薬である──と、殿下の名で公布された情報と合わせて確かめられました。
確実な情報と突貫で作られた薬、そして医師と薬師の三名を伴って、わたしは用意された馬車へ乗り込みました。
従妹のリリアは最後まで、「エリィ姉さまが行かなくても」と泣きそうな声で引き止め、最終的には「私も行く! 私はエリアーナさまの侍女よ!」と言い張っていたのですが……。
わたしが留めました。
リリアには、他に頼みたいことがあったのです。……病が発生している所へ伴いたくない、個人的なエゴはありましたが。
ラルシェン地方の“灰色の悪夢”の感染の広がりと状況を把握するのは急務でした。どこから、どう、広まっているのか。そして、王都の様子を知らせてもらうためにも、アレクセイさまが動けない今、リリアは信用の置ける重要な役割を担っていました。
病人が大量に発生しているということは、食糧物資や看護に必要な備品なども必要になってきます。伯爵領にある備蓄だけでは補えない可能性があるため、慰霊祭に訪れていた近隣の有力者たちへ支援を依頼しました。中には渋る人もいたのですが、そこは王家の威光を拝借させてもらいました。
感染者が伯爵家や街道沿いの街中にも出ているため、医師や薬師も割ける人員が限られています。アレクセイさまには各地の感染者数と被害状況を統括して医療班と救援物資の手配を頼み、近隣から募ったそれらと共に、リリアには後を追ってもらうことでどうにか納得してもらいました。
しかし、王太子婚約者のわたしが一人で行動することには、だれもが難色を示しました。そこで立候補してきてくれたのがメイベルです。
自分なら、多少なりとも医学の知識を有している。現場でお役に立てるはず──と。
おびえを押し込めてそう名乗り上げる彼女の思いが、わたしにも伝わって来ました。暴動が起こるほど、感情のたかぶった場所へ赴くことの意味。王家へ不信感を抱いているラルシェンの領民。病が蔓延したその土地──。
いざというその時には、と王宮付きの侍女にも劣らぬ決意がそこには見えました。アレクセイさまとバクラ将軍がそれを採用して、臨時にわたしの侍女につけたのです。
最後まで難色を示していたアレクセイさまですが、わたしが「第二、第三の暴動を起こさないためにも」と重ねて説得すると、渋々ながらも──明らかにわたしを王都へ送り返して自分が赴きたい顔つきでしたが、ウルマ山麓へ赴く手配を整えてくれました。
「すぐに、後続を向かわせます」──と、冷ややかな表情ながらも、頼もしい言葉で。
バクラ将軍は、黒翼騎士団とともに王都へかけ戻るか、本部を置く東の国境へ戻り、周辺諸国の新たな動きに警戒するかの選択に問われました。しかし──。
「私は、今回の公務の警護を仰せつかっている」
と、どこか意固地に留まる意志を示しました。……それはどこか、年配者の偏屈な様を表わしたような……。
そうして用意された、暴動を鎮めるために赴く馬車の室内で、わたしは同乗したメイベルとアランさまの似通った表情にも気付きました。二人とも舌を噛まないようにこらえた、少しおかしな表情になっています。
自分も同じ顔になっているのだろうと想像すると、少しおかしな気分が込み上げました。
音を立てる馬車の窓に目をやると、護衛のために並走している黒翼騎士団の姿が映ります。軍力を拒絶したわたしに、バクラ将軍はあくまで護衛の立場を通しました。
自分たちは今回、王太子婚約者を警護する役割を担ったのだ──と。
たしかに、それを拒絶することはできません。迷うわたしに、バクラ将軍は仕方がない、というように譲歩を示しました。
「──民に剣を向けるような真似はしない。ウルマ鉱山の町に着いたら、脅威を与えないように私たちは引き下がる。それでいいか」
「セディおじいさま……」
わたしの意志を汲んでくれる老将軍に胸を熱くしていると、だが、とその隻眼が鋭くなりました。
「──期限は二十日だ」と。
わたしもそれには、胸を刺されるような思いでうなずきました。
東の武神と称されるバクラ将軍には、個人的な感情よりも優先すべき信念がある。先王陛下に仕え、数多の戦を経験してきた方だからこそ、二度と同じ惨状は繰り返させないという思いもあるのでしょう。
そのためなら、わたし個人の思いは封殺することができる。バクラ将軍の立場なら、当たり前のことです。
処方箋の検査結果と情報を待っている間──再度、アレクセイさまとラルシェン伯爵、バクラ将軍、近隣の信の置ける有力者を交えて話し合いがもたれました。
その結果、ひとまずウルマ鉱山の暴動を鎮めるために、王太子婚約者であるわたしが赴くのは諒とする。病人が大量に出ている場所へわたし自らが赴くことで、病に対する根も葉もない噂や不安を少しでも払拭する。他の地域へも、病に罹ったからと言って見捨てられることはないのだと、希望を持たせる。
近隣の有力者が、自分たちの地元へそう話を広めてくれる手筈になりました。
そして──。
期限は二十日。それが、バクラ将軍の譲れない一線です。
黒翼騎士団からイーディア辺境領へ急使を飛ばし、今はまだ動かぬように伝えても、睨み合いによる緊張感が続く地では、血気にはやった両軍がなにを切っ掛けに戦端を開くかわからないおそれもあります。
殿下が宮廷内の強攻派を留めるにも限度がある。ゆえに、二十日を限度とする──。
その間に“灰色の悪夢”に関する治療法なり、薬なり──確実な手掛りを見つける。
今サウズリンドにあるのは、症状を見分ける検査薬、そして、進行を抑える薬。……それも、病が長引き、体力を奪われれば、やがては死に至る先が見えている。
──治療薬。
それを見つけるのが、最重要事項でした。そして、それがなされなかった場合、バクラ将軍の名で『エリアーナ・ベルンシュタインはクリストファー王子との婚約を解消する』と声明を出す。もしくは、それよりも先に開戦の火蓋が切られた場合にも、同様である──。
それが、バクラ将軍のギリギリの譲歩でした。
わたしも様々に思い悩みましたが、最終的には受け容れざるを得ませんでした。
“灰色の悪夢”の治療薬を見つけるのが急務であるとしても、今、開戦の火蓋が切られそうなイーディア辺境領の情勢とを鑑みるだに、バクラ将軍の言う通り、二十日が限度だろうと。……もしかしたら、それすら危うい状況であるかも知れない。
唇をかみしめて、わたしはその期限を見据えました。
思い返すのは、王宮薬学室の方々と王都の医療施設に集められた医学や薬学の向学心にあふれた人々、異国の知識、持ち込まれた書物──あふれだすような情報です。
彼らも今、十五年前のあの時のように、ひっしに“灰色の悪夢”の治療薬の開発に取り組んでいるでしょう。
専門知識を収めたわけではないわたしは、彼らに頼るしかありません。
しかし、わたしにもできることがあるはず──とひっしに頭を働かせると、思い当たるのはやはりナイジェル薬室長です。
“灰色の悪夢”の進行を抑える薬の処方箋を、アランさまへ手渡していたナイジェル薬室長。ラルシェン地方で病が広がることを予見していたのかどうか……。それは、今優先すべき考え事ではないと、わたしは思考を切り替えました。
ナイジェル薬室長から教わったことや、会話した内容を思いだすと、どうしてもそれに行き当たります。
──ヒューリアの壺。
この世のあらゆる病を治す万能薬が記された、伝説上の書物。
今、実在も怪しい書物に頼るのではなく、ナイジェル薬室長がその話をしたのは、なにか手掛りになるようなものがあったのではないか……なにかを、伝えたかったのではないか。
そう思えてならないのです。
「…………」
ラルシェン伯爵家の病人には、すでに灰色の斑点が現われる症状の人もいました。ロザリアさまもその手前まで進行は進んでいます。王都の陛下の症状はどこまでなのか。
そして、王宮の陛下が感染されたということは……殿下にだって、感染するおそれがある。
ぎゅっと、メイベルと繋いでいた手に力がこもりました。メイベルがわたしに目を向けましたが、なんでもない、と返すことはできません。
一度浮かんだ恐怖は、なにより胸を締め付けました。
病が国内に広まりつつある今、どこにいても感染しない保証はありません。わたしにできるのは、暴動を鎮め、治療薬の手掛りになるものをつかむこと。
できなければ、その時は……。
またも浮かんだ不安は、ぎゅっと押さえてこらえました。わたしの行動が王太子婚約者として合っているのかどうか、迷いは何度も浮かびます。
それでもきっと──もし、この地にいたのが殿下だったなら。
きっと、わたしと同じ行動を取ったのではないか。……そんな風に思えてなりません。
その想定にはげまされる思いで目を上げ、メイベルと目を交わそうとした時でした。
突如、馬のいななきと共に馬車が大きく揺れ、急停止した弾みから放りだされそうになったわたしを、メイベルがとっさのように引き寄せました。
「……っ」
はげしい振動と衝撃が身体を襲います。
痛みをこらえて目を開けると、メイベルがわたしを抱え込むようにして、座席下に身体を打ちつけたのがわかりました。
「メイベル……!」
盛大に顔をしかめたメイベルが、大丈夫ですとかろうじて返してきます。同乗していたアランさまは、と見ると、彼も打ちつけた身体の痛みに顔をしかめながら体勢を起こすところでした。
「なにが……」
起こったのか、と確認するより先に、金属の打ちつけ合う音と、緊迫した叫びが馬車内にも飛び込んできました。
「──襲撃だ!」
息を呑む思いで、とっさに窓の外をのぞき見ようとします。
エリアーナさま、とアランさまに遮られましたが、緊迫した声と剣戟の様子がすぐ間近から、目にするように伝わってきました。
黒翼騎士団の、「この馬車が王家縁だと知っての犯行か!?」と叫ぶ声や、セオデンおじいさまの「射手は右手の崖上からだ!」と警戒を告げる声。次いで、後続の馬車に乗っていたはずの人物に指示する声が聞こえました。
「──ジャン! 御者がやられた。おまえが代われ!」
言われなくても、とそんな無言の返しが聞こえたような気もします。
響いた金属音にメイベルと身をふるわせていると、数拍後に大きく音を立てて馬車が走りだしました。
アランさまが御者口の小窓から馬車を動かしている人物を確認します。ジャン、と問う声にめずらしく余裕のない簡素な声が返りました。
「襲撃されました。狙いはお嬢のようです。後続の馬車はあきらめてください」
「そんな……!」
そちらには、医師と薬師、そしてウルマ鉱山麓の町へ届ける薬と物資が乗っているのに。
とっさに馬車の窓を開けて後方をふり返ったわたしに、メイベルとアランさまの制止がかかります。けれど、希望から引き離されていくような思いで、わたしはそれを確かめずにはいられませんでした。
いつの間にか舞っていた雪景色の中に、黒翼騎士団に襲いかかる、襲撃者と思しき一団が見えます。その光景にも胸が冷える思いで、窓枠をにぎりしめていました。
走りだした馬車に並走する護衛は数名。その内の一人が、窓口のわたしに馬を寄せてきます。隻眼の英雄、セオデン・バクラ将軍でした。
「エリアーナ。襲撃者はおそらく、前以て配置されていたものだ。情報が洩れていた可能性が高い」
「まさか……」
その事実に少しぼうぜんとする思いになったわたしに、強い隻眼が現実を知らせるように焼き付きます。
「開戦準備の手際のよさと言い、怪しむ点は多々ある。──エリアーナ。目に見える敵ではなく、その影にひそむ闇に注意を払いなさい。おまえになら、それを払うこともできるはずだ」
「セディおじいさま……」
先日の話からずっと、セオデンおじいさまはなにか、過剰な期待をベルンシュタイン家にかけていないでしょうか。
泣きそうな思いで見つめ返したわたしに、セオデンおじいさまはフッと、こんな状況でもその目元を和らげます。
それは、久しぶりに対面したあの時に見せた、離れていた孫へ向ける愛しむ眼差しでした。
「エリィ嬢や。おまえは、私が見ぬ四年の間に大きく成長していた。わたしが懸念していたのとは違う方向に。──今のおまえなら、ベルンシュタイン家が課せられてきた歴史を塗り替え、この国にふさわしい王妃になれるだろう。そのおまえを守るためにこの老骨が役立てるのならば……、ここまで生き長らえてきた意味もあるというものだ……!」
言葉と共に、迫った襲撃者の一撃をはげしく打ち返しました。
「セディおじいさま……!」
「行け、エリアーナ! 私は、おまえを信じる。おまえは、おまえが信じる、おのれの為すべきことをしろ……!」
もう一度叫ぼうとしたそこに、別方向から飛来した矢がセオデンおじいさまの背に突き刺さる光景が視界に焼き付きました。
知らず、悲鳴を上げていたことに止められるまで気付きませんでした。
「いや、いやです……! いや、……セオデンおじいさま……!」
迫った襲撃者に並走した護衛が立ち向かい、見る間に雪景色の中に赤い色が混じった光景が置き去りにされていきました。
叫ぶわたしの声も連れて。
メイベルやアランさまになだめられて窓枠から離され、感情のまま顔をおおって嗚咽をこぼしていました。
しかし──。
いくらも経たないうちに、疾走していた馬車は再び停車を余儀なくされました。ゆるやかに、包囲を狭まられたように。
窓からそっと表をのぞき見たアランさまが、緊張の声でつぶやきました。
「──囲まれた」と。
──数日後。
王都サウーラ、中心地に位置する王宮へ急使がもたらされる。
北のラルシェン地方へ赴いたアレクセイ・シュトラッサーから、王宮にいるクリストファー王子へ、火急の報せとして。
──黒翼騎士団、セオデン・バクラ将軍、身元不明の襲撃者によって死亡。王太子婚約者、エリアーナ・ベルンシュタイン侯爵令嬢──、
生死不明──と。