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湖底の虫─2





 ラルシェン地方はアズール地方の隣、東北のノルン国と国境を接する位置にあります。


 王都サウーラからは通常ならば馬車で十日、緊急時の早馬ならば三日ほどの道程でしたが、雪深い今の時期だとさらに日数のかかる地です。


 実は、東の国境警備をする黒翼騎士団はラルシェン地方の足元にその在所を構えています。

 ですので、ほんとうならセオデンおじいさまは直接ラルシェン地方へ向かったほうが早かったのですが、黒翼騎士団を王都へ率いていく任務と、わたしの行程に同行し警護するために、わざわざ遠回りをしてくださいました。



 王宮を出立する数日前──。


 わたしはクリストファー殿下の右腕と言われる、アレクセイ・シュトラッサーさまの執務室で打ち合わせの最中でした。


 アレクセイさまは年が明けて御歳二十五になられたばかりの、若くして怜悧な才の持ち主として知られる方です。

 硬質な印象の黒髪に蒼氷色の眸。冴え渡った美貌の持ち主ではありますが、だれに対しても冷淡な態度を崩さないその姿勢から、氷の貴公子ともささやかれる方でした。


 今回、ラルシェン地方へ赴くにあたって、クリストファー殿下は行程を取り仕切り、政治的な補佐としてアレクセイさまを付けてくださったのです。

 ラルシェン地方で行う慰霊祭と、バーナードさまのお見舞いに関する事項等々。王太子殿下の婚約者として求められる役割を確認し合い、気が引き締まる思いでいた時です。


 アレクセイさまが静かに息をつきました。


「──あなたは噂話や人の思惑が絡んだ話題に疎いですし……テレーゼもさすがに話していないでしょうから、話しておきますが」


 そう前置きして話されたのが、アレクセイさまご自身の立ち消えになった婚約話でした。


「ラルシェン地方は一度ならず二度、サウズリンド王家に見離された歴史ある土地である。──その史実は、あなたもご存知ですね?」


 今までの打ち合わせの中で、認識の確認をされましたので、とまどいながらわたしもうなずきました。



 ──一度目は八十年ほど昔、旧帝国領内でライザ教の信仰が盛り上がったことに端を発します。


 大陸公路からもたらされた異教にライザ教が押しやられ、それに危機感を抱いた狂信的な一派が見る間にライザ教を国教とするノルン国から、地続きのラルシェン地方を呑み込みました。……ラルシェン地方には、隣国の影響を受けたライザ教信者が多く存在したのです。


 狂信的な一派はサウズリンドの大陸公路が諸悪の根源だとし、公路を封鎖するよう強く迫りました。その急先鋒に立ったのが、ラルシェン地方の領主と付随する貴族たちです。


 しかし──、その主張をサウズリンドが一方的に受け容れることなどできません。

 元より、サウズリンド王家は英雄王を祀ったり、多神教を愛する自由な気質だったのです。


 よって、ラルシェン地方は一時期、内乱を起こしかねない地域として危険視され、ライザ教の狂信派がその地で暴挙をふるっても放置されてしまう、王家の忌み地となってしまいました。



 そうして、さらに四十年ほど昔──。


 当時勢い盛んだったノルン国が旧帝国領の後押しを受けて東側から攻め込んできたのが、大陸公路戦争です。


 アルス大陸の公路はその昔二つに分かれており、旧カイ・アーグ帝国領内を通る北方公路、サウズリンド国内を通る南方公路とあります。現在、北方公路は帝国領内の紛争のために廃れており、サウズリンド国内を通る南方公路が主流となって久しいです。


 そんな中、かつての隆盛を取り戻そうと旧カイ・アーグ帝国の一派がノルン国をけしかけてサウズリンドへ攻め入ったのが、大陸公路戦争でした。


 しかし──実は、その裏には北方公路を主流に戻し、旧帝国領から続く自国をかつてのように栄えさせたい、マルドゥラ国の思惑があったとされています。紛争に明け暮れている帝国領内の一派に、他国を支援できる支度金があったとは思えない──と。


 八十年前のライザ教信派によるラルシェン地方占拠も、陰で糸を引いていたのはマルドゥラ国ではないかと言われています。ラルシェンの領主も、離れた南方公路が栄えるよりも自領に近い北方公路が復活したほうが旨味があるため、その甘言に乗ったのではないかと。

 南方公路はマルドゥラ国を通らず、西の玄関口、ケルク港から西国や諸島へ渡ってしまうためです。



 公路の入り口、東側から攻め入れられ、サウズリンドは一時、防戦一方に追い込まれました。公路から続く王都を守るため、侵攻する軍勢をとどめるしか手はないと思われていたのです。

 ところが──。


 蒼氷色の眸を見つめて、わたしは歴史の相違を確かめていました。アレクセイさまのお話が、この歴史にどう関わって来るのかと。


「当時、中部隊を率いていた後のバクラ将軍が奇策を用いて敵軍勢を壊滅状態に陥れ、サウズリンドに勝利をもたらしました。しかし──、勝利の陰では犠牲もあった……」


 東側から侵攻してきた軍勢とは別に、北東から攻め込んできた別働隊もあったのです。応戦するサウズリンド軍を挟撃する戦略で。

 少しうなずいたアレクセイさまが、その犠牲を口にされました。


「ラルシェン地方はライザ教の一件後、王家縁の者が領主となるようになり、当時、あの地にいたのがバーナードさまです。バーナードさまはもちろん応戦されましたが、サウズリンド国軍は救援に向かうのではなく、むしろラルシェン地方を包囲する陣を敷いた。東側から攻め入る主力部隊と合流させないように。──それが、あの土地がサウズリンド王家に見離された二度目です」



 わたしも沈痛な思いで目を伏せました。


 当時の戦を指揮していたのは、軍部でも大きな力を持つ貴族だったと聞きます。彼はラルシェン地方で起きる被害に目をつぶりました。


 当時は黒翼騎士団もまだ結成されてはいなく、東側の軍力が堅固なものではなかったことも起因しています。──もし、救援に向かって突破された場合、王都までの侵入を許しかねない予想と天秤にかけ、彼はラルシェン地方の犠牲を選んだのでした。


 その後、ラルシェン地方に攻め込んだ別働隊も主力部隊が破れたことを知って撤退しましたが、後に残っていたのは、それは大きな被害と犠牲者の数です。


 今回の慰霊祭はその時から続くもので、毎年参加されているセオデンおじいさまは、わたしの警護のほうがついでのような気がします。

 クリストファー殿下がおっしゃっていた、『王家の関係者には風当たりが強い土地』というのは、そんな事情からですが……アレクセイさまにも縁深い地なのでしょうか。


 見つめ返す先で、アレクセイさまはどこか面倒そうなため息をひとつつきました。


「──十年前、バーナードさまが婿入りされていたラルシェン伯爵家のご令嬢と私の婚約話が持ち上がりました。理由は歴史にある通り、彼の地に王家の影響力を持たせるためです」

「…………」


 わたしは驚きとともに、再度とまどっていました。


 政略的な意図はわかります。危険視する土地でありながら、王家にとっては負い目もある土地。その土地と繋がりを保ち、影響力を保持するために取られる手段は政略婚です。

 そして、アレクセイさまはそこに最適だったのでしょう。この方は現在、王位継承権第三位の立場にあります。


 しかし……、自身の婚約を他人事のように語られるアレクセイさまに、十年前のこととは言え、どことはなしに違和感を覚えました。

 その思いのまま、そっとたずねます。


「……社交界でお伺いしたことは、ありませんでした。……その、ご婚約はどうなったのですか?」

 アレクセイさまは変わらず、淡々とした口調で答えます。


「なくなりました」──と。

「え……?」


「リンジー・ラルシェン伯爵令嬢。当時、私と同じ十五歳でした。婚約話は順調に進んで正式な発表を控えていたのですが、その矢先、不慮の事故で亡くなりました。それで私の婚約話は立ち消えになり、社交界でも正式に成立しなかった十年前の話など忘れ去られていますね。ですが……あちらへ行ったら、その話題が出る可能性はあります。なので、一応とどめておいてください」


 なんとも言えず、つのる困惑にわたしはとまどっていました。

 他に質問は、と淡々と問われて、ポロリと言葉にしていました。


「アレクセイさまは、そのご婚約を、どう思われていたのですか?」

「は?」

「ご自身の、伴侶になる方のことでしょう……?婚約を、受け容れていらっしゃったのですか?」


 とたん──、クッと一瞬ですが、嘲るような冷笑が閃きました。すぐにそれは消えて、いつもの冷淡な表情に戻ります。


「貴族の政略婚に、どんな感情を見せれば女性という生きものは満足するのでしょうね。愛のない結婚に苦悩する男、婚約者を不慮の事故で亡くし、その想い出に捉われ続ける男──。自分がそこから救い上げる唯一の存在だと夢想するのは、男女ともに物語や劇などで演じられる通り、変わらぬ主題なのだと思いますが」


 冷ややかな口調に、わたしは触れてはならないことを口にしたのだと悟りました。


 アレクセイさまはおそらく、婚約者さまを亡くされた当時、その言葉通りの噂の渦中に置かれ、彼の妻の座を狙う女性たちに好奇と同情のスパイスを与えてしまったのでしょう。


 わたしが迂闊に踏み込んではいけない分野だったと、気まずい思いで謝罪しました。かまいません、とその返答はあっさりしています。


「女性という生きものが似たり寄ったりの性質を持っていることは理解しています。物語に依存しやすい体質なのも。──あなたもそれで、先頃迷惑をこうむったのではないですか?」


 それは……そういったこともありましたが。

 アレクセイさまの言葉は正鵠を射ているようで、なにやら反発したい思いもわき起こります。


「あの……でも、世の女性すべてがそうなわけでは……」


 口にして、わたしはあら、と思いました。いつかも似たようなことを言った覚えがあります。

 考える前で、アレクセイさまはかすかに嘆息しました。


「たしかに、世の中にはそうではない女性がいる事実は目の当たりにしていますが。今のところ、自身に必要だとは思っていません。──私の婚約問題に関する質問はこの辺でよろしいでしょうか?」

「あ……はい」


 気圧されるまま、わたしはうなずいていました。

 そうしてラルシェン地方に関する打ち合わせは終わり、アレクセイさまは続けて変わらぬ口調で別の書類をめくります。

 昨夏に施策された女性医師の件ですが……と口にされたその時でした。


 部屋付きの侍従や補佐官を押しやる勢いでかけ込んできた方の一声が、アレクセイさまの動きを止めました。


「──エリアーナ嬢! 腹下しの薬は妊婦が服用してもよいものですか……!?」


 はい……?

 一声を上げたその方は次いで、ああ違う、とあわてたように頭に手をやりました。いつもは隙なく上げられている髪が乱れて、今日はその面影もありません。


「腹が下っているんだから、反対の薬だ。腹が上がる薬? いやとにかく! はじめての出産に腹痛の対処法をお教えいただきたい。あなたにお借りした、『はじめての出産』本は熟読させていただいた。あなたがああいった本にも詳しいとは、やはり殿下と身に覚えが……いや! それは私の胸の内ひとつに収めてあります。とにかく大至急、対処法が必要なんです……!」


 切羽詰まった形相のアルドリーノ伯爵に、わたしはただ驚いて目を丸くしていました。


 その視界の端で、アレクセイさまの整ったお顔立ちが頭痛をこらえるように引きつっており、彼の部下たちがいち早くなにかを察知したように下がります。


「義兄上──」と、凍り付く微笑を浮かべて立ち上がったアレクセイさまとテレーゼさまの旦那さまとのやり取りをながめて、わたしは自分で抱いた違和感と疑問に気付きました。


 常には物事に対して頭を悩ませる風情のアレクセイさまが、自身の婚約話を語る際、いやに他人事のようだったこと。


 それは、客観的に話そうとした結果なのだとも思いますが……。亡くなられた婚約者さまをどう思われていたのか、個人的な感情をきれいに隠されたようにも感じました。


 わたしには話せないことだったのだとしても、どうにも引っ掛かりを覚える、アレクセイさまの婚約話でした。





 ~・~・~・~・~



 道程が後二日にせまった、昼食時のことでした。


 街道沿いの宿場町で休憩がてら昼食をいただいていたわたしは、食堂兼宿屋の女将さんとの会話に惹き込まれていました。


「ダン・エドルド氏の『ショーン足跡記』によりますと、彼の大文豪、ショーン・マウルケルド氏がこちらのお宿に逗留していたことがあったと。わたしたちがいただいたお食事も、彼の文豪が食されたものなのですね……」


 感激に打ちふるえるわたしに、細身ながら豪快な気質な女将さんが気安く応じます。


「そうだよ。ショーン先生はうちの宿特製の、ふわふわ卵料理が好物だったんだ。食べてもらってわかっただろうけど、ああいう卵料理、他で食べたことがあるかい?」


 急いでわたしが首をふると、だろう? と女将さんは自慢げに胸をそらしました。


「ラルシェン地方の名物料理なんだけどね、うちの宿のはまた特別なんだよ。ショーン先生はそれを気に入ってくださって、長くうちに逗留してくださったのさ。けど、名を聞き付けたご領主さまに招かれちまってねえ……」


 残念そうにつぶやく女将さんとわたしが話題にしている人物は、サウズリンド出身の有名な文豪でした。


 十五年前の“灰色の悪夢”で亡くなられた方なのですが、生と死を主題に哲学的な物語を書かれた方です。それが遠方の学識ある都市で称賛され、サウズリンド国内でも人気が出ました。この方は平民出身でしたので、平民から出た文豪ということで同じ方々に人気があります。


 女将さんが難しい顔をする理由がわからずに首をかしげると、苦笑で返されました。


「ショーン先生は堅苦しいのをなにより嫌っていたのさ。貴族の招きなんかもけっこう断ってたんだよ。でも、ご領主さまの館には有名な湖があるから、それに興味惹かれて招待に応じたみたいだったね。あちらに行ったら、ショーン先生の足跡が他にもあるかも知れないよ」

「ほんとうですか?」


 近付く公務に緊張していたわたしの胸が、一気にはずみました。


 うなずく女将さんにさらに問いを重ねようとして、道筋の積雪量をセオデンおじいさまと確認していたアレクセイさまが出立を告げてきます。名残惜しい思いで、わたしたちは女将さんにお礼を告げ、「また食べにおいで」という言葉もいただいて宿屋を後にしました。



 興奮冷めやらず、ショーン・マウルケルド氏の著書をつらつら思い浮かべていたわたしは、馬車内にロザリアさまと二人っきりになっていることに、しばらく気付きませんでした。


 リリアや、公爵家の侍女たちもいません。あわてて居住いを正すわたしに、ロザリアさまは親しみやすく笑ってくださいます。


「エリアーナさんは、ほんとうに書物のこととなると他が見えなくなるのね」

「申し訳ありません……」


 公務で赴いているのに、自分の趣味に走ってしまいました。反省していると、ロザリアさまは楽しそうに笑います。


「あなたが、ショーン・マウルケルド氏が逗留した宿屋だと気付いてその話題を持ち出したから、女将たちの態度が軟化したのよ。それまではずっと、王家の一行に固い表情でいたのに」


 あ、とわたしも冷汗を覚える思いでした。

 ラルシェン地方へ入ってから、王家の紋章をつけた一行に向ける人々の視線が、積もった雪のように冷ややかなのは気付いていました。それでわたしも、改めて緊張を強いられていたはずなのですが……。


「気を付けます……」


 今回、良い方向に転がったとは言え、次もそうである保証はありません。気を付けなければ、とおのれに言い聞かせていると、ロザリアさまはフッとやさしく笑います。


「あなたは、あなたのままでいいのよ」


 ドキリとして目を上げました。冬の湖のような眸には、静かに凪いだ色と別の思いが込められているようです。


「クリスが、あなたを愛した理由がわかる気がするわ。あなたは偏見や凝り固まった思想に捉われず、むしろそれを打ち破る気質の持ち主だもの。外見的に、そうは見えなくてもね」


 とまどうわたしに、ロザリアさまはさらに笑みを深めます。


「先の女将がつぶやいていたのを知らないでしょう? 『王太子婚約者は変わった方だね。でも……あの方なら、なんだかいいよ』ですって。平民出身の文豪の足跡に、一読者のように好奇心が丸出しなのですもの。だれだって毒気を抜かれるわよね」


 さらにいたたまれない思いを抱いたわたしです。恐縮していると、ロザリアさまは静かに言葉を紡ぎました。


「ねえ、エリアーナさん。少し、昔話をしましょうか」

「え……」


 あらためたロザリアさまには、少したじろぐほどの真剣さがありました。

 この行程中、元王女として様々な心構えや対処法を実体験を交えて教えてくださった方です。……多少、逸脱しているものもありましたが。


 その方が、今あらためて人払いをして話されようとしている事実に、わたしも背筋が伸びる思いでした。


 フッと、ロザリアさまはわたしの緊張を見て取ったように笑むと、唐突に矢を打ち込んできました。


「──テオドールは、不義の子なのよ」と。





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