湖底の虫─7
祈りは聞き届けられませんでした。
ロザリアさまの寝室から青ざめた表情で下がってきた医師が、沈痛な面持ちで宣言します。
「──“灰色の悪夢”です」と。
「……っ」
部屋中に凍り付いた緊張が走りました。それは、恐怖という名のものです。
“灰色の悪夢”。
風邪に似た症状からはじまり、十日から二十日ほどの潜伏期間を経て、肌に灰色の斑点が現われる。症状は風邪と同じ。高熱や嘔吐、激しい咳。異なるのは灰色の斑点が現われて以降、意識不明の昏睡状態に陥り、全身にその色が広がっていき──そのまま亡くなること。
眠り病、とも呼ばれるほど、灰色の斑点が現われて以降は意識を取り戻すことがほとんどなく、亡くなる症例の多い奇病です。
人の肌が灰色に侵されていく様から、悪夢のようだと名付けられました。赤い発疹は、灰色の斑点が現われる前症状なのです。
だれかの息を呑む声も出ます。間違いないのですか、と。
室内にいたのは、医師からの報告を受けるために控えていた、わたしとアレクセイさま、バクラ将軍、ラルシェン伯爵夫妻、そして、信の置けるアランさまやリリア、ごく身内の側仕えだけです。
壮年の医師は青ざめた表情ながらも、医学を収めたものらしく、事実を語りました。
「……エリアーナさまが懸念された通り、検査薬で確認しましたので、間違いはありません。……あの病が流行した当時から、風邪の症状の際はその検査薬で調べるのが義務付けられていたのですが……。検査薬が高価なため、ここ数年、おざなりになっていたのも事実です」
クッと、だれかの息を呑む声も聞こえました。
“灰色の悪夢”が流行して後、二年後に病に感染した人を見分ける検査薬が誕生しました。風邪と似た症状のために一緒くたに感染症と隔離され、もとは風邪の病だった人も“灰色の悪夢”に感染し、被害が拡大する事態になったのです。
検査薬を発明したのが、王宮薬学研究室の室長、ナイジェルさまでした。
しかし、それは十五年たった今、徹底されてはいなかった──。
かるく首をふったアレクセイさまが気を取り直すように考えを口にします。それは、過ぎたことを今悔やむよりも現状に手を打とうとされる、殿下の右腕と呼ばれるにふさわしい思考の切り替えでした。
「病に効くポメロの実を独占販売しているのは、ディアナ商会です。しかし、どちらにしろ今が実りの時期ではない上に、この地まで届く前にそのほとんどが腐ってしまう。エリアーナ嬢の言う通り、酸味の強い他の果実に頼るしかないでしょう。ラルシェンでは果実の栽培はほとんどない。隣のアズールとグラールへ急使を送るのと、王宮へも病の発生を直ちに伝える手筈を」
アランさまや家人が動きだして、まだぼうぜんとしているラルシェン伯爵の肩をアレクセイさまがつかんで正気に戻らせました。
「カール、しっかりしなさい。きみがこの地の領主でしょう。領民を守るのはきみですよ」
「あ、ああ……」
若き伯爵はどうにかうなずき返しましたが、その顔色は幼い頃の恐怖を思いだしたように、おびえの混ざったものでした。
そこへ、部屋を下がったアランさまが一人の兵士を伴ってかけ込んできます。
「アレク! 王宮からの急使だ」
視線が集まった先で、息を切らした兵士が片膝をついてわたしたちに礼儀を示し、拳ににぎった片手の甲と襟の徽章を室内の者に示します。
王家の紋章に赤い鷹が描かれたそれは、確かに緊急性を表わす使者の証明でした。手の甲にヘンナという手法で紋様を描いた、王家の緊急時の密使です。
バクラ将軍とアレクセイさまがうなずき、まずは兵士が名を名乗ります。次いでアレクセイさまが王家の使者である証明のために、隠された王家の呼び名を確認します。緊急時の使者にのみ明かされる、王家の古語でした。
間違いがないことを確認してから、アレクセイさまは兵士から差し出された一通の書状を受け取り、わたしに差しだそうとします。兵士は次いで、驚愕の言葉を発しました。
「緊急性が高いため、書状にある件を口頭にてお伝えします。──国王陛下が、お倒れになりました」
「な……っ」
「“灰色の悪夢”です」
馬鹿な、とうめくような声を発したのはアレクセイさまでした。わたしも鼓動が止まる思いで使者を見つめ返します。
“灰色の悪夢”が北の領地からではなく、王都から発生した……? それも、陛下が……。
使者の緊張を帯びた顔つきが、次いで苦しげな訴え出るようなものになります。告げられた内容は、さらに震撼としたものでした。
「軍部の強攻派が、マルドゥラ国の使節団を拘束。ただ今、イーディア辺境領の
「馬鹿な……! なぜそんな事態になる!」
今度声を荒げたのはセオデンおじいさまでした。東の武神と称される老将軍の視線に使者はひるんだようになりましたが、訴え出る表情は変わりませんでした。
「マルドゥラ国が今回我が国を訪問したのは、自国で流行っている疫病の治療法を求める目的があったそうです。それが……どうやら、“灰色の悪夢”だと。軍部の強攻派は、病を我が国に持ち込み、陛下を感染させたのは宣戦布告と同義である、として、使節団を拘束しました。──バクラ将軍、至急王都へお戻りください! マルドゥラ国との開戦です!」
部屋中に衝撃が走りました。
大人しい伯爵夫人がふらりと倒れそうになり、それをあわてて伯爵が支えています。わたしも倒れそうなほど、にぎりしめた両手が血の気を失っていることに気が付きました。
だれもが言葉を失って次に動く気配に緊張する空気の中、低く厳しい声を発したのは、バクラ将軍でした。
「──エリアーナ・ベルンシュタイン。今すぐに、クリストファー王子との婚約を解消する声明を出しなさい」
ぎくりと、息の止まる思いで老将軍を見つめ返します。
隻眼の将軍は親しい者へ向ける眼差しではなく、一国を守った歴戦の武将らしい態度でわたしに対していました。
「マルドゥラ国は海に弱い。西側の海軍の増強を図れば、内海から攻め込まれる状況をかんがみて開戦には踏み切らないはずだ。海軍を増強するためには、ミゼラル公国との強い結び付きを公にする必要がある。──クリストファー王子には、ミレーユ元大公女を側室に娶っていただき、オーディン公爵家の令嬢を正妃に据えてもらう。それが一番、戦を起こさずに
ミゼラル公国と強い繋がりを持つ、アンリエッタ王妃さまの生家、オーディン公爵家。わたしの友人でもある、ファーミア公爵令嬢。
言葉が出ずに、息をするのも忘れたように老将軍を見つめ返します。お待ちください、とアレクセイさまの声が割って入りました。
「その手段を取らずとも、他にも方法が……」
「どんな手だ。言ってみろ、アレクセイ・シュトラッサー」
歴戦の武将らしい、経験値の浅い若者を叱咤する口調でした。
「エリアーナを王子の婚約者に据えたまま、戦に踏み切るか? ベルンシュタイン家が課されてきた歴史を繰り返すか。それが、クリストファー王子の望みか」
クッと、アレクセイさまの面に常にはない感情をあらわにした表情が浮かびました。バクラ将軍はそこにたたみ掛けるように告げます。
「“灰色の悪夢”に効果的であるとされるポメロの実。その主要産地はミゼラルだ。その販売をにぎっているのも、ディアナ商会──オーディン公爵家。今、オーディン公爵家と結び付きを深めるのが戦を回避し、病を防ぐ最善の手段だ。それがわからない頭の持ち主ではないだろう、アレクセイ・シュトラッサー」
アレクセイさまの面にあったのは、歯噛みするようなそれでした。その様子がなおさら、アレクセイさまの頭脳をもってしても、他に手段がないことを知らしめます。
バクラ将軍の面には、なにかを皮肉げに揶揄るような、秘めた憤りを思わせる
「さすがに、ここまでお膳立てされると、私もきな臭いものを嗅ぎ取るがな。だが、相手がどんな手を使ってこようが、その前に手段を講じることができなかった、クリストファー王子とおまえたちの負けだ。潔く、現実を受け止めることだ」
それは、若者を叱責しなれた年配者の口調でした。その隻眼が再びわたしに戻されます。
「エリアーナ。おまえにも、何が最善なのかわかるはずだ。王子も聡明と評判を取るほどの者なら、おのれの立場をわきまえているだろう。むしろ、使者にその旨を含ませていないことがふしぎなぐらいだが……」
バクラ将軍の隻眼がちらりと片膝ついたままの使者へ投げられましたが、使者は困惑したような表情を見せるばかりでした。
小さく息をついたバクラ将軍が強い眼差しでわたしを見据えてきます。
「エリアーナ。宮廷の強攻派は私が留めることができる。今は一刻の猶予もない。私がおまえの声明の保証人になろう。戦を止めるために、クリストファー王子との婚約を解消すると、声明を出しなさい」
ふらり、とわたしも事の重みに圧される思いで一歩後ずさりました。
殿下との婚約を解消する──。
戦を止めるために。サウズリンドの民を守るために。
それが今、わたしにできる最善の方策だと。殿下も、それが最善の策だと考えているのでしょうか。わたしとの婚約を解消することが、お互いに今取れる最善の手なのだと……。
殿下の考えが見えない湖底に沈んでいくように、わたしの思考もそこに捉われていました。
~・~・~・~・~
それを破ったのは、新たな急使です。
あわてたような騒がしい物音が部屋の外で起こり、「伯爵はどちらに!?」と切羽詰まった声も上がっています。
癇の強そうな伯爵は許容量を越える事態に、いい加減もてあましたような声を上げました。
「今度はいったい、なんなんだ!」
「申し上げます……!」
飛び込んできた急使が礼儀も忘れて事態を叫びました。
「ウルマ鉱山麓の町で暴動が発生! 町の住人が町長ら町役人を人質に、町役場に立てこもりました!」
「なんだと……!」
立て続けの知らせに、ラルシェン伯爵はなにかを突き抜けてしまったように、表情なく立ち尽くしました。
使者はかまわず言いつのります。
「“灰色の悪夢”です! 伯爵、病の感染者が大量に出ました。住人たちは十五年前の時のように、ラルシェン地方は死者の土地になるのではないか、……また、見捨てられるのではないかと、そう騒ぎ立てています。伯爵、ご指示を……!」
切羽詰まった叫びに、若き伯爵は反応することができません。一瞥したバクラ将軍が代わって指示を出しました。
「領軍の手配をしろ。領民の暴動なら領軍で押さえられるはずだ。今は暴動などにかかずらっている場合ではない」
「……なりません!」
とっさに出た言葉でした。
視線が集まる中で両手を痛いほどにぎりしめ、自分の中のなにかがそれをしてはならない、と強く主張していました。
エリアーナ、と諌めるようなバクラ将軍に、わたしは返します。
「軍力で暴動を鎮圧してはなりません。それでは、ラルシェンの領民にさらなる絶望と不信感を与えるだけです。引いては、サウズリンドの他の民に。軍は国を守るものであって、民を傷付けるものになり下がってはなりません!」
「では、どうする。暴動を放置したまま、マルドゥラとの戦に向かうか」
「いいえ」
自身の中でふくれ上がっていく思いと、目まぐるしい事態に頭の中も混乱の極地でした。
マルドゥラ国との開戦。戦を止めるためには、殿下との婚約を解消するのが最善の策。オーディン公爵家。灰色の悪夢。陛下の感染。ロザリアさまの症状。起こった暴動。一度ならず二度、国に見捨てられたラルシェン地方──。
様々な事態が押し寄せてきて、息が苦しくなります。こらえようとしたその時、フッと耳元にささやきがよみがえりました。
──エリィ、深呼吸。
「…………」
わたしは一度、目を閉じて大きく深呼吸をしました。一歩下がった足を戻し、目を開けた時に迷いはありませんでした。
「──わたしが参ります」
「エリアーナ嬢……!」
めずらしく声を荒げたアレクセイさまが、感情もあらわに反対の意を唱えました。
「それこそあり得ない! あなたが今取るべき行動は、一刻も早く王都へ戻ることです。戦を止める方策は、殿下と相談すればいい。こちらのことは、私が対処します」
常には冷静さが身上のアレクセイさまも、立て続けの国難に動転している部分があるようです。……母親が、奇病に侵されている不安もあるのでしょう。
わたしはひるまず答えました。
「この地へ今、王太子婚約者であるわたしが訪れているのは、衆知の事実です。今わたしが王都へ帰れば、ラルシェンの民はやはり王家に見捨てられたと思うでしょう。わたしが赴くことで、暴動は鎮められるはずです。アレクセイさまは、こちらに留まって医療班の采配をお願いします」
「しかし……」
なおもためらうその思いはわたしにも伝わりました。
“灰色の悪夢”を発症した病人が大量発生しているというウルマ山麓。感染した陛下とロザリアさま。わたしとて、感染しないという保証はありません。
しかし、とわたしはこの四年の間に間近で見てきた事実を伝えます。
「“灰色の悪夢”は、確かにいまだ治療薬の見つかっていない奇病ですが、その進行を抑える薬は開発されています。ここ十数年、その病が絶えていたために公にはされておらず、臨床検査もまだされていませんが、病を克服するための進歩は、確実に果たされているのです」
治せない病ではない。
病が発生してから後、その症状を見分ける検査薬が誕生したように、医師や薬学研究者たちは日々努力してきたのです。
歴史の表舞台に立つわけではないそんな人々の努力と、積み重ねられてきた歴史。それがわたしに、“灰色の悪夢”に立ち向かう勇気を与えてくれていると、そう思えました。
「──わたしは、サウズリンド王国第一王位継承者、クリストファー・セルカーク・アッシェラルド殿下の婚約者です。民を守らずにその名を名乗ることなどできません。これは、わたしが為すべきことです。王家はラルシェンの民を見捨てるようなことは、決してしません」
ようやく表情を動かした伯爵を見て、わたしは隻眼の将軍に向き直りました。
「バクラ将軍。わたしは、クリストファー殿下との婚約を解消はしません。殿下か、サウズリンドの民か──その選択も選びません。武力に頼らずとも、戦を止める方法はあります」
え、とだれかの声と驚いたように室内に走る空気に、バクラ将軍だけが冷静でした。
「どんな方法だ」
「“灰色の悪夢”の、治療法を見つけることです」
好戦的なお国柄と知られているマルドゥラ国が、使節団を編成してまで長年の敵対国であるサウズリンドへ治療法を求めてきた──。それはおそらく、被害がサウズリンドよりも深刻だということを示してはいないでしょうか。
「十五年以上発見されていない治療法が、そうたやすく見つかると本気で思っているのか」
強く覇気を秘めた隻眼に、わたしは胸元に忍ばせた殿下からもらったお守りを、その上から確かめました。
その眼差しに、正面から答えるために。
「十五年経った、今だからこそです。バクラ将軍、わたしと殿下が十五年前の病から何も学んでいないと思いますか。王都に併設された医療施設は、このような事態の時のためです。わたしたちは、あきらめてはいません」
“灰色の悪夢”が沈静化した後、急速に日陰部署へ追いやられた王宮薬学研究室。けれど、研究員たちはだれも“灰色の悪夢”の研究をやめることはしませんでした。
それは、彼らが病で亡くなった人々や国の惨状を見て、二度と同じ悲しみを起こさないと誓ったからではないでしょうか。病の治療薬は、必ず見付けてみせると。
──だれもあきらめてはいない。その事実が、わたしを力付けてくれます。
「クリストファー殿下は、軽々に戦に踏み込む方ではありません。他に方策を探さずに、仕方がないと、安易に民の命を奪う戦に踏み込む為政者を、わたしは信用しません。殿下は、そんなことはなさらない」
想いを胸に見つめ返した先で、わたしはいつかもその眸に見つめ返されたのを思いだしました。するとどうしようもなく、なつかしむ思いにかられました。
「セオデン・バクラ将軍。昔──もうダメだと思ったその時が、その人の持つ力が試される時だと……そう教えてくれたのは、あなたではありませんか」
強い眼差しがさざ波を立てるように、かすかに揺れました。
昔、ベルンシュタインの領地にいた頃──。わたしの世界にあったのは書物でした。書物があれば、他にはなにもいらないと思っていた。
けれど、王都へ出てクリストファー殿下の婚約者になって、わたしの世界は広がりました。
書物以外に、守りたいものや想い、友人、知り合った人々。──だれより、なによりかけがえのない、大切な人。
その方が守るものなら、わたしも何に替えても守りたいと……そう思ったのです。
「わたしは、クリストファー殿下とサウズリンドの民、両方を選び取ります。セオデンおじいさま……わたし、殿下と約束したのです」
はっきりと揺らいだ眸を見て、あの時の想いがよみがえりました。すると、しぜんにわたしは笑顔を作っていました。
「二人で、乗り越えようって。たとえ、どんな荒波が来ようと、殿下は民の命を奪うようなことはなさらない。──わたしは、クリストファー殿下を信じます」
わたしは、わたしのできることをする。殿下に託された、このラルシェン地方で。それがきっと、王宮で一人国難に対峙されている殿下の力にもなるはずだと、──そう信じて。
静かに黙されたセオデンおじいさまを見て、わたしは気持ちを切り替えます。
王家の使者にまず──陛下以外に、王都や他の地域で感染者の報告はされているか、問いました。
「王都では数人の感染者が確認されています。……他の地域は、自分が王都を立ったその時には、まだどこからも」
その言葉にうなずき、考えながら指示を出します。
「──王宮の薬学室と、王都の医療施設へ急使を。 “灰色の悪夢”の進行を抑える薬の処方は、まだそこだけで押さえられています。殿下なら……陛下が感染された時点で、今後、病が広がる可能性を考えて、処方箋を公布する手筈を取っているはず。──それを至急、手に入れてください!」
アレクセイさまがはじかれたように反応しかけて、「あ、はい」と呑気な声と片手が上がりました。従僕に扮した、アランさまです。
「ボク、たぶんそれ、持ってます」
「……あぁ!?」
一拍置いた、氷河の底から響くような低い声を上げたのは……アレクセイさまでした。わたしも少したじろいだのですが、アランさまは頬を掻くような仕草で返します。
「ナイジェル薬室長からこっそり渡されたんだよ。『ヒッヒッヒ。これは秘薬の作り方じゃ』って。なんのことかと思ったけど、たぶん、その薬の作り方だと思う」
「なぜもっと早く言わなかった!」
「いや、だって、ボクだってまさか、“灰色の悪夢”の進行を抑える薬の処方だとは思わないよ。そんな薬があることも知らなかったし、こんな事態になるとも思わなかったし。えっと、……あの、お医者さま、たすけて」
アランさまは、見られただけで氷の彫像と化すようなアレクセイさまの視線から逃れて、室内にいた壮年の医師の背後に隠れました。懐から、そっと一片の紙を渡して。
それに目を通した医師の顔が、困惑と懐疑的な色から、徐々に輝きを秘めたものになりました。──もしかしたら、という希望に満ちたものへ。
「……トリネの実とスミーシオの生の根を合わせる……斬新ではあるが、効能としては打ち消し合うはず……いや、生の根は本来の成分とは異なると最新の薬学書にもあったが……いや、まてよ」
なおもブツブツと薬学の世界へ入り込んだ医師へ、アレクセイさまの冷ややかな声が挟まれました。
「医師どの。今は一刻を争う。至急、薬師にその効能を試験させてください。処方に足りない物資は、緊急性の高いものから順列に表記を」
氷の槍を打ち込まれたように、医師が姿勢を正しました。ただいま、すぐに! と飛び上がる様は、先ほどのアランさまの動きととても似ています。
医師に付いて部屋を後にするアランさまが、
「……ホントにしょうもない秘薬だったら、どうしよう……」と、この世の終わりのような表情で身をふるわせていました。