湖底の虫─4
ラルシェン伯爵の邸宅が見えてきた時、馬車の窓から外をのぞき込んでいたリリアが歓声を上げました。
「見て、エリィ姉さま! あれが『貴婦人の湖』ね。話に聞いていたより、かなり大きいわ。向こう岸が見えないもの!」
リリアの興奮につられて窓の外に目をやったわたしは、湖面にうっすら残る靄に気付きました。
「……この辺りは、ウルマ鉱山から降りてくる気流と湖面の気温差で靄が起こりやすいって、郷土史に書かれていたけど、ほんとうにそうなのね」
感心しているわたしに、リリアが少しあきれた表情を浮かべました。
「エリィ姉さま……。絵画で有名な『貴婦人の湖』に来たんだから、もう少し情緒的な感想はないの?」
「え……」
情緒的、と言われて自分の知識を漁ったわたしは、ああ、とひらめきました。
「クイ・タッシュ作の『歌う湖面』という絵画も、この湖を題材にしたものだわ。初夏に咲く睡蓮の群生が、まるで花々が競って歌う様を描いたようだと、美術界で評判を取ったそうよ」
満点の答えを返したつもりですが、リリアは、ん? と難しい顔をしました。
「待って。その絵ってたしか、木陰に小さく描かれた女性が泣き崩れているように見えることから、『嘆きの湖面』って怪奇絵画十選に載っていなかった?」
「そうね。『王都怪奇百選集』の中の、泣き女の元になったとも言われているわ」
「エリィ姉さま……」
リリアの目がいやに冷たくなったようで、わたしは少しあわてて説明を重ねました。
「でも、あの、泣き女の由来は、元は水辺で鳴く
ますます冷たくなるリリアの眸に、わたしはさらにあせって続けます。
「ショーン・マウルケルド氏の著書にも、『民話に見られる死者との対話』という本があって、亡霊話が出るのは、人がどれだけ死者に対して悔恨と自責の念を抱いているのかの表れであり、それはすなわち、自身の生き様にも繋がるものであり──」
「エ・リ・イ・姉さま」
リリアの静かに据わった眼差しに、わたしの言葉もピタリと止まりました。声にしてため息をついたリリアは、いやに大人びた嘆きを見せます。
「エリィ姉さまの情緒が亡霊と繋がっているのは、よくわかったわ。絵画の話がどうしてそっちに転ぶのよ、もう。……クリストファー殿下たちの苦労が忍ばれるわ」
リリアはなおもぶつぶつと、先に対する思案も見せます。
「エリィ姉さまが滞在中に、『貴婦人の湖』が『亡霊の湖』にならないか心配だわ。『王都怪奇百選集』だって、エリィ姉さまが色々塗り替えている実績があるし……」
初耳です。今夏に出る新装版を楽しみにしているのは事実ですが。
リリアはいやに真剣な面持ちでわたしに釘を刺してきました。
「いい、エリィ姉さま。滞在中、くれぐれも一人で湖のそばをフラフラしちゃだめよ。靄の中から現われる亡霊……じゃなかった、エリィ姉さまなんて、絶対怪談話ができ上がっちゃうんだから」
……なんだか、ひどいことを言われている気がします。
レイシェン湖に関する亡霊話を仕入れたほうが早いかしら、とふしぎな算段をしているリリアを見て、ふと心があたたかくなる思いでした。
ロザリアさまとの話から沈んだ思いに捉われがちなわたしに、二人だけになると、リリアは強いて明るい話題やふだん通りの口調で話しかけてきてくれました。人前では侍女らしく、かしこまった言葉遣いや態度も身に付いてきている彼女なのに。
年下の従妹の気遣いがあたたかく、自分の気持ちも引き締まる思いでした。
先のことに思い悩むよりも、まずは目の前の公務に集中しようと。
『貴婦人の湖』は正式名称をレイシェン湖と言います。
サウズリンドでも有名な湖のひとつですが、一躍名が知れ渡ったのは、『貴婦人の湖』という絵画が元でした。五十年以上昔に描かれた高名な画家の手によるものなのですが……絵画と同じ光景は、今はもう見ることはできません。
貴婦人の元になったのは、絵が描かれた当時、この地にあった城砦が湖面にその姿を映し、睡蓮の群生に彩られた光景が幻想的な貴婦人のようだと称賛されたのが由来です。
城砦はその役割から、武骨な厳めしいものという認識しかなかったのに、湖面に映った姿ひとつで相似する双子のように印象ががらりと変わった、と当時評判になったそうです。
しかし、その城砦も四十年近く昔の大陸公路戦争の時に破壊され、今は取り壊された跡地にラルシェン伯爵邸が建っています。
到着したわたしたち一行を出迎えてくれたのは、若きラルシェン伯爵でした。
「──ようこそ。エリアーナ・ベルンシュタイン侯爵令嬢」
公務の代表者は、王太子婚約者であるわたしです。バクラ将軍やシュトラッサー公爵夫人、公爵家令息のアレクセイさまは、あくまで一行の要人の立ち位置でした。
代表して挨拶するわたしと伯爵、それぞれが一通り言葉を交わして邸宅内に招き入れられます。
カール・ラルシェン伯爵はアレクセイさまと同じ二十五歳。十五年前の“灰色の悪夢”でご両親を亡くされ、いったんは祖父のバーナードさまの庇護下に置かれたそうですが、成人して爵位を継がれた若き当主さまです。
少し癇の強そうな印象の、とっつきにくそうな男性でした。この方の双子の妹君が、アレクセイさまの亡くなられた婚約相手です。
「……では、バーナードさまのお見舞いはしばらく難しいと」
室内で社交的な会話を交わしながら、状況を確認したわたしたちは、少し重たい空気に包まれました。
バーナードさまのお加減は、王宮に伝わって来たものよりもかんばしくないようです。アレクセイさまやセオデンおじいさまが難しい顔をする傍で、にぎやかに場を盛り上げようとするご夫人がいました。
「それなら、他に明るい話題で盛り上げるのはいかがでしょう。王太子殿下とエリアーナさまの成婚の儀が春に迫っているのですもの。同じように盛り上げれば、バーナードさまのお加減も上向きになられるのではないでしょうか」
少し場違いなほどはしゃいだ声の女性は、ラルシェン伯爵の同い年の従妹だと紹介の際にうかがいました。伯爵の隣にいる大人しそうな伯爵夫人よりも、率先して話題をふりまいています。
ロザリアさまが冷たさを感じる微笑で問い返しました。
「同じように盛り上げる話題とは、なにかしら」
「もちろん、クリストファー殿下の側近である、アレクセイさまのことですわ。アレクセイさまは、昔は当家と縁を結ぼうとされたのですもの。もう一度お考えになってみてはいかがでしょう」
「もう一度、とおっしゃられても。残念ながら、こちらに年頃のお嬢さんはいらっしゃらないわね。何度も離別を繰り返しているような女性は、やはり母として容認しがたいですし」
とたんに夫人の頬にサッと赤みが走りました。ロザリアさまは社交界を取り仕切る貴婦人らしい微笑で話を切ります。
「もっとも、私たちは今回公務でやって来たのですから、結婚相手を見付けるような浮ついた気分でいてはいけませんね」
ぴしゃりと場違いな空気を断ち切るお言葉でした。その後は静かになった夫人を置いて当たり触りない話題を交わし、ロザリアさまとわたしは旅の疲れを取るために客室へ引き上げます。
最初の話題からずっと、当事者であるアレクセイさまはまったく表情を変えず、むしろ別のことに考えが捉われているように、思案する風情でした。
するとそこで、ふとセオデンおじいさまが表情を動かします。旅の道中、何度か目にしたお顔です。話したいことがあるのだろうと、わたしも足を止めました。
警護も一段落付いた今なら、落ち着いて話す時間も取れるはずです。しかし、その前で慰霊祭について打ち合わせを、とおじいさまに話しかけるアレクセイさまに先んじられ、わたしは機を失しました。
そうして案内された客室で一息つくことしばし。
王宮から付いてきた侍女たちに旅の疲れを癒してもらっていると、どこかへ消えていたリリアが仕入れてきた情報をさっそくわたしに開陳しました。
「──伯爵の従妹だっていう女性。イザベル・トマソンって言って、ロザリアさまがおっしゃっていた通り、二度の離婚歴があるそうよ。今は三度目の離婚協議中なのですって」
「リリア……」
「だってあの方、なんだかいやな感じだわ。公務の代表者はエリィ姉さまなのに、最初に挨拶した後はまるっきりエリィ姉さまを無視していたじゃない。貴族籍にあるわけでもないのに、王太子婚約者に対して失礼だわ。ちょっと聞き込んだだけで、どうも伯爵夫人よりも我が物顔で威張り散らしているらしいし」
馬車の移動続きで、リリアにも鬱屈がたまっていたのでしょうか。なにやら水を得た魚のように次から次へと止まりません。
「だいたい、アレクセイさまと同じ歳で三度の離別を繰り返しておきながら、次になにを狙おうっていうのかしら。アレクセイさまの妻の座? そんなの、王都のご令嬢たちが知ったらとんでもない騒ぎになるわよ。クリストファー殿下の側近でアレクセイさまだって、それは信奉者が多いんだから」
「人気があるのは、わたしも知っているけれど……」
信奉者がついているのははじめて聞きました。貴族の独身男性の中で、結婚相手として最有力の方なのは知っていますが、氷の貴公子という呼び名通り、年若いご令嬢たちからは少し怖がられていると思っていました。
わかってないわね、姉さま、とリリアは諭す口調です。
「アレクセイさまは冷たいように見せかけてほんとうに冷たいけれど、でもそれはだれにもなびかない表れでもあるじゃない。権力をふりかざす人にも同じ冷たさで返すから、意外にそれでたすけられた人が男女ともにいるのよ。孤高の氷の魔人って、一部では熱狂的な信奉者がいるんだから」
……リリア。それはほめているのですか、けなしているのですか。
「だから! そのアレクセイさまに言い寄る身持ちのよくない女性なんて、きちんと排除しなきゃ。王都に戻った時に、私がアレクセイさまの信奉者たちからどんな目に遭わされるか、わかったものじゃないわ」
身震いするリリアのほうが、なんだかよっぽど先見の明がある気がします。
同時に、殿下の側近の方に女性の影が出ただけで、こうも違う反応になるものなのかと、少しおかしな気分になりました。
先頃、グレンさまに婚約話が持ち上がった際は、周囲はどこか面白おかしく取り沙汰していましたが、アレクセイさまの場合はどうやら、目の色変えて排除する動きになるようです。
考えて心が軽くなるのと同時に、日に日につのる想いに、胸がしめつけられるようでした。
王宮から出るまでは、殿下から託された使命感を胸に意欲に満ちていたのですが、王都から離れ、本で読んだことのある景色を目にするたびに、殿下が一緒にいたら……と思わずにはいられませんでした。
この景色を殿下が見たら、どんな感想を返してくれるのだろう。この名物料理を食べたら、この工芸品を見たら、……有名な絵画の湖を、一緒にながめたら──。
離れてさみしい想いはつのるばかりなのに、なぜだか、殿下がそばにいて考えるであろうことを想像するのが、わたしのクセになりつつありました。
そばにいないのにいるような……そんなふしぎな感覚です。
しかし、やはり現実のさみしさはふとした瞬間に忍び込んできます。それをわたしは蓋をするようにこらえました。
この公務が終われば、胸を張って殿下のもとへ戻れます。旅の想い出や出来事をたくさん話せるようにしようと、わたしはリリアに散策の誘いをかけました。
リリアはなおもブツブツと、
「身持ちのよくない女性の排除法その一。相手にしない……いえ、図に乗るに決まってるわ。排除法その二。身分を思い知らせてけちょんけちょんにする……うーん、でも身分を気にしないからこそ、あの態度なんだろうし……。その三。必殺、『おまえのかーちゃんデベソ』攻撃……あ、これは近衛兵に対して有効だって、ジャンが言ってたんだったわ……」
……後で、ジャンには懇々とお説教をしておきましょう。
部屋を出ようと扉を開けてもらったわたしは、その扉の先で、困惑した面持ちの護衛兵の前にたたずんでいる、若きラルシェン伯爵の奥方を目にしました。
あ、と一瞬で言葉を引っ込めたリリアとわたしと、困ったような微笑を浮かべる伯爵夫人と、なんとも言えない気まずい空気がその場にただよいました。
~・~・~・~・~
「──では、ショーン先生はこちらで執筆活動をされていたのではなく、絵画の勉強をされていたのですか?」
たずねた先で、はい、と控えめにほほ笑む女性がいました。
「先代さまは芸術方面に関心を持たれて、才ある芸術家を世に出すことに積極的でした。一時期、邸内は芸術家の卵たちであふれていたと聞きます。ショーン・マウルケルド氏も、そんな方々に刺激を受けて絵画の手ほどきを受けたのだと」
まあ、とわたしは再びの感激に打ちふるえていました。
リリアを誘って散策に出たのは、もちろん、ショーン・マウルケルド氏の足跡を探したかったからに他なりません。そこにラルシェン伯爵の奥方が案内を買って出てくれ、先の気まずい思いもどこへやら、わたしは回廊に並べられた無名の画家たちの作品をながめていました。
この中にショーン先生の手になる絵画や、もしかしたら、無名の埋もれた名画、陶芸品などが隠れていたりするのでしょうか。
図書室に入り込んだ時のようにワクワクする思いを抱えたわたしの後ろで、リリアが小さくつぶやいていました。
「……アルフレッド兄さまが目にしたら、すわ、鑑定士に早変わりすること間違いなしね」と。
たしかに、兄のアルフレッドは美術工芸品に関して目がありません。有名無名問わず、掘り出し物を探しあてることに特異な才を見せます。……そう言った点では、遺跡探索に夢中になる叔父と似通ったところがあるのかも知れません。
「……先代の伯爵さまは、とても絵画を愛していらしたのですね」
通常、貴族の邸宅では、やはり有名な画家の絵を飾ります。しかし、こちらの回廊には名を知らない画家の絵が並んでいるようで、それがめずらしくも、先代伯爵の思いが伝わってくるようでした。
はい、と答えた若き伯爵夫人は、どこかためらうような微笑を浮かべます。
「先代さまは、『貴婦人の湖』からこの土地が有名になったのだから、自分たちも芸術を保護する立場であるべきだと、その姿勢を貫きました。けれど……“灰色の悪夢”が発生して、先代さまや滞在していた画家や文豪の方……皆が病に倒れ、ラルシェン地方は一時期、生者の絶えた死の土地と言われたそうです」
わたしも思わず、胸の痛む思いで沈黙しました。
“灰色の悪夢”はラルシェンの隣のアズール地方から広まったとされていますが、医学者たちの間ではさらにその上──旧帝国領内から発生したものではないかと言われています。北方連山の気流に乗って、アズールやラルシェンなど、北の地域から広まっていったのではないかと。
アズールは川が多い地域ゆえに川船商会が盛んであり、それが元で国内に病が蔓延したと言われ注目されがちですが、実は、隣のラルシェン地方の被害も甚大なものでした。
この土地は、伯爵の邸宅がある中心地以外は、鉱山の多い入り組んだ地形なのです。ゆえに……大陸公路戦争の時も、まさかラルシェン地方から攻め込んでくる敵勢力がいるとは思っていなかったのが、サウズリンドの誤算でした。
「…………」
病の情報と充分な医療手当が行き渡らず、人々の偏見や憶測等の二次被害を生みだしてしまったのも、ラルシェン地方です。
父のベルンシュタイン侯爵はそんな事例を踏まえて、地方の街道整備に苦心していると聞きますが。
そっと息をつき、あらためて絵画をながめると、やはりレイシェン湖の睡蓮を描いたものが多く見られます。そんな中に、人物画も混ざっていました。
「こちらが……先代の伯爵さまですか?」
先ほどお逢いしたカール・ラルシェンさまに、もう少し歳を重ねた風貌の男性が、やわらかな微笑の女性とともに描かれていました。
はい、とうなずいた伯爵夫人がやさしい眼差しで絵画を見上げます。
「私は二年前に嫁いできたので、先代さまたちのお顔は存じ上げなかったのですが……こうして絵画に残っているので、お逢いすることもできます」
そうですね、と思うように返したわたしも、記憶の中の母に逢う思いでした。
人物画の中には家族の肖像も多数残っていて、その仲の良さが忍ばれます。同じようにながめていたリリアが、ふと疑問を口にしました。
「……あの、この少女がリンジー・ラルシェン伯爵令嬢ですか?」
リリアも道中でアレクセイさまの昔の婚約話を聞いたのでしょう。口調には幾分ためらう色がありました。
うなずかれて困惑を浮かべるリリアに、伯爵夫人までもが困ったような微笑を浮かべました。
「……イザベルさまに、似ていますよね。私も話に聞いただけなのですが……カールさまよりも、リンジーさまとイザベルさまのほうが双子と言ってもおかしくないくらい、小さな頃からそっくりだったそうです」
「そうなのですか……」
「はい。ですので……カールさまは、亡くなられた妹君にそっくりなイザベルさまを大目に見ているところがあって……それで、あの、エリアーナさまに失礼があったことを、当家の人間としてお詫びいたします」
あらためて謝られて、わたしは少し瞬いてしまいました。どうやら、先の室内で交わしていたリリアとの話を夫人は気にされていたようです。
もとは、わたしに王太子婚約者としての威厳が足りないばかりに侮られてしまうのは、わたしの反省点のひとつです。
お気になさらずに、と返してからたずねました。
「イザベルさまは、伯爵の母方の従妹だとうかがいましたが」
伯爵家に連なる方ではないらしいのは聞いていましたが、小さな頃から、ということはカールさまやリンジーさまと共に育ってこられたのでしょうか。
夫人がためらいがちに話すところによると、先代伯爵夫人の妹がイザベルさまの母親で、身体を壊して伯爵家に厄介になっていたそうです。その方も、“灰色の悪夢”でお亡くなりになられたのだと。
そして──。
「イザベルさまの母君は……その、お相手がどなたかわからないまま身籠られたそうで……それで、イザベルさまは小さな頃はつらい目にも遭われたそうです。でも、カールさまたちが庇われたりして……お三方は、とても仲の良い関係だったと聞きました」
なるほど、とわたしも納得しました。十五年前の“灰色の悪夢”で親を亡くした同い年の子どもたちは、さらに結び付きを深めたのでしょう。
その小さな頃からの繋がりがあるために、イザベルさまが少々傍若無人なふるまいをしても、容認されてしまうところがあるのだと、夫人はおっしゃりたいようです。
後ろで不満そうな鼻息をついているリリアには、なにやら反論があるようですが。
静かな回廊を進みながら、わたしはこちらに着いてから気になっていたことをもうひとつたずねました。
「失礼だったら申し訳ないのですが……。伯爵家はわたしたちが訪れたことで、人手が足りなくなっているのでしょうか?」
バーナードさまの看護にも人手が取られているはずです。しかし、それにしてもいやに閑散とした様子が気になっていました。
いえ、と否定した夫人は申し訳なさそうな表情になります。
「最近、家人の間で風邪が流行っていまして……休みを取らせています。人手が足らず、ご不便をおかけしていることがあれば、遠慮なくおっしゃってくださいませ」
問題ないことを伝えながら、わたしは旅の間に同様の話を聞いたことを思いだしました。冬場のことですので、風邪が流行るのは季節の話題のようなものですが……。
思案しながら回廊を曲がろうとした手前で、そちらから現われた伯爵家の従僕に遮られました。
「申し訳ありません。ただいま、こちらは取り込み中で……」
取り込み中? と瞬いた矢先、回廊の向こうから響いてきた声にわたしたちも息を呑みました。
「──よくも、図々しくこの地へやって来ることができたものだ。アレクセイ・シュトラッサー」
とたんに青ざめた様子の夫人から、声の主が若きラルシェン伯爵であることがわかります。そして、対話の相手がもちろん、アレクセイさまであることも。
静かに返すアレクセイさまの声は聞こえませんでしたが、癇の強そうな伯爵の声はよく響いて届きました。
「なんの話だかわからないなどと……ずいぶん、ふざけた口が利けるな。十年経てば、すべてはなかったことにできるとでも思ったか? 俺は、一日たりとも、あの日のことを忘れたことはない」
深く、低い声が冷たい回廊を這って、一段と冷気を忍ばせるようでした。
それはまるで、底にひそんでいた芽が顔を出すように。
「アレクセイ・シュトラッサー。おまえが、リンジーを死に追いやったんだ」
──疑惑、という名の息吹でもって。