湖底の虫─5
慰霊祭当日は、朝から小雪が降ったり止んだりの天候でした。
湖に降る幻想的な光景の中、そばに建てられた慰霊碑に鎮魂の祈りを捧げ、二度と同じ過ちをおかしてはならないと心に刻みます。
定められた公式行事が終わるや、わたしは土地の有力者や、近隣から参加した貴族の方々の面会に追われていました。
王都から離れた地へ王太子婚約者が訪れたので、これを機に
それらを如才なく、アレクセイさまが見事な手腕で捌いてくださり、わたしは何にわずらわされることなく、自由の時間までできてしまったほどでした。
ありがたさを感じるとともに、今王宮にいる殿下の不便さはいかほどだろうと、アレクセイさまの優秀さを目の当たりにするほど、申し訳なさが先に立ちます。
一昨日、耳にしてしまったアレクセイさまの疑惑に関しては、さすがにリリアも口をつぐんでいました。
わたしもあの後、しまいには泣きだしそうな様子になってしまった夫人から、少しだけ事情をうかがいました。
リンジー・ラルシェン伯爵令嬢は、当時、アレクセイさまとの婚約に乗り気ではなく、辞退する素振りも見せていたのだと。ご令嬢が亡くなられた死因は、レイシェン湖へ足をすべらせたことによる溺死とされていますが、……ほんとうは、婚約を嫌がったご令嬢が自ら身を投げたのではないか……そう、ささやく声もあったそうです。
実際のところはわかりませんし、アレクセイさまはそういった面の感情を見せられる方ではないので、わたしもどう捉えたらよいのかわかりません。
けれど……やはり考えたのは、クリストファー殿下の思惑でした。
殿下が今回、わたしの補佐としてアレクセイさまをこの地へ赴かせたのは、少なからず、過去のことが起因していたのではないかと。アレクセイさまがその過去とどう向き合うかは……アレクセイさまご自身の問題だと思いますが。
少なくとも、決着をつけてきてほしいと思われたのではないかと、僭越ながら、そんな憶測が思い浮かびました。
「…………」
王宮では、すでにマルドゥラ国の使節団との対談が行われているはずです。そちらがどうなっているのか、ずっと思考の半分はそちらに捉われていました。
しかし、離れた地にいるわたしがいくら気にかけても詮のないことです。それに、殿下と約束したことでもあります。
わたしは、わたしにできることを果たそうと。
殿下と交わした言葉を思い返すと、どうしようもなくこみ上げてくる想いに、そっと胸元を押さえました。
一段落ついた公務の席から一人離れて、ひとけのない回廊から湖を見下ろせる窓辺で小さく息をつきます。雪は止んでいましたが、回廊でも忍び寄る冷気が身体を包みました。
まだ、今は自身の個人的な思いよりも、公務と、この土地にある過去を悼む思いに集中しようと意識を澄ませようとします。
けれど……。
──これが終わったら、後は春を待つだけだから。だから、エリィ──。
「…………」
一度思い返すと、どうしようもなく高鳴る想いに頬も火照る思いでした。逢いたくて仕方ない想いはずっと胸にあります。
虫かぶり姫のわたしが……と、苦笑するような思いも浮かびましたが、自分でも驚くほど心は素直でした。
早く、殿下のそばに戻りたい──。
託された使命をやり遂げられているか自身に問いながら、次第に残りの日数を数えている自分がいることにも、気付いていました。
そっと息をついて戻ろうとふり向いたそこで、ドキリと動きを止めました。
「……セディおじいさま」
隻眼の将軍がそこにいました。
同じように白い息を吐いたバクラ将軍は、表情を動かさずに話がある、と切りだします。その雰囲気に気圧される思いでうなずき、次いで耳を疑う言葉に凍り付きました。
「──エリアーナ・ベルンシュタイン。国と、民のことを思うのならば、クリストファー王子との婚姻はあきらめなさい」
数瞬の間、なにを言われたのかわかりませんでした。
その言葉がようやく頭の中に入ってくると、凍り付いた面がぎこちなく動くのが自分でもわかります。セディおじいさま……? と呼びかけようとして、静かな言葉が続きました。
「サウズリンドの頭脳が表舞台に立つ時──。それは、戦のはじまる時だ。ベルンシュタイン家が、なぜその隠し名で呼ばれると思う? いつの時代も、戦の陰の功労者として名をはせてきたからだ。サウズリンドの頭脳は表舞台に立ってはならない。戦を起こしたくないのならば──。エリアーナ。民のことを思うのならば、殿下との婚姻はあきらめなさい」
セオデンおじいさまからこんなに堅苦しい口調で話されたのは、おそらく、記憶にあるかぎりはじめてのことです。
厳しく叱り付けるものでも、頭ごなしに命令するものでもなく、ただ静かに諭すもの──。
「ま、ってください。ベルンシュタイン家が……我が家が……?」
やはり理解が及ばずに混乱する思いで見返した先で、隻眼の将軍が静かな嘆息とともに答えます。
「エドゥアルトたちがエリアーナに話していないことはわかっていたがな……。サウズリンドの頭脳が表舞台に立ち、活躍する時。それは常に、戦の軍師としての役割を求められてきた。ベルンシュタインの人間が仕えた王の御代は繁栄する──。それは、国を勝利に導き、敵を蹴散らす王は歴史に名を残してきたからだ。英雄王の時代から、常に。……ベルンシュタインの人間は、表舞台に立ってはならない。エリアーナ、戦を起こしたくないのならば」
「…………」
繰り返される言葉になにを言っていいのかわからず、わたしはただ混乱する境地に置かれていました。
バクラ将軍は、そんなわたしを静かに諭すように追い詰めます。名をはせた英雄のごとく、容赦なく。
「これを私が話すことになるとは、思いもよらなかったが。──ベルンシュタイン家が“サウズリンドの頭脳”とその名で呼ばれるようになったのは、英雄王の時代に遡ると聞く。三ヶ国に攻め込まれ滅亡の危機に陥った時、その包囲を打ち破り、国土を取り戻す快進撃を果たすことになった戦略を生みだし、英雄王を補佐した陰の功労者が、ベルンシュタイン家なのだと。……以来、その存在は隠し名で呼ばれるようになり、そして、その名が表舞台に立つ時──それは、戦の起こるその時であると、歴史が答えている」
「そんな……」
「エリアーナ。昔、大陸公路戦争の際の戦略を話し合ったことがあったな。あの戦で私が名を立てることができたのは、エドゥアルトから授けられた奇策のおかげだ」
祖父とバクラ将軍が旧知の仲であった、その理由──。
老齢の将軍はかすかに自嘲するような表情も見せます。
「まあ、その策のせいだけではないと自負もしているがな。だが、それがなければ、勝敗はどうなっていたかわからないのも事実だ。ベルンシュタインの人間はどうも……手柄を誇る性質ではない。面倒事を嫌っている、とも言うが。おかげで、功績は私一人のものになっているな」
セオデンおじいさまは、そのことに負い目を感じているのでしょうか。だから、わたしが次期王太子妃を望んでいないと思って、わたしを守ろうと思ってくれて──。
焦げ茶色の隻眼がわたしを見つめて、痛ましそうな色を帯びました。それはわたしに思いをかたむけてくれる、いつもの親愛の眼差しでした。
「エドゥアルトもなにを考えているのか……。孫がまさか、王子と気持ちを通い合わせるとは思っていなかったのか、別の考えがあるのか、私にはわからん。だが……エリアーナ。この四年の間におまえが提案してきた考えは、私が今話したことと同じはずだ。私は、おのれが体験してきた戦を、おまえたちには味合わせたくはない。そのための憎まれ役なら、喜んで引き受けよう」
どういうことかと眸を揺るがせたわたしに、隻眼の眼差しは揺るぎなく告げてきました。
「セオデン・バクラの名において、クリストファー王子とエリアーナ・ベルンシュタインの婚姻に反対すると声明を出そう」
「……っ」
そんなことになったら、国が真っ二つに分かれてしまいます。辺境伯はわたしと殿下を支持する意志表明を出してくださったのに、ここに来て、東の武神と呼び称されるバクラ将軍が反対の声を上げたら──。
宮廷内の強攻派も勢い付くのは、目に見えています。それでは、国内が結束しなければならないこの時期に、致命的なほころびになります。
思って、わたしはハッと気付きました。今この時に、セオデンおじいさまがなにを危惧されているのか。
「……マルドゥラ国の使節団が訪れて、国内には武力を求める気運が高まっています。セオデンおじいさまは、このまま戦に流れるのではないかと、そう案じていらっしゃるのですか……?」
ベルンシュタイン家が求められてきた役割と、歴史に見る答え。危惧していたところに、長年の敵対国であるマルドゥラがやって来る──。
往年の老将軍はさらに、培われた武人の嗅覚でもって、戦が起こる前触れを感じ取っていたりするのでしょうか。そのために、不安要素をひとつでも取り除こうと反対の意を示す。
すべては──サウズリンドの民を守るため。
そして、それはわたしが常に抱いている思いとなんら異なるものではありません。ただ、取るべき手段が違うだけです。
老齢の将軍の面には、厳しさと苦しさをないまぜにした複雑な色があり、それがわたしへの答えを返していました。
「……エリィ嬢や。私はできるなら、そんなことをしたくはない。四年もの間、静観していた私にも非はある。そなたの名誉にはなるべく傷を付けず、穏便に事を済ませよう。……今ならまだ間に合う。エリアーナ・ベルンシュタイン。クリストファー王子のことは、あきらめなさい」
諭すように、憐憫の思いも込めて告げられた言葉でした。反論したいのに、すぐには筋道立った言葉が出ずに、暴れだすような感情ばかりがあふれてきます。
──殿下を、あきらめる……?
想いが通じ合ってから、積み重ねてきた気持ちや交わした言葉や、──誓い合った想い、たしかな未来を二人で見つめることができた、今この時に──?
「…………」
昂ぶる感情が込み上げたそこに、ふいに息せき切った声が割って入りました。
「──お待ちください、バクラ将軍」
硬質な黒髪をわずかに乱した、アレクセイさまでした。
ふだんは冷静沈着な様なのに、めずらしく息を切らしたようなのは、わたしたちを探していたせいなのでしょうか。少し息を整えたアレクセイさまは、常と変わらぬ冷淡な様子で口にしました。
「殿下はすべて承知の上です」──と。
「え……」
思わずつぶやいたわたしに、蒼氷色の眸が向けられました。まるで、今までの会話も聞いていたような嘆息もつかれます。
「あの方が、エリアーナ嬢に関することで不安要素を残すことなどあり得ません。殿下はとうの昔に、ベルンシュタイン家が隠し名で呼ばれる、その意味を知っておられます」
セオデンおじいさまの隻眼がわずかに狭められました。アレクセイさまは続けて、小さな冷笑を閃かせます。
それはまるで──、先にセオデンおじいさまと対峙した時に殿下が見せられた、不敵な微笑のように。
「クリストファー殿下の言葉をそのまま伝えましょう。──『老人の迷信も行き過ぎれば妄信になる。世迷い事を吹聴してまわる前に、未来に賭ける気概もなくした時点で、老害はとっとと清閑な地で余生を見つめ直すことをお勧めする』──とのことです」
「…………」
社交辞令に疎いわたしでも、明らかにわかる言葉に息を呑む思いでした。それははっきりと──老人はさっさと引退しろ。そう、おっしゃっていないでしょうか。
そして、老人の迷信、世迷い事、と言ってしまえる殿下の自信──。
我が家に関することなのに、歴史に関わる、深刻な事柄なはずなのに──なぜだか、この場にいない殿下に力をもらったようで、わたしはお腹の奥底からわいてくる力を感じていました。
……殿下はいつでも、わたしを守ってくれている。
その前で、フン、とセオデンおじいさまの鼻を鳴らす様子があります。
「青臭い若造が賢しらな口を利く。若造らがどんな手を打とうと、私はエリィ嬢やとの婚姻に反対する意志を翻す気はないぞ」
「それはバクラ将軍のご自由ですが……あまり騒ぎ立てると、あなたが守ろうとしているベルンシュタイン家に注目が集まるだけなのではないですか」
ハッとわたしもそこに思い当たります。
ベルンシュタイン家の役割を公にすれば、軍部の強攻派はわたしの味方につくでしょう。それをよしとしないのは、セオデンおじいさまも戦を起こしたくない考えがあり、そして──おそらく、ベルンシュタイン家を欲望の的にしたくないのではないかと、そう感じ取れました。
しかつめらしい面を崩さず、セオデンおじいさまは口を開きかけます。そこで響いてきた騒ぎがありました。