湖底の虫―6
騒ぎの起こっている部屋の前へ赴くと、同じく聞き付けたらしいラルシェン伯爵と出くわしました。
アレクセイさまを見て一瞬顔をしかめた伯爵ですが、部屋の中へ踏み込むとさらに険しい顔つきになります。
「──これはなんの騒ぎだ」
室内で優雅に腰掛けている公爵夫人を慮ったのでしょう。伯爵の声は押さえた声音でしたが、室内の光景を不快に思っているのはわかりました。
旦那さま、とふるえる声の伯爵夫人は、立ち上がったイザベルさまを押さえています。なにかに激昂した様子のイザベルさまと伯爵夫人の足元には、割れた茶器が散乱していました。
室内にいたリリアがそっとわたしのほうへ寄ってきて事情を説明しようとします。その前で、憤りの収まらない様子の声が上がりました。
「私が卑しい血筋の者だと言ったのよ! いくら公爵夫人だからって、あまりにも失礼だわ!」
声を荒げるイザベルさまに対して、あら、と冷たさと気品を感じる声でロザリアさまが返します。
「私は身分をわきまえない者は血筋も問われるわねと言っただけよ。伯爵夫人とお茶を楽しんでいたのに、なぜかそちらの方が割り込んでいらしたから。こちらのお宅の女主人は、伯爵夫人ではなかったかしら」
「私だって伯爵家の人間よ! 彼女よりも古くからこの家にいたんだから!」
ロザリアさまが声にしない嘆息をつきました。冷ややかな面は、話にならないと告げているようで、もはや視界に入れることもしません。
青ざめる伯爵夫人と、ため息をついたラルシェン伯爵が室内を片付けるよう使用人に指示しています。たしなめるような言葉がかけられて、相手にされないことに業を煮やしたイザベルさまが驚きの言葉を口にしました。
「ウソなんかじゃないわよ! 私は伯爵家の人間なんだから! 私の父は、先代のラルシェン伯爵よ!」
室内に一瞬、呆気に取られたような驚きが走りました。あきれたような声を発したのは、従兄の現ラルシェン伯爵です。
「イザベル、いい加減にしないか。おまえのほうこそ、言っていいことと悪いことが」
ほんとうだったら! と叫ぶ声にはどこか子どもの癇癪のような響きがあります。
「母が亡くなる前に教えてくれたのよ! 私の父は先代さまだって。でも、母よりも先に先代さまは亡くなってしまったし、私はきちんと認めてもらえなかった。ほんとうに私は伯爵家の人間なのよ!」
今度こそ、静かに横たわる沈黙が落ちました。ラルシェン伯爵も驚きと疑いの間で感情が揺れ動いているようです。
冷たく言葉を投げたのは、ロザリアさまでした。証拠は? と。
「口先だけでなら、なんとでも言えるでしょう。確かな証拠もなくそのようなことを口にするのは、いくら伯爵の従妹とはいえ、貴族への不敬罪に当たりますよ」
わたしは少し胸を突かれる思いでした。
ロザリアさまは……おそらく、テオドールさまの出自に関わる疑惑のせいで、似た問題にはことさら冷たい対応になるようです。
キッと顔を上げたイザベルさまが、「もちろんあるわよ!」と気が強く答えて自室へ身を返そうとします。
そこへ伯爵家の従僕がはいはーい、と呑気な声で割って入りました。その手には一枚の絵画があります。
「あなた、どうしてそれを……!」
驚いた様子のイザベルさまに従僕は明るい声で、お気になさらずー、と返しています。
「イザベルさまが大切になさっている絵だと聞いたので、これかなーって見当つけて持ってきました。あ、不要でした?」
そらっとぼけて口にする従僕の手から絵画を奪い取ると、イザベルさまはこれよ、と堂々とロザリアさまやラルシェン伯爵に見せつけます。
「ショーンなんとかって文豪が描いた絵だそうよ。母はこれを先代さまからもらったって言ってたわ。レイシェン湖の睡蓮が描かれているし、睡蓮は伯爵家の家紋だわ。有名な画家が描いたものじゃないけれど、家紋と同じものを母に渡したのは、わたしが先代さまの血を引く子どもだって証でしょう」
さすがにそれには、伯爵も勢いに任せた戯れ言と取ることはできなかったようです。……なぜ今まで黙っていた、と詰問する口調でイザベルさまに詰め寄りました。
「それは……」
とたんに勢いをなくしたイザベルさまを見て、伯爵はなにかに思い当たったようでした。まさか、と今度は違う疑惑の色を浮かべます。
「……リンジーはあの頃、なにかに思い悩んでいたようだった。俺は、アレクセイ・シュトラッサーとの婚約がいやで悩んでいたんだと思ったが……まさか、イザベル」
「違う……!」
叫んだイザベルさまは今度はひっしに言いつのりはじめます。
「私は何もしていないわ! ……たしかに、リンジーにはこのことを話したわ。社交界が苦手なリンジーより、私のほうがよっぽどアレクセイさまの婚約者としてふるまえるもの! 私にだってその資格があるって、そう話したのよ。でも、それだけよ! 私はリンジーに何もしていないわ!」
……つまり、ここへ来て不慮の事故ではなかった疑いも浮上しだしたということでしょうか。
目の前で展開していく事態を驚いてながめていたのですが、なおも伯爵に問い詰められるイザベルさまと、その手にある絵画を見つめて、わたしはあら、とその事実に気付きました。
「あの……」
声をかけたわたしに、二人の感情が高ぶった目が向けられます。ひるみそうになりましたが、やはり真実を伝えなければと続けました。
「その絵に描かれているのは、睡蓮ではありません」
は? と二人だけではなく、部屋中のいぶかしげな視線が向けられました。イザベルさまの明らかに嘲笑する声も出ます。
「なにを言っているのよ。この花のどこが睡蓮じゃないと言うの? 何も知らない人は黙ってて」
「あの……その花は、蓮の花です」
は? ともう一度苛立たしげなイザベルさまの声に続けて、アレクセイさまの思いだすような問いが出ます。
「蓮……というと、異国の宗教で象徴的な花であると聞いたことがありますが。睡蓮と同じ品種なのですか?」
「いえ、品種は異なります。南大陸や東の彼方で分布する花なのですが、アレクセイさまのおっしゃる通り、睡蓮にそっくりなのだと神学者の書物に挿絵が載っていました」
あ、とわたしはついでに思いだした情報をアレクセイさまに提案します。
「蓮の花はとても有用なのです。その根を食することもでき、さらに茶葉にすることもできると。蓮茶は妊娠中の方や、精神的負担を抱える方にお勧めなのだと本で読みました。アレクセイさまやテレーゼさまに取り寄せてみてはいかがでしょうか」
すると、アレクセイさまの面にたまに見かける、小さく引きつるような凄味のある微笑が浮かびました。
「精神的負担をかける方々が自重してくだされば、わざわざ異国の茶葉を取り寄せる必要もないと思うのですがね」
……よけいなことを口にしてしまったようです。
ふだんと同じ冷ややかな目付きに縮こまる思いでいると、イザベルさまの憤然とした声が上がります。ちょっと待ってよ、と。
「いくら似てる花があるからって、この絵が睡蓮じゃない証明もないじゃない。母が、先代伯爵からもらったって大切にしていた絵なのよ。侮辱しないで」
強くわたしを睨み付けるイザベルさまは、ご自身が心の支えにしてきたものをひっしに守ろうとしているようでした。
迷いましたが、一度口にしてしまったことには責任を持たねばなりません。
「見分ける方法はあります。睡蓮の葉には切れ込みがあるのが特徴で、蓮の葉にはそれがありません。それに……その絵には、葉の上に水滴が描かれています。蓮の葉は水をはじくのが特徴なのです。専門家に調べていただければ、はっきりすると思います」
イザベルさまがうろたえたように手に持った絵に視線を移し、その面に愕然とした色が浮かびました。……じゃあ、なんで、とつぶやく声には子どものようにとほうにくれた響きもあります。
「なんで、先代さまはこの絵を母に渡したのよ。母は……なんで……」
痛ましい思いを覚えながら、わたしは回廊で見た家族の肖像画を思いだしていました。
仲の良さが伝わってきたいくつもの絵。おそらく……という想像でしか答えを返せませんが、イザベルさまの母君は、それがうらやましかったのではないでしょうか。自分は持てなかった幸せそうな家族の姿。欲していたその光景。
身体が弱っていたのも、後押しをしたのかも知れません。人は、弱っている時には何かにすがりたくなるものです。それで……自分が憧れたものをイザベルさまに信じ込ませたのではないでしょうか。
あなたは伯爵の子だと──。
無名の芸術家たちを保護して世に送りだそうとしていた伯爵なら、もしイザベルさまが自身の子だったのなら、それを隠すことはしないのではないか、……勝手ながら、そう思われます。
それに、とわたしは自分にも覚えのある一面を少々恥じながら、その絵の値打ちを伝えました。
「ショーン・マウルケルド氏には、貴族の好事家が付いています。文豪や大作曲家、高名な画家と称される人物の個人的なものを高値で蒐集する人たちです。……それで、たぶん先代伯爵さまはこの先、イザベルさま母子が困った時のために、と思われたのではないでしょうか」
「そんな……」
崩れるようにイザベルさまはその場にへたり込んでしまわれました。すると今度は、じゃあ、と答えを求める声が上がります。
「リンジーは、イザベルに追い詰められた末の自死だったのか、ほんとうにただの事故だったのか、どちらなんだ」
若き伯爵の救いを求めるような眼差しに、わたしは少々困惑気味になります。リンジーさまに関しては情報が少なすぎて判断がつきません。
迷ったそこに、小さな吐息が出ました。
「──リンジー嬢が亡くなられたのは、自分のせいかも知れません」
ビックリしてその声の主、アレクセイさまに注目が集まります。
アレクセイさまはふだんの鋭利な眸を伏せて、めずらしく昔に思いをはせるような風情でした。
「あの日──王都での婚約式のために、リンジー嬢を迎えにこちらを訪れました。彼女とははじめの対面以降、ほとんど話らしいものはしていませんでしたが、これから時間はあると思っていました。……彼女が悩んでいたらしいのは、後から知りました。気付けなかった、自分に責があると思います」
素直に非を認めるアレクセイさまはどこか無防備な少年のようで、宮廷内でささやかれる氷の魔人の異名が見当りません。
若きラルシェン伯爵が言葉を発する前にわたしがたずねました。最後に、どんな言葉を交わされましたか、と。
少しいぶかしそうにしたアレクセイさまが思いだすようにしながら、素直に答えます。
「……リンジー嬢はあまり、進んで会話する方ではありませんでしたので……」
懸命に思い返す様子で、ふと言葉にしました。
「白い睡蓮を──受け取ってくれるかと聞かれました。それが婚約者へ渡すものだと」
「アレクセイさまは、なんと答えられたのですか……?」
「それは……婚約相手から贈られるものですから。ありがたく、と答えましたが」
なにか間違っていたかと眉をひそめるアレクセイさまを見て、わたしはほほ笑ましいような、もういない方の想いにせつなくなるような思いとで、胸がいっぱいになりました。
「レイシェン湖の睡蓮は、淡紅色か、その色が混ざったものがほとんどです。純白のものはめったになくて、とても貴重なのだそうです。──白の睡蓮は、清純な心、という意味があるそうです」
それをアレクセイさまに渡したかった、リンジー・ラルシェン伯爵令嬢。使用人や、だれに頼むわけでもなく、自身の手で摘み取りたかったのではないでしょうか。
婚約相手に渡すものだから。この先も共にいる決意の思いとして。
それで、おそらく……。
その先は言葉にしませんでしたが、想像したようにイザベルさまがパタパタと涙をこぼしはじめました。泣きじゃくる姿に伯爵夫人がいたわるように肩を抱きます。若き伯爵はなにも言葉にせず、押し黙っていました。
リリアが小さな声でそっとわたしにたずねてきます。
「……その、文豪のショーン先生は、なぜ睡蓮じゃなく蓮の花を描いたの?」
たぶん、とわたしはその著書を思い返していました。
「……ショーン・マウルケルド氏の著書には、宗教に関連した本もあったから、それで蓮の花を思い付いたんじゃないかしら……」
答えながら、わたしは自身の中でずっと気にかかっていた何かに思い当たりそうで、考え込んでしまいました。
宗教と、花……。
リリアは、「睡蓮が有名な湖に来て別の花を描くなんて、ただのひねくれ者じゃないの」とつぶやいていましたが。
するとそこで、場の空気を壊さないやわらかな笑いがもれました。
目を上げると、ロザリアさまが親しい者へ向ける微笑でわたしを見ています。
「エリアーナさんがいれば、王家の秘事もなんでもないことのように、いつか解かれそうね」
まるで、そうであることを願っているような口ぶりでした。そうして次には、ふっと貴婦人の微笑を落として椅子からくずれるように身体を倒しました。
「ロザリアさま……!」
母上、とアレクセイさまとわたしが急いでロザリアさまのもとへかけ寄ります。
ロザリアさまはたった今まで貴婦人然と腰掛けていたのが嘘のように苦しげな息遣いで、そのまま倒れ伏しそうなご様子です。
耐えていらっしゃった胆力には感服しますが、気付けなかったことにも歯噛みする思いでした。騒ぎが起こった時から、思えばロザリアさまらしくないふるまいだったのです。
ロザリアさまは社交界を取り仕切る貴婦人らしく、ご自分から人にぶつかっていくような方ではありません。それをしていた時から、もしかして体調が優れなかったのではないでしょうか。
医師を、と指示するアレクセイさまの声を聞きながら、わたしは色々な情報が組み合わさって行くのを感じました。
まさか……と、ふるえる思いでロザリアさまの腕を取ります。
「ロザリアさま。失礼します」
断って袖をめくると、赤い発疹が見られました。鋭く、胸の奥を突き刺されるような思いで、一瞬息も止まります。
「エリアーナ嬢?」
いぶかしげなアレクセイさまに答えることはできませんでした。
赤い発疹は風邪の症状の時にも見られるものです。でも──もしも。
「ラルシェン伯爵。この地方は隣のアズールとの取り引きが多いはずですが、ディアナ商会、もしくは、そこと関わる商会と取り引きはされていませんか?」
「ディアナ商会?」
繰り返す伯爵に急く思いで見つめ返すと、たじろいだように否定しました。
「いや、ないと思う。その商会が……」
伯爵の声にかぶさるように、アレクセイさまのまさか、という硬質な声が出ました。王都や西側では有名な商会です。
まだわからない、とわたしはただ首をふり、ロザリアさまを別室へ運ぶ手伝いをしました。そうして、今は少しでも可能性のあることに手を打っておくべきだと、めまぐるしく動く思考で考えます。
そのまま言葉にしました。
「アランさま。医師にはポメロの実、なければ酸味の強い果汁に手を浸して診察するように伝えてください。同じように、伯爵家で風邪の症状を訴えている方にも優先して酸味の強い果実を与えるよう、伝えてください」
うん、と先に絵画を運んできた伯爵家の従僕が、わかっていたような声を返してきました。
「もうあきらめてるんだ。わかってるよ。いつも通り気付かれていないんだよね。そうです。ボク、アランデ……ええっ!?」
蜂蜜色の髪に油断のならない翠緑の眸をした青年が、一人芝居のような道化た様であわてたように動きだしました。
ただいま、すぐに! と指示に従ってくれる後ろ姿をながめて、どうか杞憂でありますように、思い過ごしでありますように、と祈る思いで両手をにぎりしめていました。
迷探偵エリィ……。