春を待つ虫─5
兄とアンナさまは仕事に戻り、わたしはテオドールさまと書物談議に移っていました。
「大陸公路から伝わった宗教の一覧か……。それも帝国時代のものとなると、ライザ教に限られてくると思うが……ゲルーガ神話のような、古代の宗教を探しているのか?」
「いえ、そうではなく……」
わたしは自分でも気にかかったものの正体がわからずに、テオドールさまにたずねていました。まるで、王宮書庫室の責任者であるテオドールさまなら、答えを知っているのではないかという思いで。
「先ほど、『ヒューリアの壺』から医学書の『ライザの
ああ、とテオドールさまもあいまいな範囲を定めるようにうなずきます。
「『ライザの導』か。となると、帝国時代の大陸公路とその商人の記録……かな。これは保管庫のほうだろう。ちょっと待っていなさい」
はい、とわたしはうなずき、お礼を言って一人宗教関連の書棚へ向かいました。
窓に吹き付ける天候を見やり、消してもわき起こる不安をぐっとこらえます。
年が明けて、バーナードさまのお加減がよくない話と、マルドゥラ国からの使節団訪問の話が飛び込んできました。
表立っては、国内が落ち着いたので以前の災害援助へのお礼を兼ねた表敬訪問です。内情は兄たちが話していた通りだと思いますが……それを知らない人たちには、驚きと不安を誘う出来事なのでしょう。
サウズリンド王宮内は、春の成婚の儀へ向けた浮き足立った気分に一筋の影が差したような、どこか落ち着かない様相で、皆があわただしく準備にかけまわっています。
書庫室はそんな気配とは一線を画した静謐に包まれていましたが、その中にいるわたしの胸は、何度消しても顔をのぞかせる不安でざわめいていました。
西北のマルドゥラ国は、その隣の旧カイ・アーグ帝国の影響を受けた、ライザ教を崇拝する好戦的なお国柄です。その国土には鉱山が多く、作物を育てるには土地が貧しく、もっぱら内海を通した西の国と諸島との貿易、旧帝国領内との取り引きで成り立っていると聞きます。
貿易を広げようと独自に外海へ出るためには、間にあるサウズリンドが邪魔になり、さらに足のように飛び出たミゼラル公国がその邪魔をします。そして、閉鎖的なお国柄は航海技術に長けているようでもなく、ミゼラル公国のような外洋へ漕ぎ出る意欲よりも、大陸公路と肥沃な土地を擁するサウズリンドへ攻め入ることに積極的です。
先王陛下の時代には幾度となく
そして、好戦的なのはなにも、マルドゥラ国に限ったことではありません。
サウズリンド王宮内にも、一定数、友好より戦を提唱する強攻派は存在します。その強攻派が友好の芽をつぶそうとする前に、それを唱えたわたしの背後にバクラ将軍がいる事実を公にすることで、クリストファー殿下は軍部を牽制したと、兄は説明していました。
それは、ひとつの有効な手段なのでしょう。武力を信じる者に、さらに大きな力で以て説き伏せる。
「…………」
そっと、ため息がこぼれました。
長年の敵対国と和平を結ぶためには、あらゆる手段が必要なのもわかります。わたしが今、自分に感じているのは、力の無さでした。
武力に頼ることはしたくないと思っても、非力なわたし一人の意見では、強攻派をとどめることはできないのです。
クリストファー殿下は友好を唱えたわたしの意見に賛同してくださいましたが、そのために、殿下にも様々な苦労と面倒をかけているようです。
もう一度ため息を落としそうになって、しっかりしなければ、と気弱な自分をかぶりをふってふり払いました。
書架を見上げて目当ての本を数冊選び、さらにもう一冊、と高い棚の本を目指します。
……王都から離れたら、しばらくはゆっくりと読書する時間を取るのも難しいでしょう。わたしはまるで、自身に足りない知識を補うことで、心に兆した不安を解消しようとしているようでした。
背伸びをして指先に引っ掛かった背表紙にもどかしい思いでつま先がふるえます。それが、ふいに背後から伸びた手に先んじられました。
「──これ?」
突然背後に現われた人物に心臓が飛びはね、よろめいたところをふわりと抱き止められます。ふり返るよりも早く、慣れ親しんだ香りにわたしの鼓動が鳴りました。
「驚かせた? ごめん」
ふり向いた先に、やさしい微笑と想いの込められた青い眸があります。しぜんと、わたしの頬にも血が上りました。
「いえ……。ありがとうございます、クリストファー殿下」
笑んだ殿下の身なりはいつもの隙のない様で、先の剣をふるって不敵な微笑を浮かべていた姿とは一変しています。
綺麗に整えられた金色の髪。きっちりと整えられた襟元。汗を流す姿とは無縁のような、にじみ出る余裕と気品。女性の胸をときめかせて止まない、麗しい微笑。
自分でもそろそろ、この方の容姿に落ち着いてもいい頃だと思うのですが……いつも、どうしようもなく胸の高鳴りを覚える自分がいます。
まるで、はじめて自分の気持ちに気付いた時のような新鮮さで。
本を受け取って離れようとすると、支えられた手がわたしをとどめました。そのまま、背後から深く、包み込まれるように抱きしめられます。
殿下、と口にしかけた言葉も止まる、やさしいけれど逃れられない意志がありました。
やわらかな声がわたしをうながします。
「難しい顔をしてたね。悩み事なら言ってみて、エリィ」
いつから見られていたのだろうと、わたしは気恥ずかしさと気まずさで言葉に詰まりました。さらに、鼓動の音も伝わりそうな密着に思考が空転します。
小さな笑いがもれました。
「また、きみを困らせてる?」
「い、え……」
なおも固まったままのわたしに殿下は小さく苦笑をこぼすと、そっと腕を解きました。
離れていく香りと体温に、わたしはとっさに殿下の腕を引き留めていました。
「エリィ?」
ハッと自分の行為をあらためましたが、それでも、離れてほしくない思いで殿下の腕をとどめていました。
背後からうれしそうな笑いがこぼれて、もう一度、わたしは殿下に背中から抱きしめられます。頭上にそっと、唇が落とされる気配もしました。
「年が明けてから国政が騒がしくて、ゆっくり時間を取ることもできなかった。……エリィを不安にさせていたら、ごめんね」
「いいえ」
本を抱えた手とは別の手で、腰にまわされた腕に手を添えます。固まっていた身体も、伝わる鼓動に安堵していく自分がいました。
「……国政が騒がしくなった原因は、わたしにもありますから」
「マルドゥラ国のこと?」
小さく息を詰めたわたしに、殿下の声はやさしく降りかかります。
ねえ、エリィ、といつもの逆らえない言葉で。
「浮気したりしないよね?」
「はい……!?」
わたしはまるで、先のジャンのような声を上げていました。とっさにふり返りかけて、抱きしめられた腕に力がこもってそれを制します。
「な、なぜそのような話に……」
うん、と殿下の声音はいやに深刻な響きを帯びてわたしにささやきかけます。
「なんだか、いやな感じがするんだよね。マルドゥラの使節団って、十中八九、いけ好かない奴が来るだろうし、バクラ将軍は黒翼騎士団からエリィの相手を選ぶつもりだったって言うし、エリィの初恋相手を、私はまったく知らなかったし……」
「セ、セディおじいさまのあれは本気ではなかったと思いますし……わ、わたしの初恋は別に関係ないのでは……」
いや、と妙にきっぱりとした口ぶりの殿下は、国家の一大事のように重々しい口調でした。
「これはただならぬ案件だよ、エリィ」
「え……」
……そうなのでしょうか。
王太子婚約者のわたしに他の縁談の可能性があったこととか、次期王太子妃の女性の初恋相手が歴史的にも問題になった……ことがあったでしょうか。
ぐるぐると思考が空転するわたしの背後から、こらえきれないようにふきだす気配がありました。わたしの思考が一気に冷静になります。
「殿下……」
自分でもめずらしく冷ややかな声が出たと思うと、すぐに抱きしめる手に力がこもりました。
「ごめん、エリィ。きみがあんまり生真面目に考え込んでるから、つい……」
以前から思ってはいましたが、殿下は時々、意地の悪い面を見せられます。
むうっと眉根を寄せたわたしの背後から、小さな笑いとともに甘く戒めるような声が降りかかりました。
「でも、エリィの初恋相手が気になっているのは、ほんとう。……エリィのことなら、なんでも知った気になっていたのにな」
ドキリと、わたしも胸を突かれました。それには、わたしも殿下の腕に添えた手に力が入ります。
「……わたしもです。殿下に、グレンさまたち以外に親しい方がいることを、はじめて知りました。考えてみれば、当たり前なのに……」
婚約者としておそばに上がってから、公務以外の私的な場にも控えさせていただきました。
殿下が気を許している方、そうでない方、政策や方針、民を思い、国の行く末を見据え、二手も三手も先の考え方をするクセ──。
おそばにいるのが当たり前の日常になって、殿下のことは側近の方々同様、なんでもわかったような気になっていました。
でも、自分とは違う一人の人のことを、すべて知り得るなんてあり得ません。それでも……知りたいと思うのは、その方が自分にとって特別な存在だからなのだと思います。
わたしは少し身を起こすと、真剣に背後に目を上げました。
「わたしも……気になります。イアンさまや、黒翼騎士団と殿下がいつ知り合われたのか。わたしが殿下のおそばに上がるまで、殿下はどのように過ごされて来たのか──。わたしの知らない殿下を、教えてくださいますか……?」
クッと、殿下が息を呑む様子がわかりました。見開かれた青い眸が急いでほどかれた片手で覆われます。
うめくような声がもれ聞こえました。
「……なにその、凶悪的な誘い文句……。エリィ、どこでそんなの学んできたの」
はい?
「まさか、あの色ボ──エロじ、……グレンの、もう一人の師匠だというハーヴェイ医師に、変なことを吹き込まれたんじゃないよね? お医者さんごっことか、まさかされてないよね?」
はい……?
先の声音と同じくらい真剣な眼差しでたずねられ、話が見えずに困惑が勝りました。
「ハーヴェイ医師になにかを教わったことはなかったと思いますが……。あの、殿下はその、お医者さんごっこというのをされたことがあるのですか?」
すると、一転して殿下の面にきらきらしい微笑が戻りました。
まさか、と口にする様子には、その行為とは無縁の清らかさがうかがえます。
「とんでもないよ。グレンから話に聞いたことがあっただけ。エリィも知ろうとしなくていいからね。知りたい時は、私が教えるから」
はあ、とあいまいにうなずきながら、どこか意欲的な殿下に少しだけ逃げだしたい思いを覚え、わたしは話題を変えました。
「あの……それで、殿下はどこでイアンさまや黒翼騎士団と知り合われたのですか?」
青い眸で瞬くと、殿下はああ、と納得した相づちを打ちました。
「いや──イアンと知り合ったのは、まったくの別件で、あいつが黒翼騎士団の人間だったとは私も後から知ったんだ。黒翼騎士団とは公務程度の面識だし、今回の件がなかったら、王都に呼び寄せることもなかっただろうね」
たしかに、東の守護の要、黒翼騎士団が王都へ上がって来るのは、国王陛下の即位式など国の一大行事の時に限っています。今回、その黒翼騎士団が少数精鋭とは言え王都へ来たのは、もちろんマルドゥラ国の使節団を迎えるにあたっての警戒と威容を担っています。
西の守護神、辺境伯がマルドゥラ本国を睨むため、その土地を離れられない替わりに。
「…………」
外交と政策上の理由としては理解できるのに、どうしても同意の言葉が出ずに、わたしは眸を落としていました。
そのわたしに降る声は、まるで、不安の的を射抜くかのようでした。
「武力に頼る気運が高まっているのが、エリィの不安の元?」
息を呑んで、殿下の腕に添えた手にも力がこもります。
年が明けてから、わたしの胸を占めていた不安の元──。
マルドゥラ国からの使節団がやって来る。それが告知されると、にわかに軍部が勢い付き、人々の関心は武力へ傾きました。それを見てわたしが感じたのは、まだ性急なのだということです。
マルドゥラ国との戦の歴史は人々の記憶にあざやかであり、長年の敵対国であるという認識も共通のものです。
友好を推し進めるには、まだ、時期尚早なのだと。
「……わたしは、まず互いの文化交流や商売、貿易などを浸透させて、マルドゥラが敵国ではなく、対等な取り引きができ、サウズリンドとは異なる文化のある国なのだと、皆に根付かせるのが先だと思っていました。それから……友好に繋げられれば、と──」
うん、とやさしい声がわたしの騒ぐ胸をなだめるようでした。
「そうだね。歴史的にも因縁深い国だからこそ、慎重にもなる。エリィは、事態が動くのが性急すぎるんじゃないかって、不安なんだね」
不安の元を言い当てられて、強張っていた肩からもすとんと力が抜けるのを感じました。
「はい……」
友好は否むものではない──兄もそう言っていました。しかし、どうにもあちらの思惑に都合よく運ばれている──と。
「マルドゥラ国が友好を急ぐのは、なにか思惑があるのではないかと……どうしても疑ってしまいます」
うん、と答えた殿下はわたしの手をその上から重ねました。指と指の間に絡められて、少し気恥ずかしい思いをします。
「……ねえ、エリィ。そんなに一人でなんでも抱え込まないで」
「え……」
「マルドゥラの使節団がやって来るのは、友好を提唱した自分の発言があったから。そのマルドゥラが友好以外の思惑を秘めていたら、友好を進めた自分に責任がある──エリィは、そんなふうに考えているんじゃない?」
……たしかに、そうです。
マルドゥラ国がやって来る切っ掛けを作ったのはわたしなのに、わたしはその場に立ち会うこともできない。もし、なにかが起こった時には責任を取らなければならない人間なのに、殿下にすべてを任せてしまっている。
きゅっと唇をかむと、殿下が後ろからなだめるように声をかけてきます。エリィ、深呼吸、と。
思わず眸を上げると、再度うながされ、とにかくうながされるまま、ゆっくりと深呼吸をしました。すると、なにかに気付いたように殿下がわたしを見てきます。
「さっきから甘い香りがするね。エリィ、なにか食べた?」
あ、とわたしは口元を押さえそうになって、絡め取られた指先にままなりませんでした。
「先ほど、兄に飴を入れられて……」
けっこう強引に口に放り込まれました。ジャンを餌付けばかりしてないで、自分の頭に栄養を与えなさい、と。
口内からはもう消えていましたが、淑女としてはしたないふるまいです。居心地の悪い思いを抱いたわたしとは反対に、ふうんとつぶやいた殿下はいたずらっぽい笑みでのぞき込んできます。
「私にも、味見させてくれる?」
え、と思った時には、殿下の顔が近付いて、ぺろりと唇を舐められました。
離れていくお顔にはいたずらが成功したような笑みがあり、うんとつぶやく声にも同様のものがあります。
「すごく甘いね」
……わたし、倒れてもいいでしょうか。
殿下の眸の中に真っ赤になって硬直した自分が見え、飛び出そうな鼓動と一瞬で止まった呼吸に、ほんとうに倒れそうでした。
クスクスと笑う殿下に、わたしはようやく息を紡ぎます。思わず恨みごとがもれました。
「……ずるいです」
ん? と訊き返される気配に、少しばかり恨みがましい思いで殿下を見上げていました。
「殿下はいつでも余裕たっぷりで……わたしはいつもひっしで……殿下にふりまわされている気がします」
「エリィ……」
少し愕然とした声音と表情がこぼれ、殿下は一瞬、なにかをこらえるように瞑目をして、そして、あきらめ混じりの吐息をつきました。
次には気を取り直したような、いつもの甘い微笑が浮かびます。
「そう。エリィは、余裕のない私が見たいんだ? ……いいよ。今さっき、エリィから凶悪的なお誘いもあったことだし、少し逢えなくなる前に愛を深めておこうか」
「え……殿下?」
突然、腰を引いて歩みだそうとする気配に、わたしはあわてて引き止めました。……なんだか、流されてはいけない気がします。
わたしは、と急いで口にした言葉が本音を吐露していました。
「わたしは、殿下にばかり責任を負わせたくないのです!」
「うん。私もだよ」
あっさり返された言葉に目を上げます。青い眸がやさしく笑っていました。
「私も、エリィにだけ責任を負わせることはしたくない。……エリィ。一人で抱え込まないで」
なぜだか、わたしはふいに涙腺がゆるみそうになって、急いで瞬きを繰り返しました。
殿下は小さくほほ笑むと、そっとわたしの額に口付けます。
「きみが私一人に責任を負わせたくないように、私だってエリィ、きみ一人に責任を負わせるようなことはしたくない。きみの意見に賛同したのは、私なりに考えがあってのことだし……ベルンシュタイン侯爵だって、娘だからきみの考えに全面的に同意しているわけじゃない。まあ……あの人の場合は、戦なんてただの金食い虫だと思っている節があるけれど」
ひとつ笑って殿下の眸がわたしの胸に真っすぐ差し込んできます。
それはまるで、曇天を晴らしていくあざやかな青空のように。
「エリィ。たぶん今、私たちは時代の節目にいるのかも知れない。歴史が動こうとしている。一人だと、抗えない奔流に流されて無力におぼれそうだけれど──二人なら、乗り越えて行けると思わない?」
こみ上げる感情が涙になってこぼれそうで、わたしはひっしにそれを呑み込みました。
この方を好きになってよかったと、いつもそう思える瞬間です。
「はい……。はい、クリストファー殿下」
ふるえる想いで笑顔を作ろうとすると、フッと笑んだ殿下がもう一度わたしの額に唇を落とします。
「……ほんとうは、私もエリィを王宮から出したくはない。バーナードさまが静養しているラルシェン地方は少し因縁深い土地だし……王太子婚約者のエリィには、風当たりが強いかも知れない。でも、きみしか適任がいない」
「はい」
今度はしっかりうなずくと、殿下の難しそうなお顔も解かれました。絡めていた指をほどくと、胸元から小さな小袋を取りだし、わたしへ渡します。
「これは……?」
「お守り。エリィがとても困って、たすけがほしい時に開けてみて。……そんな事態になることはないと思うけど、一応、念の為」
ふしぎに思いながらも、わたしはお礼を言って受け取りました。
エリィ、とわたしを呼ぶ殿下の声はあたたかな力強さに満ちています。
「私は、王宮でマルドゥラ国と責任をもって対面する。エリィには、ラルシェン地方の対処をお願いする。……任せて、いいかな」
「──はい」
眸を見て強く答えると、殿下もあざやかな笑顔になりました。そうして、声にした吐息をつきます。
「春はまだなのに……色々と蠢きだした虫がいて、ほんとうにやっかいだね。でもエリィ。これが終われば、後はもう成婚の儀を待つだけだから。だから──ちゃんと覚悟しててね」
からかうような口調とは裏腹に、青い眸には秘めた熱がうかがえる本気の色があり、わたしの鼓動もはねました。
逃げだしたいような気分にもなりましたが、その想いは、わたしの中にもあるものです。
しかし、眸を見て返すまでの勇気は出ずに、どうしても目は伏せてしまいました。耳朶が熱くて、我ながら蚊の鳴くような声が出たと思います。
「……わたしも、春が待ち遠しいです……クリストファーさま」
「エリィ……」
かすれた声にも喜色がにじんでいて、勇気を出して顔を上げました。
そこにあった、飾らない笑顔と想いのこもった青い眸に、しぜんとわたしの顔にも笑顔が浮かびます。
フッと、とたんに甘い空気を宿した殿下の手と吐息に熱がこもります。高鳴る鼓動に浮かされる思いで、近付く吐息にうながされ、わたしは眸を閉ざしていきました。
熱い呼吸が重なりかけた、その寸前です。
「──エリィ。保管庫の資料が見つかったが、クツァール語のものが多いぞ……と」
書棚の先から現われたテオドールさまに、わたしと殿下の動きはピタリと止まりました。
あー、と言葉を濁すテオドールさまは、次いで悪びれずに声をかけてきます。
「すまん。待っているから続けてくれ」
とたん、殿下のこめかみに音を立てて青筋が走ったのを、わたしはたしかに見ました。
……ゆらり、と身を起こした殿下のお顔がどこかアレクセイさまに似通っており、お二人はたしかに血の繋がった親族なのだと思わされました。
「……わざとですか。ええ、わざとですね。一万ドーラ賭けてもいい。甥っ子よりもクソ狸に買収されるとは……この、エセ紳士面の孤独死決定オヤジがっ」
……殿下、お言葉が……。
オヤジとはなんだ、渋いオジサマと言え、と返すテオドールさまにはいつもの面白がる響きがあり、火照る頬の熱を冷ましながら、わたしは殿下の腕の中で顔を隠していました。
わたしを離そうとはしない殿下の手にうれしさを覚え、ここがわたしの居場所だと自身に刻み付ける思いで。
この腕の中に戻って来るために、託された公務を頑張ろうと、あたたかい力強さが身体中に行き渡っていました。
やっと……1日が、終わっ……た……orz